イップス

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イップス (yips) は、主にスポーツの動作に支障をきたし、突如自分の思い通りのプレー(動き)ができなくなる症状のことである。野球やゴルフ、テニス、ダーツなどのスポーツに多く見られる。学術的には局所性ジストニア職業性ジストニア)と同義で考えられ、神経疾患に分類されている。脳の構造変化が原因といわれ、同じ動作を過剰に繰り返すことによって発症し得ることが明らかになっている[1]

解説[編集]

イップスという用語は、1930年前後に活躍したプロゴルファーのトミー・アーマー英語版が、この症状によってトーナメントからの引退を余儀なくされたことで知られるようになった。アーマーは1967年に出版された自著『ABCゴルフ』の中で、今までスムーズにパッティングをしていたゴルファーがある日突然緊張のあまり、カップのはるか手前のところで止まるようなパットしか打てなかったりカップをはるかにオーバーするようなパットを打ったりするようになる病気にイップス(yipsまたはyipe〈アメリカ英語〉は感嘆詞で「ひゃあ」「きゃあ」「うわっ」といった意味)と名づけた[2]。この症状を説明するために、ゴルファーの間ではショートパット恐怖症、よろけ、イライラ、ひきつりなどと表現されてきた。

イップスの影響はすべての熟達したゴルファーの半数から4分の1くらいにおよぶ。アメリカミネソタ州の大病院メイヨー・クリニックの研究者によれば、すべての競技ゴルファーのうち33 - 48%にイップスの経験がある。25年以上プレーしているゴルファーにそうなりやすい傾向がある。

ノンフィクション作家澤宮優は、著作『イップス』の中で、「イップス」は医学用語、学術用語ではなく「ノーコン」などと同類の通俗的呼称であると述べている。一方、中野研也は、イップスは職業性ジストニアの一つとしたうえで、スポーツ選手、作家、楽器の演奏家などの間で呼び名が異なることを指摘している[3]

イップスは長く心の問題だと考えられてきた。だが東京大学大学院総合文化研究科の工藤和俊はNHKの番組『又吉直樹のヘウレーカ!』(2020年9月2日放送)にて、イップスは心の問題ではないと指摘した。工藤によれば、イップスが心の問題だといわれる理由は、イップスになったことで思い通りに身体を動かすことができなくなったことによって起きる"動作不安"のことである。つまり、イップスでいう心の問題とは、イップスになった後に発生する。

治療[編集]

明確な治療法はまだ確立できていない。だが工藤和俊が2008年「イップス (Yips) と脳」(体育の科学)[4]において、イップスが心の病ではないことを解説した後、医療機関や大学の研究室などで治療開発が進んでいる。感覚刺激弁別訓練や運動動作解析、筋膜の連動改善、重心の改善、練習方法の見直し(一定期間、該当動作を行わない)など、あらゆる方法が示されてきている。

ゴルフ以外のスポーツでのイップス[編集]

イップスはゴルフに限らずあらゆるスポーツで見られるが、例えばテニスオージーフットボールクリケット野球サッカー卓球などが挙げられる。アルゼンチンのテニスプレイヤー、ギエルモ・コリアは、世界ランク3位に位置していながらサービスのイップスに苦しんでいた。オーストラリアン・フットボールリーグ、セント・キルダのニック・リーウォルドもキックのイップスにかかった。クリケットでは、キース・メドリコットなどイップスにかかった複数の投手が、投球動作を終える前にボールを手放してしまう症状を抱えていた。

また、野球では投手、捕手内野手に見られ(外野手もかからないわけではない)、特に投手と内野手には正確なボールコントロールが求められるため、死球暴投などのトラウマからイップスに陥る場合が多い[5][6]。イップスが原因でコンバートされる選手も少なくない。イップスが原因で守備コンバートを余儀なくされた選手に田口壮三浦貴土橋勝征などがいるが、荒木雅博岩本勉のように克服する例や、田口や土橋のようにコンバート後に開花する例もある。捕手は投手への返球でイップスになる例が多く、阿部慎之助相川亮二が現役中に一時、返球イップスに陥った経験を明かしている[7][8]

大リーグでも、二塁手であったが悪送球癖が出て、左翼手に転向し2年で引退したチャック・ノブロック、投手だったが暴投癖をもってしまいマイナーで打者に転向、後にメジャー再昇格してレギュラーになったリック・アンキール、二塁手でイップスを克服したスティーブ・サックスのような例がある。大リーグでは投手がイップスにかかることを、1970年代ピッツバーグ・パイレーツのエースとして活躍したものの突如極度の制球難に苦しみ引退を余儀なくされたスティーブ・ブラスにちなみ、スティーブ・ブラス病と呼ぶこともある。

ダーツでもイップスと同様の症状が知られており、「ダータイティス英語版」と呼ばれる。

弓道アーチェリーでは矢を発射する位置まで弓を引いたら無意識のうちにすぐに弦を離して矢を放ってしまう(本来は数秒間の「伸び」と呼ばれる動作によって、狙いと体勢を安定させてから弦を離す)症状があり、ともに「早気(はやけ)」と呼ばれる。逆に、弓を引いてそのまま弦を離せなくなる(矢を放つタイミングを失う)症状も、少なくとも弓道においてはよく知られており、「もたれ」と呼ばれる。

卓球では坂本竜介がこれに陥ってサーブが全く打てなくなり、引退に追い込まれた[9]

ボウリングでは、プロボウラーの長谷川真実がイップスにかかっていることを明かし、何度も投げ直しをする場面がテレビ番組『ボウリング革命 P★League』でみられた。

スポーツ以外でのイップス[編集]

スポーツ以外でも、鉛筆で字が書けない、美容師やトリマーがハサミを使えない、演奏家が楽器を弾けないなど人間の普遍的な動作に発現する。これらは広義にジストニアと呼ばれるが、『イップス 魔病を克服したアスリートたち』によれば、症状はイップスと同じである。

イップスを扱った作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 工藤和俊『スポーツと脳との関係』Coaching Clinic 2015年3月、pp. 10-13
  2. ^ 後典孝「イップス兆候を示す野球選手に対するメンタルトレーニング効果について」(PDF)『平成22年度生活・健康系(保健体育)コース 修士論文公開審査会・中間発表会』、鳴門教育大学、19-20頁、2017年7月21日閲覧 
  3. ^ 「演奏家のジストニアの実践的対処法に関する考察 −演奏者の視点から−」仁愛大学研究紀要 人間生活学部篇 pp.117-125
  4. ^ 『イップスと脳』体育の科学58(2), pp. 96-100, 2008年
  5. ^ 158キロドラ1右腕を襲った突然の悪夢 2度の戦力外も野球続ける理由とは”. full-count (2016年9月28日). 2017年7月21日閲覧。
  6. ^ 石橋秀幸『レベルアップする!野球 化学・技術・練習』西東社、2010年、155頁。ISBN 978-4791616909 
  7. ^ 阿部慎之助、イップスの告白。前途洋々のルーキーを襲った1年目キャンプの悲劇”. web Sportiva (2022年2月25日). 2022年3月19日閲覧。
  8. ^ 【相川亮二のインサイドワーク】ヤクルト時代に悩まされた返球への恐怖心 症状克服のために選んだ方法/イップス編(下)”. サンスポ (2018年5月15日). 2022年3月19日閲覧。
  9. ^ @ryusukesakamoto (2018年3月4日). "イップスの人を見たらすぐわかる。". X(旧Twitter)より2021年8月14日閲覧

外部リンク[編集]