周星馳

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チャウ・シンチー
周星馳
ChowKL1.JPG
プロフィール
出生: 1962年6月22日(50歳)
出身地: 香港の旗 香港
職業: 俳優映画監督
各種表記
繁体字 周星馳
簡体字 周星驰
ピン音 Jau1 Sing1chi4(広東語
Zhōu Xīngchí(北京語
和名表記: チャウ・シンチー
発音転記: チョウ・シンチー(広東語
ヂョウ・シンチー(北京語
英語名 Stephen Chow
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周 星馳(チャウ・シンチー)は、香港俳優映画監督。愛称は星爺(シンイェ)、星仔(シンチャイ)、星星(シンシン)。

目次

人物・経歴 [編集]

1962年6月22日、香港生まれ。先祖は上海系。両親が幼い時に離婚、姉と妹に挟まれ唯一の息子として、母親に頼りにされる。

中学時代に、姉の遊び仲間の中の一人で同い年のトニー・レオンと出会う。彼も両親が離婚、母親と妹と暮らしていたことから、シンチーと意気投合。この時、すでにブルース・リーに憧れていたシンチーは、トニーや他の友人と共に山の頂上に登り、8ミリカメラでカンフー映画を撮ったことがあるという。シンチーが主人公のヒーローを、トニーが仇役を演じたその貴重なフィルムは、シンチーの手元にだけあるとか。

中学(日本でいう高校2年までに当たる)を卒業するが、家庭の事情もあって進学を断念。テレビの仕事をする前は、学歴が高くなかったこともあって秘書(悪く言えば使い走り)のような仕事しか選択できなかった。

香港TVBの俳優養成所を、トニーを誘って受験するが、2000人が受験して200人しか合格せず、20人前後しか卒業できない難関とあって、トニーしか合格出来なかった。一時は落ち込むシンチーだったが、隣に住んでいた女性の先輩の口利きと励ましで気を取り直し、夜間コースの訓練生として再受験して合格。昼間コースのトニーと共に、第11期の卒業生となる。なおこの11期には、フランシス・ン(呉鎭宇)、レイ・チーホン(李子雄)らが在籍していた。

卒業前から注目を集め、一足早く引き抜かれたトニーに続いて、子供番組『430穿梭機』の司会者としてデビュー。この番組は2人の司会者が「良いお兄さん」と「悪いお兄さん」に扮し、「良いお兄さん」が「悪いお兄さん」の素行を叱って話が展開していく教育番組で、チャウは「悪いお兄さん」役を担当した。この役を大好評のうちに5年間務め上げ、その後、総合チャンネルの司会者を1年務めた後、俳優としての活動を開始。当初は週に1、2日しか仕事がなかったが、この下積み時代にたくさんの本を読むなどして勉強したことが今日の彼を支えているという。[1]

初期のテレビドラマ出演作は、1期上のアンディ・ラウ劉徳華や同期の出世頭のトニー・レオンに遅れを取り、脇役、準主役が多い。1988年の映画『霹靂先鋒』で金馬奨の最優秀助演男優賞を受賞しているが、この頃まではシリアス路線だった。ようやく掴み取ったドラマ初主演の時代劇『蓋世豪侠』で、若者言葉やパロディの台詞など現代感覚を持ち込み、一躍人気者となる。流行語も産み出した。やがて彼独特のナンセンス・他人には意味の掴めないとっさの切り返し・アクションは「無厘頭(もうれいたう)」と呼ばれ、一世を風靡することになる。

『破壊之王』(日本未公開)でノンクレジットではあるが一部監督を行う。『0061北京より愛を込めて!?』で、初の共同監督としてクレジットされる。

日本では映画『少林サッカー』で一躍その名を知られるようになった。『カンフーハッスル』との2作連続で、香港歴代興行収入の記録を塗り替え、監督・脚本・製作・主演をこなす、世界で最も注目されている香港映画人の一人である。『少林サッカー』では2002年香港電影金像奨最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀主演男優賞を、『カンフーハッスル』では2005年金馬奨最優秀作品賞・最優秀監督賞を受賞した。

また、子供の頃からブルース・リーの熱心なファンで、香港小龍會(香港ブルース・リーファンクラブ)の名誉会長も務めていた。彼の銅像建立には全費用を負担し、満身で喜びを表していた。尊敬しているのはブルース・リー、憧れているのはジャッキー・チェンだという。

フジテレビ系列のバラエティ番組トリビアの泉』に出演したことがある。

劇場公開・ビデオ発売された出演作品 [編集]

映画 [編集]

出演以外の作品 [編集]

担当した声優 [編集]

関連人物 [編集]

  • 馳星周:日本の作家。周星馳の大ファンで、彼の名前をひっくり返したものを自分のペンネームとした。

脚注 [編集]

  1. ^ 中国での対談番組『面対面』で語る

外部リンク [編集]