ジャッキー・チェン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
成龍
ジャッキー・チェン
Jackie Chan 2002-portrait edited.jpg
空母キティホークの甲板にて(2002年
繁体字 成龍
Sing4 Lung4
出生名 陳港生(家系図上での本名は房仕龍)
祖籍 中華人民共和国の旗 中国安徽省和県
出身 香港の旗 香港
出生 1954年4月7日(60歳)
香港の旗 香港ヴィクトリア・ピーク
国籍 中華人民共和国の旗 中国 香港居民中国語版英語版
別名 陳元龍、元樓
英語名 Jackie Chan
職業 俳優
ジャンル 映画俳優監督製作)、歌手
活動期間 1962年 - 現在
配偶者 ジョアン・リン1982年 - )
子供 ジェイシー・チャン
公式サイト http://www.jackiechan.com/

ジャッキー・チェン成龍繁体字成龍広東語発音:センロン、1954年4月7日 - )は、香港出身の映画俳優

恵まれた身体能力を活かして、暗い復讐劇が多かったカンフー・アクション映画の世界に、ハロルド・ロイドバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主役として出演。50歳を越えた2012年現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。

愛称は「大哥」(ダイコー、兄貴の意)[1]

身長174cm。妻は台湾の元女優ジョアン・リン。息子は俳優のジェイシー・チャン

経歴[編集]

香港星光大道のチェンの手形
香港九龍塘にあるチェンの制作会社

幼少期・香港時代とブルース・リー[編集]

ジャッキー・チェンは、1954年に香港ヴィクトリア・ピークにて「陳港生(チャン・ゴンサン)」[2]として生まれた。父親は陳志平(チャールズ・チャン、家系図上では房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)[3]。陳志平は、国共内戦を避け、中国大陸から香港に逃れた。

7歳から約10年間、中国戯劇学院にて京劇や中国武術を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた[4]

無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでリーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではリーに首を折られるエキストラ役としても出演した。その後オーストラリアの両親の元に戻り俳優業から離れ、左官やコックなどの職に就いたが、1976年にリー作品の監督であるロー・ウェイの呼びかけで香港へ戻り、ロー・ウェイ・プロと専属契約し、芸名を「陳元龍」から「成龍」と改名し、『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』で再デビューを果たした。

アジアのトップスターに[編集]

1970年代後半、ブルースの後継者として期待され、復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられることが多かったが成功には至らず、そうした反省も踏まえ、ジャッキーは製作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。これが『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)、『ドランクモンキー 酔拳』(1978年)といったヒット作の誕生につながった。『クレージーモンキー 笑拳』(1979年)では監督業にも進出。1979年にはゴールデン・ハーベスト社に移籍し、監督・主演作の『ヤングマスター 師弟出馬』(1980年)をヒットさせた。

1980年代に入ると、『プロジェクトA』(1984年)や『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985年)に代表される、自ら命懸けのスタントをこなす監督・主演作品が大ヒット。香港映画界を代表するアジアのトップスターとなった。一時期、批評家からの声に刺激され『奇蹟/ミラクル』(1989年)のような文芸路線を手がけたこともあったが、アクションを期待してるファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。

プロジェクト・イーグル』(1991年)以後は一時監督業からは退き俳優業に専念する一方、製作者として『ロアン・リンユィ 阮玲玉』(1992年)などの文芸作品も世に送り出した。

ハリウッド進出[編集]

元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』(1980年)、『プロテクター』(1985年)など米国作品に出演したが、評価は高まらなかった[5]。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。

そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築き、続編『ラッシュアワー2』(2001年)は全世界興行成績で大ヒットを記録する。その後、立て続けにアメリカ映画作品に出演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、東洋人を代表するハリウッドスターとなった[6]

アジアへの回帰と脱スタント・アクション[編集]

2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループと提携して、自らの映画制作会社、JCEムービーズを設立し、その第1回作品として『香港国際警察/NEW POLICE STORY』を製作・主演。以後、香港・中国映画とアメリカ映画に並行して出演するようになる。2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米ナンバーワンを獲得するヒットとなり、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。

2009年、アクションを封印したシリアスなバイオレンス映画『新宿インシデント』に主演。主人公の師匠役を演じた2010年の『ベスト・キッド』は2000年代に入ってからの出演作では最大のヒット作となった。2011年、出演作100本目記念作品とされる歴史映画『1911』が公開。2012年の『ライジング・ドラゴン』で「体を張った本格アクションからは今作限りで引退」と宣言した。

2014年4月、上海市普陀区に世界で初めてとなるジャッキー・チェンの博物館、成龍電影芸術館が開館した。芸術館を始め3つの建物がメインとなり、映画資料や小道具、衣装等が展示されている。

俳優活動[編集]

