松井稼頭央
| 東北楽天ゴールデンイーグルス #7 | |
|---|---|
2011年8月30日、こまちスタジアムにて
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府東大阪市 |
| 生年月日 | 1975年10月23日(36歳) |
| 身長 体重 |
178cm 84kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投両打 |
| ポジション | 二塁手、遊撃手 |
| プロ入り | 1993年 ドラフト3位 |
| 初出場 | NPB / 1995年4月5日 MLB / 2004年4月6日 |
| 年俸 | 1億5,000万円(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫(読み同じ)、1975年10月23日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属するプロ野球選手(内野手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
大阪府東大阪市出身。PL学園時代は投手として活躍し、1992年には第64回選抜高等学校野球大会にも出場した。しかしその陰では腕の疲労骨折など故障に悩まされ、エースナンバーを返上するなどの苦節も味わっている。一方で試合で見せる抜群の身体能力と野球センスの高さは、プロのスカウトから高い評価を受けた。
1993年のドラフト会議で西武ライオンズから3位指名を受け、入団。背番号は32。入団後には持ち前の強肩と俊足を評価され内野手に転向。なお、スイッチヒッターに転向したのもこの時期である。
[編集] 西武時代
3年目の1996年に遊撃手のレギュラーをつかみ、リーグ2位の50盗塁を記録。この年のオフ、欠番となっていた石毛宏典の背番号7を継承する。
1997年、初めて打率を3割に乗せ、62盗塁で盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献。同年のオールスターゲームでは1試合4盗塁の新記録を樹立(その全てを古田敦也から奪ってファンの度肝を抜いた)し、MVPを獲得。この年から3年連続でパ・リーグ盗塁王を獲得(1998年には小坂誠との盗塁王争いに関連して、故意のボーク疑惑が発生した)し、また1998年にはシーズンMVPを受賞するなど一躍日本を代表する遊撃手となった。
1996年から2003年の西武退団・渡米までの8年間で通算1143試合連続出場。また1997年から2003年の退団まで打率3割、170安打以上を7年連続で記録。2001年に通算1000本安打を歴代4位のスピードで達成すると、2002年には史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを成し遂げ、20世紀センチュリーベストナインにも選出される活躍を見せる。
リーグ優勝を4度(1994年、1997年、1998年、2002年)経験したが、西武はいずれの日本シリーズも敗れており、日本一経験は一度もない。
2003年オフにはFA権を行使し、11月17日にメジャー挑戦を表明。アーン・テレムを代理人とし、12月8日にニューヨーク・メッツとの契約合意を発表。10日に3年2010万ドル+出来高で正式契約した。背番号は7を希望するがホセ・レイエスが着けていたため断念。球団からは5番と、前年に新庄剛志が付けていた25番を提示され、「足して7になる」という理由で25を選択。契約には松井のトレード拒否権が盛り込まれていた[注釈 1]。
[編集] メジャーリーグ時代
[編集] ニューヨーク・メッツ
2004年4月6日のアトランタ・ブレーブス戦(開幕戦)で、シーズン開始時には「大事な試合の初球は打たない」という不文律を知らずに、前年度に21勝を挙げたラス・オルティスからメジャー史上初となる開幕戦新人の初打席初球本塁打を記録した。監督のアート・ハウは「御伽話のようだ」とコメントしたほか、アトランタのトップ紙「ジャーナル・コンスティチューション」では「ブレーブスのために、日本でカズオ(松井稼頭央)をスカウティングしていたヤツはどこのどいつだ。裁判にかけてやりたい」と書かれた[1]。しかしその後は多くの怪我とともに打撃・守備ともに日本プロ野球時代からは信じられない程の大不振に陥った。そのため、2004年シーズンの途中に二塁手へコンバートされ、二塁を守っていたレイエスが本来の守備位置であった遊撃に戻される。成績の低迷はその後も続き、結局その二塁の座も守りきれず、シーズン終盤は控えに甘んじた。遊撃守備については失策数の多さが目立った。しかし、松井のRFは高い数値を残していたことから、松井の守備が「大リーグ失格」と腐されるというのは不公平という意見も当時はあった[2](もっとも現在、RFはその欠陥ゆえにほとんど参考にされておらず、松井を擁護する意見を述べたコラムニストも現在ではプラスマイナスシステムやUZRを重視している[注釈 2])。故障療養のため家族とともにフロリダに滞在中にはハリケーン・アイバンが直撃。球場にて避難生活を送った。
2005年は開幕戦のシンシナティ・レッズ戦で、前年に続き初打席で本塁打を放ち、2年連続開幕戦初打席初本塁打を記録。しかし5月と6月は打率.191と絶不調に陥り、6月16日のオークランド・アスレチックス戦では二塁上でジェイソン・ケンドールと交錯して故障者リスト入り。8月に復帰後はスタメンを外れるようになったが、打率.301、OPS.759と好調を続けた。オフには西武の同僚だった熊澤とおると個人トレーナー契約を結び、打撃・守備などといった野球の全ての基本動作を確認する練習を行った。
2006年はスプリングトレーニングで右ひざを痛め、マイナーで開幕を迎える。メジャー昇格初戦となったサンディエゴ・パドレス戦の初打席では日本人初のランニングホームランを打ち、メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席初本塁打を達成。しかしその後は打率.200と低迷し、6月9日にイライ・マレーロとの交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した。
[編集] コロラド・ロッキーズ
シーズン終盤から二塁手として先発出場し、32試合の出場ながら打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁と好調を維持した。オフにはFAとなったが、150万ドルの単年契約を結び残留。
2007年も故障に悩まされ、ジェイミー・キャロルとの併用もあって規定打席には到達できなかったものの、中盤以降は二塁の定位置をほぼ手中にし、チャンスに強い打撃やスキの無い走塁を見せ、盗塁数もメジャーでは自己最多となる32を記録(盗塁死4で成功率.889)するなど、持ち味である積極性が大いに発揮されたシーズンとなった。また、不動の1番打者であったウィリー・タベラスが怪我で離脱すると、終盤には「1番・二塁」に定着。チームの終盤14勝1敗という驚異的な快進撃にトップバッターとして貢献。チームはワイルドカードによるプレーオフ進出を果たし、リーグ優勝も達成した。10月4日には逆転満塁本塁打も放った。この日の開催地はフィラデルフィアでメッツ時代の松井を知っていたニューヨークの記者もいたのだが、松井自身は「今はコロラドにいるので、ニューヨークのことは話す必要がない」と試合後コメントした。
ポストシーズンでは打率.304、OPS.847の好成績を残し、ワールドシリーズでは元チームメートの松坂大輔や岡島秀樹が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、岡島登板時に打席が回り、日本人同士の直接対決が初めて実現した(結果は空振り三振)。オフにはFAとなり、12月2日にヒューストン・アストロズと3年1650万ドル(契約金150万ドル含む。年俸は2010年まで毎年500万ドル)で契約。
[編集] ヒューストン・アストロズ
2008年は開幕前に故障者リスト入りしたのを始め、三度の戦線離脱を経験し、出場試合数は96試合にとどまった。盗塁数は前年の32から20と大きく減ったのに対し、打率、出塁率は上昇しており、評価の分かれるシーズンとなった。
2009年5月20日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で、セシル・クーパーは松井を2番に据えたと思ったが、実際に登録されたスタメンでは松井を1番に据えた。その後、登録上は2番のマイケル・ボーンが1番の打席に立ってしまったため、松井は打席に立つ前にアウトになる珍事があった。8月15日のブルワーズ戦で、日本人野手としてはイチロー・松井秀喜に続き3人目となる日米通算2000本安打(日本1433、米国567)を達成。試合を観戦していた西武時代の監督である東尾修より、日本プロ野球名球会のブレザーを授与された。この年はメジャー移籍後、出場試合数・本塁打・打点で自己ベストをマークしたが、一方で打率.250・出塁率.302はそれぞれリーグワースト5位・4位に終わった。それでも、得点圏打率は.323であり、得点圏OPS.952は日本人最高値(歴代でもシーズン記録としては日本人2位)、特に満塁の場面では8打数5安打10打点であった。
