村田兆治
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県豊田郡本郷町(現:三原市) |
| 生年月日 | 1949年11月27日(62歳) |
| 身長 体重 |
181cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1967年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1968年10月8日 |
| 最終出場 | 1990年10月13日(引退試合) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 2005年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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村田 兆治(むらた ちょうじ、本名:村田 長次(読み同じ)、1949年11月27日 - )は広島県出身の元プロ野球選手(投手)・野球指導者・野球解説者。
現役時代はロッテオリオンズで活躍。そのダイナミックな投球フォームは「マサカリ投法」と呼ばれた。
目次 |
[編集] 来歴・人物
プロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場へナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つ程興奮し、それ以来プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったという。
速く、しかも球質が重い、いわゆる剛のつく速球は天賦の才と言ってよく、進学した福山電波工業高校(現:近畿大学附属福山高校)時代から、スピードガンがあればその球速は既に152、153km/hをマークしていただろうと言われ(村田の若い頃はまだスピードガンがなかった)、県内でも屈指のピッチャーとして有名だった(ただし2年次までは浅野啓司の控えであった)。しかし、当時の広島県には三村敏之・山本和行らを擁する広島商や、1967年に夏の甲子園準優勝を果たした広陵など強豪がひしめいており、甲子園出場の悲願は叶わなかった。
[編集] プロ時代
1967年のドラフト1位で東京オリオンズに入団。背番号はエースナンバー18を希望したが叶わず29。1年目の1968年は振るわなかった。当時は、ドラフト1位の契約金を持て余し、パチンコや麻雀など遊びに明け暮れていた。そんなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課のロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。村田は、球界を代表するベテラン投手である小山が、若手である自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰っていった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭され、これに感激した村田は、以降練習に真剣に打ち込むようになったという。球団名がロッテとなった2年目の1969年に頭角を現し6勝を挙げる。1970年にはリーグ優勝を経験。
1971年、金田正一のアドバイスを元に投球フォームを大幅に改造し、いわゆる「マサカリ投法」を完成。同年は12勝を挙げて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテ日本一の際にも大車輪の活躍を見せた。日本シリーズでは胴上げ投手になった。1976年にはフォークボールを習得。人並み外れた長い指が生み出す切れ味鋭い変化は、ことごとく打者のバットに空を切らせ、この年、21勝を挙げると同時に最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得。1981年には開幕11連勝を飾り、19勝で最多勝のタイトルも獲得し、鈴木啓示、山田久志、東尾修らと共に1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手となった。
