ブルース・リー

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ブルース・リー
Bruce Lee Stencil.jpg
繁体字 李小龍
簡体字 李小龙
Lǐ Xiǎolóng
lei5 siu2 lung4
出生名 李振藩
拼音: Lǐ Zhènfān
粤拼: lei5 zan3 faan4
または lei jan faan[1]
祖籍 中国広東省仏山市順徳区均安鎮
出生 1940年11月27日
サンフランシスコ
死没 1973年7月20日(32歳)
香港九龍塘
墓地 シアトル
レイク・ビュー墓地
別名 李源鑫 (族名)
李元鑒 (学名)
李鑫(芸名)
李敏(芸名)
英語名 Bruce Lee
職業 アクション映画俳優
活動期間 1941年-1973年
配偶者 リンダ・エメリー (1964年-1973年)
子供 ブランドン・リー (1965年-1993年)
シャノン・リー (1969年-)
李海泉 (1901年-1965年)
何愛瑜
影響 ジャッキー・チェン
サモ・ハン・キンポー
ジェット・リー
ドニー・イェン
周星馳
公式サイト Bruce Lee Foundation
The Official Website of Bruce Lee

ブルース・リー李 小龍リー・シャオロンレイ・シウルン1940年11月27日 - 1973年7月20日)は、サンフランシスコ生まれの中国人中国武術家、武道家香港俳優截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。墓碑銘は「FOUNDER OF JEET KUNE DO」。世界中で、特に中国人の間で中国ナショナリズムの体現者として広く知られている[2]。息子はブランドン・リー

目次

[編集] プロフィール

[編集] 出生・幼少時代

父親の中国系広東演劇の役者の李海泉と、混血の母親グレイスが家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、辰の刻(午前8時)にサンフランシスコチャイナタウンの病院で生まれた。5人兄弟の次男(兄ピーター、姉フィービー、アグネス、弟ロバート)。映画には芸名の李小龍で出演している。生後3ヶ月あまりでサンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演した。

その後イギリス植民地下の香港に帰国した。1941年12月から日本イギリスの間で開戦し、香港が日本軍占領下におかれ香港での映画の製作が止まったために映画への出演は行っていないが、第二次世界大戦の終戦後にイギリスへ主権が戻り、映画の製作が再開された8歳頃から子役として数多くの映画に出演。幼少より、中国武術(中国大陸では「武術」、中華民国等では「国術(國術)」とも呼ばれる。海外ではカンフーの名称が一般的だが、空手拳法と誤認されることもある)の一派である詠春拳葉問(イップ・マン)の指導で中国武術を身につける。

少年の頃、道場にはバスで通い、バス停で他の生徒に「今日も休みだ」と嘘をついて帰らせ、葉問の個人レッスンを受けたという逸話がある。また上海精武体育会香港分会にて北派少林拳邵漢生に指導を受け、節拳(弾腿門)などを学んだ[3]

[編集] 渡米・結婚

何不自由なく育ったリーの将来を心配した父は、「俳優の不良息子」として悪名を知られた香港から離し、渡米を命じる(アメリカで出生届を出していたので永住権があった)。18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校のシアトル・セントラル・カレッジに通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。高校で哲学の講師もしていた。その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったリンダ・エメリーと結婚。その後、大学を中退し、道場経営に専念。截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。

[編集] 武道家からアクションスターへ

1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスク(このマスクは、後に映画『キルビル』で「カトーマスク」と呼ばれる)を付けた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。

これをきっかけに、ロサンゼルスハリウッド俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる。カトー役のイメージのため、リーを日本人だと誤解しているアメリカ人も多かった。『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願った。しかし、東洋人であることなどを理由に、主演の望みは叶わなかった(主人公の混血児ケインを演じたのはデビッド・キャラダイン)。

1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。

主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。

1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。ところが、ハリウッドワーナー・ブラザーズとコンコルド・プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』(ロバート・クローズ監督)の撮影が始まる。かつて、ハリウッド映画への主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。リーはクローズ監督に、「この映画の出来を気にしているのは、あなたと私だけだ」と語った[4]。映画の冒頭、リーが少年を相手に「Don't Think. Feel!考えるな、感じろ!)」と語る台詞はあまりにも有名だが、この部分はリーが香港公開用に自ら監督をして勝手に撮影したもので、当初の脚本にはなかった。撮り終わったフィルムを見たクローズが、アメリカ公開版にも採用した。

[編集] 死去

シアトル市内にあるブルース・リー親子の墓

1973年7月20日に、リーは、『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。

公式な死因は脳浮腫(のうふしゅ)である。司法解剖の結果、微量の大麻が検出された(アメリカでは大麻は医療大麻=鎮痛剤として使われている)ほか、が極度に肥大化していたことが判明した(検死報告によると、彼の脳は1,400gから1,575g(13%の増加)まで膨らんでおり、頭蓋内圧亢進により脳幹部が圧迫されて死に至ったと考えられる)。リーは、『燃えよドラゴン』の撮影約一ヵ月後の1973年5月10日にゴールデン・ハーベストのスタジオで、音声吹き込み中に、昏倒し意識不明の重体に陥り、そのまま病院に運ばれ2時間後に回復するも入院し、13日には退院している。その後、渡米し精密検査を受けるが結果は異常なしであったとされる。脳浮腫が起きた原因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用といわれている。32歳であった。

一部で既にリーの脳にあった腫瘍にこれらの薬が作用して破裂を起し脳浮腫になったと言う説もあるが、検死解剖では脳腫瘍並びにその破裂による脳内出血は確認されたと言う報告はない。唯一確認されているのは「脳浮腫」であり、これは脳腫瘍ではない。

死因に関して紛糾したため、香港政庁は1973年9月に死因究明裁判を開いた。死因究明裁判法廷書記長の藩健成によると、イギリス統治下にあった香港で出された正式な判決は【死因不明】である[5]。脳浮腫が起きた原因は確定されなかった。

葬儀は香港とシアトルで行われた。香港では数万人のファンが葬儀に押し寄せ、シアトルの葬儀にはリーの弟子だったジェームズ・コバーンスティーブ・マックイーンも参列した(この葬儀の様子は『死亡遊戯』の中で実際に使われている)。遺体はシアトルのダウンタウン近くのレイクビュー墓地に埋葬された。墓には截拳道理念(Jeet Kune Do concept)である「以無限為有限 以無法為有法」と「YOUR INSPIRATION CONTINUES TO GUIDE US TOWARD OUR PERSONAL LIBERATION」が刻まれている。

リーの死後、彼が待望していたハリウッド主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに全世界で公開され、大ヒットとなった。しかしアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていた(日本公開は1973年12月22日)。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給された。

最近の研究では、イリノイ州シカゴにあるクック郡医療検査官事務所のジェームズ・フィルキンス(James Filkins)は、死因を『癲癇(てんかん)』であるとしている。 フィルキンスによれば、検死解剖による死因の公式発表にも誤りがあると指摘している。というのも、もし報告書どおり、リーの死因が鎮痛剤による過剰反応なのであれば、それはすなわちアナフィラキシーショックと呼ばれる発作を起こしたことになる。しかし、このアナフィラキシーショックは首のかぶれという外傷を呈するものであり、この場合、報告書に「目立った外傷はなし」との記述はなされていないはずということである。 フィルキンスは、リーは鎮痛剤による過剰反応によって死亡したのではなく、SUDEP(癲癇による突然死 sudden unexpected death in epilepsy)によって命を落としたのだと主張している。この症状が認識されたのは1995年からである為、当時この可能性が検討されていなかったのは当然である。この症状は心肺停止を引き起こすため、イギリス国内では毎年500人がSUDEPで亡くなっている。特に20~40代までの人に多く見られ、睡眠不足やストレスから起こる可能性もあるという[6]

[編集] 映像作品

[編集] 渡米前

香港で少年期、青年期に出演した作品。いくつかは香港、アメリカなどでVCD、DVDがリリースされている。日本では2003年に"BRUCE LEE ULTIMATE COLLECTION -李小龍的追悼秘蔵収集- ブルース・リー アルティメット・コレクション"のタイトルで販売された。

  • 『金門女』(1941年)
  • 『富貴浮雲』(1948年)
  • 『夢裡西施』(1949年)
  • 『樊梨花』(1949年)
  • 『花開蝶滿枝』(1950年)
  • 『細路祥』(1950年)日本題名『ドラゴン スモール・ブラザー』
  • 『凌霄孤雁』(1950年)
  • 『人之初』(1951年)
  • 『苦海明燈』(1953年)日本題名『ドラゴン スパーク・オブ・ホープ』
  • 『慈母涙』(1953年)
  • 『父之過』(1953年)
  • 『千萬人家』(1953年)日本題名『ドラゴン ミリアッド・ファミリー』
  • 『危樓春暁』(1953年)
  • 『愛(下集)』(1954年)
  • 『孤星血涙』(1955年)日本題名『ドラゴン オーファン』
  • 『守得雲開見月明』(1955年)
  • 『孤兒行』(1955年)
  • 『兒女債』(1955年)
  • 『詐癲納福』(1956年)
  • 『早知當初我唔嫁』(1956年)
  • 『雷雨』(1957年)
  • 『甜姐兒』(1957年)
  • 『人海孤鴻』(1958年)

[編集] 渡米後

TVシリーズ
毎週金曜日の午後7時半から8時に米ABC系で放映。日本では1967年にテレビ放映。死後、3話ずつ繋ぎ合わせ『ブルース・リーのグリーン・ホーネット』『ブルース・リー in グリーン・ホーネット2 電光石火』として東宝東和より劇場公開された。
"Marriage,Chinese Style"の回に中国人花婿役で出演。
"The Way of The Intercepting Fist"、"Spell Legacy Like Death"、"Wednesday's Child"、" I See, Said The Blind Man"の4エピソードに出演。
映画
  • かわいい女』(1969年、原題:MARLOWE)- ウィンスロー・ウォン(中国人の殺し屋)

[編集] 香港帰国後

映画

[編集] 短編フィルム

リーの死後、未公開映像として公開されたもの。

  • 「チャーリー・チャンの息子」スクリーンテスト(1966年
  • 「グリーン・ホーネット」スクリーンテストフィルム1&2(1966年
  • 「グリーン・ホーネット」衣装テストフィルム(1966年
  • 「U.S. Gung Fu Television Demo」(1966年
テレビ番組「Milton Berle Show」に出演した際の武術デモンストレーション。
  • 「Bruce Lee : The Lost Interview」(1971年
カナダの作家ピエール・バートンが香港TVBスタジオでインタビューしたフィルム。現存する唯一のインタビュー映像。
  • 「アーナ・カプリフィルム」
『燃えよドラゴン』で競演した女優のアーナ・カプリが個人撮影した8ミリフィルム。イベントで公開された。

[編集] 関連映画・ドラマ

リーが間接的に関係する映画、未発表フィルムを使った映画、ドキュメンタリー映画、伝記映画など。

アクション指導
原案
未発表フィルム使用
ドキュメンタリー映画
伝記映画
伝記テレビドラマ
全50話の伝記ドラマ。中国にて、平均視聴率、最高視聴率の新記録を打ち立てた。

※その他、リーの映像を一部だけ使い「ブルース・リー出演」と銘打った映画は、『麒麟掌』(1973年、小麒麟(ユニコーン・チャン)主演。武術指導をしている姿を盗み撮りして無断使用)など数多い。

[編集] パロディ・オマージュ映画、リーに影響された映画など

[編集] ソックリさん

リーの死後、香港台湾では「ドラゴン映画」「リー映画」が数多く製作され、多くのソックリさんが登場した。いずれもヒット作品とはならなかったが、一部には「ソックリさん映画」のコレクターもいる。

[編集] 漫画、ゲーム、アニメへの影響

日本の漫画やアニメ、ゲームキャラクターなどにリーが与えた影響は計り知れない。アクションシーンや筋肉の描き方、格闘技の組み立てはもちろん、中国人全般のイメージ、武術の思想や哲学にいたるまで、直接間接に影響を受けた作品はあまりに多い。ここでは外見上のリーの人物像がキャラクターに生かされた代表的な例を挙げる。

[編集] 主な門下生

[編集] 直弟子

[編集] 孫弟子

[編集] その他、特記事項

香港のブルース・リーの銅像
  • 身長・体重はよく議論されるが、残されている記録では体重は65kg前後とされている。また痩せている時は60kgほど~重い時には70kg近くと、時期によってかなり違っていた。身長は『実録ブルース・リー/ドラゴンと呼ばれた男』の中で171cmと言われている。靴のサイズは24.5cm。靴幅が小さい。現存するライフマスクからするとかなり小顔である。
  • 弟子のダン・イノサントによると、ブルース・リーは周囲の関係者及び弟子達によくこう言っていた「自分の体重なら100キロの人間とまで互角に戦えるだろう」にわかにも信じられない話だが弟子のカリーム・アブドゥル=ジャバーまでも証言している。
  • 弟子のジェームズ・コバーンは初めてブルース・リー(23歳)とコンタクトをとった日に、噂以上のスピードとパワーを目の当たりにし驚いている。
  • アメリカで空手および中国拳法の試合に初めてフルコンタクト(直接打撃制)を取り入れた。
  • 総合格闘技のグローブとして使用されているオープンフィンガーグローブの原型はリーが発明した。
  • アメリカのフルコンタクト空手は、1970年に産声を上げた、1960年代のアメリカ空手界の王者ジョー・ルイスは、当時アメリカで採用されていたポイント制の空手大会のルールに不満を募らせており、フルコンタクト制の試合形式の模索をしていた。

1970年にカリフォルニアで開催された空手大会の特別試合として、ボクシングのリング上で、選手は上半身裸にボクシンググローブ着用、下半身は空手着のパンツという格好で、ジョー・ルイスはこの試合を2ラウンドKO勝ちした。この試合の成立のきっかけにルイスが当時師事していたブルース・リーの存在がある。1960年代既にフルコンタクトのスパーリングの導入を提唱していたブルース・リーの元で学んだルイスは、彼に強く勧められた格闘哲学とボクシングの技術を空手に導入する事でフルコンタクト空手を創始した、なおブルース・リーがオープンフィンガーグローブを考案した後も打・投・極のトレーニングにパートナーとしてジョー・ルイスが任命されたことがよくあった。

  • サモ・ハン・キンポーへのブルース・リーからのファーストコンタクト方法は目にも止まらぬ速さのサイドキックを一瞬で顔ぎりぎりのところで止めて見せた、あまりにも強烈な挨拶に腰が引けたという。
  • 筋力トレーニングとして、アイソメトリック・トレーニング(アイソメトリクス)を積極的に取り入れていた。
  • ブルース・リーは映画俳優になっても決して現状に甘んじることはなかった。武道家として絶えず修行を続けたのである。俳優とし映画ビジネスの世界で活躍しはじめてからも、ブルース・リーは決して修行を怠ることはなかった、、多忙をきわめるなかにあっても、彼はトレーニングに励んだのである。海外でのロケーションなどで、しばらく自宅を離れるときは、専用の運動靴を持参し、ロケ先でトレーニングを行っていた。暇さえあれば握力を鍛えるボールを握ってはまた開き、そしてまた握るという繰り返し行うグリップ力向上の鍛錬やパンチをできるだけ早く打ち続けるトレーニングを行っていた。
  • ブルース・リーはモハメッド・アリのビデオをすべて所有していた、ビデオの活用法はオーソドックス・スタイル(左を制する者は世界を制す)

