松井稼頭央
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| ヒューストン・アストロズ #3 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府東大阪市 |
| 生年月日 | 1975年10月23日(33歳) |
| 身長 体重 |
5' 10" =約177.8cm 185 lb =約83.9kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投両打 |
| 守備位置 | 二塁手、遊撃手 |
| プロ入り | 1993年 ドラフト3位 |
| 初出場 | NPB / 1995年4月5日 MLB / 2004年4月6日 |
| 年俸 | 500万ドル(2008年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫(読み同じ)、1975年10月23日 - )は、メジャーリーグ・ヒューストン・アストロズに所属するプロ野球選手(内野手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 日本時代
PL学園高等学校時代は投手として活躍、選抜高等学校野球大会にも出場した。しかしその陰では腕の疲労骨折など故障にたびたび悩まされ、エースナンバーを一時返上するなどの苦節も味わっている。一方で試合で見せる抜群の身体能力と野球センスの高さは、プロのスカウトから高い評価を受けた。
1994年、ドラフト3位で西武ライオンズに入団。入団時の背番号は32。入団後、持ち前の強肩と俊足を評価され内野手に転向した。なおスイッチヒッターに転向したのもこの時期である。
3年目の1996年に遊撃手のレギュラーをつかみ、リーグ2位の50盗塁を記録。この年のオフ、欠番となっていた石毛宏典の背番号7を継承する。
翌1997年には初めて打率を3割に乗せ、62盗塁で盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献する。 同年のオールスターゲームでは1試合4盗塁の新記録を樹立(その全てを古田敦也から奪いファンの度肝を抜いた)し、MVPを獲得。この年から3年連続でパ・リーグ盗塁王を獲得(1998年には千葉ロッテマリーンズの小坂誠との盗塁王争いに関連して、故意のボーク疑惑が発生した)し、また1998年にはシーズンMVPを受賞するなど一躍日本を代表する遊撃手となった。
守備範囲の広さ、肩の強さなど高い身体能力を活かした守備に定評がある。特に肩の強さは日本人選手ではトップクラスと言われており、通常は二塁手が中継に入るライトからの返球を、西武に限っては松井が代わって行っていたこと(これは当時の二塁手でもあった辻発彦の肩の衰えもあった)や、三遊間の深いゴロを一塁にノーステップで送球してアウトにする華やかなプレーも多い。ゴールデングラブ賞を通算4度受賞しているが、プロ野球ニュースで当時評論家であった大石大二郎ら一部野球解説者や野球ファンのなかには、同じリーグで同じポジションの小坂誠と比較すると失策が多いため、堅実で守備範囲が広い小坂こそが受賞すべきだという意見もあった。また松井はほぼ全試合に出場しているのに対し、小坂が受賞できなかった年の多くは出場試合数が松井より少なかったことも一因として挙げられる。
1996年から2003年の退団・渡米まで8年間、通算1143試合連続出場。また1997年から2003年の退団まで打率3割、170安打以上を7年連続で記録、2001年に通算1000本安打を歴代4位のスピードで達成すれば、2002年には史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを成し遂げ、20世紀センチュリーベストナインにも選出される活躍など、俊足、巧打、長打、強肩、守備を持つ、いわゆる5ツールプレイヤーとして評価されている。
松井は日本でリーグ優勝を4度(1994年、1997年、1998年、2002年)経験してはいるが、西武はいずれの日本シリーズも敗れており、日本一経験は一度もない。
[編集] メジャーリーグ時代
[編集] メッツ時代
2004年、アメリカメジャーリーグ・ニューヨーク・メッツにFA移籍。背番号は7を希望するが、当時期待株であったホセ・レイエスが付けていたため断念。球団から空いていた5(昨年度、新庄剛志が付けていた)か25を提示され、「足して7になる」という理由で25番を選択する。同じメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜と区別するため、日本のマスコミでの表記は「松井稼」となっているが、リトル松井(あるときでは、リトルゴジラ)と呼ばれることもある。メジャー移籍直後のメッツ時代には、テレビ中継でKaz Matsuiと表記されたことがあり、また米国製のスポーツカードには、Cazzo Matsuiと表記されるものもある。
