田口壮

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田口 壮
So Taguchi on the bases in June 2008.jpg
フィリーズ時代(2008年6月15日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県西宮市
生年月日 1969年7月2日(45歳)
身長
体重
177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手二塁手遊撃手
プロ入り 1991年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1992年4月4日
MLB / 2002年6月10日
最終出場 MLB / 2009年10月4日
NPB / 2011年8月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2000年

田口 壮(たぐち そう、1969年7月2日 - )は、福岡県生まれ、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。2012年の現役引退後は、ホリプロに所属しながら、野球解説者ラジオパーソナリティとして活動している。妻は元アナウンサーの香川恵美子

来歴[編集]

プロ入り前[編集]

福岡県で出生。クラレに勤務していた実父・允之(よしゆき)の転勤によって、2歳から8歳まで千葉県、8歳から小学校5年生夏までを岡山県岡山市、中学校時代から大学時代までを兵庫県西宮市で過ごした。

允之はかつて、クラレ岡山硬式野球部1973年廃部)の選手として、社会人球界で活躍していた[1]。その影響で、2歳上の兄・克巳と共に3歳から野球を始めると、岡山市立平福小学校では当時住んでいた同社社宅内のソフトボールチームに所属、優勝大会多数。西宮市立平木中学校兵庫県立西宮北高等学校を経て、関西学院大学へ進学した。

いわゆる「進学校」である西宮北高校では、地元に近い甲子園の土を踏めないまま卒業。関西学院大学で硬式野球部に所属すると、同部が加盟する関西学生野球連盟の公式戦で、101試合出場、376打数123安打、打率.327、10本塁打、46打点という通算記録を残した。その間には、首位打者1回、最優秀選手1回、ベストナイン4回をそれぞれ受賞。通算123安打は、2012年11月現在でも(前身の団体を含めて)連盟史上最多安打記録である[2]

ちなみに守備位置は、9歳(1978年)で当時の地元・岡山市の野球チームに入ってから、オリックスでの入団2年目(1993年)までショート一筋だったという[3]。また、允之も克巳も、関西学院大学の硬式野球部で活躍。克巳は現在、関西学生野球連盟の審判委員を務めている[4]

オリックス時代[編集]

1991年ドラフトオリックス・ブルーウェーブ日本ハムファイターズから1位指名を受け、抽選の結果オリックスが交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円(金額は推定)で入団合意した[5]。ドラフトに際しては、平田勝男の後継遊撃手を求めていた阪神タイガースが指名・獲得を望んでいたという。これに対して田口は記者会見で「阪神に行きたくない10カ条」なる文書を読み上げる(後に撤回)。これは阪神と疎遠だった関西学院大学野球部及び学校当局が、田口を阪神に行かせたくないために言わせたものだといわれるが、この行為については当時の野球部監督により叱責を受け、田口も「野球以外の事で怒られたのは初めてだった」と語っている(監督の叱責については当時の「週刊ベースボール」に記載)。

プロデビュー戦は1992年開幕戦千葉マリンスタジアムでの対ロッテ戦で、前年のベストナイン遊撃手でオールスターゲームにも出場した小川博文を差し置いて、9番・遊撃手で新人開幕戦先発出場を果たした。この試合では、1回裏の守備機会からゴロを捌いた際に一塁手への高い送球になってしまう(記録は一塁手のケルビン・トーベがジャンプで好捕したのでアウト)。

デビュー当時は土井正三監督の厳しい指導からスローイング障害(イップス)、ストレスから突発性難聴に陥り、守備では失策を続けた。結局、内野手としては大成しなかった。しかし、「強肩病」とイチローが絶賛していた強肩を生かして、1994年に外野手に転向。最多補殺ゴールデングラブ賞などの常連になる程、好守の外野手としてレギュラーに定着する。イチロー、本西厚博(後に谷佳知)との外野手トリオは、当時球界一の守備力と言われた。

シュアなバッティングと堅実な外野守備でオリックスの1995年1996年シーズンの連覇に貢献。打順は主に1番打者や3番打者を務め、1996年は後半戦からイチローと入れ替わる形で1番に固定された。1997年には1番打者として135試合全出場を果たした。同年は主に左翼手を務めたのにもかかわらず、刺殺302という中堅手以外では突出した数値を残し、他にも補殺17、失策1の守備率.997、RRF1.229という好成績を収めている。1998年1999年は二塁手、遊撃手として起用されることも多かった。

