村田兆治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

村田 兆治
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県豊田郡本郷町(現・三原市
生年月日 1949年11月27日(59歳)
身長
体重
181cm
78kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1967年 ドラフト1位
初出場 1968年
最終出場 1990年10月13日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2005年
選出方法 競技者表彰

村田 兆治(むらた ちょうじ、1949年11月27日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手投手)・プロ野球指導者・プロ野球解説者。旧名「長次」。

現役時代は東京・ロッテオリオンズで23年間活躍。そのダイナミックな投球フォームは「マサカリ投法」と呼ばれた。

目次

[編集] 経歴

福山電波工業高校(現・近畿大学附属福山高校)時代から、その球速は既に150キロを超えていたと言われ、県内でも屈指のピッチャーとして有名だった(ただし2年次までは浅野啓司の控えであった)。

しかし、当時の広島県には三村敏之山本和行らを擁する広島商や、1967年夏の甲子園準優勝を果たした広陵など強豪がひしめいており、甲子園出場の悲願は叶わなかった。

[編集] プロ時代

1967年ドラフト1位で東京オリオンズに入団。背番号はエースナンバー18を希望したが叶わず29。1年目の1968年は奮わなかったが、2年目の1969年に頭角を現し6勝。1970年にはパ・リーグ優勝を経験。

1971年、投球フォームを大幅に改造し、いわゆるマサカリ投法を完成。同年12勝をあげて先発ローテーションの一角に食い込み、1974年のロッテ日本一の際にも大車輪の活躍を見せた。1976年にはフォークボールをマスター。人並み外れた長い指が生み出す切れ味鋭い変化は、打者のバットに悉く空を切らせ、このシーズン、村田は21勝をあげると同時に最優秀防御率最多奪三振のタイトルを獲得。1981年には開幕11連勝を飾り19勝で最多勝のタイトルも獲得し、名実共に1970年代から1980年代のパ・リーグを代表する投手となった。

しかし1982年に肘を故障。日本球界では長年、投手の肘にメスを入れることはタブーとされていたが、様々な治療法に取り組むも症状は改善されないため、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀のもと、左腕の腱を右肘に移植する手術を受けるべく、渡米。以降2年間をリハビリに費やし、1984年シーズン終盤に復帰。翌1985年、開幕から11連勝をあげるという鮮烈な復活劇を見せ、最終的に17勝5敗の成績でカムバック賞を獲得、それまで低迷続きだったロッテのリーグ2位獲得に貢献した。この年から、中6日で日曜日のみに登板するローテーションを取るようになったため、サンデー兆治と呼ばれるようになった。

1989年5月13日には山形県野球場の対日本ハム戦で200勝を達成。翌1990年若林忠志以来史上2人目となる40歳代での2桁勝利(10勝)を記録し、同年引退。引退試合となった川崎球場での西武ライオンズ戦では雨の中を力投し、5回コールド完封勝利で有終の美を飾った。先発完投にこだわった武骨な野球人生は「昭和生まれの明治」と呼ばれた。

[編集] 引退後

引退後はNHK日刊スポーツ野球解説者となり、その後1995年から1997年まで福岡ダイエーホークスの投手コーチを務めた。現在は、評論家としての活動の他に、全国各地(特に島しょ部)を回って少年野球の指導にあたる一方、プロ野球マスターズリーグの東京ドリームスにも参加している。

現役を引退して十数年、齢50歳を超えた現在でもなお、「超人トレーニング」と呼ばれるほどの厳しい鍛錬を行っている(後述)。マスターズリーグ等においても、いまだに球速140キロに届くストレートと落差20cmのフォークボールを披露し、ファンの度肝を抜いている。これについて村田は、子供たちに本物のプロのボールを見せて「プロって凄いんだ」と思って欲しいためだと語っている。テレビ番組「ナンだ!?」では、小学生と真剣勝負をしたり、古田敦也(当時ヤクルト選手兼任監督)を打席に立たせて勝負したり(その古田をして「うちのチームに欲しい」と言わしめた)と、その豪腕は衰えることを知らない。2005年野球殿堂入り。

