埼玉西武ライオンズ
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埼玉西武ライオンズ(さいたませいぶライオンズ、Saitama Seibu Lions)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。埼玉県を保護地域とし、同県所沢市にある西武ドームを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)は隣接する西武第二球場を本拠地としている。
球団創設(旧クラウンライターライオンズ買収)30周年を迎える2008年1月1日より一軍の球団名を「埼玉西武ライオンズ」と変更する方向で各種機関に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。
また、一軍の本拠地名称と二軍の球団名については、2005年3月1日から2008年1月8日まで、それぞれ命名権(ネーミングライツ)を採用していた。
| チーム名 | 埼玉西武ライオンズ |
|---|---|
| 会社名 | 株式会社西武ライオンズ |
| 加盟団体 | パシフィック・リーグ(一軍)、イースタン・リーグ(二軍) |
| 創設年度 | 1950年(一軍)、不明(二軍) |
| チーム名の遍歴 | (一軍) 西鉄クリッパース(1950年) →西鉄ライオンズ(1951年-1972年) →太平洋クラブライオンズ(1973年-1976年) →クラウンライターライオンズ(1977年-1978年) →西武ライオンズ(1979年-2007年) →埼玉西武ライオンズ (2008年-) (二軍・2005年-2007年) インボイス(2005年、2006年) →グッドウィル(2007年) |
| フランチャイズの 遍歴 |
福岡県(1952年-1978年)→埼玉県(1979年-) |
| 本拠地 | 西武ドーム(一軍)、西武第二球場(二軍) |
| 収容人員 | 35879人(西武ドーム) |
| オーナー | 後藤高志 |
| 運営母体 | 西武ホールディングス (プリンスホテル配下) |
| 監督 | 渡辺久信 |
| タイトル | リーグ戦:21回、日本シリーズ:12回 |
| 優勝年度 | (リーグ戦)1954、1956、1957、1958、1963、1982、1983、1985、1986、1987、1988、1990、1991、1992、1993、1994、1997、1998、2002、2004、2008 (日本シリーズ)1956、1957、1958、1982、1983、1986、1987、1988、1990、1991、1992、2004 |
| プレーオフ | 4回 - 2勝2敗(太字は勝利した年) 1982、2004、2005、2006 |
目次 |
球団の歴史
福岡時代
- 1949年の2リーグ分裂と共に福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、法人名:西鉄野球株式会社)として創立。パ・リーグに加盟。親会社は西日本鉄道(同社は戦前も西鉄軍を経営していたが、西鉄軍は1943年に解散したため、現在のライオンズとは直接の関係はない)。戦後すぐの球団再建が認められず、2リーグ分裂まで待たねばならなかった。
- 1951年2月26日、同じく福岡市を本拠地としていたセ・リーグの西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズとなる。
- 1956年~1958年に日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年は稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。この当時の主力には中西太、豊田泰光、仰木彬、高倉照幸らがおり、「野武士軍団」と呼ばれていた。
- 西鉄最後の優勝となった1963年は南海ホークスに最大14ゲーム差をつけられていたのを跳ね返して最終戦で奇跡の大逆転優勝を飾る。
- 1969年に「黒い霧事件」が発覚し池永正明を始めとする主力選手の退団・出場停止により大幅な戦力ダウン、それに伴う観客動員数の減少により経営が悪化。本業(交通事業)の低迷も重なり、1972年、遂に西鉄は経営を放棄した。
- 1972年10月にロッテオリオンズの中村長芳オーナーが球団を買い取り、新会社「福岡野球株式会社」を設立。ペプシコーラ日本法人(現サントリー)に買収させる案があったが、翌1973年2月東映フライヤーズが日拓ホームに身売りされ、パ・リーグの現状を危ぶむペプシ側により破談となった。このためペプシへの売却を提案した中村が自ら買収した。資金面強化のため小宮山英蔵が創業したゴルフ場開発の太平洋クラブと提携し太平洋クラブライオンズ(たいへいよう-)となる。
- 1976年10月に桜井義晃率いる廣済堂グループ傘下のクラウンガスライターと提携しクラウンライターライオンズ(本来の社名である「ガス」は球団名が長くなってしまうため入れなかった)と改名を繰り返す。しかし太平洋クラブからの資金援助が続いていたため、引き続きユニフォームに太平洋クラブのロゴマークが挿入された。
- 1978年シーズン終了後所沢への移転を発表。国土計画の堤義明社長(当時)がクラウンライターライオンズを買取り、西武ライオンズとなる。堤の媒酌人福田赳夫が名誉会長就任。
所沢時代
黄金期
- 1979年に西武ライオンズがスタート。最下位・4位・4位の後、広岡達朗監督の下、東尾修、田淵幸一らを中心とした1982年・1983年に2年連続日本一、秋山幸二、石毛宏典らを中心とした1985年~1988年はV4と栄光の足跡を残した(1986年~1988年は日本シリーズ・3年連続日本一)。