2004年4月6日(現地時間)の対アトランタ・ブレーブスの開幕戦でこそ、前年度に21勝を挙げたラス・オルティス投手から開幕戦・新人・初打席・初球ホームラン(メジャー初)を記録したものの(メッツのアート・ハウ監督(当時)は「おとぎ話のようだ」とコメント)、その後は多くの怪我とともに打撃・守備ともに日本プロ野球時代からは考えられないくらいの大不振に陥った。そのため2004年シーズン開幕時のポジションは遊撃手であったが、シーズン途中に松井移籍前まで正遊撃手で二塁にコンバートされていたホゼ・レイエスが本来の位置に戻され、代わりとして二塁手にコンバートされている。しかし成績の低迷はその後も続き、結局その二塁の座も守りきれず、シーズン終盤は控えに甘んじた。
しかしながら2005年の開幕戦(対シンシナティ・レッズ)でも初打席でソロホームランを打ち、2年連続開幕戦初打席初本塁打を記録。2006年のメジャー昇格初戦(対サンディエゴ・パドレス)の初打席で日本人初のランニングホームランを打ち、3年連続シーズン初打席初本塁打という記録(メジャー4人目)を達成している。
2005年冬に西武の同僚だった熊澤とおると個人トレーナー契約を結び、打撃、守備等、野球のすべての基本動作を確認する練習を行った。これが後のロッキーズでの復活につながった。
[編集] ロッキーズ時代
結局メッツでは成功できず、2006年6月9日にコロラド・ロッキーズへトレード移籍。移籍先のロッキーズの看板選手、トッド・ヘルトンとは1995年のシーズンオフに開かれたハワイ・ウィンタートレーニングのマウイ・スティングレイズで共にプレーしたチームメート。ヘルトンは、会話こそしなかったが松井の守備(ピッチングも含める)に強い印象を受けたと語っている。なお、ヘルトン自身は前記の通り、会話はなかったと言っており既に忘れている事のようだが、松井本人はアクシデントで急遽マウンドに上がり相手チームから三者三振を奪い、興奮して挑発的な仕草をした直後にヘルトンから「デッドボールの報復があるから、やめておけ」とたしなめられた事を覚えていた[1]。またロッキーズのヘッド・トレーナー、キース・ダガーも同チームには帯同していたため、全くなじみのないチームではない。
新天地ロッキーズではシーズン終盤から二塁手として先発出場。32試合の出場ながら、打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁と好調を維持した。FAとなったがチームと単年契約を締結して残留、150万ドル(約1億8000万円)で打席数に応じて最高100万ドル(約1億1800万円)の出来高がつくという(数字は地元紙推定)。
2007年も度々故障に苦しみ、また、ジェイミー・キャロルとの併用もあって規定打席には到達できなかったものの、チャンスに強い打撃やスキの無い走塁を見せ、中盤以降は二塁の定位置をほぼ手中にした。特に、メッツ時代に非難の的となった守備面が大きく改善され(シーズン4失策、守備率.992は二塁手リーグトップ)、盗塁数もメジャーでは自己最多となる32を記録(盗塁死は4、成功率は.889)するなど、持ち味である積極性が大いに発揮されたシーズンとなった。
また、不動の1番打者であったウィリー・タベラスが怪我で離脱すると、終盤には「1番・二塁」に定着、チームの終盤14勝1敗という驚異的な快進撃にトップバッターとして貢献。チームはワイルドカードによるプレーオフ進出を果たし、リーグVも達成した。10月4日には逆転満塁本塁打も放った。この日の開催地はフィラデルフィアでニューヨークの(メッツ時代の松井を知っていた)記者もいたのだが、松井自身は「今はコロラドにいるので、ニューヨークのことは話す必要がない」と試合後コメントした。
ワールドシリーズでは、岡島秀樹や元チームメートの松坂大輔が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、岡島登板時に打席が回ったため日本人同士の直接対決が初めて実現した(結果は空振り三振)。
[編集] アストロズ時代
2007年12月2日、ヒューストン・アストロズと3年1,650万ドル(契約金150万ドル含む。年俸は2010年まで毎年500万ドル)の契約が成立した。 同年3000本安打を達成し引退した名二塁手クレイグ・ビジオの後釜として期待されたが、2008年シーズンは開幕前にDL入りしたのを始め、三度の戦線離脱をし、出場試合数は96試合に留まった。 盗塁数は前年の32から20と大きく減ったのに対し、打率、出塁率は上昇しており、評価の分かれるシーズンとなった。