2005年3月、日本プロ野球OB13人と共に長崎県対馬市に「対馬まさかりドリームス」を設立、投手兼監督に就任した。チーム名の「まさかり」はもちろん、現役時代に付いた異名に由来している。このチームを率いて全国(特に離島)の少年野球チームを回り、少年野球の指導をしている。指導では必ずチームに所属する小学生バッターと村田の一騎打ち対決を行っている(村田も本気でフォークボールなどを放っている)。

[編集] 年度別投手成績

  • 表中太字はシーズンのリーグ最高記録
年度 チーム



























W
H
I
P
1968



3 0 0 0 0 1 - .000 7 8 0 1 5 3 3.86 6.43 1.29
1969 37 5 5 0 6 8 - .429 146.1 110 11 82 90 58 3.58 5.54 1.31
1970 21 2 0 0 5 6 - .455 79 76 7 45 48 42 4.78 5.47 1.53
1971 43 8 1 0 12 8 - .600 194.1 183 25 68 122 72 3.34 5.65 1.29
1972 16 0 0 0 3 3 - .500 46 56 10 25 30 33 6.46 5.87 1.76
1973 40 6 1 1 8 11 - .421 157 134 6 83 104 56 3.21 5.96 1.38
1974 32 8 1 0 12 10 1 .545 180.2 151 10 98 108 54 2.69 5.38 1.38
1975 39 11 2 0 9 11 13 .429 191.2 128 15 71 120 47 2.20 5.63 1.04
1976 46 18 5 0 21 11 4 .656 257.2 209 13 81 202 52 1.82 7.06 1.13
1977 47 15 2 1 17 14 6 .548 235 216 15 70 180 70 2.68 6.89 1.22
1978 37 17 3 2 14 13 3 .519 223.1 188 18 73 174 72 2.91 7.01 1.17
1979 37 21 3 4 17 12 2 .586 255 224 26 60 230 84 2.96 8.12 1.11
1980 27 11 1 2 9 9 2 .500 178 169 14 91 135 77 3.89 6.83 1.46
1981 32 16 2 2 19 8 0 .704 230.2 237 18 61 154 76 2.96 6.01 1.29
1982 6 3 2 0 4 1 0 .800 40.1 35 4 13 27 13 2.93 6.02 1.19
1983 一軍登板なし
1984 5 0 0 0 0 1 0 .000 9 13 1 0 3 6 6.00 3.00 1.44
1985 24 10 0 0 17 5 0 .773 173.2 181 20 72 93 83 4.30 4.82 1.46
1986 23 5 0 0 8 11 0 .421 155.1 164 23 40 106 68 3.94 6.14 1.31
1987 21 3 2 1 7 9 0 .438 130.2 151 15 46 74 63 4.34 5.10 1.51
1988 20 5 1 0 10 7 0 .588 145.2 123 22 51 120 63 3.89 7.41 1.19
1989 22 16 3 1 7 9 0 .438 179.2 143 17 74 135 50 2.50 6.76 1.23
1990 26 4 2 0 10 8 2 .556 115.2 120 14 62 103 58 4.51 8.01 1.57
通算成績 604 184 36 14 215 177 33 .548 3331.1 3019 304 1268 2363 1200 3.24 6.38 1.29

[編集] タイトル・表彰・記録

  • 最多勝 1回 (1981年)
  • 最優秀防御率 3回 (1975年,1976年,1989年)
  • 最多セーブ1回 (1975年)
  • 最多奪三振 4回 (1976年,1977年,1979年,1981年) ※当時は表彰項目ではない
  • ベストナイン 1回 (1981年)
  • 前後期MVP 2回 (1977年後期,1981年前期)
  • 月間MVP 1回 (1981年4月)
  • プレーオフMVP 1回 (1974年)
  • プレーオフ敢闘選手賞 1回 (1981年)
  • 野球殿堂入り (2005年)
  • 通算暴投数 148回(歴代1位)
  • 1シーズン暴投数 17回(1990年)
  • 1ゲーム暴投数 3回(1987年5月28日,6月14日,1990年5月15日)
  • 1イニング暴投数 3回(1987年6月14日)
  • 開幕投手 13回(1975年~1982年,1986年~1990年)
  • 1試合16奪三振(1979年6月8日 対近鉄戦)
  • オールスター13回出場(1971年、1974年~1981年、1985年、1986年、1988年、1989年)
  • オールスターゲーム最優秀選手(1989年第1戦)
  • 日本シリーズ1回出場

