赤星憲広

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赤星 憲広
HT-Norihiro-Akahoshi.jpg
2008年7月16日(阪神甲子園球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県刈谷市
生年月日 1976年4月10日(38歳)
身長
体重
170 cm
66 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 中堅手
プロ入り 2000年 ドラフト4位
初出場 2001年3月30日
最終出場 2009年9月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2000年

赤星 憲広(あかほし のりひろ、1976年4月10日 - )は、愛知県刈谷市出身の元プロ野球選手外野手)で現在は株式会社オフィスS.I.Cとマネージメント契約し野球評論家、野球解説者として活躍している。現役時代は阪神タイガースに所属していた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

赤星曰く幼少期から運動神経がよく、小学校時代には野球以外のスポーツでも誰かに負けたことがなかった[1]。足の速さに関しては幼稚園に入園する頃にはすでに自覚があり、誰かに負けた記憶がないという[2]。ただし努力をしなくてもあらゆるスポーツで負けることがないことで「何をやっても面白くない」、何をやってもうまくいくがゆえに「逆に自分は何をするべきなのか、何をやると一番楽しいのかということがわからない」心境に陥っていた[3]。そのため赤星はしばしば、サッカーの試合で自分がゴールを決められる状況で敢えてパスを出すといった具合に「できるのは自分だけじゃない」ということをアピールすることを試みた。赤星はこの頃の自身について、自分ばかりが目立たないよう気を遣ったつもりで「ある意味では相手に失礼な、必要のない、余計なやさしさ」を見せていたと振り返っている[4]。赤星曰く、学年が上がり自分より能力が上の、努力しないと勝てない存在と出会う中でこの性格は変わっていったものの、「あらかじめ与えられた能力で簡単に勝つ」ことが嫌いな点は変わっていないという[5]。また水泳教室にも通っていた(「表彰」の項目を参照)。

父親が少年野球のコーチをしていたため、赤星は幼少期から野球に親しんで育った[6]。小学校時代、赤星は父親がコーチを務める少年野球チームに入部しようとしたが、「俺がやめるまで、お前にはやらさない」と言われたことに反発し、「だったらサッカーをやるよ!」という気持ちになり、小学校の部活ではサッカー部を選択した[7]。父親がコーチを辞めたため少年野球チームにも所属したが、先に始めたサッカーの魅力が勝っていた(赤星曰く、サッカーが8で野球が2)[8]。小学校6年の時にはフォワードとしてサッカーの愛知県代表に選出されたこともある[9]。しかし同じく小学校6年の時に野球チームのキャプテンに選ばれ、掛け持ちはできないと判断した赤星はサッカー部を辞め、野球に専念することにした[10]


刈谷南中学校時代は軟式野球部に所属。1・2年生時は内野手だった。赤星によると、ポジションが同じで赤星よりも足が速い上級生(後に読売ジャイアンツトレーナーとなる鬼頭健介)に出会ったことで、初めて「この人を越えたい」という気持ちを抱き、それをきっかけに努力することの楽しさに目覚めた。努力することに楽しさを見出したことで、野球に取り込むことも楽しくて仕方がないと感じるようになった[11]。赤星曰く、野球に取り組んでいる際の性格が「熱く」なったのも中学時代で、「小学校時代に眠っていた部分が目を覚ました」と振り返っている[12]。赤星は「野球というスポーツがなかったら、きっと僕はこんなひとつのことに熱くなれる人間になっていない」、「僕は野球に凄く感謝している」と述べている[13]。3年生の時は投手を務めた[14]


刈谷南中学を卒業後、大府高校に進学、野球部に入部した。この時、赤星は野球のためだけに高校へ行きたくないと考えたことに加え、前述の「あらかじめ与えられた能力で簡単に勝つ」ことを嫌う性格から「『甲子園に行きたいから私学へ』という道ではなくて、むしろ一番簡単そうじゃない道を選んで、それを乗り越えてみせる」という思いを抱き、あえて強豪私立高校ではなく県立高校へ進学することを選んだ[5]

入部当初、赤星は右打者であったが、監督の馬場茂から「左で打つならすぐにベンチに入れてやる」と左打者への転向を勧められ、それに従った[15]。転向後、内野安打が増えて出塁の機会が多くなり、足を活かす野球を考えるきっかけになった[16]。1年生の秋にレギュラーとなり、1番打者として活躍。チームの得点パターンは赤星が出塁して二盗三盗を決め、その後スクイズプレイを決めるというものであった[16][17]1993年第65回選抜高等学校野球大会二塁手として、翌1994年第66回選抜高等学校野球大会遊撃手として出場した[17]。選抜高等学校野球大会で赤星は2年連続で同じようなタイムリーエラーを犯し、チームはいずれの大会でも初戦敗退を喫している。このうち2回目のエラーについて赤星は、「またエラーをするんじゃないか」という思いに囚われていたところにボールが飛んできたことで起こったもので、技術の問題ではなくすべて気持ちの問題であったと振り返っている[18][19]。2010年に藤川球児との対談で、高校時代の甲子園には非常に嫌な思い出しかないとコメントし、この対談時に初めて当時の映像を観覧した。赤星は、プレーをするにあたっては前向きな気持ちで臨むことが重要で、気持ちが前向きであれば結果的にエラーをしてしまったとしても後悔は残らず、失敗から学ぶことで次に繋がると述べている[20]。なお、赤星は亜細亜大学2年時の明治神宮野球大会三塁手として出場)でもタイムリーエラーを犯し、チームは0対1で敗退している[21]

中学・高校時代は同じ右投げ左打ちの小柄な遊撃手である立浪和義が「全てにおいて目標であり等身大の憧れ」であった[22][23]


高校時代、赤星はドラフト候補として名前が挙がったがプロになる自信はなく、スカウトからも体の小ささを指摘され、大学か社会人で経験を積んだほうがいいと指摘された[24]。赤星は地元の大学で教員免許を取りたいと考え、中京大学を受験したが対策を立てずに臨んだ小論文が不首尾に終わり、不合格[22][25]。教員免許を取得できる東都大学野球連盟所属の亜細亜大学から勧誘があったことから同大学に進学、野球部に所属した。実際に赤星は亜細亜大学在学中に社会科の教員免許を取得している。大学卒業後プロ野球選手になれなかった時には、高校の教員になって野球部の監督になろうと考えたこともあったという[26][22]

亜細亜大学野球部の練習は非常にハードであった。赤星は大府高校の卒業生として初めて東都大学野球連盟所属の野球部に所属することになったことを強く意識し、大府高校から亜細亜大学へ進学するルートを潰したくないという思いを抱いていた。そのため常に「なんでこんなところに来てしまったのか」という思いと「やめられない」という思いの間で揺れていた[27]。ただ同時に、「絶対やめられないわけだし、これだけ苦しいことをどうせやるんだったら、とことん上を目指してやらないと意味がない」とも思っていた[28]

1年生の秋に三塁手のレギュラーを獲得し、2年生の春に外野手(主に右翼手)に転向。1学年上の外野手飯塚智広を目標とした[29]。飯塚の卒業後、1番中堅手として活躍。4年生の秋には明治神宮野球大会で優勝を経験した[30]。大学時代の通算成績は、東都大学1部リーグ通算78試合出場、219打数61安打、打率.279、3本塁打(リーグタイ記録の3試合連続本塁打)、27打点。ベストナイン3回、通算45盗塁(野村謙二郎の52、鈴木香の51に次ぐリーグ歴代3位の記録。1年生だった2部時代を含めれば通算51)というものであった[21]。赤星は大学時代を振り返り、「プロのレベルまで上りつめられたのは、技術的にも、精神的にも、亜細亜に行ったおかげだろう」、「いろいろなものを犠牲にしてまでも野球に打ち込んで、あの4年の間、地獄のような生活をしてきたからこそ、こうやって今がんばっていられるのは間違いない」と述べる一方、「あそこに入って野球を始めた日から終わる日まで、一回もよかったと思ったことはない」「もう1回、あの4年間をやるかと言われたら、絶対に無理」「何億とお金を積まれても無理」「もう思い出したくもない」[31]、練習が厳しいことを「もし知っていたら進学先に選んだかどうかははなはだ怪しい」と回顧している[32]


赤星は大学での4年間の経験を経て肉体的・精神的に成長したと感じ、東都大学リーグ優勝に貢献したという自負もあったことから、大学卒業時にはプロ野球を強く意識していた。しかし高校卒業時と同様、体が小さいという理由で声はかからなかった。当時の赤星にとってこれは「もうプロはあきらめなさい」と言われたのも同然で、プロ野球選手になることを諦め、JR東日本に入社、社会人野球で野球を続けた[33]。赤星には11の社会人チームから声がかかり、その中にはJR東日本より強いチームもあったが、社会人野球の存続が危ぶまれる中、チームの強さよりも就職先としての安定感を優先させ、JR東日本を選択した[34]

JR東日本入社後まもなくシドニーオリンピックの強化指定選手に選ばれ、千葉ロッテマリーンズのキャンプに参加。この時赤星は「守備と走塁は何とかなりそうだ」という感触を得た[35]。翌年には阪神タイガースのキャンプに参加。監督の野村克也から高い評価を得た[35]。赤星曰く、強化指定選手に選ばれたことで「もしかして、まだプロ入りの可能性があるのかもしれない」と思うようになったという[35]2000年シドニーオリンピック野球日本代表に選出。在職中にJR東日本の車掌の資格を取得したが、一度も乗務することなくドラフト会議で指名を受けることになる。

シドニーオリンピック終了後、ドラフト会議で野村の鶴の一声により阪神から4位指名を受けた[36]。当時の赤星は体が小さかった上に「打球が打撃ゲージの外に飛ばない」と言われるほど非力で[36]、野村に対しスカウトは「足だけですよ」とコメントしたが、野村は「同点の9回に代走で使う」と答えた[37][38]。赤星は「オリンピックでレギュラーになれなかった僕がプロにいって活躍できるのか?」という思いにとらわれたものの、最終的には「クビになるのを恐れてプロに行かないという選択をするよりも、飛び込んでみてクビになったほうがいろんな意味で後悔しないだろう」という心境に至り、入団を決めた[39]

入団会見で赤星は、それまで中堅手のレギュラーだった新庄剛志FA移籍が決まった直後であったことを踏まえ、「新庄さんの穴を少しでも埋められるように頑張ります」と言うつもりであった。しかし実際には「新庄さんの穴はボクが埋めます」と宣言[21][40]。1位で入団した藤田太陽以上に話題を集めることになった[21]

阪神入団に際し赤星は、「『体が小さいとプロでやっていくのは絶対無理』という考え方をひっくり返したい」「体が小さくて悔しい思いをしている選手たちの代表として、体が小さくてもやれる人間はいるんだということをみんなに知らせたい」という決意を抱いていた[41]。同時に、「問題は入れてもらえないから勝負できないことだったわけで、入ってしまえばこっちのもの」とも考えていた[42]。プロ野球選手として成功を収めた後、赤星はプロを目指す野球選手が自分を見て「体が小さくても大丈夫」「赤星ができるんだったら、俺もプロになれるんとちゃうか」と思うことが一番うれしいことだと述べている[43]。赤星はまた、「体が小さな選手が体が大きい選手に力で勝とうと思っても絶対に無理だが、動きのよさや速さを発揮することができれば絶対にプロの世界でもやっていける」とも述べている[44]

プロ入り後[編集]

2001年、監督の野村は当時チーム内にいた俊足選手7人を「F1セブン」と命名し、赤星をその「1号車」に指名した。以下は藤本敦士(2号車)、沖原佳典(3号車)、上坂太一郎(4号車)、平下晃司(5号車)、松田匡司(6号車)、高波文一(7号車)であった[45]。野村はまた、赤星が入団前に腰部のヘルニアを患った影響から調整が遅れていたにもかかわらず、一軍のキャンプに参加させた[46]。前述のように赤星は非力で、2001年春のキャンプにおいても打球が内野の頭を越えないレベルであった(後に濱中治は「あの赤星さんがプロで活躍できるなんて、失礼ながら全く思いませんでした」と語っている)[47]。野村は赤星に「出塁率を上げろ。三遊間に転がせ。内角も逃げるな」[48]「打球が飛ぶというのは天性のもので、努力してもなかなか身につくものではないが、確率を上げることは練習で何とかなる」[49]とアドバイスし、「自分の教えたようにやれば使える」と励ました[22]。打撃練習においては藤本敦士とともに、「ゴム製のバンドを両ひじに巻いてゴロだけを打つ」ことを課せられた。赤星曰くこの練習により、右脇が開いてアッパースイング気味になる問題点が解消されていった[50]。試合中、ベンチの中では野村の近くに座り、野村の発する言葉から「プロ野球のイロハを勉強させてもらった」という。赤星は「早い段階で、やみくもに努力するだけでは結果が出ない、考えてこそ結果に結びつくということを学べたのは大きかった」と振り返っている[51]。走塁面の技術に関しては相当自信があり、クイックをきっちりやる投手が当時は少なかったことから「正直、プロでもこんなもんかと思った」という[52]

赤星は1年目のシーズンを開幕一軍で迎えた。3月31日の対読売ジャイアンツ戦でセーフティーバントによるプロ初安打を記録。この安打について赤星は、相手投手が左投げで「簡単に凡退すれば、次に左ピッチャーと対戦する時に代打を送られる可能性が高くなる」場面であったことから、「たまたま一発で決まってラッキーな面もあった」と振り返っている[53]。4月3日の対広島東洋カープ戦でプロ初盗塁を決めた。赤星はこの盗塁について、プロ生活における通算381個の盗塁の中で最も印象に残っていると振り返っている[54]。5月にはレギュラーの座を獲得し、2番打者に定着して活躍。新人歴代4位となる39盗塁を記録し、阪神の選手としては1956年吉田義男以来45年ぶり、阪神入団1年目の選手としては1944年呉昌征以来となる盗塁王に輝き新人王も受賞。盗塁王と新人王のダブル受賞は史上初のことであった。さらにゴールデングラブ賞も受賞した。野村は赤星について、「よく練習していて、使おうという気にさせる選手だった」と評している[48]

シーズンオフに入り、球団側から背番号53を若い番号へ変更することを打診される。一般的に新人選手は若い番号を与えられるほど期待されているといわれ、さらに53は「ゴミ」「誤算」に通じることから赤星自身も「入団当時は嫌で仕方がなかった」が、1年目からよい成績を残せたことで「『53』という数字は縁起のよい番号となり、愛着もわいた」「これを機に…『53』を自分の色に染めてやろう」と思うようになっていたことから変更を拒否した[55]。2006年のシーズンオフにも片岡篤史がつけていた「8」への変更を打診されたが、拒否した[56]。赤星引退後も背番号「53」は球団側の配慮で、背番号53を使用するのにふさわしい選手が現れるまで欠番扱いとなり、赤星が引退した2009年オフから2014年にシーズン途中で加入した建山義紀が53番を着用するまで一度もに阪神の選手で背番号53を着用した選手はいなかった。

2002年、阪神の監督は野村から星野仙一に交替した。4月18日の対中日ドラゴンズ戦において自打球が右足に当たり、「足の速さをできるだけ活かそう」という思いからレガースをつけていなかった[57]ために右脛骨を骨折。3か月以上欠場し前半戦をほぼ棒に振り、復帰後はスランプに陥りながらも78試合に出場し26盗塁を記録。2年連続で盗塁王を獲得した[58]

2003年金本知憲FAで広島から移籍。キャンプ中、星野は事あるごとに金本・桧山進次郎濱中治の名を挙げ、「赤星は代走要員」とコメント。キャンプにおいて赤星は必死に存在をアピールした[59]。実際には星野の構想の中で赤星の中堅手レギュラーは確定しており[59]、「赤星はガンガン言って、向かってこさせて伸びるタイプだから、あえてそういう発言をした」ものであった。シーズン中は2番打者として活躍。2番赤星が出塁し、3番の金本が打席に立つ状況が、互いの苗字から一文字をとって「金星ライン(ビーナスライン)」と呼ばれていた。9月15日に行なわれた対広島戦で、鶴田泰からサヨナラ安打を放ってマジック1とし、同日夜に阪神の18年ぶりの優勝が決定した。赤星はこのサヨナラヒットを、9年間の選手生活の中で最も印象に残る場面のひとつとして挙げている[54][60]

前年秋からヘッドコーチの田淵幸一とともに打撃向上に取り組んだ[59]ことが功を奏し、3年目にして初めて3割を超える打率を記録した。赤星は2年間の経験から「パワーのない自分が人と同じうち方をして、打てるわけがない。逆に考えれば、人と違うことをすれば何とかなるのではないか」と思い、「バットを『振る』という意識から『ぶつける』という意識に変える」ことにし、「なるべく体の近くまでボールを呼び込んで、体全体の力をインパクトの瞬間にぶつける」ことを心がけた[61]。赤星によるとこの年に「内角の厳しいコースに来たボールは体の回転をうまく使って処理をする」「ギリギリまでボールを見ることで、厳しいコースをカットして粘ることもできるし、フォアボールも増えて出塁率も上がる」打法を身につけ、「技術的にどうやったらヒットを打てるのかというコツみたいなものを身につけることができ」、「調子が悪くても何とかできる方法」を習得した[62]。田淵は赤星を「われわれが目指した『つなぎの野球』は彼なしでは考えられなかった」と評している[59]。盗塁数は球団記録を更新する61で、背番号と同じ数の盗塁をするという目標を初めて達成し、3年連続となる盗塁王を獲得した[63]。赤星によると、この年の盗塁記録は3番の金本知憲が赤星が盗塁しやすいよう配慮した打撃をしたことに助けられて達成した部分が大きいという[64]。さらに守備率10割の日本タイ記録を樹立[59]し、2年ぶりのゴールデングラブ賞も受賞した。7月にはオールスターゲームに初出場を果たしている。

福岡ダイエーホークスと対戦した日本シリーズ第1戦でフリオ・ズレータが打ったサヨナラ安打にダイビングキャッチを試み、左ひじを負傷(左ひじ内側側副靱帯損傷。全治1か月)。この時赤星はアテネオリンピックアジア予選の日本代表メンバーに選出されていたが、ケガを理由に出場を辞退した[65]。なお赤星は、ダイビングキャッチを試みた際に「首を支点に頭から一回転」したことが後に頸部の椎間板ヘルニアを発症する原因になった可能性があると述べている[66]

2004年、阪神の監督は星野から岡田彰布に交替した。4月15日の対広島戦で顔面に死球を受けた影響でボールに対する恐怖心が芽生え、それを克服しようと「絶対に逃げてはいけない。ピッチャーに対して踏み込んでいこう」と考えたのが裏目に出て打撃フォームに狂いが生じ、シーズン前半は打撃不振に陥った[67]。打撃不振の影響は走塁面にも及び、出塁機会が少ないことから焦りが生じ、「いいスタートを切らなければと…考えすぎて逆にいいスタートが切れなくなったり、早くスタートを切ろうと思いすぎて、けん制でアウトになったりと、悪循環に陥ってしまった時期があった」[68]。赤星曰く打撃不振から抜け出すきっかけとなったのは7月17日の対広島戦で、第1打席で内角球をヒットにしたことで恐怖感を断ち切ることができたという[69]。それによって走塁面の不振も克服し、シーズン後半の50試合で41、シーズン通算では自己最多記録となる64の盗塁を記録した[69]。日米野球でも7つの盗塁を決め、デイヴィッド・オルティズは赤星を「スーツケースに入れて連れて帰りたい」と称賛した[70]。さらに2年連続で3割を超える打率を記録した。

2005年シーズン、4月21日の対巨人戦で通算200盗塁を達成。同月には月間MVPにも選出された。赤星は自己最多の盗塁を決めながらチーム順位は4位に終わった前年のシーズンを「自分の盗塁が得点につながっていない。チームの勝ちにつながっていない」と感じ、得点にこだわるという目標を立てており、4月には「自分の思ったとおりの結果が出た」と振り返っている[71]。6月12日、北海道日本ハムファイターズとの交流戦において、通算3本目、甲子園球場での初本塁打を記録。以後、引退までに本塁打を記録することはなく、結果的に最初で最後の本拠地本塁打となった。

6月15日の埼玉西武ライオンズとの交流戦において盗塁を試みた際に相手選手と衝突、左肋骨3本を折る重傷を負う。しかし翌日の試合を欠場したものの長期欠場はしなかった[59]。赤星曰くベンチに座っているのも辛いほどの痛みに苦しんだが、気合で克服した[72]。7月にはオールスターに2度目の出場を果たした。10月1日の東京ヤクルトスワローズ戦では通算250盗塁も達成するとともに福本豊以来2人目となる3年連続60盗塁を達成。リーグ史上初の5年連続盗塁王も獲得した。さらに当時のシーズン最多打席(689打席)、イチローを抜く年間単打165のプロ野球新記録も樹立したが、同年阪神の全試合終了後に首位打者の青木宣親が169まで記録を更新した。この年のシーズンで阪神はリーグ優勝を果たしたが、千葉ロッテマリーンズと対戦した日本シリーズでは4連敗を喫した。赤星は「今度こそ日本一になるぞ」という思いで臨んだにもかかわらず「完全な力負け」で4連敗を喫したことについて、「野球人生最大の屈辱」と振り返っている[73]

この年、赤星は「野球を通じて人間的に成長することができたという実感を次の世代に伝えたい」という思いから、中学生を対象とした野球チーム「レッドスター・ベースボールクラブ」を設立した[74]。背景には、社会人の野球チームが次々と廃止され、子供が野球をする場所が減少しているという状況の中、2004年に1リーグ制導入を巡るストライキが起こったことで「プロ野球のチームでも簡単になくなってしまうことがある」ことに危機感を持ち、「ユースチームが組織されているJリーグのようにプロ野球の土台となるべき部分を構築したい」という動機もあった[75]。赤星によると指導にあたることで「子供に教えたことは自分もしっかり実行しなければならない」という意識が芽生え、さらに「自分ならどうするか」といったことに考えを巡らせ、結果的に自身の野球に対する考えが深まる効果が生まれたという[76]

2006年シーズンから今岡誠に代わって阪神の選手会長を務めることになった[77]。7月には2年連続でオールスターに出場した。一方盗塁数は35を記録したが、6年連続での盗塁王獲得はならなかった。赤星によるとこの年から盗塁に対する他球団の対策が強化され、「2005年までは、スタートを切った瞬間に、これはセーフだと思っていたタイミングが、2006年になるとアウトのタイミングに変わってきた[78]」。この年のシーズンを境に赤星は実際に盗塁を試みるよりも自分自身に対する警戒感を利用して相手投手にプレッシャーをかけ、打者に集中することを妨げることを重視するようになったという[79]。打撃面では打率、出塁率共に骨折した2002年に次いで低い数字に終わり、規定打席到達者の中で本塁打、打点長打率がリーグワーストを記録した。赤星は「どこもおかしなところがないのに、結果が出ない。なぜ打てないかがわからないから対処のし様がなかった」と振り返っている[80]。6月8日の日本ハム戦で守備中にフェンスに激突、右足首をねん挫し3試合欠場した[65]

この年のシーズンについて赤星は、「それまで平均点以上の活躍を続けていた自分が初めてどん底を経験した」と振り返り、「プロの世界で生きていくことのプレッシャーを実感した」と述べている[81]。赤星曰く、ある時は4日間眠れずに試合に出たこともあり[82]、不振にあえぐ中でファンの声や報道が気になってそれらに接しては傷つくということを繰り返していたが、ある時「世間の評価をいちいち気にしていてもしょうがない」と考えるようになった[83]。その結果、翌2007年のシーズンではファンやマスコミの声をあまり気にしなくなったという[84]

2007年シーズン開幕直後、左首から左腕にかけて痺れや痛みを感じるようになった。赤星によると2006年のシーズン中から頸部に違和感を覚えていたという[85]。病院で診察を受けたところ、頸椎椎間板ヘルニアと診断された[86]。これ以降、赤星は首の痛みや手の痺れが原因で「5時間以上の睡眠を取れた記憶がない」ほどの慢性的な睡眠不足に悩まされることになる[87]