- 森祗晶監督時代は投打ともに圧倒的な戦力(秋山幸二、オレステス・デストラーデ、清原和博、石毛宏典、伊東勤、辻発彦、平野謙など)が揃い、特に渡辺久信(最多勝利投手1986年、1988年、1990年、勝率第1位1986年)、郭泰源(シーズンMVP1991年、勝率第1位1988年、1994年)、工藤公康(シーズンMVP1993年、勝率第1位1987年、1991年、1993年)、石井丈裕(シーズンMVP、勝率第1位、沢村賞1992年)、鹿取義隆(最優秀救援投手1990年)などを擁した投手陣や、AK砲(巨人の王・長嶋のON砲以来の破壊力を誇った)と呼ばれた秋山・清原の打力は他球団から恐れられた。1986年~1994年の9シーズンで8度のリーグ優勝(唯一優勝を逸した1989年は近鉄に2厘差、さらにオリックスに1厘差の3位)、6度の日本一(1993年はヤクルトスワローズ、1994年は読売ジャイアンツに敗れてリーグ優勝のみ)を達成し黄金時代を築きあげ、「常勝西武」と呼ばれた。
- 1993年には9年連続30本以上の本塁打の偉業を達成し、攻守走の要として君臨していた秋山が福岡ダイエーホークスにトレード(秋山、渡辺智男、内山智之⇔佐々木誠、橋本武広、村田勝喜の3対3の交換)。森監督は1994年限りで勇退。
- 1995年、東尾監督が就任。しかし主力選手の石毛や工藤公康といったメンバーが次々と移籍し戦力が低下、連続優勝も途絶え、黄金期に終止符を打った。4番として活躍した清原も1996年シーズン後にフリーエージェントで巨人に移籍した。
- 1997年には松井稼頭央や髙木大成といった若手の台頭もあり3年ぶりにリーグ優勝。
- 1998年も日本ハムファイターズとの熾烈な首位争いを制し2年連続してリーグ優勝に輝いたものの、いずれも日本一はならなかった。
- 1999年には西武ドームが完成、松坂大輔人気などもあり観客動員数増加、ナイター中継増加と世間の注目を集めるが、戦跡面は2001年まで3年連続のV逸と常勝軍団化以降はワーストとなってしまった。
- 2001年を最後に東尾監督が勇退し、同年のシーズンオフ、伊東勤が後任の監督として候補に挙がったが、伊東が現役続行を希望したため伊原春樹ヘッドコーチが監督に昇格。伊東は総合コーチ兼捕手に昇格。
- 2002年、伊原監督就任1年目は開幕直後から首位を独走しリーグ優勝。しかし日本シリーズは巨人に4連敗と大敗を喫した。
- 2003年はダイエーと優勝を争ったが最終的に2位に終わった。同年シーズン終了直前に伊東が現役引退を表明し、同時に監督就任を承諾。伊原監督は退任し、オリックスの監督に。
伊東監督・渡辺監督
- 2004年に伊東監督が就任。これに伴いホーム用ユニフォームが25年ぶりに(微細な変更を除く)一新された。ビジター用の変更は2回あるがホーム用の一新は初めて(ただし球団旗などのロゴは変更なし)。この年導入されたパ・リーグプレーオフで、北海道日本ハムファイターズと福岡ダイエーホークスを接戦の末破り2年ぶり20回目(所沢移転後16回目)の優勝を果たす。日本シリーズでは中日ドラゴンズに先に王手をかけられるものの敵地ナゴヤドームで連勝し、4勝3敗で12年ぶりの日本一に輝いた。
- シーズンオフ、コクドの事業不振に加え、西武鉄道の有価証券報告書虚偽記載問題に端を発した西武鉄道株の急落・上場廃止により財務体質の悪化が進行したため、西武グループの経営再建を目指すべく、コクド側が球団売却を行う方針となった。売却を楽天と争って敗れたライブドアなど複数の企業に打診したが、売却額が200億から250億と予想されていた上、西武ドームの継続使用が条件であったため交渉はまとまらず、結局2005年も「西武ライオンズ」として引き続き経営されている。西武グループの再建計画の中で球団の赤字が解消されなければ2005年シーズンオフに再び球団売却を検討するとしていたが、2006年以降も球団を保有する方針を固めていた。なお西武グループの再編により、直接の親会社はコクドからプリンスホテルに変わった。
- 2005年11月23日に「ファン感謝の集い」が1980年以来、25年ぶりの開催となった(2006年・2007年も同日に開催した)。
- 2006年、ファイターズとのシーズン1位争いの末、最終戦までもつれるが、わずかゲーム差0.5差で2位に終わる。
- 2007年は交流戦で10連敗を記録するなどして低迷。9月26日、対千葉ロッテ戦に敗れた時点で26年ぶりのBクラスが確定し、連続Aクラスの日本プロ野球記録(25年連続Aクラス)が途切れ、結局最下位オリックスから2.5ゲーム差の5位に終わる。シーズン最終戦の直前、伊東監督は不振の責任を取り辞意表明した。
- 2008年は渡辺久信が二軍監督から一軍監督に昇格し、黒江透修をヘッドコーチに、大久保博元を打撃コーチにするなどコーチ陣を一新。その結果、打撃力が大幅にアップし、渡辺久信にノーリミット打線と名付けられた。8月11日には球団創設以来通算4000勝を達成。これは日本プロ野球では6球団目(2リーグ分裂後にできた球団の中では初)の記録であり、2リーグ分裂後の4000勝は読売ジャイアンツに次いで2球団目である。4月に首位になって以来一度もその座を明け渡さず、9月26日、埼玉西武となって初めての年で4年ぶり21回目のリーグ優勝を決めた。
チーム成績・記録
- リーグ優勝 21回
- (1954年、1956年~1958年、1963年、1982年~1983年、1985年~1988年、1990年~1994年、1997年~1998年、2002年、2004年、2008年)
- 日本一 12回
- (1956年~1958年、1982年~1983年、1986年~1988年、1990年~1992年、2004年)
- 前期優勝 1回
- (1982年前期)
- Aクラス 41回
- (1951年~1952年、1954年~1958年、1960年~1963年、1965年~1967年、1975年、1982年~2006年、2008年)
- Bクラス 18回