[編集] エピソード

[編集] フォークボール

  • 村田の代名詞・フォークボールについて、元阪急ブレーブス山田久志は「昔、うちの打者に『次、フォーク』と予告して、実際にフォークを投げ空振りさせた」と語り、また元南海ホークス野村克也は「村田のフォークボールの癖はすぐ分かったけど、分かっていても打てなかった」と語るなど、その威力に関するエピソードは数知れない。杉下茂も、「私は、日本人の投げるフォークボールは厳密にはSFFが大半だと思うが、村田君は間違いなく『本物のフォークボール』を投げていた」とコメントしている。
  • 入団当初の村田のフォークはコントロールが悪く使い物にならなかった。そこで、当時のフォークの名手・村山実に教えを請いたところ「24時間ボールを握る」とアドバイスされ実践した[1]。指にボールを挟んだまま縄でくくりつけて眠ることで、フォークの握りを体に覚えさせようとしたことがある。が、あまりの激痛に就寝どころではなくなり、結局一度試しただけでもう二度とやらなかったという。また、フォークの握りを深くしようとするあまり、人差し指と中指の間にナイフで切り込みを入れたこともある。習得後も、右手の中指と人差し指の間に牛乳瓶や特注の鉄の球を挟んだり、ドアを開けるときもノブを中指と人差し指で挟んで開けるなど、日々のトレーニングを欠かさなかった。夫人によれば、村田が中指と人差し指でビール瓶をはさむと、彼女が引っ張っても抜けないという。
  • 入団当時のオリオンズ監督だった濃人渉は、同じ広島県出身の村田を大変可愛がったが、速球の威力が落ちることを恐れ、フォークボールの練習だけは禁止していた。しかし村田は、濃人の目を盗んではフォークボールの練習を続けていた。たまたまその様子を濃人に見つかったこともあったが、「今投げたのは何だ?」と聞かれると「カーブです」ととぼけていたという。
  • 前述のように、2位以下を二倍近く圧倒的に引き離すほどの通算暴投数を記録している(通算2位は、川口和久の79個)。これほどの暴投数を記録した要因は、村田のフォークボールが非常に鋭いものであったのもさることながら、キャッチャーとサインを交わさず自分で投球を組み立てていたため、いつフォークが投げられるかキャッチャーに予測しきれなかったことが一番大きいという。ちなみに村田自身は、これほどの暴投数にも関わらず暴投による失点が非常に少ないため、この記録に大変誇りを持っているようである。
  • 村田独特の投球フォームは溜めが長いためか握りが確認されやすかったようで、相手チームの三塁コーチが村田の握りを見て、指でボールを挟んでいた時は口笛を吹いてバッターに知らせることで、打者に狙い打たれたことがあったという。しかしそれに気づいた村田は投球モーション中に直球からフォーク、フォークから直球へと握りを自在に変えるという驚異的な投法を編み出し、口笛作戦を封じたという。