しかし、1982年に肘を故障。様々な治療法に取り組む傍ら、宮本武蔵の「五輪書」を愛読し、和歌山県白浜町のお水場・十九渕で座禅を組み、深夜白衣を纏い滝に打たれるといった荒行も行っていた。だが一向に症状が改善されないため、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブの執刀の下、左腕の腱を右肘に移植する手術(トミー・ジョン手術)を受けるべく、渡米。以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰。翌1985年、開幕から11連勝を挙げるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。前年に続くロッテのリーグ2位に貢献した。同年から、中6日で日曜日のみに登板する先発ローテーションを取るようになったため、「サンデー兆治」と呼ばれるようになった。また、日本球界では長年、投手の肘にメスを入れることはタブーとされていたが、村田の復活によって有効な治療法として認識されることになった[1]。
1989年5月13日の対日本ハム戦(山形県野球場)で200勝を達成。200勝に王手をかけていた4月16日の対近鉄戦(川崎球場)は延長11回を投げ切りながら敗戦投手になったが、その試合を日本テレビが試合終了まで中継し、本来「笑点」が放送される17:20 - 17:39の時間帯の視聴率はその日の夜の巨人-大洋戦を上回る22.4%(関東地区)を記録した(全体では10.9%)[2]。同年、39歳にして3回目の最優秀防御率のタイトルを獲得。
翌1990年、若林忠志以来史上2人目となる40歳代での二桁勝利(10勝)を記録したが、同年現役を引退。10月13日の引退試合は西武ライオンズ相手に5回降雨コールドによる完封勝利であった。引退試合では同じく引退を決めていた袴田英利を捕手に指名し、当時二軍にいた袴田は一軍登録されて先発マスクを被った。また、相手先発の松沼博久にとっても現役最終登板となった。
- この間村田に密着して取材を唯一許されていた、番記者だった前野重雄の著述によると、チーム若返り=経費削減(主力打者も放出されている)のフロントの経営方針を担ってこの年から現場復帰した監督の金田正一は、先発枠を若手の起用にこだわり、村田と真っ向から衝突してしまう結果になったのだという。事実村田は冷たい秋雨の降りしきるこの試合でもストレートの最高速145km/hをマーク、試合後記者達から「本当に引退するのか?あと2年くらいやれると思うが・・・」と質問されている。
- 引退試合を前にして一軍から離れ、調整をしていた村田について、「カベ捕手」として指名された新採用職員の吉留秀介は、ここの練習でも一貫して「ノーサイン」で投げ込んでくる村田の凄まじさに震え上がり、川崎のブルペンでついには落涙してしまう姿を幾人もの関係者に目撃されている。彼は、その引退試合後に辞表を提出し球団を去ってしまった程だった。
- 試合後、袴田・村田への胴上げに場内は涙声に包まれた、いっぽう無人となった西武の三塁側ベンチでは一人、ナイン一行と別れて戻ってきた清原和博が、その光景に脱帽して両足を揃えたまま涙を流しながら見守っていた事実までが報告されている。[3]
「人生先発完投」を座右の銘とし、先発完投にこだわった武骨な野球人生は「昭和生まれの明治男」と呼ばれた。
終生のライバルは門田博光。若い頃から自信を持って投げることができた球は打たれることが無かった。しかし、完璧と思ったスライダーを門田にサヨナラホームランされてショックを受けた。それから門田を相手にスライダーを一球も使わずストレートを磨くようになった。一方の門田はストレートに負けないよう鉄球を打つトレーニングに励み、それを聞いた村田はさらにストレートに磨きをかけるよう鍛錬を続けた [4]。
[編集] 引退後
引退後はNHK・日刊スポーツで野球解説者となり、その後1995年から1997年まで福岡ダイエーホークスの投手コーチを務めた。現在は、評論家としての活動の他に、全国各地(特に島嶼部)を回って少年野球の指導にあたる一方、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。
1992年、小学5年生向けの道徳の教科書に「逆境を克服した生き方」の教材として、村田が右肘手術からの復活した時の様子が取り上げられた。
マスターズリーグなどにおいても、いまだに球速140km/hに届くストレートと落差20cmのフォークボールを披露し、ファンの度肝を抜いている。これについて村田は、子供たちに本物のプロのボールを見せて「プロって凄いんだ」と思ってほしいためだと語っている。テレビ番組「ナンだ!?」では、小学生と真剣勝負をしたり、古田敦也(当時ヤクルト選手兼任監督)を打席に立たせて勝負したり(その古田をして「うちのチームに欲しい」と言わしめた)と、その豪腕は衰えることを知らない。ただし、ある記者から「今でも1イニングだけならプロでも通用するんじゃないですか?」と言われた時には、「俺は先発しかやらねぇんだ!」と返答している。本人は「マスターズリーグで140km/hが出せなくなったら、もうボールを握るのは止める」と公言している。「村田の登板」はマスターズリーグ名物となっており、村田が降板すると観客も帰り支度を始める光景も見られた。