- (1950年、1953年、1959年、1964年、1968年~1974年、1976年~1981年、2007年)
- 最多勝 96勝(1956年)
- 最多敗 84敗(1971年)
- 最多引分 14分(1959年、1987年)
- 最高勝率 .683(1983年)
- 最低勝率 .311(1971年)
※1982年度は日本ハムとのプレーオフを制して優勝。2004年度はレギュラーシーズン2位ながらプレーオフで日本ハム、ダイエーと連破して優勝。
その他の記録
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1989年)
- 最大ゲーム差 43.5ゲーム(1971年)
- 最多本塁打 219本(1980年)
- 最少本塁打 63本(1951年)
- 最高打率 .281(1986年、1997年)
- 最低打率 .222(1967年)
- 最高防御率 1.87(1956年)
- 最低防御率 4.60(1979年)
チーム特徴
- 西鉄時代は三原・川崎徳次以外はチームの出身者が監督を務めた。太平洋・クラウン時代・西武時代は長らく外様監督が続いたが、1995年の東尾修以降は、伊原春樹、伊東勤、渡辺久信とチームの出身者の監督が続いている。
- 西鉄黄金期の三原時代はトレードに消極的だった(ただし、広島に移籍した大和田明や近鉄に移籍した大津守のように、このままチームにいても出場機会に恵まれないと思われる選手を他球団に移籍させることはあった)のに対し、西武黄金期の根本・広岡・森時代は大型トレードを敢行。対照的な手法で黄金時代を作り上げた。
福岡時代
- 戦時中の1943年に職業野球に参加していた西鉄軍は、親会社こそ同一企業(西鉄)だがチームとして直接の繋がりはなく、西鉄クリッパースは戦後一から作り直した球団である。
- 西鉄クリッパースのニックネームの由来は、ニックネームを公募したところ、親会社だった西鉄が当時パンアメリカン航空の日本販売代理店だったことから、パンナム機の愛称「クリッパー」から採用されたと言われる。(参考(外部関連記事) スポーツライター・綱島理友の「綱島プロ野球研究所」からニックネームCの項)
- 西日本パイレーツの吸収合併に伴い1951年より採用した「ライオンズ」は獅子から取ったもので、やはり公募による。西鉄時代から変わることなくニックネームとして定着している。ちなみに西日本パイレーツと合併した時には「ターザン」が流行していたため、愛称の最終選考には「ターザンズ」も残っていたという。
- 1953年には中西太が平和台野球場のセンターバックスクリーンを越える、推定160メートルとされる大ホームランを放った。この他にも中西は多くの逸話を残しており、「野武士軍団」西鉄ライオンズの看板選手たる人物だった。
- 西鉄全盛期というと「宿舎での女湯のぞきは当たり前、無断で他の選手のビールをスポーツ新聞の記者におごったり、博多どんたくの前日に仮装行列で繁華街を練り歩いたり…」といった数々の武勇伝が語り継がれているが、選手同士の仲は良いというよりも逆に悪すぎる(言い換えれば、馴れ合いが決してない)ほどで、たとえレギュラーであっても細かいミスを犯した選手に対しては容赦なく味方ベンチから罵声が飛んだ、大事な試合でエラーを犯した高倉照幸が、試合後全選手の前で土下座した(次の試合で高倉は名誉挽回の活躍をする)、全く試合に起用されない選手が、冴えないプレーをしたレギュラー陣に「俺の代わりに試合に出ていることを解っているのか」と説教したなど、エピソードには事欠かない。豊田泰光は「三原のオヤジの采配もさることながら、この雰囲気があったからこそ、3年連続日本一を達成できた」と述懐している。
所沢時代
- 球団シンボルマークは西武となって以降、手塚治虫の『ジャングル大帝』の主人公・レオを採用している。肖像権料は1億円という(しかし作者の手塚は生前、あの球団旗などに採用されたキャラクターは実はレオではなく、父親のパンジャであったと語っている)。球団マスコットとしてもレオが(人型で)登場。マスコットには他に女性キャラのライナがいる。共に背番号無し(ユニフォームのスポンサー・ナイキのロゴ)。また、このマスコットは「異競技交流」の一環として、2003-2004年シーズンに西武鉄道アイスホッケー部を統合したコクドアイスホッケーチームにも使用された。(チームが西武プリンスラビッツとなった2006年からは使用せず)
- このレオの名前は共通SFカードシステム「パスネット」に加盟する西武鉄道のプリペイドカードの名称にも使用されている(現在はSFレオカード)。
- 西武となって以来、福岡本拠地時代の歴史を極力消す傾向にあった。そのため福岡時代のファンの反発は強く、南海ホークスの福岡移転後、ホークスへのファン流出を促進させる結果となった。ファンブックなどで旧クラウン球団買収を「ライオンズ球団の誕生」と記述していたため、「福岡時代からライオンズを名乗る球団が存在したのに、新たに創設されたかのような記述はおかしい」と指摘され、この記述については「西武ライオンズ球団の誕生」と改めた。西武がこのような姿勢を取っていた背景には黒い霧事件で西鉄に残った悪印象と訣別したい意図が存在するのではないかとの指摘もあったが、2008年現在は公式ウェブサイト内年表においても西鉄クリッパーズ結成を起点とする福岡時代の記述が追加されている。こうした姿勢の変化には堤義明オーナーの退任、黒い霧事件における池永正明の永久追放処分が2005年に解かれたこと、西鉄・太平洋時代の功労者である稲尾和久の死去などが関係していると見られる。また、2008年は西武球団創設30周年と西日本鉄道創業100周年が重なることから、西鉄時代のユニフォームを着用して夏季の一部の試合を行うこととなった。基本的には西武ドームでの主催試合で着用するが、西鉄時代の本拠地・福岡(現在の福岡ソフトバンクホークス本拠地である福岡Yahoo! JAPANドーム)でも2試合着用することが決まった。