モハメッド・アリのスタイルをコピーするためビデオを鏡に映し、それをマネしてトレーニングを行う、ブルース・リーはサウスポースタイルを基本としていて技術を組み立てていたのでかなり難しいトレーニングを行っていた事となる(鏡に映る動きが本来の自分の動きになるまでトレーニングをした)。

  • 米陸軍で格闘術プログラムのディレクターを務めるマット・ラーセンは次のように話している。

「従来の武術体系そのものを変えることに着手したのが、ブルース・リーだった。 ブルース・リー以前の伝統武術家たちは、従来のトレーニングスタイルを変えようとしなかった。筋力やコンディショニングの向上には無関心に近かった。武術のパフォーマンス向上のために誰もが体を鍛えるようになったのは、それから30年も40年も経ってからのことだ、リーには、筋力トレーニングの経験はそれまでもあった、だが体を完成させようと新たに決意したことにより、リーは映画界でのスーパースターへの道を切り開いていったのだ。数々の格闘映画に出演したが、成功の原動力となったのは、ハードワークによって得た筋肉だった。そして、リーがつくり上げた“筋肉”の影響で、アクションスターの体にも革命が起きたのだ。」

  • 哲学を専攻していたこともあり、西洋および東洋思想に精通していたばかりか、ナポレオン・ヒルなどの自己啓発や哲人宗教家クリシュナムルティ[7]まで研究していた。その成果は、截拳道の思想面に活かされている。体を壊し、数ヶ月間の療養生活を余儀なくされた期間、数多くの本を読み漁りそれらを合わせると図書館が出来上がるほどであった。主に哲学や各種マーシャルアーツに関する本を多く読んでいたとされる。
  • 燃えよドラゴン』には、サモ・ハン・キンポーがオープニングのスパーリング相手として出演している。また、エキストラ時代のジャッキー・チェンがリーに地下基地で首を折られる役として、ユン・ピョウ(元彪)も2カットだけ出演している。オープニングとオハラ戦に於けるリーの後方空中回転キックのスタントは、『サイクロンZ』などに出演しているユン・ワー(元華)が務めた。(『Bruce Lee in G.O.D 死亡的遊戯』のインタヴューで、ユン・ワー自身が「ハンドスプリングサマーソルトキックの2回」と語っている。)
  • 劇中で使用する武器ヌンチャク日本でブームになったが、リーが使ったものは正確にはタバク・トヨクとといわれるフィリピン武術・カリの武器である。リーの親友で弟子のフィリピン系アメリカ人のダン・イノサントがタバク・トヨクをリーに教えたといわれる。劇中で使用されている黄色のヌンチャクはスポンジ製であり、握りこんだ際に曲がる様子が見て取れる。
  • ジェームズ・コバーンと親交が深く、2人で脚本を手掛けた『サイレント・フルート』という映画で共演する予定だった(インドでロケ・ハンまで行われたが、リーの死で中止となった。その後、1977年デビッド・キャラダイン主演で映画化)。
  • リーが正式に門下に入ったのは詠春拳のみだが、北派の中国拳法も数多く研究していた。『グリーン・ホーネット』のオーディション映像等でさまざまな型を演ずるのを見ることができる。なおオーティションで演舞した虎の型、流の型などは即興で行ったもので、どの中国武術にも存在しない。
  • ダンスの才能もあり、チャチャが最も得意だった。香港のダンスコンテストで優勝したこともあり、その映像が出回っている。ダンスを習ったのは、武道とは無関係で、単に女性にモテたかっただけとといわれている。
  • 画才もあり、古代中国の武術家のイラストで卓越したデッサン力や構図の構成力が発揮されている。
  • 生前に特別に内外装をしつらえたロールス・ロイスを発注したが、納車された時にはすでに故人となっていた。
  • ブルース・リーは幼少より近視で、家ではメガネをかけていた(外ではコンタクト)。接近戦が主体の詠春拳を習ったのも近視のためだったと言われる。
  • イギリス統治時代の香港映画には、第一公用語である英語の原題が必ずあったが、なぜかアメリカの劇場公開版では『ドラゴン危機一発』(The Big Boss)が『Fists of Fury』に、『ドラゴン怒りの鉄拳』(Fist of Fury)が『The Chinese Connection』となった。「The Big Boss(大親分)」を「The Chinese Connection(中国麻薬密売組織)」に改題して配給しようとして二作品を取り違えたと考えられるが、「Fist」が複数形の「Fists」になっていることと加え、このような間違いが起きた原因は不明である。
  • 独特の「アチョー」という叫び声は「怪鳥音」と呼ばれる。香港映画界では声優の吹き替えが一般的で、『燃えよドラゴン』以外の出演作は全て吹き替えだが、怪鳥音だけはリー自身の声である。ただし、北米版『ドラゴンへの道』と国際版『死亡遊戯』だけは別人の吹き替えで、あまりにやる気のない声が不評である。
  • 日本での劇場公開時、『ドラゴン危機一発』、『ドラゴン怒りの鉄拳』、『ドラゴンへの道』の3作には、日本側の配給元がマイク・レメディオスが歌う日本オリジナルの主題歌やBGMを挿入していた。現在、発売されているDVDには、当時の主題歌やBGMは使われていない。長年レメディオスは「謎の歌手」だったが、日本のファンがポルトガル系香港人だと突き止めた。その後、ファンが主導して主題歌の再収録[8]や、日本にノラ・ミャオとともに招いてトークイベント[9]などが行われ、2007年10月に新たに収録した「SONG OF DRAGON Mike Remedios The Final」(Chife Delight Music)というCDが発売された
  • 遺品(免許証.サングラス.契約書)が『開運!なんでも鑑定団』(04年6月22日放送)に登場。高額な鑑定結果となった。
  • 友人の小麒麟がブルース・リーの亡くなった数年後に交通事故にて逝去した際、香港では『あの世で寂しくなった李小龍が、親友の小麒麟を連れて行った』と噂された。