英語名を日本欧米での芸名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、日本のみ諸事情(親しみを込めて相手を呼ぶ際の「〜ちゃん」と被るため)により「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。だが息子は「ジェイシー・チャン」になっている。

アクション俳優[編集]

ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンで構成された『成家班(ジャッキーズ・アクション・チーム)』(ケネス・ロー・ワイコン、マース、ブラッドリー・ジェームズ・アラン、ロッキー・ライ、ダニー・チュウ、ベニー・ライ、タイ・ポー、ポール・ウォンなど)の仲間に支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。

ヘリコプターを使ったアクションとして『ポリス・ストーリー3』(1992年)と『ファイナル・プロジェクト』(1996年)が有名だが、『ポリス・ストーリー3』の時は機体がジャッキーの体にぶつかり大怪我、『ファイナル・プロジェクト』ではプロペラがジャッキーの帽子に接触(頭上2cm)し、間一髪大怪我を免れている。その後ジャッキーはヘリコプターを使ったアクションはやらなくなった。

「自身の作品で一番好きなのは?」の問いに対し、「アクションなら『ポリス・ストーリー/香港国際警察』、監督なら『奇蹟/ミラクル』」と答えている。また「思い出に残る作品は?」の問いに対し、笑いながら「沢山ありますよ」と前置きした後、悩みながら、第3位は『酔拳2』、第2位は『レッド・ブロンクス』、第1位は『プロジェクトA』と答えている。

カメオ出演[編集]

自身がプロデュースした作品には1シーンのみのカメオ出演をする場合が多い(1986年『クラッシュ・エンジェルス/失われたダイヤモンド』、 1999年『ジェネックス・コップ』、2004年『エンター・ザ・フェニックス』など)。

引退・新人の育成について[編集]

以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。また事あるごとに引退を示唆する発言をしている。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。

歌手[編集]

俳優だけではなく歌手としても有名であり、彼の映画の主題歌は彼自身が歌うことが多い。歌はロックレコード李宗盛から学んだ。

陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏でよく知られ、今でもデュエット・ソングとして人気がある。1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言えるポップスである。

日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤングマスター 師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。『ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(チャイナブルー、東京サタデーナイト)を本人が歌った。「東京サタデーナイト」に関してはジャッキーもかなりのお気に入りで公の場でも口ずさむ時がある。

人物[編集]

トム・クルーズジョニー・デップと並び、ファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真など、常に特別待遇で接している。 

千葉真一の熱狂的なファンで、千葉のような「アクションスター」になる事が夢だった[7]テレビドラマキイハンター』でスタントマンに頼らず、千葉が演ずるアクションに刺激を受けて惚れこみ、ジャッキーがスターと認められだした頃に東映京都撮影所へ千葉を表敬訪問している[7]

1994年読字障害であることを告白したが、2012年現在は克服している。広東語北京語英語韓国語[8]に堪能で、日本語も少し話せる。

先輩・後輩との関係[編集]

無名時代のある日のこと、ジャッキーが休日に一人でボウリングに行こうと道を歩いていると、偶然ブルース・リーと遭遇。二人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、ブルース・リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで」と言い残し帰って行ったということがあった。また撮影の合間には、彼の作品でスタントを演じていたジャッキーに対して、特に優しく接してくれていたとのこと。

七小福』時代からの仲間で先輩であるサモ・ハン・キンポーに反発を抱いていた。両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション、特に美しさに対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより仲があまり良くなかったが、『プロジェクトA』ではユン・ピョウの計らいにより関係修復し共演が実現した。

互いの監督作品にも出演し、1983年から1988年に多くの共演作品が日本でも公開された。監督作品は、ジャッキー監督は『プロジェクトA』、サモ・ハン監督は『五福星』、『スパルタンX』、『香港発活劇エクスプレス 大福星』、『七福星』、『サイクロンZ』。その後、空白期間を迎えるが、1995年の『デッドヒート』と1997年の『ナイスガイ』で再タッグを組み、2008年の 『拳師~The Next Dragon~』ではジャッキーがエグゼクティブ・プロデューサーを務めサモが主演。香港電影金像奨での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復している。

政治関係[編集]

2003年、『80デイズ』の撮影のためにベルリンに滞在した時、バディーベアに出会い、翌2004年に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、ユニセフと2つの恵まれない子供たちのための団体が414万香港ドル(約5700万円)を手にした。

チベット自治区に監視を行う中国に対して一部で抗議がある中、北京五輪に反対することは不公平であるとした。2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウン・イベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。