2007年5月26日のセ・パ交流戦、ロッテ対横浜戦で始球式投手を務める。この時の球速は135km/hを記録したが、これはこの試合の先発を務めた渡辺俊介の全投球よりも速いものだった。2010年1月2日に東京ドームで行われた「プロ野球OBオールスター・アスリートカップ セ・パ対抗戦」に登板。この日の約1か月前に60歳を迎えたばかりだが球速132km/hを記録した。
現役を引退しておよそ20年、60歳になった現在でもなお、毎日スポーツジムに通っては「超人トレーニング」[5]と呼ばれる激しいトレーニングを行っている。内容は、腕立て伏せを500回、腹筋・背筋運動を1000回ずつ、マシンによるトレーニングの他、更にダンベルを右手人差し指と中指に挟むフォークボールの形に握って上下させるというもので、それをゆっくり時間をかけながらではなく、猛烈なスピードで一気に行う。マスターズリーグで一緒になった後輩の宮本和知らは、初めて村田のトレーニングを見て驚愕したと語っている。また非常に柔軟な体を保ち続けており、2009年のモルツ・ドリームマッチでピッチングを終えた後の宮本によるインタビューで「ピッチャーに大切なのは股関節(の柔らかさ)」と言い、開脚して前屈で胸を床につける姿を披露しており、筋肉トレーニングだけでなく、柔軟体操を毎日相当行っていることが想像される。
2005年3月、日本プロ野球OB13人と共に長崎県対馬市に「対馬まさかりドリームス」を設立し、投手兼監督に就任した。チーム名の「まさかり」はもちろん、現役時代に付いた異名に由来している。このチームを率いて全国(特に離島)の少年野球チームを回り、少年野球の指導をしている。指導では必ずチームに所属する小学生バッターと村田の一騎打ち対決を行っている(村田も本気でフォークボールなどを放っている)。引退後のライフワークとして、全国の離島を回って少年野球教室を開催している理由は、日本にある有人離島の数が、自身の通算勝利数(215勝)と同じ数くらい存在するからだと、著作やインタビューなどで語っている。また2007年から開催されている全国離島交流中学生野球大会(通称「離島甲子園」)を提唱している。この大会も彼の活動がきっかけで生まれたものでもあった。
[編集] プレースタイル
村田の代名詞であるフォークボールについて、元阪急ブレーブスの山田久志は「昔、うちの打者に『次、フォーク』と予告して、実際にフォークを投げ空振りさせた」と語り、また元南海ホークスの野村克也は「村田のフォークボールの癖はすぐ分かったけど(野村によれば、村田がフォークボールを投げるときはモーションに入る前にグラブの中をちらと覗いていたという)、分かっていても打てなかった」と語るなど、その威力に関するエピソードは数知れない。杉下茂も、「私は、日本人の投げるフォークボールは厳密にはSFFが大半だと思うが、村田君は間違いなく『本物のフォークボール』を投げていた」とコメントしている。
入団当時のオリオンズ監督だった濃人渉は、同じ広島県出身の村田を大変可愛がったが、速球の威力が落ちることを恐れ、フォークボールの練習だけは禁止していた。しかし村田は、濃人の目を盗んではフォークボールの練習を続けていた。たまたまその様子を濃人に見つかったこともあったが、「今投げたのは何だ?」と聞かれると「カーブです」ととぼけていたという。その頃の村田のフォークボールはコントロールが悪く使い物にならなかった。[6]そこで、当時のフォークの名手・村山実に教えを請うたところ「24時間ボールを握る」とアドバイスされ実践した[7]。指にボールを挟んだまま縄でくくりつけて眠ることで、フォークの握りを体に覚えさせようとしたのである。が、あまりの激痛に就寝どころではなくなり、結局一度試しただけで二度とやらなかったという。また、フォークボールの握りを深くしようとするあまり、人差し指と中指の間にナイフで切り込みを入れたこともある。習得後も、右手の中指と人差し指の間に牛乳瓶や特注の鉄の球を挟んだり、ドアを開けるときもノブを中指と人差し指で挟んで開けるなど、日々のトレーニングを欠かさなかった。夫人によれば、村田が中指と人差し指でビール瓶をはさむと、彼女が引っ張っても抜けないという。
下記の詳細情報にあるように通算暴投数148は日本記録で、2位(川口和久の79個)以下を2倍近くも引き離している。これほどの暴投数を記録した要因は、村田のフォークボールが非常に鋭いものであったのもさることながら、捕手とサインを交わさず自分で投球を組み立てていたため、いつフォークボールが投げられるか捕手に予測しきれなかったことが一番大きいという。村田自身は、これほどの暴投数にもかかわらず暴投による失点が非常に少ないため、この記録に大変誇りを持っているようである。