- 2003年までのホーム用で使用されていたユニフォームによる白地に緑・青・赤のストライプを配した塗装は「ライオンズカラー」と呼ばれ、ユニフォームの変わった現在でも西武4000系電車・西武8500系電車や西武グループに所属する西武バス・伊豆箱根鉄道・近江鉄道のバスなど様々な場所で使用されている。
- 1982年に西武としてリーグ初優勝以来、2006年まで25年連続Aクラス入りを達成した。1979年~1981年の西武になって最初の3年間は全てBクラスに甘んじたことから言っても、1982年の優勝は大きな転機となったといえる。
- パ・リーグでは唯一、セ・リーグに現存する全ての球団と日本シリーズで対戦している。
ユニフォームの変遷
福岡時代
- 1950年~1951年 - 紺に黄色の縁取りで「CLIPPERS」。グレーの縦縞に「FUKUOKA」のマークもある。西鉄ライオンズになってからロゴが「Lions」変わった以外、変更点はない。
- 1951年~1952年 - 濃紺で「LIONS」と書かれたロゴが登場。黄金期の象徴だった「NISITETU」マークが初登場。しかし、ストッキングの評判が悪くビジター用は1年で廃止。
- 1952年~1954年 - ブルーグレーの縦縞を採用したユニフォームとなる。同時に、西鉄晩年まで使われていた「Lions」の飾り文字が登場。
- 1954年~1961年 - 黒色の帽子・ライン・レターを基調とした、後の西鉄黄金期を象徴するデザインが登場。また、胸ロゴ「Lions」はiの黒点が取れるなどのマイナーチェンジ、帽子マークは従来のNマークからNとLを重ねたマークに変更された(以来、NLマークは'60~61年を除き、西鉄売却まで使用)。このユニフォームは日本シリーズから使用された。1958年シーズン途中からビジター用胸マークが「FUKUOKA」となった。1960年には袖番号が装着され、帽子マークはLの飾り文字になった。
- 1962年~1965年 - ラインをWラインに変更。また、ビジター用は基本デザインが従来どおりだが、ラインが少し太くなった。
- 1966年~1970年 - ユニフォームにオレンジが登場(帽子マーク、ライン・レターの縁取り)。また、日本プロ野球としては1964年の大洋に次ぐ背ネームが採用された。
- 1971年~1972年 - パンツと袖口がWラインとなり、ワッペンのライオンが2本足に変更される。同時に西鉄最後のユニフォームとなった。
- 1973年~1975年 - 日本初の原色ユニフォームが登場。ビジター用の赤いシャツは世間に強い印象を与える。同時期に袖が赤いホーム用、ビジター用の上着がブルーというデザインも存在した。
- 1976年 - 最初で最後のアメフト風ユニフォーム。胸の真ん中に大きく番号が入った。しかし、「身売りへの準備」と勘ぐられるなどの悪評から後期は「Lions」のロゴが、ビジター用は「TAIHEIYO CLUB」のロゴがそれぞれ復活。
- 1977年~1978年 - スポンサーがクラウンガスライターとなり、クラウンの王冠が胸番号の代わりに入った。同時に福岡のライオンズが着用した最後のユニフォームとなる。
所沢時代
- 1979年~2003年 - 球団名が「西武ライオンズ」となりデザインを一新。西武黄金期を築いたユニフォームで、途中マイナーチェンジはあったが、基本デザインは2003年まで使用された。
- 帽子、アンダーシャツ、ストッキングがチームカラーのライトブルーとなり、袖、首、パンツに“太陽”と“草原”のイメージにより考案された赤、緑のラインが入る。
- 帽子は緑の楕円の中に手塚治虫テザインのレオマークがつき、下にLionsのロゴが刺繍される。ヘルメットは、そのほか右側にSEIBUのロゴが入る。
- 背番号、胸番号の書体が丸ゴシック体になり、パンツは腰ラインの入っていないベルトレスタイプになる。
- スパイクはつま先、踵部分が黒、それ以外は白で赤、緑、のラインが入る。
- ホーム用は、上下白で、胸ロゴ、胸番号、背番号はライトブルー。左袖にSEIBU西武と西武百貨店と同様のマークが入る。
- ビジター用は、上下ライトブルーで、胸ロゴ、胸番号、背番号は白。
- 1980年より、ベルト式になり、腰を一周する形のベルト通しに、ホーム、ビジター共地色と同色のベルトになる。1981年に入団した石毛宏典は全身ブルーのビジター用をパジャマみたいで格好悪いと思ったが、チームが勝ち続ける中愛着も沸き、他チームの選手からはビジター用の方が強そうに見えるという感想も聞いている[1]。
- 1990年より、ユニフォームのボタンが、透明から地色と同色のボタンになる。
- 1996年より、ビジター用のみモデルチェンジされ、上着がライトブルーに白のラケットラインが入り、胸番号、背番号、胸ロゴに白の縁取りが入り、書体が高校野球型に、パンツが白になり、ライトブルーのラインが入る。また袖、首の赤、緑ラインが消える。同時にスパイクの色が白地にライトブルーラインになる。
- 2001年より、ホーム用がデサント社から、ナイキ社の製造になり、左胸にナイキのスウォッシュマークが入る(日本プロ野球で初めてユニフォームにブランドマークが入る)。
- 2002年より、ホーム用がカッティング・デザインを駆使したものになり、パンツのベルトループがスタンダードなものになり、青色のベルトになる。ビジター用もナイキ社の製造になり、大幅にモデルチェンジされ、ビジター用の上着の正面がグレー、脇・背中がライトブルーになり、パンツがグレーになる。胸のネームと番号は、発表時は白だったが、公式戦時にブルーへ変更された。また、札幌、長野での主催ゲーム用にサード・ユニフォームも登場した。ホーム用をアレンジしたもので、ネームと番号の縁取りが黒。番号のロゴは、ビジターと同じものを採用。ビジター用とサード用の帽子からは、緑の楕円がはずされた(ヘルメットは、ホーム用と同じ)。なお、3種類とも右袖にプライド・ロゴ(赤・緑の2色のホームベース型にLionsのロゴと日本一の回数の8個の星をあしらったもの)が入る。