[編集] 現役時代

  • プロ野球選手を志したのは小学5年のとき、父に連れられて広島市民球場ナイターを観戦しに行ったことがきっかけだった。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つ程興奮し、それ以来プロ野球選手以外の将来は考えられなくなったと言う。
  • プロ入り当時は、ドラフト1位で入団した契約金を持て余し、パチンコ麻雀など遊びに明け暮れていた。そんなある日、徹夜の麻雀を終えて独身寮に朝帰りして来た時、日課のロードワークに出発しようとしていた小山正明と鉢合わせになる。村田は、球界を代表するベテラン投手である小山が、若手である自分よりも遥かに厳しい練習を自分に課していることに衝撃を受け、そのまま逃げるように自分の部屋に帰っていった。その後、練習中に小山に謝りに行ったところ「お前ほどの才能がありながら、それを無駄にするのはさびしくないか」と諭され、これに感激した村田は、以降練習に真剣に打ち込むようになったという。
  • 肘を故障しボールが投げられなくなっていた時期は、様々な治療法に取り組む傍ら、宮本武蔵の「五輪書」を愛読し、和歌山県白浜町のお水場・十九渕で座禅を組み、深夜白衣を纏い滝に打たれるといった荒行も行っていた。
  • 夫人は英語に堪能な才媛である。村田が手術後もアメリカに長期滞在しリハビリに専念できたのも、夫人の生活面での支えによるところが大きいという。
  • 当時ヒジにメスを入れることはタブーされており、手術するよりは引退する方が潔いとされる時代であったが、敢えて渡米して手術することで復活を果たした。彼の復活によって第一人者としてのジョーブ博士の日本における名声も知られることになり、佐々木投手や桑田投手の故障後の復活へとつながる、日本投手としての先駆けとなった。
  • ヒジの故障を乗り越え「サンデー兆治」として復活した様子を描いた村田夫人の手記「サンデー兆治の妻」は、1986年テレビ朝日系列土曜ワイド劇場でドラマ化され、放映された。村田役に名高達郎、夫人役に星野知子という配役で、稲尾和久落合博満も本人役で出演している。
  • 座右の銘は「人生先発完投」。しかし、速球とフォークボールを生かすため金田正一監督の意向で、二度ほどリリーフ陣に回ったこともある。選手生活末期にも一度リリーフに回り、その後再度先発に戻ったが、本人はこれについて「あれは僕の主義主張よりも、太ももなど下半身が登板間隔の短いリリーフにはついてこなかったから戻してもらった」と述べている。
  • 引退試合ではキャッチャーに同じく引退を決めていた「戦友」袴田英利を指名した。そのときは2軍にいた袴田。「兆治さんの球を受けて辞められるならこれ以上のことはない」と言った。そんな袴田に、村田も「お前とじゃなきゃ辞められないんだ」と言った。
  • 袴田が新人の頃、村田が語ったエピソードとして「1アウト、ランナー満塁。このとき確実に抑えるにはどうしたらいい?」と尋ねた。袴田は迷わず「ゲッツーです。」と答えたが、「じゃあ、その次は?」と聞かれ、答えに困っていた。村田は袴田に笑って「一番いいのは三振だ。ゲッツーはエラーがある。」と語った。村田が奪三振にこだわっていたことを表す逸話である。

[編集] 現役引退後

  • 来歴の節に記したように、現在でも毎日スポーツジムに通っては「超人トレーニング」(最初に取材したのがテレビ朝日の「プロ野球ってナンだ!?」であり、当時テレビ朝日がプロ野球中継のキャッチコピーとしていた『プロ野球超人バトル』から名づけられたもの)と呼ばれる激しいトレーニングを行っている。内容は、腕立て伏せを500回、腹筋・背筋運動を1000回ずつ、マシンによるトレーニングの他、更にダンベルを右手人差し指と中指に挟むフォークボールの形に握って上下させるというもので、それをゆっくり時間をかけながらではなく、猛烈なスピードで一気に行う。マスターズリーグで一緒になった後輩の宮本和知らは、初めて村田のトレーニングを見て驚愕したと語っている。
  • 50歳を越えてなお球速140km/hをマークし続けている村田だが、本人は「マスターズリーグで140キロが出せなくなったら、もうボールを握るのは止める」と公言している。
  • 引退後のライフワークとして、全国の離島を回って少年野球教室を開催している理由は、日本にある有人離島の数が、自身の通算勝利数(215勝)と同じ数くらい存在するからだと、著作やインタビューなどで語っている。
  • 1992年、小学5年生向けの道徳の教科書に「逆境を克服した生き方」の教材として、村田が右肘手術からの復活した時の様子が取り上げられた。
  • 2001年に発売されたゲームソフト実況パワフルプロ野球8」「実況パワフルプロ野球8決定版」では現役当時(1976年)の村田と2001年当時の村田が選手として登場している。
  • 2007年5月26日プロ野球交流戦、千葉ロッテ対横浜戦で始球式投手を務める。この時の球速は135キロを記録したが、これはこの試合の先発を務めた渡辺俊介の全投球よりも速いものだった。
  • 引退後、マスターズリーグでも快投をしていた村田に、ある記者が「今でも1イニングだけならプロでも通用するんじゃないですか?」と言われたときに、「俺は先発しかやらねぇんだ!」と突き返した。

[編集] 現在の出演番組

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 「変化球握り大図鑑 フォークボール 村田兆治」 『週刊ベースボール』2009年6月22日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20444-6/22、12頁。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク