広岡達朗
| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | 広島県呉市 |
| 生年月日 | 1932年2月9日(81歳) |
| 身長 体重 |
180 cm 70 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 1954年 |
| 初出場 | 1954年4月4日 |
| 最終出場 | 1966年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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野球殿堂(日本)
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| 選出年 | 1992年 |
| 選出方法 | 競技者表彰 |
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この表について
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広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡[1]、1932年(昭和7年)2月9日 - )は、広島県呉市出身のプロ野球選手(内野手)・プロ野球監督、野球解説者(野球評論家)。
東京都町田市在住。愛称は「ヒロさん」、あるいは単に「ヒロ」。また、野村克也や森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」と呼ばれることもある。
目次 |
人物 [編集]
現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ守備コーチ、ヤクルトスワローズヘッドコーチ・監督、西武ライオンズ監督を歴任。監督としては、最下位球団だったヤクルト、長期に渡って低迷していた西武をリーグ優勝・日本一へと導いた。その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。
父は旧日本海軍の少佐で、駆逐艦の機関長であった[2]。自身も終戦がもう少し遅ければ海軍兵学校に進み軍人になるつもりだったという[3]。兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である[2]。宝塚歌劇団94期生(2008年入団)で星組男役の麻央侑希は孫のひとり(長男の長女)[4]。甥の広岡資生は早稲田大学で東京六大学の首位打者に輝き、卒業後は松下電器に進み監督も務めた。また、鶴岡一人は小学校の先輩にあたる。
経歴 [編集]
1949年、呉三津田高校三年時、夏の甲子園大会地方予選、山口県代表との西中国大会決勝に進出し柳井高校と対戦、甲子園まであと1勝と迫るが、自身の悪送球を切っ掛けに敗退[5]。野球を辞めて広島大学か山口大学への進学を考えていたが、柳井高戦を見ていた大学の関係者に誘われ早稲田大学教育学部へ進学[6]。早大野球部では荒川博・沼澤康一郎・小森光生らとともに東京六大学リーグのスタープレーヤーとして鳴らした。 リーグ通算82試合出場、315打数68安打、2本塁打、52打点、打率.216。
現役時代 [編集]
プロ数球団から入団を打診され、父からは三原脩監督から誘われていた西鉄ライオンズ入団を勧められたが1954年、自身の念願でもあった水原茂監督率いる読売ジャイアンツに入団[7]。広岡は「私の野球の原点は巨人軍の野球である。わたしがプロの厳しさを、いやというほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球である」と述べている[8]。当時の正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い、打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた。
以後、大阪タイガースの吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手と称され、とりわけ守備の堅実さ、華麗さを吉田と競いあった。打撃面では1年目以外は低打率の年が多かったが、通算118本塁打、特に1958年には右膝を故障して2か月欠場したが、復帰後は18本塁打を放つなどパンチ力もあった[9]。57年12月には、品川主計球団社長(当時)の仲人で挙式[10]。
1961年に川上哲治が監督に就任し、広岡はコーチ兼任となる。1964年8月6日の対国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が独断でホームスチールを行い、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかったことに対し、バットを叩きつけて「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と激怒し、試合途中で球場を後にした[11]。同年、川上がシーズン終了後に広岡のトレード放出を画策したが、広岡が正力松太郎に「トレードされるなら巨人の広岡で終わらせてください」と引退を直訴した結果、正力の指示で残留が決定したが(川上はスポーツマスコミに非難を浴びた)、翌年から出番が減った[11]。川上は広岡の資質を高く評価していたが1966年、広岡が『週刊ベースボール』に巨人への意見記事を寄稿したことで、「選手の分がわかっていない」と激怒[12]。大騒動の末、同年のシーズン終了後に現役を引退した。ここから川上との確執がはじまる。
自身が目指す野球は私を追い出した巨人より正しいことを証明したいと、現役引退直後の1967年2月にメジャーリーグのキャンプの視察をするため渡米する[11][13]。帰国後はラジオ関東、サンケイスポーツなどで評論家活動。フロリダ州ベロビーチのドジャータウンで行われていた巨人のキャンプも訪れたが、川上監督は広岡による取材を許さず、選手に対して「広岡と口を利くな」と指示を出し、さらに広岡のドジャータウンへの宿泊も許可しなかった。広岡は川上の仕打ちに激怒し、文字通り殺意を抱くほどの激しい怒りを感じたと述懐している[13]。しかし森昌彦(祇晶)一人だけが広岡が宿泊しているホテルを訪れ食事をともにし、気遣いを見せた。広岡は森に深く感謝し、以後行動を共にするようになる。
広島コーチ時代 [編集]
1970年、根本陸夫監督に請われ、広島東洋カープの内野守備コーチに就任。打撃コーチ・関根潤三と共に、山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを育て、後の広島黄金時代の礎を築いた[14][15]。また、根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる。広岡は苑田の守備をみて根本に「苑田は内野手のセンスはゼロ。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁してください」といったが、根本は「俺が責任をもつからとにかくコンバート練習をやれ」と厳命され、広岡はしぶしぶ従った。当初は苑田は一向に上達を見せず、また厳しい指導のストレスで円形脱毛にも陥り、広岡も一度は苑田の転向をふたたび諦めかけた。しかし根気よく指導を続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きがこなせるようになり、これ以降苑田は、広島の内野守備要員として定着、活躍していく。この苑田のコンバート成功は広岡にとって大きな財産になった。この件について広岡は「プロに来る選手は誰でも大変な才能をもっている。しかし答えの出し方を知らないから自分に才能がないと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになって選手と一緒にさがしてやるのが指導者の務め。選手と指導者にやる気さえあれば、選手は必ず答えを見つけて上達してくれる」と学び、指導者としての自分があるのは苑田のおかげであると事ある毎に述べている[14][16]。