- 2004年より 伊東勤監督就任を機に25年ぶりにホームのユニフォームに大幅変更。赤、緑のラインが消え、Lionsのロゴが大文字のLIONSになる。また、帽子の正面からLionsのロゴが消え、横にLIONSのロゴが入る。ビジター用の帽子もホーム用兼用となり、サード・ユニフォームは、廃止された。プライド・ロゴは、ビジター用のみとなる。
- ※2007年度は夏季特別企画として、7月10日から8月30日に主催ホームゲームで、試合日によりオリジナルで製作した特別ユニフォームと併用する形で、ビジターユニフォームの復刻版が登場した。
- ※2008年度は交流戦限定ユニフォームが登場するほか、6月〜8月の主催試合と7月15、16日に「アサヒスーパードライ ライオンズ・クラシック」として西鉄ライオンズ時代のユニフォームの復刻版が登場する。当時の親会社である西日本鉄道も後援として参加している。
- ※2007、2008年度の復刻版のいずれにも左胸にスウォッシュマークが入る。
- ※左胸のウォッシュマーク及びヘルメットのスポンサー名は、セ・リーグのチームが主催の試合の際は、はずされる。
- 2007年度の2軍・グッドウィルのビジター用は、1軍のものから首のラインをはずしたもの、ホーム用は、ビジター用のグレー部分と背中を白にしたもの(背番号のロゴは1軍ホーム用と同じ)が使用された。インボイス時代は、1軍と同じデザイン。
ユニフォーム等のスポンサー
- ヘルメット - JOMO ジャパンエナジー(2001年~2003年)ピザーラ(2004年~2007年)バイトルドットコム(2008年~)
- ユニフォーム左胸 - ナイキ(ホーム用2001年~、ビジター用2002年~)
応援スタイル
- ビクトリーフラッグと呼ばれる小旗が応援に使われる。使われるのはスターティングメンバー発表時、得点時、5回表攻撃前など。
- 得点時には球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」のBメロ~サビが演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。演奏終了後他球団と同様に万歳三唱するが、その後「わっしょい」×3、「1・2・3・ダー」と続く。
- 勝利時には炭坑節が演奏される。
- 「かっ飛ばせー○○」の後に「Go!Go! Let's Go ○○」と続ける。ただし中村剛也の打席のときは、中村が本塁打を打った後は「おかわりおかわりもう一杯」になる。
- 応援のリードにバスドラムが用いられ、西武ドーム内で反響するため威圧感を与えている。
- 2004年までは関東での試合、関西での試合、九州での試合で選手の応援歌が異なっていたが2005年以降統一された。
- 1990年と2005年にほとんどの選手の応援歌の変更がなされている(1990年の変更は関東地区のみで九州では従前の応援歌のまま)。しかし、チャンスでの打席になると、その選手の変更前の応援歌や以前同じ背番号をつけていた選手の応援歌などが演奏されることもある。西武ドームで細川亨がチャンスで打席に立つと、伊東勤監督の選手時代の応援歌が演奏されたこともある。2008年時点ではチャンステーマとして片岡易之の打席で石毛宏典の応援歌、クレイグ・ブラゼルの打席でアレックス・カブレラの応援歌、ヒラム・ボカチカの打席でホセ・フェルナンデスの応援歌が使用されている。
- 2005年に選手の応援歌の一斉変更がなされる前は新しい応援歌がほとんどといっていいほど作られず、過去の選手の流用ばかりであった。投手の応援歌だったものを野手用に使う例も見られた。実際に2005年の応援歌変更の対象とならなかったアレックス・カブレラの応援歌はマイク・パグリアルーロ以降、ダリン・ジャクソン、ドミンゴ・マルティネスなど歴代の外国人選手に使用されていた曲(歌詞も名前部分以外そのまま)、和田一浩の応援歌は仲田秀司の曲の流用(歌詞は異なる)である。
- 5回の攻撃前に球団歌の「地平を駈ける獅子を見た」が1コーラス演奏され、ファンがそれに合わせてビクトリーフラッグを振る。交流戦では「白いボールのファンタジー」が代わりに演奏される。
- 7回の攻撃前には応援歌の「吠えろライオンズ」が演奏される。従前の応援歌であった「若き獅子たち」も相手投手交代の際等に使用される。
- アウトテーマは原則的に使用されるが、バントアウトなどアウトを取っても相手が先の塁に進塁した場合は使用しない。アウトが奪三振の場合はアウトテーマの後に「いいぞ、いいぞ、○○(投手名)」と続ける。以前は三振以外のアウトの時もアウトの打球を処理した選手に対し(例-ショートゴロならショートを守っている選手にと言う具合に)このコールをやっていたこともある。
- 7回攻撃前(ラッキー7)と勝利時にジェット風船を飛ばすが、ラッキー7では青色、勝利時は白色と色を変えている。
- 平尾博嗣の応援歌はその曲調と歌詞から、ネット掲示板などでも賛否両論的な議論が展開されたことがある(平尾本人も気に入っていないことが、ラジオ番組での赤田将吾選手の発言により発覚している)。現在ではそのような議論展開も少なくなり、応援歌の一つとして定着してきていた(応援歌)が、2008年7月19日より新しい応援歌に変更された。
- 汎用の代打テーマは一応存在するが、専用の応援歌が無い野手は新人選手など数人しかいないため、滅多に演奏されない。2005年の変更の際には代打テーマも新規作成されたが翌2006年入団の銀仁朗以外に使われることが無く、2006年交流戦頃にそのまま銀仁朗の応援歌となった。現在は暫定的に一斉変更前の代打テーマを使用している。
永久欠番
歴代の永久欠番
準永久欠番
なし。
過去の準永久欠番
- 27:伊東勤
- 2004年~2006年の3年間欠番。
- 32:ミゲール・デルトロ
- メキシコ帰国直後の2001年10月6日交通事故死。翌2002年の1年間欠番。