2011年1月20日アメリカホワイトハウスで行われた公式訪問中の胡錦濤国家主席を歓迎する「オバマ米大統領夫妻主催の晩餐会」にジャッキーも政財界の大物や著名人など計225人の招待客と共に出席し、ジャッキーと対面したオバマ米大統領は握手しながら、「私も君のファンだよ」と話しかけたばかりか、ヒラリー・クリントン国務長官も、夫のビル・クリントン元米大統領もジャッキーのファンだと話した。 また胡主席とも話す機会に恵まれ、ちょうどジャッキーと胡主席が話し始めようとかという時にオバマ米大統領がやってきて、「知っていますか。アメリカでジャッキーはとてもとても有名なんですよ」と話しかけた。すると胡主席は「中国ではもっと有名ですよ」と笑顔で返答した。この公式晩餐会を振り返ったジャッキーは、「本当に光栄に思う」と興奮ぎみにメディアに語った。

2012年現在、香港政府観光局観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行っている。

近年、ジャッキー・チェンの政治的発言は、中国共産党寄りのものが多くなっていると指摘されている。2012年12月11日、南方報業伝媒集団発行の南方人物週刊という雑誌のインタビューで「香港では中国政府批判のデモが多すぎる。規制すべきだ」などと中国共産党政権を擁護する発言を行ない、香港市民から反発を買っている[9]

収入・財産[編集]

慈善家でも知られており、幼少期にジャッキー自身が貧しくても「悪人とは付き合うな、麻薬には手を出すな」などの親の教えには感謝している。

  • 2005年12月29日付の台湾の通信社・中央社は、香港メディアの報道「台湾・香港著名人の2005年年収ランキング」によると推定2億3000万香港ドル(約30億円)であると伝えた。
  • 2006年、10億香港ドル(約150億円)と言われる全財産の半分を慈善事業に寄付するよう遺言を作成したと発表された。
  • 2011年4月、総資産260億円と言われる財産を家族には残さず、その全てを不幸な人の為に使う事を公言した[10][11]

女性関係[編集]

かつてジャッキー・チェンは若い頃、テレサ・テンと恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。その後、ジャッキーは台湾女優の林鳳嬌(ジョアン・リン)と結婚。テレサは1995年に気管支喘息の発作のため亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した[12]

自伝『愛してポーポー』では、一時期ギャンブル中毒で身を持ち崩し、婚姻を解消したことを告白している。

1999年に香港女優の呉綺莉(エレイン・ン)との間に娘の呉卓林(エッタ・ン)が生まれており、この騒動の時「世界中の男性が誰でも犯す過ちを犯してしまった」と語ったことが話題になった[13]

トラブル[編集]

ジャッキー・ジャック事件[編集]

ロー・ウェイとは個人プロダクション時代から折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。いわゆる二重契約問題である。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐しており、その内容を以下に要約する。

1979年の初夏、前年に他社にレンタル出向し製作された『スネーキーモンキー 蛇拳』、『ドランクモンキー 酔拳』や、続いてローの下でジャッキーが初監督した『クレージーモンキー 笑拳』が大ヒットし、ジャッキーとウィリー・チェンは、ローがレンタル出向前に製作し完成していた『拳精』と『龍拳』を、過去のジャッキー作品が全て興行面で失敗していたために配給会社が警戒して買わなくなっていたこともあり(蛇拳と酔拳のヒットのおかげでその後ようやく公開)、「このままローの下に戻り同じタイプの作品を製作しても駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざんし、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ローの下での最新作『ジャッキー・チェンの醒拳』の撮影を数日で中断し、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社での第一作『ヤングマスター 師弟出馬』の製作を開始してしまう(『醒拳』は結果的にローが1983年に、ジャッキー似の俳優を使った追加撮影シーンと『笑拳』のNGフィルムなどを使用し無理やり完成させ、ジャッキー最新作として公開したため、ジャッキーは裁判沙汰にしようと考えるくらい激怒した)。

ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、黒社会を利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。ジャッキーは拉致されローの面前へ引き出され、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも黒社会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても黒社会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な黒社会の件は、その世界と繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは黒社会に狙われることはなくなり、ローもまた黒社会と手を切ることができた。これにてジャッキーはことなきを得ている。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』、『炎の大捜査線』に準主演級で出演しており、これらの作品にノーギャラで出演したことについてジャッキーは「両方ともひどい作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。

この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキー・ジャック事件」とゴシップとなる。日本においては、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家日野康一が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及しているが、この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった 可哀想なモンキー」といった内容となっている。また当時、日本の旅行会社がジャッキーに会うためのツアーを企画したが、1979年末に『ヤングマスター 師弟出馬』完成後、極秘にゴールデン・ハーベスト社が次回作『バトルクリーク・ブロー』(ジャッキー初のハリウッド作品)の撮影のためにジャッキーをアメリカへ逃がした後だったので会えなかった。

なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期には黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会追放キャンペーンでは陣頭に立っている。その時のインタビューで「彼らに殴られたり、金を要求されたこともある」と語っていた。

台湾に関する発言[編集]

ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国をさらに強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。姚文智行政院新聞局局長は、彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』(台北市1014万台湾元)、『THE MYTH/神話』(台北市1100万台湾元)『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(台北市900万台湾元))。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。

その後、ジャッキーは台湾を愛しているからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。さらに台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。

中国・台湾・香港に関する発言[編集]

2009年4月18日海南島で行われたボアオ・アジア・フォーラムの会見上で、中国国外メディアから文化活動の自由について聞かれ、「自由すぎると、香港のように混乱する。台湾も混乱している。中国人は管理される必要がある」と発言した[14]

また「テレビ日本製を買う。中国製のテレビは爆発するかもしれない」と発言し物議をかもした[15]

尖閣問題に関する発言[編集]

2012年10月1日、台湾で自身の映画の謝恩イベントの際、尖閣諸島問題について、歴史的に見ても、島は中国のものだとし、僕がジャッジする立場にいるならば、人の物を横取りした国に還すよう求めたい。さらに、僕がスーパーマンならば、島を近くに引き寄せたいなどと主張した。一方でウラジオストクは中国に、北方領土は日本に還すべきだとも主張している[16]

その他[編集]

  • 2006年7月10日、ジョナサン・リー(李宗盛)のコンサートに特別ゲストとして出演したが、泥酔したジャッキーは彼とデュエットを要求。野次を飛ばす観客に腹を立てたジャッキーは観客の前で暴言を吐いた[17]。この様子がファンの持っていた携帯電話で撮影され動画がインターネットに流出した。
  • 2007年4月、スタントマンのブルース・ローが自身のブログで、「過去にジャッキー・チェンのスタントを務めた」ということを語ってネット上で論議を呼んだ[18]

食について[編集]

2006年の日本のテレビ番組SMAP×SMAP』では、中華料理をよく食べるわけではなく、魚卵が苦手で、また、食事は量を少なく注文すると語った。中国では、「食べきれないほどたくさんの料理をありがとう」という気持ちを込めて、完食ではなく残す程度が礼儀とされているが、ジャッキー個人の価値観はそれとは違い「最近の人はたくさん注文して残す。良くない」と述べた。嫌いな食べ物にはほかにアサリがある[19]

ファストフード系の中華料理店「ジャッキーズ・キッチン」を展開しており、トイレに行くとジャッキー自らトイレの作法についてレクチャーするというサービスがある。

そのほかのエピソード[編集]

  • プロジェクト・イーグル』PRのために『笑っていいとも!』へ出演した際、南原清隆の「香港の中国返還後はどうなさるんですか?との質問に一瞬困った形相を見せたが、笑って「1997年以降は日本に行きます。歓迎してくれますか?」と答え、周囲を驚かせた。冗談か本気かは別として、当時の情勢が垣間見える瞬間だった。
  • 英語圏の映画レビューサイトとして有名なRotten Tomatoes(ロッテン・トマト)は、ジャッキー・チェンの一ファンであったSenh Duongが『ジャッキー・チェンのファンとして、ジャッキーの映画に関する合衆国内のレビューを残らず集めようとした時に思いついた』とサイト発案の理由を語っている。

三菱自動車との関係[編集]

映画での三菱車の使用[編集]

ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。 特に三菱・ランサー三菱・ミラージュ三菱・パジェロ三菱・ギャランが多い。

  • スパルタンX』(快餐車):デリカ(欧州名L300)ベースのハイテク移動販売車(劇中に三菱自動車のネオンサインも映る)が登場。改造は007のボンド・カーも手がけている所によるものらしい。他に劇中のカーチェイスに巻き込まれる一般車として老婆の運転するスタリオンがジャンプするシーンがあるが、ジャンプ後の老婆の台詞が車の宣伝文句ともとれるものとなっている。
  • ファースト・ミッション』:ミラージュ。九龍から香港島の市街地において香港警察のパジェロなどと派手なカーチェイスを展開する。ギャランΣも登場している。
  • サンダーアーム/龍兄虎弟』:ミラージュ・スパイダー(ミラージュベースのコンセプトカー)。敵組織のウェザリングが施された数台のパジェロとカーチェイスの末、爆破される。この車は、1984年のマカオグランプリの「ジャッキー・チェン・トロフィー」においてジャッキーが乗るペースカーとしてお披露目されたところ、ジャッキーに気に入られ、劇用車として使用されることになった。三菱は劇中のメイン車両としてガルウイングのオリジナル車、スタント・爆破用として簡略装備のスウィングドア車、緊急脱出シーン撮影のためのエンジンなし改造車の3台を提供したが、劇中ではスウィングドア車がメイン車両として起用されており(ガルウイングを開けるシーンもなし)、三菱の意図とは裏腹にガルウイングに豪華装備のオリジナル車が爆破されてしまった。これはスウィングドア車両が三菱に返却されたため判明したことであり、同車は現在も保存されているらしい。
  • 香港発活劇エクスプレス 大福星』:新宿駅富士急ハイランド間をミニカでカーチェイス。リチャード・ン扮する念力の運転するデリカがマイクロバス(ローザ)に追突される。
  • プロテクター』:香港での捜査車両にパジェロ。港の麻薬工場への送迎車にデリカとトヨタ・ライトエース
  • 『ポリス・ストーリー/香港国際警察』:バラック街のカーチェイスでコルディア、犯人側の車にシャリオ(外国名:スペースワゴン)。麻薬王の秘書の車にギャランΣ。署長を人質にして逃げる時はミラージュ。この作品の後半ではホンダ・シビックを運転して派手な縦列駐車を決めている(この作品以外にもホンダや日産、マツダの車両が劇用車で登場している)。
  • ポリス・ストーリー2/九龍の眼』:ミラージュ。運転席のヒューズ線を使って爆弾解体。この他にギャランやシビックの覆面車も確認できる。
  • キャノンボール2』:ハイテク改造を施したスタリオンで出走(前作はスバル・レオーネ)。
  • プロジェクト・イーグル』:あらゆる改造が施されたパジェロが登場。この特別仕様車の外観は、初期のパリダカ仕様パジェロ、水陸両用可能な点はパジェロのコンセプトカーであるフォーリストラーダを髣髴とさせる。劇中冒頭で洋上に浮かぶこの車のルーフデッキで釣りをしているシーンがある。
  • ツイン・ドラゴン』:ラストの格闘シーンは三菱の自動車テスト場での設定になっている。他にもランサーやディアマンテが劇中に登場(4ドアセダンのランサーは日本ではミラージュの4ドア)。テスト場にはなぜか日産・ブルーバードがあった。ジャッキーが格闘するシーンでは最後に悪玉をギャランΣの衝突実験車に乗せ、そのままクラッシュさせた。衝突したスピードは時速300キロとされ、シートベルト非装着のため即死だった。なお、その前にターザンが同じ目に遭うが、はるかに低速であった上にシートベルトを装着していたため無事だった。
  • 新ポリス・ストーリー』:ミラージュと同じくギャランはジャッキー・チェンの作品に登場する。この作品はギャランΣのスタンダードクラスのGLでカーチェイスで大破。ランサーはジャッキーが汚れた服を、新しい服に着替えるためにリヤハッチゲートを開けて使った。ランサーはミラージュの兄弟車にあたり、ジャッキー映画でも活躍する。
  • デッドヒート』:ランサーエボリューションIII、GTOでレースに出走。序盤のシーンで、トーステン・ニッケル扮するクーガーの駆る黒い日産・R32スカイラインGT-R三菱・FTOでチェイスしている。また三菱自動車の施設(三菱自動車・岡崎工場、現三菱ふそうトラック・バス喜連川テストコース)で研修を受けるシーンもある。その他のレース車はシビック、ギャランVR-4、マツダ・RX-7トヨタ・スープラBMW・3シリーズなどで、その多くがレース中に大破、爆破される。
  • ファイナル・プロジェクト』:パジェロ・FTO、最後のジャンプで船に突っ込む。
  • フー・アム・アイ?』:秘密任務のため大怪我を負ったが現地の部族に助けられて仲間になり、パジェロでクロスカントリーラリーに参戦している日本人チームが困っているところに出くわす。また南アフリカでBMWとのカーチェイスでランサーエボリューションが使われている。
  • 香港国際警察/NEW POLICE STORY』:犯人を追いかけていく過程にパジェロを使用。他にもランサーエボリューションなどが登場。
  • プロジェクトBB』:現金輸送車に牽引されていったベビーカーを追いかけるためにパジェロを借りる。乳児を狙うギャング団の車にグランディス。モク警部の捜査車両にランサー。大家の車はスバル・ドミンゴ
  • またハリウッド作品でも香港が舞台だった場合三菱車が登場していたこともある(例:「ラッシュアワー2」でジャッキー扮するリー警部の愛車がランサー(もしくはミラージュ)。
  • 『デッドヒート』のパンフレットで、レーシングドライバー中谷明彦は「本気でレーサーを目指したら強敵になるにちがいない」と語っている。

映画外での関係[編集]

ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。

1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいたことがある。

大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタックフェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。

2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている[20]

香港では風水などの思想を重視するため、縁起の良いナンバープレートが高額で取引されることがよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。

日本との関わり[編集]

東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心で、1979年に『トラック野郎』との2本立てで公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、『トラック野郎』の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』、『クレージーモンキー 笑拳』、『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』、『龍拳』、『蛇鶴八拳』、『カンニング・モンキー 天中拳』、『成龍拳』、『ジャッキー・チェンの醒拳』が公開され話題を集めた。

その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也の吹き替えが、分かりやすく共感を呼び、好評を博した[21]

訪日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演することが多い。近年では、日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたり様々なゲームで対決をしている。

2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。

2010年11月15日放送の『SMAP×SMAP』で『芸能界ジャッキー・チェン王決定戦』が行われ、我こそはジャッキー・マニア代表だと豪語する香取慎吾中川翔子ドランクドラゴンの塚地武雅スキマスイッチの大橋卓弥中川家の礼二有村昆がジャッキーのサイン入りお宝グッズを巡ってクイズで勝負をした。ジャッキーもVTR出演し、またコーナー・ゲストの木村拓哉稲垣吾郎もボケ担当として笑いを誘っていた。ただクイズで優勝を競うと言うより、それぞれがお宝グッズを公開したり自慢話をしたり、ジャッキー映画の名場面を観ながら全員で盛り上がるといった内容であった。

2013年には、キリンビールの「のどごし生」CM「夢のドリーム」企画において、「カンフースターになりたい」という会社員の夢を実現する形で、会社員、中川翔子、会社員の後輩のアクション俳優らと共演した。

2014年6月12日放送の『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』で、「ジャッキー・チェン芸人・大集合」が行われ、中川家次長課長ら芸人達や、中川翔子が出演した。これは2006年に中川家礼二が番組内でプレゼンした企画が、8年越しで遂に実現した。内容は、ジャッキーの映画や本人の魅力をトークしたり、「プロジェクトA」、「ポリス・ストーリー/香港国際警察」等の代表作から、そのアクションシーンやNGシーンの数々を紹介し、ジャッキーの映画スターとしての歴史を振り返ったり、更に芸人達による名シーンの再現コーナーもあり、正にジャッキー尽くしの1時間だった。

ファンクラブ[編集]

1980年代から1990年代にかけて、日本のファン達による私設(個人)ファンクラブが多かったことは有名で、「ポーポークラブ」、「chan'sクラブ」、「不死鳥成龍会」、「MIRACLES」、「無問題倶楽部」、「チャイニーズドラゴン」などが存在し、それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集いなどの活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影など)で訪れた際は、喜んで対応していた。

1980年代当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」、「ジャッキー・チェン祭」などの名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映を行っていた。2011年には、ジャッキー・チェンをリスペクトとした映画イベント「成龍祭」が規模を拡大し、「大成龍祭」として、東名阪で行なわれ、先に大阪と名古屋が終了。最後となる東京は11月に幕を閉じた。このイベントは2004年から、TOHOシネマズの劇場を中心に毎年実施されている。ファンが積極的に協力しているのが特徴で、2010年は、ジャッキー本人からビデオメッセージが直接届いたり、参加者が書いたジャッキーへの寄せ書きに返事が来るなど、ジャッキーサイドにも認知されつつある。

成龍祭の集大成として、11月4日にオールナイトで開催された『東京国際ジャッキー映画祭』では、中川翔子や次長課長らのメッセージのほかに、ジャッキー本人からも感謝と激励のメッセージが届き、多くのファンを喜ばせた。なおイベントの総合司会として、ジャッキー・チェン啓蒙ユニットの『スクール・オブ・ジャッキー』が抜擢され、長丁場を取り仕切った。

日本語吹き替え[編集]

声優の石丸博也はジャッキーのほとんどの作品で吹き替えを担当しているほか、ジャッキー関連のアニメやドキュメンタリーでも声を担当。 ジャッキーも石丸に対し「これからも僕の声をよろしくお願いします。今度あなたが香港映画に出る時は僕があなたの声を吹き替えます(笑)」と親しみを込め語っている。 2010年11月13日放送の『めざましどようび』には石丸が電話出演し、当日公開のジャッキー最新作『ラスト・ソルジャー』のPRを行った。 なお、石丸とジャッキーの初対面は、1982年4月放送の『スネーキーモンキー 蛇拳』のアフレコスタジオである(ちょうど新作『ドラゴンロード』のPRで来日しており、ジャッキーが石丸を表敬訪問)。 また1984年8月放送の『夜のヒットスタジオ』にジャッキーが歌手として出演した時は、石丸がジャッキーの応援で出演し、当月公開の新作『五福星』の1シーンをジャッキーの前で吹き替えした。 2013年4月13日に行われた『ライジング・ドラゴン』公開初日舞台挨拶では、「石丸博也が人生初の映画舞台挨拶に登場!」と銘打ち、大勢のファンを喜ばせた。 彼は、フィックス声優の確固たる地位を築いており、作品や配給会社による声優変更がなく、吹替ファンには安心である。

芸能人のファン[編集]

1980年代にはジャッキーがそれ以前からファンであった西城秀樹と親友の間柄になり、1987年滋賀県烏丸半島で行われた「アジア・ポップス'87〜第5回びわ湖水の祭典〜」コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」、「琵琶湖周航の歌」等を一緒に熱唱した。

芸能人の中にジャッキーのファンも多く、映画やTVのバラエティ番組で、内村光良武田鉄矢山本高広長井秀和岡村隆史陣内智則らにモノマネされたことがある。

内村光良は、2004年の映画『恋人はスナイパー』の中で、『フー・アム・アイ?』のラストのビル屋上での死闘のパロディを中村獅童と演じた。また1990年頃の自身の番組で「ウッチー・チェン」と言うキャラを演じ、ジャッキー映画の名場面を再現し危険なスタントも内村自身が演じ、それを観たジャッキー本人も絶賛していた。また1992年の映画『七人のおたく』」でもジャッキーを真似たキャラを演じている。また自身の番組にジャッキーをゲストに招くことも多く、毎回いろんな企画(リング上でのカンフー対決など)をやっている。内村いわく「ジャッキーは俺の番組の年一のレギュラー!!」との事である。

武田鉄矢は、一時期ジャッキーの髪型を真似るほどの自他共に認めるジャッキー・ファンとして有名である。1980年代に映画『刑事物語』シリーズを5本製作しジャッキーとの共演を熱望していたらしいが、ギャラの折り合いがつかず断念したという話がある。『刑事物語3・潮騒の詩』のオープニングのビルからの落下は『プロジェクトA』でジャッキーが時計台から落下する場面のパロディで、またラストのヒットマンとの野原での対決は『ヤングマスター 師弟出馬』のラストの死闘のパロディである。武田いわく「この役はジャッキー・チェンへのオマージュなんです!!」との事である。

漫画[編集]

1980年代には、『月刊コロコロコミック』にて、ジャッキーをパロディー化したキャラクター「ジャッキーちゃん」が主人公のギャグ漫画「あほ拳ジャッキー」(作・ぜんきよし)が連載された。ちなみに同作品にはブルース・リーやジェット・リーのパロディーキャラも登場している。また『ハイスクール!奇面組』にも若気市猿(じゃきいち・えん)という一過性のキャラクターが登場する。他、『浦安鉄筋家族』シリーズにジャッキーをモデルにした大福星子(だいふく せいこ)というキャラクターが不定期で登場している。

主な出演作品[編集]

タイトルは日本語題・原題の順  ※は監督兼任

映画[編集]

1970年代[編集]

1980年代[編集]

1990年代[編集]

2000年代[編集]

2010年代[編集]

TV[編集]

オリジナルビデオ[編集]

CM[編集]

ゲーム[編集]