1971年に広島を退団。野球解説者として活動する傍ら、プロゴルフのコーチもしていた。この頃になると川上とはわだかまりが解けた模様で、広島退団後には川上を訪ね、広島でのコーチ経験を述べ、巨人のファームコーチを志願している。
ヤクルトコーチ・監督時代 [編集]
1974年にヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには早大の先輩だった荒川博打撃コーチがおり、先輩を差し置いて自分が監督になるわけにはいかないと辞退し、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格)。コーチには広岡の他に小森光生・沼澤康一郎らがおり、監督と合わせた4人で「早大カルテット」として話題になった。1976年にヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中で荒川の後任として監督に就任した。
当時のヤクルトは松園尚巳オーナーの方針で家族主義的なチームカラーであったが[17]、広岡は「広島以上にぬるま湯」とプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した[18][19]。シーズンに入り故障者が続出したことで、広島コーチ時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理をヤクルトの選手に対しておこない、正式に監督に就任後の1977年の春季キャンプで、麻雀・花札・ゴルフの禁止、禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)、ユニフォーム姿の喫煙禁止を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した[12][20]。キャンプでは守備走塁を徹底的に重視する練習・試合方針を打ち出す。当初は選手から反発を受けたものの広岡の方針は成功し、同年チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかしペナントレースは巨人が優勝し、2位ヤクルトは巨人に対して7勝19敗と大きく負け越した。
翌1978年は、森昌彦を作戦コーチとして招聘。森は広岡の意向を受けて選手たちの私生活も事細かく管理した。また森の収集したデータに基づき、巨人に対しての対策を強化する。5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した。後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、ここから巨人が失速し、ヤクルトは多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日にリーグ優勝を決めた。ちなみにこの年はヤクルトは巨人に対して勝ち越している。日本シリーズでは四年連続日本一を狙う阪急ブレーブスと対戦。世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが[21]、ここでも広岡ヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。ヤクルト球団も日本シリーズ優勝を想定しておらず、本拠地の神宮球場を確保していなかったため、日本一を決めた舞台は後楽園球場だった。古巣である巨人の本拠地で胴上げされたのは複雑な思いだったという[18]。
広岡は日本一になった時点でヤクルトを退団することを決意していたが、球団の慰留を受け、新たに3年契約を結んだ。広岡はチーム強化のためにいくつかトレードを予定していたが、広岡の意図したトレードは殆どが成立しなかった。広岡はこれを振り返って「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。1979年も優勝候補の一角であったが、開幕から8連敗を喫して成績が低迷。佐藤邦雄球団社長は選手から評判の悪かった森を、広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、植村義信投手コーチを二軍降格させようとした。広岡は球団の人事案を巡って対立を起こし、8月17日には辞任を申し出た[22][23]。佐藤球団社長から「じゃ辞めろ」と言われ、広岡、森、植村と三人一緒に退団した[23]。退団前に、堪忍袋の緒を切って「巨人びいきの審判がいる。丸山、岡田、大里。名指しで書いてもらってけっこうだ」とマスメディアにぶちまけた[24]。
退団後は日本テレビの解説者として評論活動を展開。容赦のない毒舌な解説が人気を博した。1981年には近鉄バファローズと阪神タイガースから監督要請を受けるが、いずれも辞退した。阪神からは1978年と2度要請を受けた[25]。
西武監督時代 [編集]
1982年、西武ライオンズの監督に就任。契約金6000万円、年俸3600万円と異例の好遇であった[26]。監督就任にあたっては5年に及ぶ長期契約を締結したが、その内容は「休養中は給料は支払わない」「舌禍に対しては厳罰を処する」など、非常に厳しいものだった。記者会見の席でこれについて聞かれた際、広岡は「納得したから契約した」と語っていた。
広岡はライオンズでもスワローズの時と同様、厳しい生活管理とディフェンス重視の野球をおこなう。前任監督の根本は放任主義で有名で、その結果、西武ナインは「十二球団一の怠け者集団」といわれていた[27]。そこへ「広岡式海軍野球」を持ち込んでも、空中分解してしまうのがオチという見方も多かった[27]。広岡が「一年で優勝してみせる」と言い切ると[26][28]、報知新聞は"優勝したらそれは魔術といえる"と揶揄した[26]。ところが就任一年目に前期優勝を遂げると、プレーオフで後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して球団19年ぶりのパ・リーグ優勝に導く。同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で破り球団24年ぶりの日本一、西武第1次黄金時代の幕開けを導いた[29]。日本ハムの監督だった大沢啓二は「近鉄とロッテさえ注意すりゃあパ・リーグの優勝は間違いねえ、なんて思ってたんだ。ところが蓋を開けてびっくりよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が監督就任1年目で優勝なんて、なかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたもんよ」と述べている[30]。
翌1983年も、2位の阪急に17ゲーム差を付けるという独走状態で優勝を遂げる。日本シリーズの相手は古巣の巨人であり、さらに藤田元司監督とはかつてのチームメイトということもあって、その対決は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として日本中の注目を集めた。このシリーズは第7戦までもつれにもつれる歴史的な激闘となったが、4勝3敗で広岡の西武が勝利、2年連続日本一に導く[31] 。球界に「西武時代到来」と騒がれた[12]。
シーズンオフになると、日本ハムからトレードで江夏豊が入団。このトレードは西武側からの申し入れと「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という大沢の意向によるものである[32]。江夏獲得のため中継ぎ投手の木村広、柴田保光を放出し、さらに小林誠二も広島へトレードとなり、一気に中継ぎ投手が3名も退団した。このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本陸夫らフロントに対して反感を抱くようになる。また江夏が一匹狼的な性格であり、広岡は選手管理で有名であることから、マスコミでは両者の衝突を予想していた。
1984年は、V2を支えた田淵幸一・山崎裕之・大田卓司らが不調であり、好調の阪急におされて、早々とペナントレースから脱落してしまう。5月より方針を転換、若手選手を多数起用し新旧交代を見据える采配を行った[31]。一方ではベテランに見切りをつけ、田淵・山崎は現役引退を決意する事になり、江夏は8月以降二軍落ちするとそのまま出番が与えられずに西武を自由契約となった。江夏は広岡について「俺の生活権を奪った男」と語っている。元々、若いピッチャーの模範になってもらいたい、と江夏を西武に引っ張ったのは広岡であり、江夏には食事メニューは自由、ミーティングも出席は強要しないといった実績を十二分に尊重した処遇を行っていた。ところが江夏があまりにチームメイトに馴染めない、結果も出せないこともあって対応に苦慮した[33][34]。孤高の革命児は、広岡の持ち込んだ「組織野球」の幕開けと共に球界を去ることになる[35]。この年は若手に切り替え「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位Aクラスに入ったことで会心のシーズンだったと話している[31]。
田淵が1984年限りで引退したことから、広岡は外国人選手の長距離砲を渇望。カリフォルニア・エンゼルスに在籍していたドン・ベイラーを獲得するようフロントに進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエースだった郭泰源を獲得。当時の外国人選手の登録枠は2人だったが、ジェリー・ホワイトの解雇で空いた枠を野手ではなく投手に振り分けてしまったことで、一軍登録は「野手1人・投手1人」となる(スティーブ・オンティベロスと郭泰源)。これで広岡はますますフロントに対して反感を抱く。1985年は秋山幸二・辻発彦・工藤公康・渡辺久信などの若手選手が台頭し、独走状態でリーグ優勝を果たした。しかし広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化してチームから離れ病気療養し、優勝決定時には現場に不在だった。同年の日本シリーズでは阪神に2勝4敗で敗れて日本一を逃した。
広岡はシーズン終了後に監督の権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙に対してフロント批判を再三にわたって繰り返したことを根本が問題視すると、広岡は辞任を申し出た[31]。5年契約を1年残しての辞任であり、電撃的な辞任といえる。広岡自身は「相当いい仕事をしているのにクビになった」と話している[36]。表向きの理由は「痛風を患ったことによる健康面での不安」であった。
西武監督辞任後 [編集]
西武退団後は評論家となり、NHKの野球解説者となる。1988年には巨人から王貞治の後任として監督就任を要請されたが、これを断っている(理由は後述)。後に渡辺恒雄から礼状を頂きそこには「あなたがかつて巨人監督就任を固辞されたことは、承知している。いま思えば残念至極」とあった[37]。
1990年から阪神監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて、阪神の東京遠征時には仲田幸司、猪俣隆、野田浩司の投手陣を指導した[38]。特に鳴かず飛ばずだった仲田をエースに変えるきっかけを与えた[39]。
一方で1988年には「ジャパンスポーツシステム」という会社を設立し、「日米ベースボールサミット」を開催。これは1988年から1990年まで行われて、アメリカ球界から監督・コーチ・現役の選手が来日し、日本からも広岡・古葉竹識・張本勲・鈴木啓示らが参加してサミットで議論を繰り広げた。また、野茂英雄・古田敦也らアマチュア選手たちも参加して実技指導を受けた。アメリカ側の参加者には、当時テキサス・レンジャーズ監督だったボビー・バレンタインもいた[40]。
ロッテGM時代 [編集]
1995年、千葉ロッテマリーンズの重光昭夫オーナー代行に誘われ、日本球界初のゼネラルマネージャーに就任[40][41]。当時のロッテは下位に低迷し「オーナーから全部任すと言われ、革命的なことをやる必要がある」と前述の日米野球サミット知り合った当時テキサス・レンジャーズの監督だったボビー・バレンタインを監督に招聘する[19][40]。しかし、バレンタインとは早くも野球観の相違から確執を起こす。シーズン開始直後から低迷し、広岡は二軍ヘッドコーチだった江尻亮を一軍ヘッドコーチに昇格させた。広岡はバレンタインの意向を遮って、試合のない日に選手へ練習を課したというが、広岡はバレンタインが「こんなはずじゃなかった」と泣きついてきたので「手助けしようか」と話すと「頼む」というから、それならと日本式の特守や特打を導入して、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している[40]。チームは後半から調子をあげ、最終的には1985年以来のAクラス(2位)に躍進。しかし広岡は、同年限りでバレンタインを解任し、後任に江尻を擁立した。但し広岡は「自身に監督をクビにする権限はなかった」と話している[19]。後にバレンタインは「GMとは選手を集めてくるのが仕事なのに、広岡はそれをせず、現場に口を出すだけだった」と批判した。これに対し広岡は「監督は現場で泥まみれになって選手を教えるのが仕事なはずなのに、バレンタインはそれをしていなかった」と反論している[19]。
江尻が監督を務めた翌1996年は5位に終わった。また、同年のドラフト会議で当時無名だった小坂誠の指名を主導するなどしたが、伊良部秀輝・小宮山悟・エリック・ヒルマンら主力選手とも確執を起こし、広岡は2年足らずでGMを解任された。GM時代の広岡の評価は色々である[42]。
再び解説者として [編集]
ロッテGM辞任後は、RFラジオ日本の野球解説者を1998年から2007年まで務めていた。また、その間スポーツ情報番組のパーソナリティとしても活躍していた。
現在は野球評論家として活動する傍ら、巨人軍OB会副会長を務めている。長嶋茂雄会長が脳梗塞で倒れた2004年以降は、事実上のOB会会長格として活動している(正式な会長ではない)。長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や前任の藤田元司が辞任した時にも会長候補として名前が挙がったが、就任は実現しなかった(2009年に王貞治が会長就任)。
「指導者というのは自分の体で見本を見せられなければいけない」が持論で[43]、高齢者の監督・コーチ業には否定的な立場を取っているため、2000年代以降は正式な指導者として腕を振るうことはないが、オフシーズンにはしばしば巨人の臨時コーチを行っている。2012年春のキャンプでは、阪神・中日・ヤクルトの臨時コーチを務めた[44]。母校・早稲田大学野球部の指導にも熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っている。