独特の投球フォームは溜めが長いためか握りが確認されやすかったようで、相手チームの三塁コーチが村田の握りを見て、指でボールを挟んでいた時は口笛を吹いてバッターに知らせることで、打者に狙い打たれたことがあったという(南海のドン・ブレイザーなど)。しかしそれに気づいた村田は投球モーション中に直球からフォーク、フォークから直球へと握りを自在に変える投法を編み出し、口笛作戦を封じたという。
先発ローテーション投手としての起用が多かったが、速球とフォークボールを生かすため、監督の金田正一の意向で二度ほどリリーフ陣に回ったこともある。選手生活末期にも一度リリーフに回り、その後再度先発に戻ったが、本人はこれについて「あれは僕の主義主張よりも、太ももなど下半身が登板間隔の短いリリーフにはついてこなかったから戻してもらった」と述べている。本人も先発完投に強くこだわり、引退の理由にこのこだわりをプレーで果たせなくなった事をあげた。引退後も座右の銘は「人生先発完投」であり、サインにも書き添える[8]。
長年相手役を務めた袴田英利が新人の頃、村田は「1アウト、ランナー満塁。このとき確実に抑えるにはどうしたらいい?」と尋ねた。袴田は迷わず「ゲッツーです」と答えたが、「じゃあ、その次は?」と聞かれ、答えに困っていた。村田は笑って「一番いいのは三振だ。ゲッツーはエラーがある」と語った。村田が奪三振にこだわっていたことを表す逸話である。
[編集] 家族
夫人は英語や料理に堪能で、村田が手術後もアメリカに長期滞在してリハビリに専念できたのも、夫人のそうした生活面での才能によるところが大きいという。肘の故障を乗り越え「サンデー兆治」として復活した様子を描いた夫人の手記「サンデー兆治の妻」は、1986年にテレビ朝日系列土曜ワイド劇場でドラマ化され、放映された。村田役に名高達郎、夫人役に星野知子という配役で、稲尾和久や落合博満も本人役で出演している。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1968 | 東京 ロッテ |
3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 29 | 7.0 | 8 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 3 | 3 | 3.86 | 1.29 |
| 1969 | 37 | 20 | 5 | 5 | 0 | 6 | 8 | -- | -- | .429 | 615 | 146.1 | 110 | 11 | 80 | 2 | 2 | 90 | 5 | 0 | 64 | 58 | 3.57 | 1.30 | |
| 1970 | 21 | 12 | 2 | 0 | 0 | 5 | 6 | -- | -- | .455 | 351 | 79.0 | 76 | 7 | 43 | 2 | 3 | 48 | 3 | 0 | 51 | 42 | 4.78 | 1.51 | |
| 1971 | 43 | 27 | 8 | 1 | 0 | 12 | 8 | -- | -- | .600 | 813 | 194.1 | 183 | 25 | 61 | 1 | 7 | 122 | 9 | 0 | 82 | 72 | 3.33 | 1.26 | |
| 1972 | 16 | 5 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | -- | -- | .500 | 213 | 46.0 | 56 | 10 | 22 | 0 | 3 | 30 | 3 | 0 | 34 | 33 | 6.46 | 1.70 | |
| 1973 | 40 | 24 | 6 | 1 | 1 | 8 | 11 | -- | -- | .421 | 672 | 157.0 | 134 | 6 | 79 | 3 | 4 | 104 | 6 | 2 | 69 | 56 | 3.21 | 1.36 | |
| 1974 | 32 | 28 | 8 | 1 | 0 | 12 | 10 | 1 | -- | .545 | 765 | 180.2 | 151 | 10 | 87 | 1 | 11 | 108 | 11 | 1 | 75 | 54 | 2.69 | 1.32 | |