2010年は開幕から不振に陥り、5月になっても打率1割台と低迷し、20日にはアストロズからウェーバー公示された[3]。自由契約となった後の26日にコロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、傘下のAAA級コロラドスプリングスでプレー。メジャー昇格を目指すものの、昇格することなくシーズンを終えてFAとなり、代理人のアーン・テレムとの契約も解除した[4]。
[編集] 楽天時代
11月25日に東北楽天ゴールデンイーグルスと総額3億円の2年契約を結ぶ[5][6]。同29日、仙台市内で入団会見を行った。背番号は「初心に返る」という本人の希望で西武入団時と同じ32。
2011年、7月までは打率.235、4本塁打、OPS.618と不振にあえいでいたが、8月には26試合で打率.333、3本塁打、14打点、OPS.852の活躍で、自身5度目の月間MVPに輝いた。当初はクリーンナップでの起用がよく見られたが、後半からは1番に定着。好不調の波が激しく、打率.260、9本塁打(チーム2位)、48打点(チームトップタイ)、OPS.675(チーム2位)、15盗塁(チーム3位)と往年の力を見せることはできなかった。しかし、二塁打34本はリーグトップ、盗塁も企画数自体は少なかったものの成功率は8割以上を記録した。シーズンオフには退団した山崎武司の後を受けて、背番号が西武、ロッキーズ時代に着けていた7へと変更された[7]。
2012年2月3日、東北楽天ゴールデンイーグルス2代目主将に指名された。
[編集] プレースタイル
西武時代は俊足、巧打、長打、強肩、守備を持つ、いわゆる5ツールプレイヤーとして評価されていた。
打撃では広角に打球を打ち分けることができ、スイングはやや大きいもののバットコントロールが良く、2007年にはバットスピードを向上させたことでコンタクト能力が向上した[8]。
一塁到達まで全盛期で3.73秒[9]、メジャー移籍後も4.0秒を記録する俊足を誇り[8]、盗塁成功率が極めて高く、NPB通算83.6%である。また、シーズン盗塁成功率100%記録(26個)を保持し、メジャー移籍後も2010年まで通算85%と高い数値を誇る。ただし、西武時代晩年からは打撃の向上や足腰への負担などもあり、盗塁試行数自体が控えめとなった。
守備範囲の広さ、肩の強さなど高い身体能力を活かした守備を見せる。通常は二塁手が中継に入るライトからの返球を、西武に限っては松井が代わって行っていたこと(これは当時の二塁手でもあった辻発彦の肩の衰えもあった)や、三遊間の深いゴロを一塁にノーステップで送球してアウトにするプレーも多かった。ゴールデングラブ賞を通算4度受賞しているが、プロ野球ニュースに出演していた大石大二郎ら一部野球解説者などからは、同じリーグで同じポジションの小坂誠と比較すると失策が多いため、堅実で守備範囲が広い小坂こそが受賞すべきだという意見もあった。
しかし、上記のように日本人選手ではトップクラスと言われていた肩の強さがメジャーでは平均以下だったこと(西武時代からメジャーのスカウトより肩の強さはメジャーの遊撃手としては平均的と評されていた[10][11])[8]、加えて人工芝でプレーした時期が長かったためか人工芝特有の「打球を待って捕る癖」などが足かせとなり天然芝での守備に適応できず[8]、メジャー移籍後は二塁手にコンバートされるも、ロッキーズ移籍後の2007年にはゴールドグラブレベルと評価されるまでとなった[12]。特に一二塁間の打球に強く[8]、2007年にはシーズン4失策で守備率.992は二塁手リーグトップ、守備防御点は同3位、UZRは二塁手メジャー2位を記録するなど数々の守備指標でも高い数値を残した。2008年も高い評価をする向きがあったものの[13]、プラス・マイナス・システムでは-8(メジャーワースト5位)、守備防御点では-8(メジャーワースト7位)、UZRでは-4.7(メジャーワースト8位)と悪い数値が残った。2009年には「ファンが選ぶ最優秀守備選手」の候補に名を連ね、ダブルプレー達成数リーグ2位を記録するなど高い評価を得ていたものの[14]、プラス・マイナス・システムでは-4、守備防御点では-5、UZRでは0.1と、数値では平均かそれ以下の数字が残った[15]。メジャー通算では二塁手としてUZR1.8、プラスマイナスシステム-9、守備防御点-3、遊撃手としてUZR-16.3、プラスマイナスシステム-6、守備防御点-6の数値が残っている[15]。
日本球界に復帰した2011年は、遊撃手のリーグ平均RF4.50に対して4.49と可もなく不可もなくという結果を残した[16]。
[編集] 人物・エピソード