2000年松坂大輔中村紀洋らと共に、シドニーオリンピック野球日本代表として出場した。チームは3位決定戦で韓国に敗れ、4位に終わった。オリンピックでは日本ハムの田中幸雄選手と背番号が重なったため、背番号6を譲る形となり背番号1を着用した。

2001年3月、かつてTBSアナウンサーを務めていた香川恵美子と結婚。同年オフにFA宣言アラン・ニーロを代理人とし、オリックスから2年3億円を提示された他、阪神からは3年総額8億円を提示されたが、2002年1月9日にセントルイス・カージナルスと3年300万ドルで契約を結ぶ。入団会見時、記者会見場に貼られた横断幕には「TAQUCHI」と書かれていた。

カージナルス時代[編集]

打席に立つ田口(カージナルス時代)

2002年は開幕ロースターからは外れたものの、6月10日のシアトル・マリナーズ戦でメジャーデビュー。4試合の出場で無安打に終わりマイナーに降格したが、9月7日に再昇格。その日のシカゴ・カブス戦の2回にメジャー初安打を記録し、以降15試合に出場。計2回昇格したメジャーでは19試合の出場で15打数6安打を放った。

2003年も開幕ロースターに残れず、傘下のAAA級メンフィスで開幕を迎える。5月27日にメジャー昇格し、9試合の出場で4打数2安打2打点を記録したが、6月8日に降格。8月17日にメジャー再昇格を果たし、9月12日のヒューストン・アストロズ戦ではセカンド守備に就いて日本人初の内野守備を経験し(グラブはミゲル・カイロから借用)、メジャー初本塁打も放った。28日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではデニス・レイエスから3点本塁打を放ち、チームの勝利に貢献。最終的に43試合の出場で打率.259に終わったが、得点圏では打率.357と結果を残した。同年に長男が誕生し、一児の父親となった。

2004年は初の開幕ロースターに残り、メジャー定着を果たした。同年シーズンは109試合に出場し、打率.291・得点圏打率.341を記録してチーム新人王となる。カージナルスはワールドシリーズに進出を果たし、自身も第1戦で先発出場して安打を放ったが、ボストン・レッドソックスに4連敗を喫し、チャンピオンリングを獲得することはできなかった。しかしこのシーズンで評価が一気に高まり、監督のトニー・ラルーサは「私はソウを高く買っている!」と度々語ったほか、チーム公式サイトでの「チームが最も必要としている選手は誰か?」というアンケートでは1位にランクインした[6]。オフには複数球団からのオファーがあったが、「ラルーサ監督の下でプレーして、野球をもっと勉強したい」と1年55万ドルでカージナルスと再契約した。

2005年はチーム3位の143試合に出場。8月には12試合連続安打を記録するなど打率.361、OPS.912を残し、月間MVP候補に挙がる活躍を見せた。ラリー・ウォーカーレジー・サンダースの故障に伴いスタメン出場も増え、アルバート・プホルスが休養で欠場した試合の3番打者も務めた。シーズンを通じて打率.288・8本塁打・53打点・11盗塁を残し、リーグトップとなる得点圏打率.407(91打数37安打)を記録した。

2006年は開幕戦となったフィラデルフィア・フィリーズ戦に6番左翼手でスタメン出場した。相手先発が左投手の試合ではジム・エドモンズに代わりスタメンで起用されたが、プレストン・ウィルソンの加入以降は代打や守備固めでの出場が増え、控え外野手として134試合に出場した。ポストシーズンでは、ニューヨーク・メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズ第2戦の9回に、全盛期の豪腕ビリー・ワグナーから決勝点となる本塁打を放つなど、2本塁打を放つ活躍を見せた。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは、第4戦の1点ビハインドの7回裏のノーアウト2塁という場面で、代打バントを命じられて見事に成功。エラーで出塁して自ら逆転のホームを踏み、カージナルスの王手に貢献した。次の第5戦では8番・左翼で先発出場。7回から右翼に移り勝利を収め、世界一が決まった瞬間フィールドに立っていた初の日本人選手となった。オフには年俸調停を申請していたが、1月16日に92万5千ドルの1年契約を結んだ。

2007年シーズンは打率.290を残し、リーグトップとなる代打打率.406(32打数12安打)を記録した。しかしオフには球団が翌年のオプションを行使しないことを発表してノンテンダーFAとなり、12月24日にフィラデルフィア・フィリーズと年俸100万ドルの1年契約を結んだ。

カージナルス退団後[編集]