| 1975 | 39 | 17 | 11 | 2 | 0 | 9 | 12 | 13 | -- | .429 | 759 | 191.2 | 128 | 15 | 65 | 2 | 6 | 120 | 3 | 0 | 56 | 47 | 2.21 | 1.01 | |
| 1976 | 46 | 24 | 18 | 5 | 0 | 21 | 11 | 4 | -- | .656 | 1037 | 257.1 | 209 | 13 | 73 | 3 | 8 | 202 | 13 | 0 | 67 | 52 | 1.82 | 1.09 | |
| 1977 | 47 | 28 | 15 | 2 | 1 | 17 | 14 | 6 | -- | .548 | 975 | 235.0 | 216 | 15 | 62 | 2 | 8 | 180 | 10 | 0 | 85 | 70 | 2.68 | 1.18 | |
| 1978 | 37 | 27 | 17 | 3 | 2 | 14 | 13 | 3 | -- | .519 | 907 | 223.1 | 188 | 18 | 58 | 2 | 15 | 174 | 10 | 0 | 84 | 72 | 2.90 | 1.10 | |
| 1979 | 37 | 32 | 21 | 3 | 4 | 17 | 12 | 2 | -- | .586 | 1035 | 255.0 | 224 | 26 | 55 | 2 | 5 | 230 | 10 | 0 | 99 | 84 | 2.96 | 1.09 | |
| 1980 | 27 | 22 | 11 | 1 | 2 | 9 | 9 | 2 | -- | .500 | 772 | 178.0 | 169 | 14 | 83 | 3 | 8 | 135 | 2 | 0 | 90 | 77 | 3.89 | 1.42 | |
| 1981 | 32 | 31 | 16 | 2 | 2 | 19 | 8 | 0 | -- | .704 | 970 | 230.2 | 237 | 18 | 55 | 0 | 6 | 154 | 6 | 0 | 99 | 76 | 2.97 | 1.27 | |
| 1982 | 6 | 6 | 3 | 2 | 0 | 4 | 1 | 0 | -- | .800 | 166 | 40.1 | 35 | 4 | 11 | 0 | 2 | 27 | 0 | 0 | 14 | 13 | 2.90 | 1.14 | |
| 1984 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 39 | 9.0 | 13 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 6 | 6 | 6.00 | 1.44 | |
| 1985 | 24 | 24 | 10 | 0 | 0 | 17 | 5 | 0 | -- | .773 | 752 | 173.2 | 181 | 20 | 65 | 0 | 7 | 93 | 11 | 1 | 89 | 83 | 4.30 | 1.42 | |
| 1986 | 23 | 23 | 5 | 0 | 0 | 8 | 11 | 0 | -- | .421 | 658 | 155.1 | 164 | 23 | 32 | 2 | 8 | 106 | 4 | 1 | 82 | 68 | 3.94 | 1.26 | |
| 1987 | 21 | 21 | 3 | 2 | 1 | 7 | 9 | 0 | -- | .438 | 573 | 130.2 | 151 | 15 | 42 | 1 | 4 | 74 | 12 | 1 | 68 | 63 | 4.34 | 1.48 | |
| 1988 | 20 | 20 | 5 | 1 | 0 | 10 | 7 | 0 | -- | .588 | 599 | 145.2 | 123 | 22 | 45 | 1 | 6 | 120 | 7 | 0 | 65 | 63 | 3.89 | 1.15 | |
| 1989 | 22 | 22 | 16 | 3 | 1 | 7 | 9 | 0 | -- | .438 | 739 | 179.2 | 143 | 17 | 69 | 0 | 5 | 135 | 6 | 1 | 58 | 50 | 2.50 | 1.18 | |
| 1990 | 26 | 19 | 4 | 2 | 0 | 10 | 8 | 2 | -- | .556 | 524 | 115.2 | 120 | 14 | 56 | 0 | 6 | 103 | 17 | 1 | 62 | 58 | 4.51 | 1.52 | |