- 1995年に本名から変更した登録名の『稼頭央』には「中央で先頭に立ち、活躍する」という意味が込められている[17]。
- 松井秀喜(2011年は松井宏次)と区別するため、日本のマスコミでの表記(2011年は球場のアナウンスも含める)は「松井稼」となっているが、リトル松井(あるときでは、リトルゴジラ)と呼ばれることもある。メッツ時代には、テレビ中継でKaz Matsuiと表記されたことがあり、アメリカ製のスポーツカードにはCazzo Matsuiと表記されるものもある。
- 夫人は元タレントの菊池美緒で、2000年1月12日に結婚。2人の子供をもうけている。夫人は俳優の五十嵐隼士のはとこに当たる。
- 1997年、『第3回プロスポーツマンNo.1決定戦』の総合No.1。自慢の走力を活かし50mDASH、ショットガンタッチといったスピード系の種目でNo.1を獲得。特にショットガンタッチでは、当時の世界記録であった12m70cmを成功させ、その後12m80cm、12m90cm、13m00cmも成功させた。ちなみにその大会の総合2位は秋山幸二。1998年にも出場し、再び50mDASHでNo.1となるが、総合3位に終わる。2000年にも出場し、今度はパワー系のTHE GALLON THROWで6m00cmを見事成功させ、この種目のNo.1に輝いた。
- ロッキーズでチームメイトだったトッド・ヘルトンとは1995年のシーズンオフに開かれたハワイ・ウィンタートレーニングのマウイ・スティングレイズでも共にプレーしたチームメイト。ヘルトンは、会話こそしなかったが松井の守備(ピッチングも含める)に強い印象を受けたと語っている。なお、ヘルトン自身は前記の通り、会話はなかったと言っており既に忘れている事のようだが、松井本人はアクシデントで急遽マウンドに上がり相手チームから三者三振を奪い、興奮して挑発的な仕草をした直後にヘルトンから「デッドボールの報復があるから、やめておけ」とたしなめられた事を覚えていた[18]。またロッキーズのヘッド・トレーナー、キース・ダガーも同チームに帯同していた。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | 西武 | 69 | 219 | 204 | 25 | 45 | 9 | 1 | 2 | 62 | 15 | 21 | 1 | 7 | 1 | 7 | 0 | 0 | 26 | 4 | .221 | .245 | .304 | .549 |
| 1996 | 130 | 518 | 473 | 51 | 134 | 22 | 5 | 1 | 169 | 29 | 50 | 9 | 26 | 2 | 14 | 0 | 3 | 93 | 2 | .283 | .307 | .357 | .664 | |
| 1997 | 135 | 645 | 576 | 91 | 178 | 23 | 13 | 7 | 248 | 63 | 62 | 15 | 18 | 2 | 44 | 5 | 5 | 89 | 4 | .309 | .362 | .431 | .793 | |
| 1998 | 135 | 641 | 575 | 92 | 179 | 38 | 5 | 9 | 254 | 58 | 43 | 14 | 6 | 4 | 55 | 9 | 1 | 89 | 10 | .311 | .370 | .442 | .812 | |
| 1999 | 135 | 609 | 539 | 87 | 178 | 29 | 4 | 15 | 260 | 67 | 32 | 7 | 8 | 6 | 56 | 7 | 0 | 75 | 7 | .330 | .389 | .482 | .872 | |
| 2000 | 135 | 611 | 550 | 99 | 177 | 40 | 11 | 23 | 308 | 90 | 26 | 3 | 6 | 7 | 46 | 5 | 2 | 60 | 8 | .322 | .372 | .560 | .932 | |
| 2001 | 140 | 613 | 552 | 94 | 170 | 28 | 2 | 24 | 274 | 76 | 26 | 0 | 4 | 5 | 46 | 2 | 6 | 83 | 13 | .308 | .365 | .496 | .861 | |
| 2002 | 140 | 651 | 582 | 119 | 193 | 46 | 6 | 36 | 359 | 87 | 33 | 11 | 9 | 3 | 53 | 6 | 4 | 112 | 3 | .332 | .389 | .617 | 1.007 | |