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | 所属チーム | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 四死球 | 三振 | 打率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994年 | 西武 | 一軍試合出場なし | |||||||||||||
| 1995年 | 69 | 204 | 25 | 45 | 9 | 1 | 2 | 62 | 15 | 21 | 1 | 7 | 26 | .221 | |
| 1996年 | 130 | 473 | 51 | 134 | 22 | 5 | 1 | 169 | 29 | 50 | 9 | 17 | 93 | .283 | |
| 1997年 | 135 | 576 | 91 | 178 | 23 | 13 | 7 | 248 | 63 | 62 | 15 | 49 | 89 | .309 | |
| 1998年 | 135 | 575 | 92 | 179 | 38 | 5 | 9 | 254 | 58 | 43 | 14 | 56 | 89 | .311 | |
| 1999年 | 135 | 539 | 87 | 178 | 29 | 4 | 15 | 260 | 67 | 32 | 7 | 56 | 75 | .330 | |
| 2000年 | 135 | 550 | 99 | 177 | 40 | 11 | 23 | 308 | 90 | 26 | 3 | 48 | 60 | .322 | |
| 2001年 | 140 | 552 | 94 | 170 | 28 | 2 | 24 | 274 | 76 | 26 | 0 | 52 | 83 | .308 | |
| 2002年 | 140 | 582 | 119 | 193 | 46 | 6 | 36 | 359 | 87 | 33 | 11 | 57 | 112 | .332 | |
| 2003年 | 140 | 587 | 101 | 179 | 36 | 4 | 33 | 322 | 84 | 13 | 0 | 59 | 124 | .305 | |
| NPB通算 (10年) | 1,159 | 4,638 | 759 | 1,433 | 271 | 51 | 150 | 2,256 | 569 | 306 | 60 | 401 | 751 | .309 | |
| 2004年 | NYM | 114 | 460 | 65 | 125 | 32 | 2 | 7 | 182 | 44 | 14 | 3 | 42 | 97 | .272 |
| 2005年 | 87 | 267 | 31 | 68 | 9 | 4 | 3 | 94 | 24 | 6 | 1 | 19 | 43 | .255 | |
| 2006年 | NYM→COL | 70 | 243 | 32 | 65 | 12 | 3 | 3 | 92 | 26 | 10 | 1 | 16 | 46 | .267 |
| 2007年 | COL | 104 | 410 | 84 | 118 | 24 | 6 | 4 | 166 | 37 | 32 | 4 | 34 | 69 | .288 |
| 2008年 | HOU | 96 | 375 | 58 | 110 | 26 | 3 | 6 | 160 | 33 | 20 | 5 | 37 | 53 | .293 |
| MLB通算 (5年) | 471 | 1,755 | 270 | 486 | 103 | 18 | 23 | 694 | 164 | 82 | 14 | 141 | 308 | .277 | |
| 日米通算 (15年) | 1,630 | 6,393 | 1029 | 1,919 | 374 | 69 | 173 | 2,950 | 733 | 388 | 74 | 549 | 1,059 | .300 | |
- 太字はリーグトップ。
[編集] タイトル(NPB)
- パ・リーグMVP:1回(1998年)
- 盗塁王:3回(1997年 - 1999年)
- 最多安打:2回(1999年、2002年)
- ベストナイン:7回(1997年 - 2003年)
- ゴールデングラブ賞:4回(1997年、1998年、2002年、2003年)
- オールスター出場:7回(1997年 - 2003年)
- オールスターMVP:2回(1997年第1戦、2001年第1戦)
[編集] 記録
- トリプルスリー:1回(2002年)※史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初。
- サイクルヒット:1回(2000年6月7日)