- 59:板沢峰生
- 1980年12月3日急性心不全で死去。翌1981年から1989年までの9年間欠番。
歴代本拠地
- 1950 - 平和台野球場、春日原球場(なお、平和台は西日本パイレーツ、春日原は西鉄クリッパーズが専用球場と規定されていた)
- 1951~64 - 平和台野球場
- 1965~72 - 平和台野球場、小倉球場(現北九州市民球場)
- 1973~78 - 平和台野球場(準本拠地として小倉球場、熊本市・藤崎台県営野球場)
- 1979~97 - 西武ライオンズ球場
- 1998~現在 - 西武ドーム(命名権による名称変更で2005年・2006年は「インボイスSEIBUドーム」、2007年は「グッドウィルドーム」)
西武球場の完全ドーム化は1999年。名称は第1期工事(スタンドに屋根を架設する工事)が完成した1998年に西武ドームに変更されている。
なお、西武ドーム以外にも2000年から長野オリンピックスタジアムで、2008年からは埼玉県営大宮公園野球場でも主催試合を行っている。
ライオンズの本拠地は現在埼玉県所沢市であり、都道府県庁所在地(埼玉県の県庁所在地はさいたま市)でも政令指定都市でもない市におかれている。これはパ・リーグ6球団の中でライオンズだけであり、セ・リーグでも東京都の都心23特別区に本拠地を置く巨人(文京区)と東京ヤクルト(新宿区、ただし同区は東京都庁所在区)を除くと阪神(兵庫県西宮市)だけである。
2005年の東北楽天ゴールデンイーグルスのパ・リーグ加盟により、同年および2006年のパ・リーグ東西対抗では関東の球団ながら西軍とされた。これは、同じ関東の球団の千葉ロッテマリーンズの本拠地である千葉県千葉市よりも西に位置しているためである。
また、西武ドームの敷地内には二軍の本拠地である西武第二球場、屋内練習場、合宿所「若獅子寮」などの球団施設がまとまって立地している他、球団事務所もドームに隣接して設けられている。このため一・二軍間の選手入れ替えが行いやすく、また合宿所住まいの選手は試合終了後すぐ練習に取り掛かれるなど利便性が高い。本拠地球場の敷地内に球団施設がまとまって立地しているケースは他球団では例がなく、当然ながら一軍とファームの本拠地間の距離は12球団の中で最も短い。
歴代監督
- 宮崎要(1950年)
- 三原脩(1951年~1959年)
- 川崎徳次(1960年~1961年)
- 中西太(1962年~1969年)
- 稲尾和久(1970年~1974年)
- 江藤愼一(1975年)
- レオ・ドローチャー(1976年) ※1
- 鬼頭政一(1976年~1977年)
- 根本陸夫(1978年~1981年)
- 広岡達朗(1982年~1985年)
- 森祇晶(1986年~1994年)
- 東尾修(1995年~2001年)
- 伊原春樹(2002年~2003年)
- 伊東勤(2004年~2007年)
- 渡辺久信(2008年~)
※1 病気のため指揮をとることなく退団
歴代の球団歌
- 現在の球団歌は「地平を駈ける獅子を見た」(作詞:阿久悠・作曲:小林亜星)であり、松崎しげるが歌っている。他に応援歌として「若き獅子たち」(歌:ライオンズ応援合唱団・1986年発表)、「吠えろライオンズ」(歌:成田洋明、ライオンズ応援合唱団・1996年発表)がある。
- 福岡時代の主な球団歌
主なキャンプ地
- 宮崎県南那珂郡南郷町中央公園(春季、秋季)
- 西武第二球場
- 高知県立春野総合運動公園
キーワード
オリオンズとの遺恨
詳細はライオンズとオリオンズの遺恨を参照
埼玉西武ライオンズと千葉ロッテマリーンズとは、前身の西鉄・毎日時代から1952年の平和台事件を発端に何かと遺恨を残している。 現在でも、特にマリーンズファンのライオンズに対するライバル意識は強く、「西武には負けられない」で始まる、ライオンズ戦でしか歌われない応援歌も存在する。
戦後初の外地遠征
1961年5月21日、東映フライヤーズとの試合は戦後初の海外遠征試合としてアメリカの占領下の沖縄(1972年に日本本土復帰)で初めて開かれた。
14.5ゲーム差を大逆転
1963年の西鉄は前半戦、南海ホークスに14.5ゲームの大差を付けられ3位に甘んじていたが、このシーズンのペナントレースは150試合という大リーグ並みの試合日程で行われたため、逆転の可能性が充分にあった。
後半戦に入って、西鉄の猛追がスタート。一旦4位に転落するもゲーム差はみるみるうちに縮まって10月8日の時点で80勝57敗3分け(勝率.584)で首位に並んだ。その後も2チームのデッドヒートが続き、南海は10月17日、85勝61敗4分け(勝率.582)で全スケジュールを消化。後は西鉄の残り4試合に優勝が委ねられることと成った。
西鉄の残り4試合は全てホーム・平和台での近鉄戦。10月19日と20日にそれぞれダブルヘッダーによる4連戦をこなさなければいけない。しかも逆転優勝をするには4連勝以外になく、3勝1敗なら南海との同点決勝3試合に持ち越し、2勝以下だと南海の優勝となる。
西鉄はこの4連戦、地元で何としてでも優勝するという意識を持って戦い、19日の第1戦を17-5で大勝。続く第2戦も接戦の末3-2で制し、優勝まであと2勝と迫った。あくる勝負の20日の第1戦、負けるとレギュラーシーズンでの優勝が消滅する重要な試合も一進一退の好ゲームが展開され、5x-4のサヨナラゲームで辛うじてものにした。西鉄3連勝をしたことで南海のレギュラーステージでの優勝が消滅。後は西鉄の逆転優勝か、それとも同点決勝かの2つに絞られた。そして決戦の大一番となった第2戦。西鉄は若生忠男、安部和春の両投手の完封リレーで2-0の勝利。ついに西鉄はプロ野球史上に残る奇跡の大逆転で1958年以来5年ぶり5回目のリーグ戦優勝を決めた。これが福岡時代のライオンズとしての最後の優勝だった。この14.5ゲーム差の逆転は2008年現在日本プロ野球史上最大の逆転劇である(これに次ぐのが読売ジャイアンツのメークドラマ)。