| 2003 | 140 | 655 | 587 | 104 | 179 | 36 | 4 | 33 | 322 | 84 | 13 | 10 | 3 | 6 | 55 | 6 | 4 | 124 | 4 | .305 | .365 | .549 | .914 | |
| 2004 | NYM | 114 | 509 | 460 | 65 | 125 | 32 | 2 | 7 | 182 | 44 | 14 | 3 | 5 | 2 | 40 | 4 | 2 | 97 | 3 | .272 | .331 | .396 | .727 |
| 2005 | 87 | 295 | 267 | 31 | 68 | 9 | 4 | 3 | 94 | 24 | 6 | 1 | 5 | 4 | 14 | 1 | 5 | 43 | 2 | .255 | .300 | .352 | .652 | |
| 2006 | 38 | 139 | 130 | 10 | 26 | 6 | 0 | 1 | 35 | 7 | 2 | 0 | 3 | 0 | 6 | 1 | 0 | 19 | 1 | .200 | .235 | .269 | .505 | |
| COL | 32 | 126 | 113 | 22 | 39 | 6 | 3 | 2 | 57 | 19 | 8 | 1 | 1 | 2 | 10 | 0 | 0 | 27 | 0 | .345 | .392 | .504 | .896 | |
| '06計 | 70 | 265 | 243 | 32 | 65 | 12 | 3 | 3 | 92 | 26 | 10 | 1 | 4 | 2 | 16 | 1 | 0 | 46 | 1 | .267 | .310 | .379 | .689 | |
| 2007 | 104 | 453 | 410 | 84 | 118 | 24 | 6 | 4 | 166 | 37 | 32 | 4 | 8 | 1 | 34 | 1 | 0 | 69 | 1 | .288 | .342 | .405 | .746 | |
| 2008 | HOU | 96 | 422 | 375 | 58 | 110 | 26 | 3 | 6 | 160 | 33 | 20 | 5 | 7 | 3 | 37 | 0 | 0 | 53 | 3 | .293 | .354 | .427 | .781 |
| 2009 | 132 | 533 | 476 | 56 | 119 | 20 | 2 | 9 | 170 | 46 | 19 | 3 | 16 | 4 | 34 | 2 | 3 | 85 | 4 | .250 | .302 | .357 | .659 | |
| 2010 | 27 | 78 | 71 | 4 | 10 | 1 | 0 | 0 | 11 | 1 | 1 | 1 | 2 | 0 | 4 | 0 | 1 | 10 | 0 | .141 | .197 | .155 | .352 | |
| 2011 | 楽天 | 139 | 572 | 538 | 51 | 140 | 34 | 2 | 9 | 205 | 48 | 15 | 3 | 4 | 3 | 26 | 0 | 1 | 94 | 8 | .260 | .294 | .381 | .675 |
| NPB:10年 | 1298 | 5734 | 5176 | 813 | 1573 | 305 | 53 | 159 | 2461 | 617 | 321 | 73 | 91 | 39 | 402 | 40 | 26 | 845 | 63 | .304 | .355 | .475 | .830 | |
| MLB:7年 | 630 | 2555 | 2302 | 330 | 615 | 124 | 20 | 32 | 875 | 211 | 102 | 15 | 47 | 16 | 179 | 9 | 11 | 403 | 14 | .267 | .321 | .380 | .701 | |
| 通算:17年 | 1928 | 8289 | 7478 | 1143 | 2188 | 429 | 73 | 191 | 3336 | 828 | 423 | 88 | 138 | 55 | 581 | 49 | 37 | 1248 | 77 | .311 | .366 | .463 | .829 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
[編集] 表彰
- MVP:1回 (1998年)
- ベストナイン:7回 (1997年 - 2003年)
- ゴールデングラブ賞:4回 (1997年、1998年、2002年、2003年)
- オールスターゲームMVP:2回 (1997年 第1戦、2001年 第1戦)