それでも赤星は出場を続けたが、5月4日の対広島戦でダイビングキャッチを試みた際に首を強打し、椎間板ヘルニアが悪化[88]。「頸椎椎間板中心性ヘルニアによる脊髄損傷」[89]の診断を受け、医師の勧めにより3週間欠場した[88]。診察において赤星は医師から「次に同じことが起こった場合、今よりもひどい状態になる可能性が高い」[90]「あなた、人に車椅子を贈っている(#人物を参照)けれど、このままだと自分が車椅子で生活しなければならないようになる」と宣告を受けた[90][91]。さらに先天的に脊柱管が狭い(頸部脊柱管狭窄症)ため、脊髄が衝撃によるダメージを受けやすい状態にあるとも指摘された[90]。赤星は医師からダイビングキャッチやヘッドスライディングなど頸部に負担がかかる行為をしないよう忠告され、球団との間で以後「頸椎椎間板中心性ヘルニアによる脊髄損傷」に起因する事故が起こった場合は自己責任である旨を約束することになった[92]。赤星は後に、球団側がこの時、再び赤星が同様の負傷をした場合には引退を勧告すると決めていたと知らされることになる[93]。当時赤星は「今年で野球が終わってもいい」という心境で復帰した[94]ものの、「どうせ大げさに言っているのだろう」とも考えていた[90]。しかし実際には首の状態は成績に大きな影響を与えた。リードを大きくとった状態で牽制球を投げられ、首を後ろに大きく反らせる形で帰塁すると痺れを感じることがあったが、それを避けるためにリードを小さくすると盗塁ができなくなった。8月22日以降の32試合の盗塁数はゼロである。赤星は「こんなに長い間走っていないのは、後にも先にもこの時だけだ。それほど体の状態はよくなかったということだろう」と振り返っている[95]

7月25日の対中日戦で通算300盗塁を、9月14日の対中日戦で球団最速記録となる7年目での通算1,000本安打を達成。2年ぶりの打率3割を記録した。9月23日の対ヤクルト戦で左腰に死球を受け、腰椎を骨折(第2腰椎左横突起骨折)し、3試合欠場した[88]

「頸椎椎間板中心性ヘルニアによる脊髄損傷」との診断を受けた際、赤星は医師から「筋肉の鎧で首を守れば、ヘルニアの症状も緩和されるし、衝撃を受けた際にも脊髄への直接的なダメージを少しは防いでくれるだろう」とアドバイスを受けた。それを踏まえこのシーズンオフは首の強化に取り組み、医師から「アメリカンフットボールの選手みたいだ」と言われるほどに筋肉をつけることに成功した[96]

2008年は開幕から1番打者として活躍。試合途中から出場するなど球団側が首の状態に配慮した起用をしたことから、全試合出場を果たしながらもシーズンを通して体調は良かった[97]。9月22日に2,089打席無本塁打のプロ野球新記録を樹立。走塁面では10月12日に吉田義男の持つ球団記録に並ぶ通算350盗塁を記録した(日本プロ野球歴代15位、当時の現役選手では石井琢朗に次ぐ2位)。シーズンを通した盗塁数は41で福地寿樹に1つ届かずリーグ2位であった。打撃面では自己最高となる打率.317, リーグ最多の94得点を記録した。ちなみに本塁打は出ず、3年連続で規定打席に到達かつ本塁打0(東出輝裕とともにプロ野球新記録)を記録した。規定打席に達しての本塁打0を4度(2004・2006・2007・2008年)記録したのは久慈照嘉に続いて史上2人目であった。チームは7月下旬に優勝マジック46が点灯したものの8月以降低迷し、優勝を逃した。赤星はこの年のシーズンについて、「優勝と盗塁王を逃したショックは言葉では言い表せないほど大きかった」一方、2005年以来こだわってきた得点でリーグ最多を記録したことには「満足のいくシーズンだった」と振り返っている[98]

2009年は年初から調子が悪く、肩の痛みや腰部のヘルニアに苦しんだ。オープン戦には肩と腰に痛み止めの注射を打って出場した。4月10日の試合後に腰の状態が悪化し、自ら登録抹消を申し出た[99]。復帰後体調の悪化は全身におよび、腰のほか両膝と肩にも痛み止めの注射を打って出場した[100]

4月4日、開幕2試合目の対ヤクルト戦で球団新記録となる通算351盗塁を達成[101]。5月13日、出場登録日数が8年となり、FA権を取得した[102]。8月2日の対巨人戦で本塁への走塁中に相手選手と接触し、左足を負傷(左下腿筋挫傷)。10日間欠場した[103]

9月12日、甲子園球場で行われた対横浜ベイスターズ戦で内川聖一が打った右中間への飛球にダイビングキャッチを試み、頸椎椎間板ヘルニアが悪化すると同時に中心性脊髄損傷を負った。負傷直後は手足が動かなくなったほどの重症で、赤星はトレーナーに背負われてグラウンドから退場し、救急車で西宮市内の病院へ搬送された[104]。赤星は手足が動かないことを自覚した時、「このまま戻らないんじゃないか」と思ったという[105]。間もなく足は動くようになったものの、腕に深刻なダメージを受けた。感覚が鈍く、思うように動かすことができず、しかも何かに触れると激痛が走る症状に襲われた。医師は赤星に対し、指が以前のように動かせなくなる後遺症が残る可能性を指摘した[106]。赤星によると日常生活に影響はないものの、右手親指と小指の痺れはその後も残っているという[107]

赤星は「まだ野球がやりたい。来年もプレーする」という思いを抱きつつ、痛みに耐えながら手足の指を一本ずつ動かすところからリハビリを開始した[108]。10月12日にリハビリの場所を阪神鳴尾浜球場に移した頃には60 kgあった握力が30 kgほどに戻っており、赤星は翌11月からユニフォームを着てリハビリを行う予定を立てた[109]。しかし10月31日に球団側は引退を勧告。この時赤星は「引退しなさい。クビです」という、引退通告のニュアンスを感じ取ったという[110]。赤星には「いくらなんでも1か月で結論を出すのは早すぎるだろう」という思いがあり[111]「1年は様子を見てほしい」と猶予を求めた[108]

赤星は診察した医師が現役続行は厳しいという見解を球団側に伝えていたことを知り[112]、これを覆す見解を求めて全国の医院を巡ったがかえって症状の深刻さを知らされる羽目になり、「復帰する怖さみたいなもの」を感じるようになった[113]。頸部を映したMRI画像を見たところ、「明らかに変形してグチャグチャ」になっていたという[114]。11月4日には予定通りユニフォームを着てグラウンドに立ちキャッチボールなどを行ったが、8日に球団側と行った2度目の会談でも「大きなリスクを抱えた現状では契約できない」旨を通告された[115]

11月16日、球団トレーナーの石原慎二に紹介された医師から、脊柱管を人工骨で広げ頸部脊柱管狭窄症は改善することで脊髄へのダメージを緩和できるようにすれば復帰は可能という診断を受け、そのことを球団側に伝えたが「いくら可能性があっても100%でない限り、その手術に賭けることはできない」と受け入れられなかった。この時赤星はそれまでの会談の内容から「絶対に球団の意見は変わらない」と予測していて、「やっぱりな…変わるわけがない」と感じた[116]。赤星は球団側の姿勢について、「こちらの意見を聞いて考えようという姿勢は、僕には感じとれなかった」と述べている[117]

赤星によると、医師から「今度やってしまったら不随の可能性がある。最悪、命の危険もある」と言われたことが引退を決意した要因の一つになったという。赤星はプロ入り後、「シーズンは144試合ある中で、プロとして大切なことは常に70パーセントぐらいの力をコンスタントに出すこと。でも僕は、みんな70パーセントの力を出すときに、100パーセントじゃないと勝負できない」という思いで試合に臨んでいた[118]。赤星は「危険なプレーをしなければ万が一のことは起こらない」とも考えたものの、「100%の力、100%のパフォーマンス、100%の気持ちで試合に臨めるかといったら、どこかでセーブしないといけない自分がいたり、次にやってしまったらという恐怖感を持ったまま試合に臨まないといけない」「全力プレーができない状況で野球を続けるのは無理」という心境に至った[60][119]。赤星はかねてから自身の引退について、「やれることはやりきる」「やりきれなくなったときが、現役を退くタイミング」と述べていた[120]

12月2日、赤星は球団側に引退を申し入れた[121]。赤星によると、前述のように「あと1年ぐらい様子を見てくれてもいいんじゃないか」という思いが球団に対してあり、自由契約となる選択肢も頭にあったが、最終的には阪神で野球人生を終えるという気持ちを全うさせることを選んだという[122]。同月9日に西宮市内で記者会見を開き、引退を発表[108]。会見において赤星は「ケガさえなければ来年もレギュラーでやっていく自信はあった。まだまだ若い選手に負けない気持ちもある。まだまだできるという気持ちもあった」[60][119]「完全燃焼した気持ちはない」と述べた[54][123]。赤星は負傷を招いたプレーについて、「今でも夢に出てくる」としつつ、「飛び込んだことに後悔はありません。野球選手の本能としてやったことなので。それよりも、もう少し寄っておけば捕れたのに…と考えてしまう」と振り返った[54][123]。赤星は「あの最後のプレーで、自分が本当に野球人だと思えた」とも述べている[124]。赤星は9年間のプロ生活について、「野球のために人生を全部使ってきたし、いろいろなことを犠牲にしてきた。人生のすべて」と振り返っている[125]。生涯通算.295の打率については、「予定外でした。プロでこんなに打てるとは思ってなかった」「自分の中では誇れる数字」と述べている[54][123]。会見には絶対に泣かないという決意で望み、3度涙をこらえたという[126]。会見終了後、阪神甲子園球場のセンター付近で車椅子の贈呈式を行った[54]。赤星自身の意向により、引退試合は行われなかった[127]

引退後[編集]

2010年より、『スポーツニッポン』紙の評論家に就任[128]するとともに、同じく前年限りで現役引退した立浪和義清水崇行と共に日本テレビプロ野球中継解説者となった[129][130]。事実上2008年まで日本テレビ系列で解説を務めた掛布雅之の後任である。なお、系列の讀賣テレビ放送、ならびにゲスト解説出演の扱いで朝日放送(2011年からラジオのみ専属解説)、毎日放送関西テレビ放送の中継にも出演。

2011年オフには、和田豊の監督就任に伴いコーチ就任の依頼を受けるも、体調面を理由に辞退した。

2012年には大阪府交野市で赤星憲広が大会実行委員長を務める「第1回 Ring ofRed 交野市チャリティーマラソン」を開催。約5000名のランナーが参加。第1回大会の様子"http://katanomarathon.com/movie/katano_marathon_movie.wvx"

2013年にも同じく、同市で「第2回 Ring ofRed 交野市チャリティーマラソン」を開催。約6000名のランナーが参加。

2014年4月19日より公開されたアニメ映画『名探偵コナン 異次元の狙撃手』にて、アニメの声優に初挑戦した。

野球選手としての特徴・評価[編集]

一塁到達まで3.74秒、バント時には3.50秒を記録する[131]元来の足の速さに加え、「球界で最も速いレベル」と言われた盗塁時のスピードが持ち味[132]。巨人で投手コーチを務めていた尾花高夫には「誰が1番を打っても、存在感としては赤星の3分の1にも満たないんじゃないか」と言われた[133]

野村克也は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督として赤星と対戦した際、一度に12球の牽制球を投げさせたことがある。赤星によると試合後野村は「赤星を塁に出すのはソロホームランと同じだから、警戒しすぎるぐらいでちょうどいい」とコメントしたという[134]。野村は赤星の守備について、「肩は強くなくても、あの足で打球に突っ込んでくるだけで走者はストップする」と評した[135]

名前にちなんだ「レッドスター」や「赤い彗星」の愛称でファンの人気を集めており、打席に立つと、スタンドで赤い星マークのボードを掲げるファンもよく見られた[136]

野球理論[編集]

走塁について[編集]

「足にはスランプがない」、つまり盗塁は足が速いかどうかで決まるから調子は関係ない、という考えに対し、「あまり走らない人の意見だ」という見解を示している。赤星は盗塁においても、余計なことを考えてしまうことで動きに狂いが生じるという形での、メンタル面のスランプは起こる(逆に、調子のいい時はほとんど何も考えずに走ることができる)と述べている[137]。赤星は自身の経験として、2004年のシーズン前半に陥ったスランプを挙げている[138]

メンタル面との関係から、盗塁においては牽制球によってアウトになることがないリードの限界を知ることが重要だと述べている。アウトになることがない地点にいれば前に進むことだけを考えられるが、そうでなければ牽制球が投げられた際に帰塁することも考えなければならないため、いいスタートを切ることに集中できなくなると述べている[139]。赤星は盗塁において重要だとされる3S(スタート、スピード、スライディング)よりも気持ち、勇気であると述べている[140]