スパルタンX(アーケードゲーム・家庭用ゲーム各種)
ジャッキー関連での初のゲーム化は、1984年にアイレムが製作販売したアーケードゲームの『スパルタンX』である。ただし、ゲーム自体は映画の内容とは関連性はなく、登場人物の名前程度しか共通点はなかった。尚、1985年に任天堂より発売された、ファミコンへの移植版のパッケージの絵には、ジャッキー似のイラストが使われている。またFCへの移植版は後に『KUNG FU』というタイトルに変更され販売された。後にアイマックスより、プレイステーションやセガサターンで発売された『アイレムアーケードクラシックス』では、アーケード版の復刻版が収録されていた。
ジャッキー・チェン(PCエンジンファミコン
PCエンジンおよびファミコン用のゲームソフトとして、1991年にハドソンより『ジャッキー・チェン』が発売(開発はナウプロダクション)。前述のスパルタンXとは異なり、こちらはジャッキー自身が主人公であり、正統派のアクションゲームとして発売された。このゲームの発売時のゲーム雑誌でのインタビュー記事には、リップサービスか本当なのかはともかく、ジャッキー自身のアイディアがゲーム中に取り入れられていると本人がコメントしていた。
カンフーマスター ジャッキー・チェン(アーケードゲーム)
1995年には、アーケード用対戦型格闘ゲームの「カンフーマスター ジャッキー・チェン」が日本のゲームメーカーのカネコから製作・販売された。このゲームの登場キャラは、実在の俳優を撮影した画像を録り込んで使用していたことから、ジャッキー本人もキャプチャ撮影を行いそのまま実写で登場している。尚、このゲームにおいてジャッキーは主人公のプレイヤーキャラクターではなく、最終ボスとして登場する敵役という異質なものであった。登場する服装は数パターンあり、クンフーの稽古着や『プロジェクトA』内で着装した警察の正装で戦う。ちなみに後に発売された続編では晴れてプレイヤーキャラとして使用可能になった。
家庭用体感ゲーム事業
2005年には家庭用体感ゲームの事業にも参加している。同年秋にゲーム事業のイベントで訪日した際には、関係者から前述の『スパルタンX』がゲーム化されていることを初めて聞き、無言で手を差し出す(権利料を払え、の意)という行為を行った。場が凍りつくようなハプニングであったが、直後にジャッキーは満面の笑みでジョークであることをアピールし事無きを得た。
プロ野球スピリッツ5
2008年4月に発売された、PS3用ソフト「プロ野球スピリッツ5」において東京ドームでプレイすると外野後方にあるオロナミンCの看板にジャッキーが映る。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 先輩であるサモ・ハン・キンポーの愛称は「大哥大」(ダイコーダイ/大兄貴の意)であり先輩としての尊厳を損ねないよう差別化されている。さらに「哥哥」といえばレスリー・チャンの愛称である。
  2. ^ 名前の陳港生は、香港生まれという意味。
  3. ^ 両親については、Charles and Lee-Lee Chan参照。彼の生い立ちは、メイベル・チャン監督の『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2002年)に詳しく、ジャッキー本人も知らない兄弟の存在など複雑な家庭環境を持ったことが紹介されている。また、この作品においてジャッキーの本名は陳港生ではなく、房仕龍(家系図上での名は房仕龍とされており、ジャッキーは唐代の宰相房玄齢の子孫だと自称している)であると明かされている。
  4. ^ 彼の青春時代を描いた、メイベル・チャン製作総指揮・脚本、アレックス・ロー監督、サモ・ハン・キンポー主演の『七小福』(1989年)では、厳しい京劇の学校での生活と、香港映画界へと進むまで姿が描かれている(ただしジャッキー本人は出演していない)。
  5. ^ ハリウッド進出後はハリウッドのシステム上、些細なシーンでも監督やコーディネーター、保険の問題などから危険と判断され、香港時代のようにノースタントで自由に演じさせてくれず、アクションシーンで悩んだという。
  6. ^ ただし地元香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りで、『タキシード』、『シャンハイ・ナイト』、『メダリオン』などはジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった(野崎歓『香港映画の街角』青土社、2005年、310ページ)。
  7. ^ a b 堀田眞三 (2006年7月30日). “千葉真一さんの職業病” (日本語). 俳優 堀田眞三(グランパ)です。. 2010年12月24日閲覧。
  8. ^ 韓国でも大変人気が高く、本人もたびたび韓国を訪れている。
  9. ^ “ジャッキー・チェンの極端な共産党擁護発言に香港市民が反発”. マイナビニュース. (2012年12月24日). http://news.mynavi.jp/news/2012/12/24/006/index.html 
  10. ^ 「全財産をチャリティー」宣言、息子への遺産ゼロ―香港 - 2011年4月3日、レコードチャイナ
  11. ^ ジャッキー全財産を東日本大震災などに寄付 総額260億円 - 2011年4月4日、産経ニュース
  12. ^ 自伝『I AM JACKIE CHAN』の中で、テレサとの恋愛と別れ、亡くなった彼女に対する想いについて明かしている。なおテレサとのデュエット曲は、日本だけでなく中華圏でも大ヒットしたテレサの代表曲「時の流れに身をまかせ」の北京語版(「我只在乎你」)からテレサの歌声のみを抜き出し、ジャッキーのボーカルと合成して完成させたものである。
  13. ^ [http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=78566 ジャッキー・チェン「娘」の存在を初告白、「男が誰でも犯す過ち」の結果―北京市 - 2013年11月1日、レコードチャイナ
  14. ^ ジャッキー「中国人は要管理」、中国人「その通り!」サーチナ 2009年4月20日
  15. ^ 【華流】ジャッキー「TV買うなら日本製」で、納得の中国人もサーチナ 2009年4月20日
  16. ^ [http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=65172 ジャッキー・チェンが主張「中国のもの」!北方領土は「日本に還せ」
  17. ^ ジャッキー・チェン、酔ってショーを台無しに?”. cinematoday (2006年7月18日). 2007年4月12日閲覧。
  18. ^ ジャッキーにスタントマンがいた!”. スポーツニッポン (2007年4月6日). 2007年4月12日閲覧。
  19. ^ とんねるずのとんねるずのみなさんのおかげでした・食わず嫌い王より
  20. ^ プレスリリース:MITSUBISHI MOTORS JAPAN 三菱自動車、中国におけるブランドキャラクターとしてジャッキー・チェン氏を起用” (2007年4月20日). 2007年8月25日閲覧。
  21. ^ 1990年代頃までの過去の作品はジャッキーの肉声ではなく、別の役者によって吹替えられている。これはジャッキー作品特有のものではなく、当時の香港映画界では、俳優の出身地が様々であること、俳優にポスト・プロダクションに時間を費やさせないこと、録音技術の不足、といった理由から撮影時に音声の録音をせず、後からプロの声優によって北京語・広東語・英語音声の音源が作られるというシステムになっていたことによる。2012年現在ではジャッキーも含め、出演者本人の台詞を録音して使うことが主流となっている。また過去の作品をアメリカで公開する際はジャッキー自身の英語セリフにより新録音され、音楽もリニューアルされることが多い(『酔拳2』、『レッド・ブロンクス』、『ファイナル・プロジェクト』など)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]