- 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1997年)
- 月間MVP:5回 (1996年9月、1999年9月、2002年6月、2002年9月、2011年8月)
[編集] 記録
- NPB初記録
- 初出場:1995年4月5日、対近鉄バファローズ2回戦(藤井寺球場)、8回裏に田辺徳雄に代わり遊撃手として出場
- 初打席・初安打・初打点:1995年4月9日、対日本ハムファイターズ3回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に芝草宇宙から
- 初先発出場:1995年4月23日、対日本ハムファイターズ6回戦(東京ドーム)、9番・遊撃手として先発出場
- 初盗塁:1995年5月7日、対福岡ダイエーホークス7回戦(西武ライオンズ球場)、7回裏に二盗(投手:斉藤学、捕手:安田秀之)
- 初二塁打:1995年7月23日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(西武ライオンズ球場)、5回裏にエリック・ヒルマンから
- 初本塁打:1995年8月20日、対近鉄バファローズ20回戦(西武ライオンズ球場)、4回裏に酒井弘樹から
- NPB節目の記録
- 1000本安打:2001年7月8日、対オリックス・ブルーウェーブ18回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回表に田村勤から2点適時打 ※史上205人目
- 100本塁打:2002年7月21日、対大阪近鉄バファローズ15回戦(大阪ドーム)、1回表に高村祐から左中間へ先頭打者本塁打 ※史上222人目
- 1000試合出場:2002年9月15日、対大阪近鉄バファローズ27回戦(大阪ドーム)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上381人目
- 300盗塁:2003年8月3日、対北海道日本ハムファイターズ21回戦(西武ドーム)、1回裏に二盗(投手:関根裕之、捕手:高橋信二) ※史上24人目
- 150本塁打:2003年10月4日、対千葉ロッテマリーンズ27回戦(千葉マリンスタジアム)、2回表に小林宏之から2ラン本塁打 ※史上132人目
- 1500本安打:2011年7月26日、対福岡ソフトバンクホークス13回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、6回表にD.J.ホールトンから中前安打 ※史上109人目、1233試合目での到達はNPB史上最速
- 300二塁打:2011年10月1日、対オリックス・バファローズ23回戦(京セラドーム大阪)、1回表に木佐貫洋から右中間二塁打 ※史上57人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:7回 (1997年 - 2003年)
- トリプルスリー:1回 (2002年) ※史上8人目、スイッチヒッターは史上初
- サイクルヒット:1回 (2000年6月7日、対大阪近鉄バファローズ戦、西武ドーム) ※史上51人目
- 7年連続シーズン150安打以上 (1997年 - 2003年) ※歴代1位
- シーズン170安打以上:7回 (1997年 - 2003年) ※歴代1位
- シーズン初回先頭打者本塁打:7本 (2002年、2003年) ※歴代7位タイ
- シーズンサヨナラ本塁打:3本 (2002年) ※パ・リーグタイ記録
- 2試合連続サヨナラ本塁打 (2002年5月10日 - 5月11日)※史上7人目
- 左右両打席本塁打:3回 (2000年9月12日、2001年8月20日、2003年8月1日)
- シーズン三塁打:13 (1997年) ※歴代5位タイ
- シーズン長打:88 (2002年) ※日本プロ野球記録
- シーズン安打:193 (2002年) ※歴代5位タイ
- シーズン得点:119 (2002年) ※歴代9位タイ
- シーズン塁打:349 (2002年) ※歴代4位
- シーズン盗塁成功率100% (2001年)
- シーズン全試合出場:8回 (1996年 - 2003年) ※パ・リーグタイ記録、8年連続全試合出場はパ・リーグ記録
- 日本通算1143試合連続出場(1995年7月22日 - 2003年10月5日) ※パ・リーグ記録
- 日米通算2000本安打:2009年8月15日、対MIL戦第1打席で達成(NPB:9年で1433本、MLB:6年目途中で567本)
[編集] 背番号
- 32 (1994年 - 1996年、2011年)
- 7 (1997年 - 2003年、2007年、2012年 - )