変則ダブルヘッダー
1973年10月13日に開催された日拓ホームフライヤーズ対太平洋クラブライオンズ戦(後楽園球場)でのダブルヘッダー試合は、日程の関係で第1試合が本来の日拓主催、第2試合は太平洋主催で行われた。対戦チームは同じで主催のみが入れ替わるという珍しいダブルヘッダーだった。
胸番号だけのユニフォーム
西鉄時代の1966年にパ・リーグの球団としては初めて、背番号の上にローマ字・アルファベットのネームを書き込んだユニフォームを採用した。その後、1968年にやめているが、1973年から復活。ただし1975年までは「FUKUOKA」「TAIHEIYO CLUB」の2種類だった。
それが太平洋時代には奇抜なユニフォームを採用していた。1973年~1975年は英語表記にすると「TAIHEIYO CLUB LIONS」となるため、ビジターの試合で使用したユニフォームの前面部では「TAIHEIYO」を大きく目立つようにして「CLUB」は少し小さめに書かれていた。またホーム用は白色だが、ビジター用は赤(メイン)、青(サブ)の2色が使用されていた。
傑物は1976年のユニフォーム。これではチーム名が長くなるので見辛いという事由から、ホームが史上初となるパンツが白でない(ピンク色)ユニフォームで、ビジター(上着もピンク色ベース)との共通では史上唯一となる前面部の企業ロゴを一切なくし、背番号だけを大きく出した「胸番号」のみの、いわゆるアメフトスタイルのユニフォームだった。ただしこのユニフォームで臨んだこの年の前期は最下位に沈み、しかもファンからは「企業名をなくしたのは身売りへの布石ではないか」と勘繰られたため、後期は同じデザインで胸のロゴが「Lions」(ホーム)「TAIHEIYO CLUB」(ビジター)のユニフォームに変更された(この時にもファンからは「企業名を復活させたのは太平洋クラブに対する引き止め工作ではないか」と勘繰られている)。実際、身売りではないが1977年に球団の冠スポンサーが太平洋クラブからクラウンガスライターに変更された。
1986年の日本シリーズ
1986年の日本シリーズでは、第4戦終了時点では0勝1分3敗であったが、第5戦から4連勝して日本一に輝いた。「第4戦まで4戦勝ちなし→日本一」というパターンはこの年のライオンズのみである。
札幌ドーム
札幌ドームの建設に当時の西武ライオンズ球団の親会社であるコクドが携わっていたことから、西武は2003年から札幌ドームを準本拠地として使用し、年間20試合程度開催することを企画していたが、2002年のシーズン開幕前に、当時東京ドームを本拠地にしていた日本ハムファイターズが2004年から札幌ドームを本拠地として使用する計画が明らかになった。一旦は日本ハムと西武で対立ムードが高まっていたが、2002年6月に他チームの公式戦も開催できることを条件に日本ハムの札幌ドーム本拠地化が認められた。しかし、2004年以降、西武を含めて、日本ハム以外のパ・リーグ各球団が主催の札幌ドームでの試合は行われていない。
一時は日本ハムの札幌ドームの本拠地に対立していた西武が一転してこれを認めたのは、上記の他チームの公式戦の開催の条件を認めた事、及び準本拠地で20試合程度行う事により、本拠地の試合数が減少する事を懸念した埼玉の西武ファンの不満を解消させるという事であるが、これは表向きの理由であり、実際の理由はその2年後に起きたプロ野球再編問題が影響しているという説が有力とされている。
当時西武球団は、パリーグの経営難から1リーグ構想推進派の立場を取っていた。また、当時日本ハムと同じ東京ドームを本拠地に持つ巨人球団は、西武と同様に1リーグ構想推進派であった。巨人は日本ハムの移転計画の知らせを聞き、「1リーグ化を推進させる為には、まず関東、関西地方の球団を減らす事」と西武に提言した事で、1リーグ制を目論む巨人、西武にとっては、むしろ東京にあった日本ハムの北海道の移転は、1リーグ制を実現させる上で好都合と判断した事により、本拠地移転を認めたとされている。
日本ハムは札幌移転後も年間数試合を東京ドームで開催しているが、西武との対戦に限っては西武側が拒否しているため2003年9月28日を最後に行われていない。日本ハム以外の球団とは、2005年より開始された交流戦での巨人戦、さらに2007年5月19日・20日にオリックス・バファローズ対西武戦が東京ドームで開催された。このオリックス戦で西武は東京ドームでパ・リーグの球団と4年振りに対戦した。
お台場ドーム構想
当時屋外だったライオンズ球場は雨天中止が多く、後半の試合日程が厳しくなる事も多かった。そのため、ドーム球場を建設することになり、本拠地を所沢から都心である東京の台場に移転してドーム球場を建設しようという案が浮上した。しかし、移転に対する地元住民の猛反発や、多額の建設費用の捻出、更にグループ企業の西武鉄道内からも「電車の利用客が減るのは困る」との意見が出たため困難となり、西武ドームが誕生した。
球団名変更への動き
2005年12月19日、地元・所沢市議会で球団名および球場名に「所沢」の地域名を冠するよう求める請願が全会一致で採択され、2006年1月20日に所沢市長が球団に要望書を提出した。これについて球団側は「球団名については地元密着、沿線密着の観点から今後、多方面に検討していきたい」とコメントしている。球場に訪れるファンは、所沢市を含む埼玉県に限らず、西武山口線や多摩都市モノレール線からの東京都多摩地域にも多く、実際に西東京応援団もいるため、変更の判断を慎重にならざるを得なかった。
2007年1月17日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が埼玉県庁を訪問し、埼玉県知事に2008年より球団名に地域名を入れる方針であることが報告された。この段階では「埼玉ライオンズ」もしくは「所沢ライオンズ」が最有力候補だが、"武蔵国の西部"として地域名を表現する球団会社名の「西武ライオンズ」も候補になっていた。また、2008年以降、さいたま市の埼玉県営大宮公園野球場で一軍の公式戦やクライマックスシリーズを開催する方針であることも伝えられた。