「打者が追い込まれる前に走って、少しでもプレッシャーを和らげてあげたい」という思いから、カウントが早い(投手が打者に対して投じた球数が少ない)うちに盗塁することを心がけた。通算381の盗塁のうち最多の140を初球で、100を2球目で決めているという離れ業を成し遂げている[141]

盗塁において最も重要なのは足の速さではなく「アウトを恐れずにスタートを切る勇気」であり、「僕にとって盗塁の数は勇気の証」だと述べている[142]。赤星曰く、福本豊も同じ考えを持っている[143]

練習について[編集]

赤星は練習についてまず、試合において最高の力を発揮するためのものであると述べている[144]。その上で量をこなせばよいというものではなく、とくに「人の倍やったから自分のほうがすごい」と自己満足に陥ってはならない[145]、量をしっかりとやった上で、その上でやり方や方法も工夫しなければならないと述べている[146]

赤星はプロ野球においてはいい練習をしたからといって必ず試合に勝てるというものではなく、勝つためには「いい準備」、すなわち「チームとして何をすべきか」ということを考え、実行していくことが重要であると述べている。具体的には自分たちのチームの長所を把握し、長所を発揮するために必要なことを考え、キャンプでの練習やオープン戦での試合の中で実践していくことにあると述べている[147]

努力について[編集]

赤星は努力をすることにおいては努力の内容を進化させていくことも重要で、自身の場合は色々な方法で努力をしていく中で自分の能力を向上させるのに効果的な方法を修得していったのだと述べている[148]

失敗について[編集]

4割の打率を残せば日本はもちろん世界の野球史に残る打者になれる。野球は「失敗のスポーツ」であり、失敗することが珍しくない以上、失敗した時に気持ちを切り替え、引きずらないことがよい結果を残すためのコツであると述べている[149]

人物[編集]

普段は誠実で温厚な人柄であるが、実は短気な性格であり、尚且つモラル面が特に厳しく、チームメイトからは「チャッカマン」と呼ばれていた。2008年5月24日の福岡ソフトバンクホークス戦後のヒーローインタビューでは、インタビューが聞こえないと野次を飛ばした観客に向かって「(マイクが)入ってねーんだよこの野郎!」と怒号を飛ばした様子が中継で流れてしまった[150][151](ホークス主催試合だったため、ヒーローインタビューはマイクが入らない形で行なわれた)。また、別の試合ではファンの野次に耐えかねて、最終打席に立った時にわざとアウトになり1塁から戻って来るその足でそのファンのところに駆けつけ「お前ちょっと来い!」と叫び、スタンドにいた警備員にそのファンを引き留めておくよう指示。ところが、赤星が駆けつけた時にはそのファンは立ち去っていたため、ファンを逃がした警備員に対して怒りを爆発させたと『ダウンタウンDX』に出演した際に自ら語っている[152]

現役時代の2003年から毎年その年に記録した盗塁数と同じ数の車椅子を養護施設や病院に寄贈していた[153]。赤星によると、そのきっかけはあるファンのために球場で試合が観戦できる特別な車椅子を作ったことで、加えて足の不自由なファンからファンレターが多く届いたこと、看護師をしていたことのある姉から病院などの施設で車椅子が不足していることを聞いていたこと[154]、さらにプロ野球選手になるという長年の夢をかなえたことで「夢はもう何もないが、夢を達成できたからこそ、今度は人に夢を与え続けなければならない」という心境に至ったことも作用した[155]。選手会長就任後は甲子園球場の車椅子観戦エリア拡大に向けた働きかけも行った[153]。2004年には社会福祉活動に貢献したプロ野球選手に贈られるゴールデンスピリット賞を受賞している[156]。赤星が現役時代に贈呈した車椅子の数は301個にのぼる[157]。なお、引退後も車椅子贈呈の社会福祉活動は評論家活動を行うスポニチ大阪本社と連携して展開している[158]

幼少期から物を大事にする性格の持ち主で、少年時代にはグローブの紐が切れると自分で直していた。プロ野球選手となった後もまだ使える用具を新しいものに変えることに強い抵抗を感じ、2年目から同じグローブを使い続けていた[159]バットについても、1日1本のペースで替える選手もいる中、そのバットが合っていると折れるまで使い続けた[160]。ただし1本のバットを使い続けるのではなく、「キャンプ中からシーズン当初は930 gほどの重さのものを使う。そこから、体力が落ちるであろう夏場に向け、形状は同じでも徐々に軽いものにしていく」方針をとった[161]。使用したバットの形状は1年目が「グリップエンドが極端に大きいタイカップ型」、2年目以降が「マサムネ型と呼ばれる、もう少し全体的に細いタイプのもの」であった[162]

ゼット製の野球用具を愛用していた。きっかけはシドニーオリンピック出場時にオフィシャルメーカーからは冷遇されたのに対し、ゼットに丁重な扱いを受けたことにあった[163]。プロ野球選手となり、2003年からスパイクシューズを自由に選べるようになった時、「自分のために親身になって開発・改良を積み重ねようとしてくれた姿勢が嬉しい」という理由から、競合メーカーと比べて「明らかに性能が劣っていたと思われる」ゼット製のものを選び[164]、ともに改良に取り組んだ[163]。赤星は「素足に近い感覚がいい」「足の裏と地面の距離を近くして、できるだけ土を感じられるように」という理由から「足にかかる負担が大きくなるのは覚悟のうえ」で、かかと部分の緩衝材を取り除くなど「スパイクの裏側、特にかかと部分はかなり薄く」なるデザインを要求した[165]。赤星は「もし、他社のスパイクを選んでいたら400盗塁に届いたかもしれないというのが本音だ」としつつ、「(ゼットとの)信頼関係は、盗塁20個、30個以上の価値がある」と述べている[166]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
2001 阪神 128 524 438 70 128 9 4 1 148 23 39 12 24 4 50 1 8 64 1 .292 .372 .338 .710
2002 78 343 310 36 78 7 4 0 93 12 26 7 5 1 15 0 12 56 5 .252 .311 .300 .611
2003 140 635 551 90 172 17 7 1 206 35 61 10 24 1 45 0 14 76 15 .312 .378 .374 .752
2004 138 633 570 96 171 20 6 0 203 30 64 12 11 1 49 0 1 85 3 .300 .356 .356 .712
2005 145 689 601 119 190 15 9 1 226 38 60 12 8 3 69 1 8 90 3 .316 .392 .376 .768
2006 142 642 566 84 152 13 3 0 171 20 35 13 9 1 60 0 6 94 2 .269 .344 .302 .647
2007 121 475 400 61 120 12 1 0 134 19 24 8 29 2 39 0 5 58 3 .300 .368 .335 .703
2008 144 646 556 94 176 15 1 0 193 30 41 9 9 3 73 1 4 87 3 .317 .398 .347 .745
2009 91 377 338 48 89 9 1 0 100 8 31 5 7 2 26 1 4 54 3 .263 .322 .296 .617
通算:9年 1127 4964 4330 698 1276 117 36 3 1474 215 381 88 126 18 426 4 62 664 38 .295 .365 .340 .705
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]