- 25 (2004年 - 2006年途中)
- 16 (2006年途中 - 同年終了)
- 3 (2008年 - 2010年)
[編集] 国際大会出場歴
- 2004年のアテネオリンピックアジア予選日本代表
[編集] 関連情報
[編集] テレビ出演
[編集] CM出演
- 大塚製薬 アミノバリュー (共演:仲間由紀恵)
- サントリー デカビタC (共演:深田恭子)
- マスターカード 公式スポークスパーソン
- マスミューチュアル生命 (都営バスのラッピングバスにも登場した)
- 文化放送ライオンズナイター (共演:松坂大輔、西武バスのラッピングバスにも登場した)
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ ただし、ニューヨーク・ヤンキース・ロサンゼルス・ドジャース・ロサンゼルス・エンゼルスへのトレード通告は拒否権を破棄すると明言。
- ^ [1]にて、守備防御点を重視した評論を書いている。
[編集] 出典
- ^ “リトル”が与えたインパクトの大きさ『月刊スラッガー』2004年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-6、40-43頁。
- ^ 李啓充 「「松井稼頭央の守備は大リーグ失格」の嘘。」『MLB Column from USA』、Number Web(2005年12月1日)、2011年11月26日閲覧。
- ^ 「大リーグ:松井稼頭央が戦力外に…アストロズ」 毎日jp(2010年5月20日)、リンク切れ。
- ^ 「稼頭央が古巣西武D訪問「一からやる」」 日刊スポーツ(2010年10月9日)、2011年11月26日閲覧。
- ^ 「松井稼頭央選手との契約合意に関して」 東北楽天ゴールデンイーグルス(2010年11月25日)、2011年11月26日閲覧。
- ^ 「楽天稼頭央は初心 西武入団時の背番32」 日刊スポーツ(2010年11月30日)2011年11月26日閲覧。
- ^ 「松井稼は現状維持 来季の背番号は7に」 スポーツニッポン(2011年11月25日)、2011年11月26日閲覧。
- ^ a b c d e 現役スカウト部長による“本物”のスカウティングレポート 『月刊スラッガー』2008年1月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-1、34-37頁。
- ^ 徹底比較 ショートストップ6人『月刊スラッガー』2003年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、13頁。
- ^ MLB某球団スカウト部長による松井稼頭央スカウティングレポート 『月刊スラッガー』2001年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、58-61頁。
- ^ スカウティング・レポート 『月刊スラッガー』2003年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、8-11頁。
- ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、364頁。ISBN 978-4-331-51300-2。
- ^ 奥田秀樹 「すべては基本が大事になります 松井稼頭央の二塁守備」『週刊ベースボール』2009年8月31日号、ベースボール・マガジン社、雑誌20445-8/31、28-29頁。
- ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2010』 廣済堂出版、2010年、386頁。ISBN 978-4-331-51439-9。
- ^ a b 「Kaz Matsui」 Fangraphs、2011年11月26日閲覧。 ※英語
- ^ 「日本球界復帰元年。楽天・松井稼頭央選手のファインプレー特集&2011年パリーグ遊撃手のレンジファクター」 Baseball Journal(2011年11月28日)、2011年11月28日閲覧。
- ^ 稼頭央と二遊間を組む新鋭 ホセ・レイエス 松井稼頭央との比較『月刊スラッガー』2004年3月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-3、49頁。
- ^ 『サンケイスポーツ』紙2007年10月17日付。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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