また、長嶋が巨人監督を辞任した後の2002年頃より、東京スポーツ紙上で巨人軍の球団経営に介入する発言を繰り返している。事実上の巨人OB会会長となった前後からは夕刊フジ紙上などで「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」と宣言している。
巨人監督は生え抜きに限るが持論で、2005年に星野仙一巨人監督就任説が浮上した際には公然と大反対した[45]。2007年、巨人が原辰徳監督で5年ぶりのリーグ優勝を果たすと「原が優勝してくれて心底ホッとしました。原には巨人魂がある。やはりヨソ者を入れてはダメ。巨人の飯を食ったことのない者に監督は任せられません」と話した[45]。
一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持ち、日本の野球界に対する苦言などを自らの持論を元にして語っていた。
オリンピックの野球競技へのプロ選手の参加には否定的で、「オリンピックというアマチュア選手の夢を奪うことは野球界のレベルアップにはつながらない」というのが持論である。
2008年4月からは、愛知新城大谷大学社会福祉学部の特任教授として教鞭をとっている(担当科目はスポーツ科学)。
評価 [編集]
選手として [編集]
優れた守備力をもった遊撃手として評価され、巨人の一時代を担った選手の一人とされる。ただし、当時の評価ではNo.1遊撃手は阪神の吉田義男とされており(ベストナイン遊撃手部門で吉田は9回選出されているが、広岡は1回だけだった)、広岡は、その吉田のずば抜けた守備力と比較されたため「甚だ迷惑した」と語っている。吉田の俊敏・華麗な守備に対抗するために広岡が行きついたのは「基本に忠実、堅実なプレー」だった。早大、巨人を通じてチームメートだった岩本尭は「どんなデコボコのグラウンドでバウンドがどうなろうと、広岡は百発百中捌いていた。広岡へのノックが始まるとほかの選手は練習を止めて見入っていたよ」とその守備力を称えている。
広岡が守備の手本としたのは、1958年秋に日米野球で来日したセントルイス・カージナルスの二塁手・ドン・ブレイザーだったという[46]。
妥協を許さない厳しい姿勢は監督時代につとに有名になったが、現役時代からそれは変わらなかった。巨人のコーチだった牧野茂は「彼には『このくらいでいい』っていうのがない。どこかで固めてしまえば“広岡スタイル”ができただろうに、常に上を求めてしまう。」と語っている。また、牧野と巨人の大先輩である千葉茂は口をそろえて「広岡のエラーには『理由のないエラー』がない。エラーをすると必ずその原因を追求して、次の日にはそれを修正するための練習をしていた」とその探究心を評価している。
指導者として [編集]
広岡の存在を球界史上不動のものとしているのは何といっても指導者としての功績である。コーチ時代の業績もあるが、監督として弱小球団であったヤクルト・西武をわずかな期間で日本一のチームにした手腕は多方面から高く評価されている。関根潤三は広岡を「文句なしに、球史に残る名監督、大指導者」と評し[47]、また早稲田大学の後輩である近藤昭仁[48]・中村勝広・八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉・大杉勝男・田淵幸一らからは深く信奉されている。チャーリー・マニエルはかつて池井優の著書で広岡の人間性を批判していたが、現役引退後アメリカ球界で監督と指導者としてキャリアを重ねていくうちに「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」と発言、指導者としての自分があるのは日本での経験のおかげであると述べている[49]。
その一方、現役時代から歯に衣着せない毒舌家であるため敵も多く、森祇晶・豊田泰光・江夏豊・東尾修らからは公然とその人間性を批判されている。特に森とは、かつては盟友と呼べる関係であったにも関わらず、広岡の森への発言と行動がきっかけで断絶、現在も袂を分かったままとなっている。大沢啓二は著書で「広岡と森はプライベートじゃ、ほとんど口をきかない。ただ試合になるとチームの勝利のためにプライベートでの確執を忘れて協力しあう、俺はその姿を見てつくづく思ったね。これこそが、ほんとうのプロフェッショナルだってな。あの二人のプロ根性が西武を強くしたのは間違いないよ」と述べている[30]。江夏は「広岡さんの野球に対する考え方は素晴らしい。管理野球、管理社会の時代には、最高の指導者だと思う。しかし長期的にみた場合、広岡さんのやり方では一人一人の選手の個性は伸ばせません」[50]、東尾も「広岡さんを監督にしたのは大正解。いい勉強をさせてもらったよ」[51]「広岡さんの厳しい指導の下で若手が成長し、チームが強くなったのは事実」[52]などと指導者としての手腕や実績については一定の評価を示しているものの、指導方針などを巡る様々な確執から、現在でもその人間性を批判している[53]。また広岡自身、選手・指導者・GMとしても、球団上層部と対立して退団することが多く、そのために長期にわたる監督政権を維持することができなかった。広岡は1981年週刊誌上で「チーム作りの戦略は正しいのに、実戦面でそれを生かせなかった場合は、実戦の責任者である監督が責めを負い解雇される。これは日米のプロ野球も似た面を持っているが、アメリカの場合はチーム作りの戦略そのものが間違っていたとなればフロントが責任を取る。企業戦略を謝れば日本でも経営者が責任を取るのが常識なのに日本ではフロントが責任を取ったタメシがない。プロ野球だけがそうではない。それはなぜか。日本のプロ野球はまだ企業ではなく、単なる親会社のPR部門に過ぎないからである」と述べている[54]。
過去に一番早くに広岡と確執を演じた川上哲治は、近年の自著『遺書』の中で広岡のことを「ひとことでいえば意志の人だ。頭がよく、ひらめきもある。特に先を読みながら考えを組み立て、実行していくタイプの野球人で、コーチであれ監督であれ、ゼネラルマネージャーであれ、どんな立場に就いても自分をフルに発揮する」と非常に高く評価している。
広岡自身は自著『意識革命のすすめ』他で、歴代プロ野球でもっとも評価する監督として西本幸雄をあげている[45]。日本シリーズでは一度も勝利を得ることがなかった西本であるが、広岡は選手を一から育成し弱小球団だった阪急や近鉄をリーグ優勝にまで導いた西本の手腕を絶賛している。この西本への評価から、広岡の理想の指導者像が「勝つ」能力ではなく、「育てる」能力をもった指導者であることがわかる。当然、FA制度その他で完成した選手しか集めなくなった現在のジャイアンツに対しては厳しい批判を向けている[55]。
管理野球 [編集]
監督としての広岡は、徹底した「管理野球」[56]で有名である[57][58]。選手の役割分担を決め、それぞれの役割を完璧に果たすように教育し鍛え上げる。綿密にスケジュールを組んで選手を管理する。夜遊びや度を越した飲酒を禁止し、食事のメニューまで規制を加えた。集団行動の規律を重要視する組織野球は「管理野球」と呼ばれた[57][35][33]。それがチームのためであり、選手自身のためだという論理である[33]。ヤクルト監督時代、1978年のチーム日本一の立役者であったはずのチャーリー・マニエルを全く評価しなかったように、打撃のみに特化した選手を嫌っている。かつては門田博光なども槍玉に挙げ、DH制に関しても否定的な見解を持っていた。しかし西武監督を経た後は、「中途半端な野球選手を作ることを別にすれば、攻撃的な野球が展開できて面白い」とその意見を若干変えている。ただしその後も福岡ソフトバンクホークスの松中信彦に対して「イチローのように(走攻守)3拍子揃っていれば素晴らしいが、松中のような打つだけの選手にどうしてソフトバンクは大型契約をしたのか」と批判している。