2008年は日米通算1500本安打を達成するも代走・守備固めでの出場が多く、後半は同じく移籍してきたエリック・ブラントレットにそのポジションを奪われ、メジャーデビュー後自己最低の成績に終わった。チームは2年連続地区優勝し、ワールドシリーズにも進出して28年ぶりのワールドチャンピオンに輝いたが、自身はロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップの1試合出場に留まった。

2009年1月15日、シカゴ・カブスとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加。開幕からAAA級アイオワで過ごしたが、9月16日にメジャー昇格を果たし、ミルウォーキー・ブルワーズ戦に出場。40歳2ヶ月での出場は日本人野手最年長記録となった。しかし、出場機会に恵まれず(6試合で11打数3安打)レギュラーシーズン終了後に解雇通告を受けた。

オリックス復帰[編集]

2010年1月23日オリックス・バファローズと1年8000万円プラス出来高2000万円で契約。背番号はカージナルス時代のチームメイト、ラリー・ウォーカーの付けていた番号にあやかった「33[7](旧ブルーウェーブ時代に付けていた「6」は大村直之が着用していた。また球団から「5」も提示されていたが、固辞した模様)。

主に代打や左投手先発時にスタメンとして起用された。5月30日に行われた「がんばろう神戸デー」では1995年の優勝を経験した唯一の現役選手として、同日に復刻したブルーウェーブのユニフォームに袖を通した。9月7日のロッテ戦では代打逆転2ラン本塁打を放ち、9年ぶりに古巣のお立ち台に上がった。4月21日に左太もも痛で登録抹消、その後も不振や体調不調があり7月17日に再び抹消されるなど、シーズン通しての出場は53試合に留まったが、実直な練習態度や周囲へのアドバイスなど、精神的支柱としての面が評価され、翌年も契約することが決まった。

2011年は2月の春季キャンプで右肩を痛め、開幕に出遅れるも、5月10日に一軍に昇格。5月18日の阪神戦では3番・右翼手として出場し、岩田稔から先制タイムリーを放ち2度目のお立ち台に挙がった。その後も低迷したチーム打率や後藤光尊が二軍落ちした状況の中で3番としてチームを牽引した。後藤の復帰後は主に2番打者として起用され、交流戦では弟分である坂口智隆に次いで全体2位の打率.363を記録する。しかしその後は不調に陥り、8月29日に登録抹消される。その後は痛めた右肩の影響もあり一軍に昇格することは無く、10月13日に退団となった。[8]。翌14日に右肩を手術した。12月2日、自由契約公示された。

2012年は、現役続行を目指しながらリハビリに専念していた。しかし、新規契約期限の7月31日までにどの球団からもオファーがなかったため、同日に自身の公式サイトで現役引退を発表した[9]

現役引退後[編集]

2012年9月6日に、当時の所属事務所を通じて、現役を引退することを正式に発表した。同時に、芸能事務所のホリプロとの間で、新たにマネジメント契約を締結。同社のスポーツ文化部に所属しながら、野球解説者として活動することを明かした[10]

引退発表から約1ヶ月後の2012年10月2日からは、『with…夜はラジオと決めてます』(MBSラジオが2012年度のナイターオフ期間に放送した4時間超の生ワイド番組)の火曜日で、レギュラーでは初めてのラジオパーソナリティを担当。その関係で、2012年12月の「MBSラジオ スペシャルウィーク」では、同局のパーソナリティ代表として「スペシャルウィークPR大使」に起用された。また、2012年11月25日に開催された第2回神戸マラソンでは、朝日放送ABCテレビ)による番組企画の一環として人生初のフルマラソンに挑戦[11]。5時間51分20秒で完走を果たした。

ちなみに、現役引退の発表直後は、放送局やテレビ・ラジオを問わず(ニュース番組のスポーツコーナーを含む)多数のスポーツ中継・番組にゲストコメンテーターとして出演していた。2013年のプロ野球シーズンからは、NHKの野球解説者としても活動する[12]

プレースタイル[編集]

大学生時代は名ショートだったが[13]、オリックスでは送球イップスが原因で3年目に本格的に外野手に転向する[13]。外野での守備はイチローを上回っていた[14]。俊足であり[15]、肩も強く[15]、イニング間にはよくレフト定位置の田口とライト定位置のイチローとでキャッチボールを行っていた[13]

土井監督時代だけでなく仰木彬監督時代も外野だけでなく内野を守ることもあった[16]