同年11月6日、2008年より「埼玉西武ライオンズ」と球団名を変更することをプロ野球実行委員会に申請し、2007年11月14日のプロ野球オーナー会議で承認され、球団名が正式に変更された。これにより、埼玉県(保護地域)と武蔵国の西部の球団であることをより明確にし、地域密着を図るという。
スカウトによる不正
2007年3月9日、太田秀和球団社長兼オーナー代行(当時)が会見を行ない、倫理行動宣言で行わないことを決めていたアマチュア2選手(社会人選手1人と大学生1人)に対するスカウト行動で、現金1300万円近くを2人に対して渡していたことがわかった。2004年春ごろから2005年秋ごろにかけて、スカウトが2人の選手に対し一定額の現金を提供していたことがわかった。社内調査委員会によるその後の調査で、別の5人のアマチュア選手に“契約金の前渡し”名目で計6000万円余り(つまり裏金を受け取っていたのは全部で7人)、更にはアマチュアチーム(高校・大学・社会人)の監督延べ170人にも選手入団の謝礼として現金が渡されていた事、しかも現金供与はオーナー企業が西武グループとなった1978年から既に行なわれていた事が判明した。
この裏金行為は太田社長が2006年8月に前社長から伝え聞いたものの、内部調査を経たため正式発表は2007年3月となった。
2007年3月24日、チームのシーズン開幕戦(楽天戦)に当たり、太田社長は試合前のセレモニーに先だって謝罪し、「ファンに親しまれるチーム作りを目指します」とコメントした。
日本プロ野球組織は5月29日、球団に対し制裁金3000万円または同額分の用品を機構の指定する育成団体に寄付させる事、及び秋の高校生ドラフトでの指名は3巡目からとする事を処分として決定した。また事件発覚当時に楽天でスカウト部長を務めていた事件当時のスカウト部長が、楽天から減給、解任・編成部付となる処分を受けた。
3試合連続延長引き分け
2008年8月29日〜8月31日の対福岡ソフトバンクホークス3連戦は同一カード3試合連続引き分けとなった。同一カード3試合連続引き分けは日本プロ野球では1976年5月28日〜5月30日の川崎球場でのロッテオリオンズ対日本ハムファイターズ3連戦以来2回目で、3試合すべてが延長引き分けとなったのは史上初の出来事であった。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西武 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 |
| ソフトバンク | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 |
- 8月30日(福岡Yahoo!Japanドーム)
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西武 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
| ソフトバンク | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
- 8月31日(福岡Yahoo!Japanドーム)
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 西武 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| ソフトバンク | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
新人競輪トレーニング
他球団では珍しいトレーニング方法で、2002年から西武園競輪場シーズンオフ中の自主トレに行われている。新人選手は全員参加のほか、新人選手以外の選手も自己志願すれば参加可能。
放送
ライオンズのラジオによる実況中継放送は、関東広域圏・埼玉県を放送対象地域としている、文化放送・NACK5の2局を合計して、9月までのほぼ全試合が放送されている。
- 2008年現在、放送している番組
- 文化放送ライオンズナイター(文化放送)- 平日(シーズンオフ含む)のラジオ放送
- NACK5 SATURDAY&SUNDAY LIONS(NACK5)- 土曜日・日曜日のラジオ放送 FMで唯一の試合中継
- TVSライオンズアワー(テレビ埼玉)- 地上波テレビ放送
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS)- CSテレビ放送。西武ドームなどのホームゲームに関しては、J sports Plus(旧J sports3)で放送されることが多い
- かつて放送されていた番組
- プロ野球熱闘ライオンズ(BS朝日)- BSテレビ放送
- レッツゴー!ライオンズ(TBSテレビ)
- はつらつライオンズ(テレビ埼玉)
脚注
- ^ 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号22-23ページ 復刻ユニフォーム物語」
関連項目
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 埼玉西武ライオンズ主催試合の地方球場一覧
- BLUE WINDS
- L・ism(ホームゲームで発行されるマッチデープログラム。連戦毎に発行されるためMATCH CARD PROGRAMと表記される。)
- グッドウィル (プロ野球球団)(2007年の命名権による二軍名称)
- レオ(球団マスコット)
外部リンク
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