広岡は、勘や経験が頼りだったプロ野球選手のフィジカル管理にいち早く科学的な視点を取り入れたことでも有名である。「万全のコンディションでプレーするためには当然のこと」「プロの選手にとって、グラウンドがすべて。いいかげんな体調でグラウンドに出てくることは許されない」[59]と、その管理は選手の私生活にまで及び、1982年に西武監督に就任した際には、それまでの禁酒、禁煙、禁麻雀に加え、選手の食生活の改善から着手し、ヤクルト監督時代から自ら進めていた玄米食・自然食品摂取をチームに強要、肉の摂取量を制限した[12][57][60](ただ、「あくまでも『制限』であって『禁止』ではない」と後に広岡はマスコミの誇張表現に対し牽制している[58])。親交のあった森下敬一[61]を呼んでコーチ、選手全員を参加させ「夫がグラウンドでいい仕事が出来るよう参考に」と妻帯者の選手の夫人にも参加を呼びかけ講演会を行った[57][59]。この講演に「肉は腐った食物である。牛乳も農薬がかかった牧草を食べた牛からしぼり取るものなので、毒を飲んでいるようなもの」といった内容があったため[57][28][62]、この部分のみを誇張して翌日の新聞に大きく書かれた。実際は、これら肉や牛乳、ビタミン類が失われている白米より、玄米や雑穀類、豆乳などの方が栄養価が比較的高く自然治癒力もつきやすいという意味であり(広岡自身は、肉食が全面的にいけないといっているのではなく食べ過ぎるなという意味だと著書で言っている)また魚介類、野菜、果物で栄養のバランスをとったほうが身体にいい、という程度の要旨であったのだが[57][63]、親会社が日本ハムの大沢啓二監督が「草の葉っぱを食べているヤギさんチームに負ける訳にはいかない」と挑発[12][57][64][65][66][67]、これに絡ませ「熱パの食糧戦争」「自然食か肉食か」などと[62]興味本位に茶化した記事も出るなど、マスコミはこれを面白おかしく伝えるだけだった[60][68][69]。真意を広岡に尋ねてきた記者は皆無だったという[70]。大沢発言は舌戦を展開して、当時はまだマイナー扱いされていたパ・リーグをメディアに取り上げてもらおうというパフォーマンスの意味合いも強かったといわれる[66][67][65]。大沢啓二は著書で「確かにいい選手は揃っていたが、でも優勝した大きな理由は広岡の徹底した管理主義よ。選手管理と教育でチームをひとつにまとめて優勝させたんだから、そりゃたいしたもんよ」と述べている[30]。当時の野球選手は暴飲暴食しがちで、肉食に偏ることが多く[71]、食事のことなど、まったく異質の分野のことと考えていた。広岡は合宿所の食事に上記の自然食品摂取の他、化学調味料、精製された塩、砂糖をも排したと1982年の著書で既に記している[72]。広岡は西武監督時代に読んだロバート・ハースの書いた『食べて勝つ』(講談社、1985年)から大きな影響を受けたと話している[73]。前述の「肉や牛乳は腐った食物」発言は、親会社の系列スーパーから大クレームを受けたが、広岡は親会社の意向を無視して自分の考えを貫き通した。その姿に、選手は"怖さ"を感じ、それがチーム変革のパワーとなった[74]。現在は常識となっているプロ野球選手の食生活にいち早く「栄養のバランス」の視点を取り入れたことは評価に値する[38][57]。
しかし自分自身については、肉料理の制限を行っておらず、また西武監督最後の年には(美食家が罹るとされる)痛風を病んでいることが明らかになり、このことはチーム内外で批判を浴びた。広岡はこれらについて「監督と選手が違うのは当たり前」と著書で平然と述べている。江夏豊は「広岡さん自身が制限を守らない件を指摘したら、そのことで私は二軍に落とされた」「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記し、東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人[75]」「すべて自分の考え方に全選手をあてはめ、従わせようとする人」と評している。但し、東尾は「広岡監督に選手が反発とか、対抗しながら優勝していった。マスコミもそれにうまく乗っけてくれた。そこら辺から少しずつパ・リーグの記事も増えたから、本当の野球とは違った意味での魅力なのかね」[76]などと話している。広岡が西武の監督に就任した1982年初頭のテレビ界は「マンザイ」から「ヒロオカ」へ-と騒いだ[77]。これは予想以上に早く潮が引いた「漫才ブーム」に代わるものは「広岡・西武」しかない、と在京キー局全てが西武の試合をめぐって争奪戦を繰り広げたもので、先の自然食の話は当時のマスメディアの大報道合戦を呼んだ[77][78]。パ・リーグがマスメディアに露出する機会が増えてきたのはこの辺りからである[77]。勿論、こうした自然食品や健康食品、玄米、食品添加物といったものが、世間一般に知られるようになったのもこの辺りからであった。
広岡はとにかく厳しく妥協を許さない[79]。ヤクルトの守備コーチ時代に、登板の予定のない投手陣にも厳しい練習メニューを課すので、投手が壊れてしまうと当時バッテリーコーチだった片岡宏雄が荒川博監督に進言したら、荒川が「よし、分かった」と広岡に伝えるとこれをあっさり却下、荒川も広岡に賛同せざるを得ない程の勢いで荒川をねじ伏せたという[79]。田淵幸一は広岡のコーチングに最も強烈な影響を受けたと自著で述べているが、それは“まさに、ケンカ、選手を怒らせて上手くさせるコーチング”と解説している。西武キャンプ初日に全選手を前に主力選手を「給料泥棒」「引き際を考えろ」などと一人ずつ批判したため、選手間で「アイツの目が節穴だったと証明してやる。絶対優勝してアイツを胴上げして4回目で全員の手を離して落としてやる」が合言葉になったという。これは、このチームはベテランの働きが鍵を握ると考え、ベテランを奮起させればチームの体質が変わるという広岡の戦略でまんまとこれにはまった。不思議なものでチームが強くなると指揮官に信頼感が湧いてきて胴上げの時はしっかり広岡を受けとめたという。広岡は不世出の勝負師と思うと話している[80]。田淵は広岡の食事療法を受け入れた結果、体質が改善されたと述べている[81]。二年目にチームリーダーとしての教育を施した[43]石毛宏典は「俺にとっても広岡さんの存在は大きい。1年目に新人王を取って、ああプロってこんなもんかって少し甘く考えていたんだけど、2年目に広岡さんが来たら下手だ、なんだとボロクソ言われて。腹の立ったこともあったけど『将来、指導者になりたければ自己流はダメだ。しっかりした理論を体にしみこませろ』と言われた」[12][82][83]、「正確に問題点を再現するので納得するしかなかった」[84]、「俺の中で昭和の名将は広岡達朗しかいない。監督人事は"有事"なんですよ。問題があって、それを解決して勝てるようにしなきゃならないから、その能力を持った人にやってもらうわけでしょう。あの時の西武はバラバラで、個々の選手の技術やレベルも十分じゃなかった。だから広岡達朗という男は個人のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った"技術屋"でもありました」などと話している[12]。広岡は一軍で指揮を執る一方で森、近藤昭仁コーチと共に二軍に足を運び、若い選手を鍛え上げた[85][86][87]。その成果もあって1985年に一気に若手が台頭した[85][88]。2012年阪神球団初のゼネラルマネジャーに就任した中村勝広は、この一軍首脳陣が二軍にいる期待の若手を直接指導して西武の黄金時代を築いた広岡の指導方式を導入した[86]。渡辺久信は「高校を卒業していきなりの管理野球にはとんでもないとこに来たと思ったけど、今思えばその経験が良かったと思う。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎をつくってもらったのかも知れない」[89]、蹴飛ばされたこともあったが、「野球に関してあんなに厳しい人はいなかった。若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と話している[90]。2010年現在、球界最高齢の現役選手である工藤公康は、広岡に"坊や"と可愛がられ、入団一年目から使われたことでも知られるが[91]、 西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているといい[92]「管理野球が自分の基礎」[93]「これまで何度もあった逆境を乗り越えられたのは、広岡監督に若いうちにプロ魂をたたき込まれたお陰」[94]「玄米じゃなきゃ壊れてたかもしれない」「頭が上がらないというより、今でも顔を見たら直立不動です」[82]「野球に懸ける情熱、思いはあまりにすごすぎてまねできない」などとと話している[95]。なお熊谷組への就職を発表していた工藤をドラフト6位で強行指名し入団させた仕掛人は、長らく工藤自身含めて全て根本と信じられてきたが、実は根本は工藤指名には反対で、強行指名の仕掛人は広岡だったという[96]。伊東勤も基本の大事さを教えられた最も影響を受けた野球人として広岡を挙げている[97]。大久保博元は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している[98]。また、秋山幸二は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された長池徳士コーチによって育てられたもの[99]。西武の「育てながら勝つ」という伝統は、広岡の時代から始まったものである[100]。またロッテコーチ時代に毎日のように広岡に怒られ指導者としての心構えをたたき込まれたという尾花高夫も、最も影響を受けた指導者として広岡を挙げており、2010年から2011年まで横浜ベイスターズで指揮を執った際、広岡と野村克也を手本にした野球をやりたいと話していた[101]。2010年シーズン途中からヤクルト監督に就任した小川淳司も“広岡+野村”の考えをエッセンスに含めた小川流管理野球をやるという[102][103]。安田猛は「広岡さんは理論がきちんとして、絶対にブレなかった。はっきり言って好きなタイプじゃない。ただ野球に対する考え方は素晴らしい。当時は反発しましたが、すべて若気の至り。反省しています。いまのヤクルトにも広岡さんのDNAはしっかり残っています」などと話している[12]。 その他、ヤクルト監督時代には、重量挙げなどのごく一部のスポーツ選手以外は行っていなかった本格的なウエイトトレーニングを体系立ててチームに導入している。ウエイトトレーニングを導入した経緯は、2位になった1977年のシーズン終盤、選手がロッカーにゴルフ道具を持って来たり、オフにどこかの温泉に行こうとか、そんな話ばかり始めた為、シーズンは終わっても野球が終わるわけではない、体の回復とレベルアップを図るには基礎体力を付けることが一番いいという理由で始めた。選手には『シーズンの疲れは完全に休んだら抜けることは絶対に無い。人間の体は動かしていないと駄目だ』と言い渡し、選手から大反発を買ったものの、ユマのキャンプでサンディエゴ・パドレスのクラブハウスに行ったら、真ん中にウエイトトレーニングの機械があってパドレスの選手たちが普通にやっているので、それを目撃して素直に納得したのだという[104]。
選手へ自然食を勧めるようになったいきさつについて、広岡は自著で「ヤクルト時代、チームに故障者があまりにも多く出たので、ある日神宮球場のベンチで『なんでこう故障者が多いんだろう』と嘆いた時、顔はときどき見かけるが名前も知らない人が、自分に『食べ物が悪いのではないか。白米を玄米に変えるといいだろう』と声を掛けたことがきっかけ」と述べている。 プロ野球選手の食生活に疑問を抱いたのは、指導者としてのスタートとなった広島カープのコーチ時代から[14]。広島カープの日南キャンプは、晩飯に焼肉がでて、ビールがズラーッと並んで和気あいあいと食っている観光旅行のようだったという。根本にキャンプ中の禁酒を申し入れたら広島の選手は素直に聞いた。ヤクルト時代には、アキレス腱の持病を持つ若松勉が、遠征の移動のバスに乗るとすぐに缶ビールを買い込んでくるので、アルコールが故障にいいはずがないと言い聞かせた。若松は反発したがいい方に作用した。若松も「広岡さんにも良くしてもらいましたし、いろんなことを学び、大きな影響を受けました」と述べている[105]。阪急との日本シリーズで圧倒的に不利との前評判で勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六・七分、その上、有馬温泉で休んでいたから、心のスキがあったんだろう」と話している[106]。広岡の実践した集団行動の規律を重要視する「管理野球」は時代を席巻し、球界に大きな流れを創った[35][107]。
エピソード [編集]
広岡は合気道や剣道等の武道にも造詣が深かった。1995年(平成7年)、ボビー・バレンタインが千葉ロッテマリーンズの監督に就任した。当時のロッテゼネラルマネージャー広岡達朗は、バレンタインに、木刀とサンドバッグを練習に使いたいと言った。バレンタインが実際に木刀を振ってみたところ、バットとは違った動きになると判断し、木刀の導入に反対した。これが広岡の怒りを買い、同年2位と躍進しながらも、バレンタインは広岡から解任された[108]。但し広岡は「自身に監督をクビにする権限はなかった」と話している[19]。
先述のように西本幸雄を歴史上もっとも評価する監督としてあげている他、自分を選手時代に育ててくれた水原茂、一時期の確執はあったもののジャイアンツの第二期黄金時代をつくりだした川上哲治、プロ野球黎明期から長期間にわたって複数のチームで監督をした藤本定義、優勝監督経験はないが堅実な育成を目指した関根潤三などを指導者として高く評価している。 野村克也のID野球理論については事ある毎に否定的発言をスポーツ紙その他で繰りかえしている。野村の野球技術論は中途半端な理論派を生み出してしまい、野球の基本を疎かにしてしまうというのが広岡の主張である。広岡と野村の両方の監督の下で選手経験をした辻発彦は自著『プロ野球 勝つための頭脳プレー』で、「野村さんは、頭で常に考えながら動くのが野球だ、という考えの持ち主。広岡さんは、体と頭が同時反応するくらいの基本の徹底の連続が野球だ、という考えの持ち主」というふうに両者を比較している。その他、星野仙一の指導力・采配についても一貫して否定的であり、解説者として登場した1988年日本シリーズの解説番組で、劣勢に転じてからの星野率いるドラゴンズがまったくバントシフトを忘れてしまったことについて「キャッチボールからやりなおすべきいい加減さ」として厳しく批判した。
独自の自己啓発論で政財界にも強い影響力をもっていた天風会の中村天風を人生の師として仰いでいる。中村天風とは選手時代に悩んだときの相談がきっかけで交友を深め、以後人生全体について教えを乞うようになったと自著『意識革命のすすめ』で記している。
高木守道と親交があり、高木が監督であった2012年の中日キャンプでは臨時コーチを務めた[109]。
詳細情報 [編集]
年度別打撃成績 [編集]
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1954 | 巨人 | 112 | 405 | 341 | 58 | 107 | 19 | 2 | 15 | 175 | 67 | 9 | 4 | 2 | 4 | 54 | -- | 4 | 49 | 5 | .314 | .409 | .513 | .923 |