[編集] 参考文献

  • 『ブルース・リー 永遠のドラゴン』日野康一著(1974年12月、芳賀書店)ISBN 4826100264
  • 『闘魂ブルース・リー』日野康一著(1982年10月、芳賀書店)ISBN 4826105029
  • 『ブルース・リー 不滅のドラゴン』スクリーン著(1985年12月、近代映画社)ISBN 4764812959
  • 『ブルース・リー・ストーリー』リンダ・リー著(1993年10月、キネマ旬報社)ISBN 487376064X
  • 『ブルース・リー・メモリアル』リンダ・リー他著(1994年7月、キネマ旬報社)ISBN 4873760925
  • 『映画秘宝 Vol.3 ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進!』(1995年12月、洋泉社)
  • 『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』ロバート・クローズ著(1996年4月25日、白夜書房)ISBN 4-89367-497-8
  • 『截拳道への道』ブルース・リー著(1997年5月15日、キネマ旬報社)
  • 『ブルース・リー・リターンズ 超人伝説』(1997年8月8日、キネマ旬報臨時増刊号)
  • 『伝説のブルース・リー』BLACK BELT誌編(1998年4月、フォレスト出版)ISBN 4894510502
  • 『ブルース・リー・クロニクル』松宮康生著(1998年8月、フォレスト出版)ISBN 4894510561
  • 『ブルース・リー ザ・ファイター』M・ウエハラ著(1998年11月9日、フォレスト出版)ISBN 4894510634
  • 『李小龍大全 / The Bruce Lee Library』(1998年12月18日、ソニーマガジンズ)ISBN 4789713342
    • vol.1 ドラゴンかく語りき[インタヴュー 1958〜1973] ジョン・リトル編
    • vol.2 グンフーへの道[中国武術の研究] ブルース・リー著 / ジョン・リトル編
    • vol.3 截拳道[ブルース・リーの格闘哲学] ブルース・リー著 / ジョン・リトル編
  • 『BRUCE LEE THE GREATEST』松宮康生著(1999年8月30日、フォレスト出版)ISBN 4894510847
  • 『ブルース・リー最後の真実』松宮康生著(2008年9月2日、ゴマブックス)ISBN 978-4-7771-1097-1