カージナルス移籍後もレギュラーの休みの穴を埋める「スーパー・サブ」「10人目のスターター」のユーティリティープレイヤーとして活躍し、ポストシーズントレバー・ホフマンビリー・ワグナーから本塁打を放つなど、大一番での打撃も目立った。勝負強さが持ち味のクラッチヒッターでもあり、2005年にはリーグトップの得点圏打率.407(OPS.936)を記録した。メジャー通算でも打率.279・OPS.717に対して、得点圏では打率.331・OPS.835という数字を残している。また、メジャー通算における満塁時の打率は.512(41打数21安打、出塁率.510・長打率.707・OPS1.217)である。

2009年に地元紙セントルイス・ポスト・ディスパッチ電子版が2000年代のカージナルスベストナインを読者投票で選出し、田口は「ベストなベンチ要員」で断トツのトップに立った。同紙は「移籍してもスタンディングオベーションで迎えられるなど、今でもファンに愛されている」と田口の人柄も評価した。このようにファンからの支持が高い傾向にあり、マイナー時代に地元ファン用に田口の個人グッズの販売がされていたこともある。

人物[編集]

ファンにサインをする田口
(2007年)

誠実かつ実直な性格でオリックス時代から人望が厚く、選手会長を務めていたこともある。シドニーオリンピックでは、イチローの出場を欲する代表チームに対し、「オリンピックはアマチュア選手の晴れ舞台」と出場を渋るイチローの心境を慮り、イチロー選出回避の嘆願を申し出て、自らが代役としてオリンピックに出場した。坂口智隆とは田口がメジャー時代の時から続く師弟関係であり、オフには共に合同自主トレを行っている。

野球以外の活動としては、自身のウェブサイトで公開中の日記を編集した「何苦楚(なにくそ)日記」(主婦の友社、2004年)を執筆。ウェブサイトの日記は文章構成がプロ並の出来と評判が高い。カージナルスの傘下チームで活動していたころは「日記しか書けないマイナーリーガー」と言われていたが、近年では「日記も書けるメジャーリーガー」と呼ばれるようになった。何苦楚はオリックス時代に指導を受けた中西太から授けられ、座右の銘としている言葉で、同じく中西の指導を受けた岩村明憲も座右の銘としている[17]

アメリカ合衆国に移って1年半が過ぎた2003年の秋にイエス・キリストを信じ、クリスチャンになった。「自分の心に響きました。理解でき、実感することができました。これが本物だってわかったんです…妻との関係や、人生が困難に陥った時に助けてくれるのはイエス・キリストだと、今では思ってます」と語った。カージナルスにはジョン・ロドリゲス、ブレイデン・ルーパーアルバート・プホルスなど信仰心の厚さで知られる選手もいる。田口は、「プホルスはとても優しくしてくれますね。彼は、言語を理解できないつらさをわかってくれるし、信仰の手本となるクリスチャンでもある。みんなとても親切にしてくれますね」とコメントしている。