外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2001 125 243 9 2 1 .992
2002 78 156 4 2 0 .988
2003 140 233 10 0 2 1.000
2004 138 254 5 2 3 .992
2005 145 264 12 5 1 .982
2006 141 277 12 2 4 .993
2007 112 209 3 3 1 .986
2008 144 251 4 2 1 .992
2009 89 143 1 0 0 1.000
通算 1112 2030 60 18 13 .991
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

  • 盗塁王:5回 (2001年 - 2005年)5年連続はセ・リーグ記録、日本記録は福本豊の13年連続

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
  • 初出場:2001年3月30日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に川尻哲郎代打で出場
  • 初打席:同上、9回表に條辺剛から三塁ゴロ
  • 初安打:2001年3月31日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム) 、7回表に柏田貴史から三塁内野安打
  • 初先発出場:2001年4月1日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、1番・中堅手で先発出場
  • 初盗塁:2001年4月3日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に二盗(投手:鶴田泰、捕手:西山秀二
  • 初打点:同上、2回表に鶴田泰から遊撃適時内野安打
  • 初本塁打:2001年8月4日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、5回表に長谷川昌幸から左越ソロ
節目の記録
セントラル・リーグ最多記録
  • シーズン最多打席:689(2005年)
日本最多記録
  • 連続打席無本塁打:2528(2005年6月12日に江尻慎太郎から本塁打を打ってから引退まで)
その他記録

背番号[編集]

  • 53 (2001年 - 2009年) - 2014年途中から建山義紀が着けるまで準欠番扱いだった。

関連情報[編集]

出演番組[編集]

野球中継
日本テレビ制作の試合中継でも、解説を担当することがある。
テレビ中継の解説については前述の読売テレビに限らず在阪各局での出演機会があるが、ラジオ中継の解説についてはABCラジオのみ担当。2011年4月29日の「阪神対東京ヤクルト」以降、全国向けの中継に出演する機会もある。
原則としてNHKの中継は専属契約解説者のみの出演であるため、専属外の解説者の出演は珍しかった。
レギュラー番組
年に数回放送される特別番組で、同局制作の生放送番組では初めてUstreamへの音声・スタジオ映像の同時配信を実施。2010年10月から半年間は、『スポーツにぴたっと。』(ナイターオフ期間のスポーツ情報番組)の金曜日に組み込まれたうえで、レギュラーで放送されていた。
土曜日レギュラー。2013年1月までは黒木知宏と隔週交代で出演(ダブルキャスト)していたが、黒木が日本ハム投手コーチに就任したため、2013年2月以後は毎週出演に昇格した。2012年3月17日の放送では、声帯ポリープの手術を受けた上田晋也くりぃむしちゅー)の代理で、初めてMCを兼務した。
その他
  • 虎バンABCテレビ、2010年4月 - 、スペシャルコメンテーターとして不定期出演)
現役選手時代からインタビューや特集でたびたび登場。2010年2月放送の「虎バンスペシャル」で、他の番組に先駆けて解説者デビューを果たした。
センバツ高校野球大会中に関西ローカルで放送されるハイライト番組。大府高校時代に2度同大会へ出場したことが縁で、担当年には大会の開幕直前番組から決勝戦ハイライトまで出演する。
初めてレギュラーでナビゲーターを務めた番組で、土曜日に月1回のペースで放送。

他多数

出演CM[編集]

著書 [編集]

DVD[編集]

  • Legend of ★Red 赤星憲広#53 引退記念完全保存版(2010年、読売テレビ、EAN:

4988013326927)

出演イベント[編集]

  • Ring of Red 交野市チャリティマラソン(大阪府交野市との共催で2012年から毎年実施)
  • 野球教室
  • トークショー
  • ディナーショー

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 赤星2008、115頁。
  2. ^ 赤星2010、88頁。
  3. ^ 赤星2008、127-128頁。
  4. ^ 赤星2008、129-132頁。
  5. ^ a b 赤星2008、134頁。
  6. ^ 赤星2008、124頁。
  7. ^ 赤星2008、124-125頁。
  8. ^ 赤星2008、125-126頁。
  9. ^ スポーツニッポン引退記念号、10面。
  10. ^ 赤星2008、126-127頁。
  11. ^ 赤星2008、136-138頁。
  12. ^ 赤星2008、140-141頁。
  13. ^ 赤星2008、142頁。
  14. ^ 赤星2010、91頁。
  15. ^ 赤星2010、92-93頁。
  16. ^ a b 赤星2010、94頁。
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  18. ^ 赤星2008、26-27頁。
  19. ^ 赤星2010、94-95頁。
  20. ^ 赤星2008、27-28・45頁。
  21. ^ a b c d サンケイスポーツ特別号、18頁。
  22. ^ a b c d 赤星憲広/野球;有名人スポーツワンポイント講座
  23. ^ 赤星2010、91頁。
  24. ^ 赤星2010、96-97頁。
  25. ^ 赤星2010、96-98頁。
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  45. ^ サンケイスポーツ特別号、17-18頁。
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  47. ^ 雑誌『スポーツ・ヤア!』(角川書店)2003年7/25-8/7号36ページ「密着ドキュメント 赤星憲広 3枚の色紙」
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  50. ^ 赤星2010、115-116頁。
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  53. ^ 赤星2010、111-112頁。
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  63. ^ 赤星2010、118・140頁。
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参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]