[編集] 関連項目

[編集] 友人・知人

[編集] 後輩

[編集] 縁のある日本人

  • 千葉真一(リーが共演の申し入れをしたことがある[10]
  • ターキー木村(日系二世の武道家。リーの弟子で「振藩國術館」の設立に関わり、シアトルの道場の責任者でもあった)
  • マコ岩松(日系人俳優。「グリーン・ホーネット」で中国人武術家役で競演)
  • 西本正(カメラマン。『ドラゴンへの道』、『死亡遊戯』の撮影監督。『燃えよドラゴン』のクランクアップ後西本にブルース・リーから電話があり、「今度、『死亡遊戯』の撮影を再度行うので、空けといてほしい」と連絡があったがかなわぬこととなった)
  • 勝新太郎(来日したリーの依頼で、勝プロダクション所属の俳優を『ドラゴン怒りの鉄拳』に出演させる。リーは『座頭市』のファンで、自身が盲目の中国武術家を演じる写真も残っている)
  • 橋本力(勝プロ所属の俳優。『ドラゴン怒りの鉄拳』で日本人敵役のスズキを演じる)
  • 勝村淳(勝プロ所属の俳優。『ドラゴン怒りの鉄拳』でスズキの用心棒を演じる)
  • 倉田保昭(俳優、武道家。和製ドラゴンと呼ばれる。リーと交友があり、本人の談では沖縄空手の武具「ヌンチャク」を紹介したという。テレビドラマ『闘え!ドラゴン』や『Gメン'75』で演じた格闘シーンはリーの影響を受けている。『Gメン'75』には、『燃えよドラゴン』で「ボロ」を演じたヤン・スエが、敵役として何度も登場した。
  • 風間健(元キック・ボクサー、俳優。日本でのブルース・リー・ブームの際、彼と親交があったとして、日本ブルース・リー・ファンクラブを主催。また、監修本、便乗レコード等に多数関係)

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 広東語は香港商務印書館1989年版「普通話粤音商務新詞典」、李珍華・周長楫編「漢字古今音表」修訂本(北京中華書局1999年)、華南師範大学中文系編「広州音字典」(香港三聯書店1985年版)などにもとづく。
  2. ^ [ウィキペディア英語版]に基づく
  3. ^ 映画『ドラゴン怒りの鉄拳』は精武体育会についての伝説(史実ではない)がテーマである。
  4. ^ 『ブルース・リーの燃えよドラゴン完全ガイド』ロバート・クローズ著(白夜書房)ISBN 4893674978
  5. ^ 1998年11月6日テレビ放送「驚きももの木20世紀」の『アジアの肉体 BODY/SOUL ブルース・リー伝説』
  6. ^ Epilepsy could solve mystery of kung fu legend's death
  7. ^ "KRISHNAMURTI 100 years" Evelyne Blau,Stewart, Tabori and Chang においてジークンドー思想との類似性が指摘されている。
  8. ^ 『甦れマイレメ!!』香港レコーディング・レポート
  9. ^ Mike Remedios Live in Japan イベントレポート
  10. ^ 『SPORTS CITY』第1巻第2号、鎌倉書房、1981年8月、32頁。

[編集] 外部リンク

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