- 7年連続シーズン150安打以上(1997年 - 2003年)※歴代1位。
- シーズン170安打以上:7回(1997年 - 2003年)※歴代1位。
- シーズン初回先頭打者本塁打:7本(2002年、2003年)※歴代7位タイ。
- シーズンサヨナラ本塁打:3本(2002年)※パ・リーグタイ記録。
- 2試合連続サヨナラ本塁打(2002年5月10日 - 5月11日)※史上7人目。
- 左右両打席本塁打:3回(2000年9月12日、2001年8月20日、2003年8月1日)
- シーズン三塁打:13(1997年)※歴代5位タイ。
- シーズン長打:88(2002年)※日本記録。
- シーズン安打:193(2002年)※歴代5位タイ。
- シーズン得点:119(2002年)※歴代9位タイ。
- シーズン塁打:349(2002年)※歴代4位。
- シーズン盗塁成功率100%(2001年)
- シーズン全試合出場:8回(1996年 - 2003年)※パ・リーグタイ記録、8年連続全試合出場はパ・リーグ記録。
- 日本通算1143試合連続出場(1995年7月22日 - 2003年10月5日)※パ・リーグ記録。
[編集] 表彰
- 日本シリーズ敢闘賞:1回(1997年)
- 月間MVP:4回(1996年9月、1999年9月、2002年6月・9月)
[編集] 国際大会出場歴
- 2004年のアジア予選日本代表
[編集] 背番号
- ロッキーズ時代
-
- 16(2006年)
- 7(2007年)
- アストロズ時代
-
- 3(2008年 - )
[編集] 特筆
- 盗塁成功率が極めて高く、NPB通算83.6%は通算200盗塁以上の選手では歴代最高である。また、シーズン盗塁成功率100%記録(26個)を保持。MLBにおいても、2009年度開幕時点で通算85.4%と高い数値を誇る。ただし、NPB晩年からMLB時代にかけては、打撃の向上や足腰への負担などもあり、盗塁試行数自体が控えめである。
- 打順は長らく1番を任されることが多かったが、最高出塁率は.389であり、意外にも.400に到達したことがない。
- 登録名の「稼頭央」には、父親の「稼ぎ頭になってほしい」という思いが込められている(「グラウンドの中央に稼ぎ頭がいる」の説も)。しかし不振時にアメリカのマスコミから「頭の中(中央)はお金を稼ぐことだけなのか?」と罵られてしまうことがあった。
- 1997年、第3回プロスポーツマンNo.1決定戦の総合No.1。自慢の走力を活かし50mDASH、ショットガンタッチといったスピード系の種目でNo.1を獲得。特にショットガンタッチでは、当時の世界記録であった12m70cmを成功させ、その後12m80cm、12m90cm、13m00cmも成功させた。ちなみにその大会の総合2位は秋山幸二。
- 1998年にも出場。再び50mDASHでNo.1となるが、惜しくも総合3位に終わる。2000年にも出場し、今度はパワー系のTHE GALLON THROWで6m00cmを見事成功させ、この種目のNo.1に輝いた。
- 夫人は元タレントの菊池美緒(UCC上島珈琲『すらっと茶』のCMで中村玉緒と共演していた人物)で、2000年1月12日に結婚(両者のキューピッド役は松崎しげる)。夫人は俳優の五十嵐隼士のはとこに当たる。
- メジャー1年目の2004年に故障療養のため家族とともにフロリダに滞在中、ハリケーン・アイバンが直撃。球場にて避難生活を送った。
- 2009年5月20日・対ブリュワーズ戦において、クーパー監督は氏を2番バッターに据えたはずだったが、実際に登録されたスタメンでは1番に据えたままの状態となり、登録スタメン2番打者のボーンが氏が出るはずの1番バッターの打席に立ってしまい、氏は打席に立つ前にアウトになる珍事があった。
[編集] テレビCM等
- 大塚製薬 アミノバリュー (共演:仲間由紀恵)
- サントリー デカビタC (共演:深田恭子)
- マスターカード 公式スポークスパーソン
- マスミューチュアル生命 (都営バスのラッピングバスにも登場した)
- 文化放送ライオンズナイター (共演:松坂大輔、西武バスのラッピングバスにも登場した)
[編集] 関連項目
- 大阪府出身の人物一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 日本人メジャーリーグ選手一覧
- スポーツマンNo.1決定戦
- メジャーリーグベースボール 2K7
- ルイス・ゴンザレス - 松井の前のロッキーズ正二塁手で、松井の入団後読売ジャイアンツに移籍。
[編集] 脚注
- ^ 『サンケイスポーツ』紙2007年10月17日付。
[編集] 外部リンク
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