カージナルス内では古参の部類に入るほど長く在籍していたため、地元人気が高い選手だったが、球団ウェブサイトの彼のプロフィールにある出身大学名は「Kansai Gakuin, Osaka」(※「かんせいがくいん(アルファベット表記・Kwansei Gakuin)」は兵庫県の大学)のままで全く訂正されなかった。2008年にはフィリーズ、2009年にカブスに移籍した後も訂正されなかった[18]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1992 オリックス 47 141 123 12 33 10 0 1 46 7 5 0 9 0 8 0 1 26 1 .268 .318 .374 .692
1993 31 90 83 12 23 7 1 0 32 5 3 2 4 0 3 0 0 12 2 .277 .302 .386 .688
1994 108 364 329 55 101 17 1 6 138 43 10 3 5 4 23 1 3 62 6 .307 .354 .419 .773
1995 130 574 495 76 122 24 2 9 177 61 14 7 25 7 43 0 4 80 7 .246 .308 .358 .665
1996 128 569 509 74 142 24 1 7 189 44 10 4 23 4 29 4 4 61 15 .279 .321 .371 .692
1997 135 643 572 92 168 32 4 10 238 56 7 1 16 3 49 1 3 74 4 .294 .351 .416 .767
1998 132 573 497 85 135 26 2 9 192 41 8 8 23 2 48 2 3 68 13 .272 .338 .386 .724
1999 133 569 524 77 141 21 1 9 191 56 11 6 14 1 29 0 1 91 9 .269 .308 .365 .673
2000 129 578 509 77 142 26 3 8 198 49 9 2 11 0 55 1 3 80 12 .279 .353 .389 .742
2001 134 524 453 70 127 21 6 8 184 42 6 6 26 1 43 2 1 88 7 .280 .343 .406 .750
2002 STL 19 19 15 4 6 0 0 0 6 2 1 0 2 0 2 0 0 1 0 .400 .471 .400 .871
2003 43 59 54 9 14 3 1 3 28 13 0 0 1 0 4 1 0 11 2 .259 .310 .519 .829
2004 109 206 179 26 52 10 2 3 75 25 6 3 10 3 12 1 2 23 6 .291 .337 .419 .756
2005 143 424 396 45 114 21 2 8 163 53 11 2 2 4 20 2 2 62 11 .288 .322 .412 .734
2006 134 361 316 46 84 19 1 2 111 31 11 3 9 2 32 1 2 48 9 .266 .335 .351 .686
2007 130 340 307 48 89 15 0 3 113 30 7 4 3 1 23 0 6 32 10 .290 .350 .368 .718
2008 PHI 88 103 91 18 20 5 1 0 27 9 3 0 4 0 8 0 0 14 2 .220 .283 .297 .580
2009 CHC 6 12 11 1 3 1 0 0 4 0 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .273 .333 .364 .697
2010 オリックス 53 131 119 17 31 6 0 3 46 10 1 0 2 2 7 0 1 28 4 .261 .302 .387 .689
2011 62 239 198 27 54 10 0 0 64 15 3 1 23 0 15 1 3 36 5 .273 .333 .323 .657
NPB:12年 1222 4995 4411 674 1219 224 21 70 1695 429 87 40 181 24 352 12 27 706 85 .276 .332 .384 .716
MLB:8年 672 1524 1369 197 382 74 7 19 527 163 39 12 31 10 102 5 12 195 40 .279 .332 .385 .717
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

NPB
MLB
  • ハート&ハッスル賞(2007年)※チーム内での受賞。30球団から1人の最終受賞者には選出されず

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
  • 1000本安打:2000年10月6日、対西武ライオンズ26回戦(グリーンスタジアム神戸)、4回裏に西口文也から中前安打 ※史上203人目
  • 1000試合出場:2001年4月28日、対日本ハムファイターズ7回戦(グリーンスタジアム神戸)、6番・左翼手で先発出場 ※史上367人目
MLB
  • シーズン得点圏打率1位:.407(2005年)

背番号[編集]

  • 6 (1992年 - 2001年)
  • 99 (2002年 - 2009年)
  • 33 (2010年 - 2011年)

著書[編集]

出演番組[編集]

現役引退後のレギュラー番組のみ記載

脚注[編集]

  1. ^ 関西学院同窓会岡山支部公式ブログ 2008年岡山支部総会告知を参照。
  2. ^ 関西学生野球連盟公式サイト 主な連盟記録を参照。
  3. ^ 田口壮オフィシャルサイト「野球と私」を参照
  4. ^ 関西学生野球連盟公式サイト 連盟役員・審判委員を参照。
  5. ^ 朝日新聞、1991年12月13日付朝刊 (14版、21面)
  6. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2005』 廣済堂出版、2005年、303頁。ISBN 4-331-51093-X
  7. ^ 田口壮オフィシャルサイト mail from so 2010年1月23日より
  8. ^ オリックス 田口退団を発表 戦力外にも現役続行希望スポニチアネックス、2011年10月13日。
  9. ^ 田口壮オフィシャルブログ: 2012年7月31日
  10. ^ “元オリ・田口壮、現役引退を正式発表”. サンケイスポーツ. (2012年9月6日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20120906/npb12090620330005-n1.html 2012年9月6日閲覧。 
  11. ^ 朝日放送「神戸マラソン2012 新たなる自分へ」を参照
  12. ^ 週刊ベースボール』「2013年プロ野球全選手写真名鑑」に掲載の「2013 評論家・解説者名鑑」より
  13. ^ a b c 小関順二 『プロ野球スカウティングレポート2014』 廣済堂出版2014年、5頁。ISBN 978-4-331-51810-6
  14. ^ 『プロ野球ニュース選手名鑑2000』 ザ・マサダ、2000年、170頁。ISBN 4-88397-014-0
  15. ^ a b 小関順二 『プロ野球スカウティングレポート2014』 廣済堂出版、2014年、4頁。ISBN 978-4-331-51810-6
  16. ^ So TaguchiBASEBALL-REFERENCE.COM、2014年10月24日閲覧。※英語
  17. ^ スポーツニッポン2008年10月23日
  18. ^ [1]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]