| 通算:22年 | 604 | 433 | 184 | 36 | 14 | 215 | 177 | 33 | -- | .548 | 13963 | 3331.1 | 3019 | 304 | 1144 | 27 | 124 | 2363 | 148 | 8 | 1402 | 1200 | 3.24 | 1.25 | |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB歴代最高
- 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更
[編集] タイトル
- 最多勝:1回 (1981年)
- 最優秀防御率:3回 (1975年、1976年、1989年)
- 最多セーブ投手:1回 (1975年)
- 最多奪三振(当時連盟表彰なし):4回 (1976年、1977年、1979年、1981年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
[編集] 表彰
- ベストナイン:1回 (1981年)
- 前後期MVP:2回 (1977年後期、1981年前期)
- 月間MVP:1回 (1981年4月)
- カムバック賞 (1985年)
- 日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1974年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1989年 第1戦)
- パ・リーグプレーオフMVP:1回 (1974年)
- パ・リーグプレーオフ敢闘賞:1回 (1981年)
- 野球殿堂入り (競技者表彰:2005年)
[編集] 記録
- 初登板:1968年10月8日、対南海ホークス戦(大阪球場)
- 1試合16奪三振:1979年6月8日、対近鉄バファローズ戦
- 1試合3暴投:3回 (1987年5月28日、1987年6月14日、1990年5月15日)
- 1イニング3暴投:1987年6月14日、対近鉄バファローズ戦(ナゴヤ球場)
- 開幕投手:13回 (1975年 - 1982年、1986年 - 1990年)
- オールスターゲーム出場:13回 (1971年、1974年 - 1981年、1985年、1986年、1988年、1989年)
[編集] 背番号
- 29 (1968年 - 1990年)
- 81 (1995年 - 1997年)
[編集] 関連情報
[編集] 出演番組
- NHKプロ野球 - 解説者として出演
- 鶴瓶の家族に乾杯(NHK総合テレビ、2007年7月2日、7月9日)
- サンデーモーニング(TBS、2010年11月14日)「週刊御意見番」助っ人[9]
- ディープピープル(NHK総合テレビ、2011年2月11日)牛島和彦、佐々木主浩と共に「フォークボール」について鼎談した。
[編集] 出演CM
[編集] 脚注
- ^ 後には桑田真澄などが肘の手術を受けて復帰している。
- ^ [1]
- ^ 『客は幾万来なくとも 川崎ロッテ一部始終』前野重雄著(amazon)ISBN4990531508
- ^ 2004年1月4日伊集院光 日曜日の秘密基地VIPルーム
- ^ 最初に取材したのがテレビ朝日の「プロ野球ってナンだ!?」であり、当時テレビ朝日がプロ野球中継のキャッチコピーとしていた『プロ野球超人バトル』から名づけられたもの
- ^ もっとも、カーブのコントロールも悪かったそうであり、「ナンだ!?」では共に出演した東尾修に「この人ほどカーブのコントロール悪い人いなかった」「村田さんほどひどいカーブ投げる人、今プロ入ってこない」と酷評された。高校時代はカーブはあくまで見せ球でしか使わなかったかららしい。
- ^ 「変化球握り大図鑑 フォークボール 村田兆治」 『週刊ベースボール』2009年6月22日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20444-6/22、12頁。
- ^ ツーシームみたいに 人生先発完投『週刊ベースボール』2011年10月24日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-10/24, 81頁。
- ^ 大沢啓二の逝去に伴う措置として、毎週1名が「助っ人」として出演。
[編集] 関連項目
- 広島県出身の人物一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 沢村栄治賞 - 2008年から選考委員を務めている(稲尾和久の後任)
- 居酒屋兆治
[編集] 外部リンク
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