| 1955 | 125 | 511 | 447 | 76 | 115 | 16 | 9 | 11 | 182 | 43 | 17 | 6 | 6 | 2 | 49 | 0 | 7 | 70 | 2 | .257 | .339 | .407 | .746 | |
| 1956 | 93 | 381 | 343 | 46 | 80 | 17 | 1 | 9 | 126 | 32 | 8 | 3 | 9 | 1 | 25 | 1 | 3 | 56 | 2 | .233 | .290 | .367 | .658 | |
| 1957 | 92 | 389 | 344 | 54 | 84 | 13 | 3 | 18 | 157 | 33 | 5 | 5 | 11 | 3 | 29 | 1 | 2 | 72 | 3 | .244 | .304 | .456 | .761 | |
| 1958 | 111 | 479 | 437 | 69 | 121 | 18 | 2 | 12 | 179 | 41 | 22 | 9 | 7 | 1 | 30 | 3 | 4 | 70 | 4 | .277 | .328 | .410 | .738 | |
| 1959 | 120 | 510 | 448 | 81 | 106 | 13 | 7 | 14 | 175 | 47 | 17 | 6 | 7 | 3 | 45 | 0 | 7 | 88 | 14 | .237 | .314 | .391 | .705 | |
| 1960 | 98 | 393 | 363 | 47 | 81 | 12 | 6 | 12 | 141 | 26 | 3 | 4 | 6 | 2 | 21 | 1 | 1 | 53 | 9 | .223 | .266 | .388 | .655 | |
| 1961 | 125 | 466 | 429 | 38 | 87 | 12 | 3 | 10 | 135 | 41 | 5 | 7 | 4 | 2 | 29 | 1 | 2 | 54 | 8 | .203 | .255 | .315 | .570 | |
| 1962 | 116 | 412 | 378 | 36 | 81 | 11 | 3 | 4 | 110 | 33 | 8 | 7 | 7 | 2 | 22 | 0 | 3 | 83 | 9 | .214 | .262 | .291 | .553 | |
| 1963 | 104 | 379 | 328 | 39 | 79 | 11 | 1 | 5 | 107 | 41 | 7 | 3 | 5 | 4 | 38 | 2 | 4 | 53 | 11 | .241 | .324 | .326 | .650 | |
| 1964 | 117 | 391 | 349 | 35 | 73 | 10 | 2 | 6 | 105 | 34 | 3 | 3 | 7 | 3 | 31 | 0 | 1 | 67 | 8 | .209 | .273 | .301 | .574 | |
| 1965 | 103 | 316 | 275 | 20 | 63 | 13 | 0 | 1 | 79 | 25 | 10 | 0 | 6 | 0 | 34 | 3 | 1 | 58 | 8 | .229 | .316 | .287 | .603 | |
| 1966 | 11 | 34 | 31 | 4 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 1 | .129 | .206 | .194 | .399 | |
| 通算:13年 | 1327 | 5066 | 4513 | 603 | 1081 | 167 | 39 | 117 | 1677 | 465 | 115 | 57 | 77 | 27 | 410 | 12 | 39 | 780 | 84 | .240 | .307 | .372 | .678 | |
年度別監督成績 [編集]
| 年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1976年 | ヤクルト | 5位 | 130 | 52 | 68 | 10 | .433 | 23.5 | 128 | .260 | 3.88 | 44歳 |
| 1977年 | 2位 | 130 | 62 | 58 | 10 | .516 | 15.0 | 170 | .267 | 4.01 | 45歳 | |
| 1978年 | 1位 | 130 | 68 | 46 | 16 | .596 | - | 157 | .279 | 4.38 | 46歳 | |
| 1979年 | 6位 | 130 | 48 | 69 | 13 | .410 | 19.0 | 157 | .252 | 4.60 | 47歳 | |
| 1982年 | 西武 | 1位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 1位・3位 | 131 | .253 | 3.31 | 50歳 |
| 1983年 | 1位 | 130 | 86 | 40 | 4 | .683 | - | 182 | .278 | 3.20 | 51歳 | |
| 1984年 | 3位 | 130 | 62 | 61 | 7 | .504 | 14.5 | 153 | .256 | 4.10 | 52歳 | |
| 1985年 | 1位 | 130 | 79 | 45 | 6 | .637 | - | 155 | .272 | 3.82 | 53歳 | |
| 通算:8年 | 966 | 498 | 406 | 62 | .551 | Aクラス6回、Bクラス2回 | ||||||
- ※1 太字は日本一
- ※2 1976年から1996年までは130試合制
- ※3 1982年は前・後期制のため、それぞれの順位
- ※4 1976年、荒川博監督休養後の5月13日より監督代行として指揮(101試合42勝53敗6分 勝率.442)
- ※5 1979年、8月17日より休養(85試合31勝45敗9分 勝率.408)。監督代行は佐藤孝夫
- ※6 通算成績は、実際に指揮した試合
表彰 [編集]
記録 [編集]
- オールスターゲーム出場:6回 (1954年、1955年、1957年 - 1959年、1965年)
- 通算1000試合出場 1963年4月21日(78人目)
背番号 [編集]
- 2 (1954年 - 1966年)
- 31 (1970年 - 1971年)
- 71 (1974年 - 1979年途中)
- 80 (1982年 - 1984年)
- 91 (1985年)
関連情報 [編集]
出演CM [編集]
出演番組 [編集]
※以下、野球解説者としての出演番組。
- ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本) - 1967年~1969年、1972年~1973年、1998年~2007年に出演(1973年出演時までの局名はラジオ関東)。
- 元気を日本に 日本プロ野球(日本テレビ系列) - 同系列プロ野球中継(1980年~1981年に出演)の現行タイトル。
- NHKプロ野球(NHK) - 1986年~1994年に出演。
著書 [編集]
- 私の海軍式野球(自著 サンケイ出版)
- 監督論(自著 集英社インターナショナル)
- わが野球教育学(自著 毎日新聞社)
- 勝者の組織論(長嶋茂雄共著 講談社)
- 勝者の方程式(自著 講談社)
- 意識革命のすすめ(自著 講談社)
- 積極思想のすすめ(自著 講談社)
- 私の野球人生(広岡達朗述 富山県教育委員会)
- 成功への羅針盤(自著 産経新聞ニュースサービス)
- 動じない。(王貞治、藤平信一共著 幻冬舎)
脚注 [編集]
- ^ 1990年代後半ごろから出版物に旧字体の「廣岡」が使われる例が見られるようになった。
- ^ a b 中国新聞 | 生きて | 元プロ野球監督 広岡達朗さん <2> 甘えん坊 家族に愛された呉時代
- ^ 中国新聞 | 生きて | <3> 戦争 日本の敗戦 信じられず
- ^ 中国新聞 | 生きて | <17> 次世代へ 球界の伝統を引き継ぐ、タカラジェンヌに広岡達朗氏の孫 スポニチANNEX大阪 2008年3月2日閲覧、広岡達朗氏も目細め…孫娘が宝塚新人公演で初主演 スポーツニッポン(東京) 2011年5月4日閲覧
- ^ 中国新聞 | 生きて | <4> 野球との出合い 学校寝泊まり 球を追う
- ^ 中国新聞 | 生きて | <5> 早稲田大入学 「文武両道」 看板背負う
- ^ 中国新聞 | 生きて | <6> プロへ 巨人の誘い 舞い上がる
- ^ 自著『意識革命のすすめ』、講談社、22-23頁
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』では、「1年目のまま打てばいいものを、理論派であるだけに考えすぎたのが、3割に復帰できない理由だと言われた。しかし、意外性のある打者ではあった」という評価が記されている。
- ^ 日本経済新聞掲載『私の履歴書』2010年8月31日分より。なお、この祝いの日には別室で、水原監督から厚い信任を得ていた2コーチ・1選手が解雇を言い渡されていた事も明かしている。
- ^ a b c 中国新聞 | 生きて | <10> 引退 サイン伝わらず不信感
- ^ a b c d e f g h 『日本プロ野球、昭和の名将 1936-1988』、ベースボール・マガジン社、2012年、66-69頁
- ^ a b 中国新聞 | 生きて | <11> 米国視察 本場の野球 肌で感じる
- ^ a b c 中国新聞 | 生きて | <12> カープコーチ 指導者として実績積む
- ^ 日めくりプロ野球09年1月
コイのぼれ
山本浩二 | 名球会コラム | 日本プロ野球名球会
衣笠 祥雄|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2 - ^ 中国新聞 | 生きて | <1> 広島魂 名選手経て「優勝請負人
- ^ 小野俊哉『プロ野球 最強の監督』、中央公論新社、2012年、198頁
- ^ a b 中国新聞 | 生きて | <13> ヤクルト監督 投手分業で日本一達成
- ^ a b c d e 辺見庸『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1988年、195頁
- ^ 池井優『ハロー、マニエル、元気かい プロ野球外人選手列伝②』創隆社、1985年、34頁
- ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.37ほか
- ^ 【8月17日】1979年(昭54) 日本一監督・広岡達朗 10カ月で解任のワケ
- ^ a b スポーツニッポン連載「我が道 近藤昭仁⑱」2011年12月19日付け
- ^ サンデー毎日、1980年6月22日号、p.28
- ^ 【タイガース血風録 猛虎水滸伝】82年開幕直後の悪夢、阪神ああ“5連泣”(水本義政)、水本義政「タイガース血風録 猛虎水滸伝(555)」サンケイスポーツ、2011年1月29日
- ^ a b c 週刊新潮、1981年11月12日号148頁
- ^ a b 週刊新潮、1981年11月12日号、148頁、週刊新潮、1982年2月18日号、19頁
- ^ a b 週刊新潮、1982年2月11日号、136頁
- ^ 1982年 - ヒストリー | 埼玉西武ライオンズ
- ^ a b c 大沢啓二『球道無頼』集英社、1996年、180-181頁
- ^ a b c d 中国新聞 | 生きて | <15> 日本シリーズ 打倒巨人の夢がかなう
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- ^ SPORTS COMMUNICATIONS - 西武、4年ぶりリーグ制覇!
- ^ 【11月12日】1982年(昭57) 工藤公康“プロ初先発”はメロメロ 追試もボロボロ、ゲンダイネット、SPORTS COMMUNICATIONS - 工藤公康の投球論<後編>、もりやまタイムス平成24年3月号、【5月23日】2007年(平19) 工藤公康、セ最年長記録「一番長くて忘れられない1勝」
- ^ 『粗食は最強の体をつくる!』三笠書房、2006年他
- ^ 日本経済新聞2012年3月6日37面
- ^ <朝日新聞×マイナビ転職>Heroes File~挑戦者たち~ 工藤公康さんvol.1
- ^ 工藤公康さん(3/3) - インタビュー - ひと - [どらく
- ^ 週刊文春、株式会社文藝春秋、2012年5月3、10日号、198頁
- ^ 伊東勤 TSUTOMU ITOH Official Website: Q&A
- ^ 【球界風雲児デーブ】広岡監督が掲げる「玄米食」で下痢に ... - ZAKZAK
- ^ 永谷脩『タフに生きる』世界文化社、1991年、138頁
- ^ 次々と新戦力が台頭するライオンズのチーム文化(2/2) - OCNスポーツ
- ^ 週刊文春、2009年11月26日号、115頁
週刊ベースボール、ベースボール・マガジン社、2009年11月15日号、105頁
vol.6 尾花高夫 - ライフ - ORICON STYLE
横浜ベイスターズ監督 尾花 高夫 氏|インタビュー|社団法人横浜中法人会
尾花 高夫さん | 南区 | タウンニュース - ^ 燕・小川流“広岡+野村”で黄金期再び! (1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM
- ^ スポーツニッポン2010年10月21日4面
- ^ 週刊朝日、朝日新聞社、1978年12月1日号、31頁
- ^ 若松 勉|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2
- ^ 週刊朝日、朝日新聞社、1978年12月1日号、29-31頁
- ^ “【連載コラム】山本功児 なんとなく幸せ⑪”. 東京スポーツ. (2012年8月30日)
- ^ 松井浩 『打撃の神髄-榎本喜八伝』、229頁
ボビー・バレンタイン 『1000本ノックを超えて』、永岡書店、1996年 - ^ 広岡氏 中日コーチ陣を指導「中日に守備のうまい選手はいない」
参考文献 [編集]
- 監督(海老沢泰久著 文春文庫)
- みんなジャイアンツを愛していた(海老沢泰久著 新潮社)
- 巨人を超えた男(越智正典著 恒文社)
- 広岡野球の戦略(塩沢茂著 芳文社)
- 広岡語録大研究(山根徳光著 東京経済)
- 広岡達朗が教える悪の管理学(後藤寿一著 泰流社)
- CIRCUS 連載「広岡主義」(2006年7月 - )
- ヤクルトスワローズ球団史(徳永喜男、ベースボール・マガジン社、1992年)
- 野球を変えた男(与那嶺要・山本茂、ベースボール・マガジン社、1992年)
- 巨人軍5000勝の記憶(読売新聞社、ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。 ※p.36~)
- ライオンズ60年史 1950▷▷▷▷2010(ベースボール・マガジン社、2010年)
関連項目 [編集]
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