桧山進次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
桧山 進次郎 (黄 進煥)
HT-Shinjiro-Hiyama.jpg
2008年7月16日
基本情報
国籍 韓国の旗 韓国
出身地 日本の旗 日本 京都府京都市右京区
生年月日 1969年7月1日(45歳)
身長
体重
177 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1991年 ドラフト4位
初出場 1992年5月30日
最終出場 2013年10月5日(レギュラーシーズン)
2013年10月13日 (ポストシーズン含)
年俸 3,800万円(2013年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
桧山進次郎
各種表記
ハングル 황진환
漢字 黄進煥
発音: ファン・ジナン
ローマ字 Hwang Jin-hwan
テンプレートを表示

桧山 進次郎(ひやま しんじろう、1969年7月1日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手外野手内野手)。一部メディアでは、「檜山進次郎」と表記[2]

通算代打起用回数・代打安打数・代打打点数すべて歴代2位記録。

1997年から2005年頃までレギュラー、2006年からは主に代打で活躍した。打席に立つたびにスタンドから盛大な声援を受けるほどの人気選手で、代打に定着してからは、メディアやファンから(八木裕に次ぐ)「代打の神様」と呼ばれることが多かった。愛称は「ひーやん」、「ひー」、「悠久の若虎」など。

在日韓国人3世[2]で、本名は黄 進煥[2](ファン・ジナン、ハングル:황진환)。日本に帰化する意思はないことを明言している[2]。また、2013年の現役引退を機に、「ベースボール&スポーツコメンテーター」という肩書でホリプロとマネジメント契約を締結[3]2014年からは、朝日放送野球解説者日刊スポーツ野球評論家も務める[4]

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

京都府京都市右京区出身。桑原征平京都市立西院小学校の先輩にあたる。平安中学校に通っていた中学生時代には、1982年劇場公開の松竹映画蒲田行進曲」の京都ロケへ、台詞なしのエキストラとして参加した経験を持つ[3]

平安高校を経て、東洋大学へ進学。東都大学野球リーグ通算76試合出場、261打数83安打打率.318, 13本塁打、45打点。ベストナイン3回。第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された際は後にプロでチームメイトとなる金本知憲と同室になった。

1991年プロ野球ドラフトで、阪神から4位指名を受け入団。入団会見で「巨人オロナミンCならば、リポビタンDのCMをしたい」と笑いを誘った。

プロ入り後[編集]

1995年のシーズン後半から不調の亀山努に代わって終盤まで6番・右翼手で起用された。

1996年には5番・左翼手に定着し、中日ドラゴンズ野口茂樹から2試合にまたがって4打席連続本塁打を放つなど22本塁打を記録。来日外国人を除く阪神在籍野手で、1シーズンに20本以上の本塁打を放った左打ちの選手は藤田平掛布雅之に続いてこの年の桧山が3人目であった[5](本拠地の阪神甲子園球場は「浜風」の影響で右翼方向に打球が飛びにくいと言われている)。

1997年は4番・右翼手として出場し、共に前年の自己最高を更新する23本塁打・82打点を記録。しかし打率は2割台前半で三振も多く、確実性の面で課題を残した。

1998年レギュラーとして出場するが、坪井智哉の台頭により定位置の右翼は奪われた形になる。また、開幕カードで2番スタメンを経験した。

1999年には開幕に出遅れたことや不振などもあり、出場試合は95試合に留まり、2000年にはトニー・タラスコらとのレギュラー争いに敗れ代打要員となった。

2001年にはタラスコ解雇に伴いレギュラーに復帰し、シーズン後半は帰国したイバン・クルーズに代わって4番を務める。無理に長打を狙わないことで当時の史上7位・球団記録となる28試合連続安打や自身初の打率3割を記録。また、この年からチームの選手会長にも就任した。

2002年は主に5番・右翼手として出場。終盤に左肩亜脱臼で戦列を離れ、チーム失速の一因となった。濱中治の台頭に加わり、オフに広島東洋カープから金本知憲FA移籍が決定的になると、レギュラー構想の説明を求めるなどフロントと揉めた末にFA宣言するが、他球団からのオファーはなく、また星野新監督の慰留もあり権利を行使した上で阪神に残留した。

2003年は濱中が4番・右翼手に入り、桧山はキャンプから一塁手へのコンバートに挑戦した。開幕当初は、ジョージ・アリアス片岡篤史(いずれも内野手)との併用扱いで一塁手として出場。4月10日に一軍公式戦への通算1000試合出場を達成すると、同年18日はプロ入り後初めてのサヨナラ本塁打を記録した。濱中が右肩の負傷で戦線を離脱した5月以降は、「4番・右翼手」としてレギュラーに復帰。7月2日の対中日戦で史上58人目(62度目)のサイクル安打を達成。チームは18年ぶりにリーグ優勝した。日本シリーズでも4番・右翼手として出場し、第5戦で決勝適時打、第6戦で本塁打を放ち優秀選手賞を獲得。同年、選手会長を退任して後任の今岡誠に引き継いだ。

2004年5月5日の対広島戦で1イニング2三振のプロ野球タイ記録を作るが、シーズン成績は自己新の84打点、打率.306, 打撃スタイルを変えた2001年以降では最多の18本塁打を記録した。

2005年シェーン・スペンサーとの併用扱いで出場。シーズン序盤は打撃不振に見舞われたが、8月25日にはプロ通算1000本安打、同月31日にはプロ通算150号本塁打をそれぞれ記録。尻上がりの調子でシーズンを終えたものの、通算成績は過去数年に比べてやや下降した。

2006年は主に代打として出場するが、不振にあえぎ一軍定着後最低の打率.180を記録。代打としても出塁率.300・打率.208に終わった。同年、2度目となるFA権を取得したが行使せずに残留。

2007年シーズン当初は二軍で5月4日に一軍合流したが、濱中に加えて桜井広大林威助などの台頭もあって前年より更にスタメンの機会は減り、控え外野手としても葛城育郎の好調の陰に隠れた。8月21日の対東京ヤクルトスワローズ戦で松岡健一から、自身初の代打満塁本塁打を放ちチームの逆転勝利に貢献。次の試合もタイムリーを放つなど、シーズン終盤には随所で勝負強い打撃を見せた。9月5日には、一軍公式戦への通算1500試合出場を達成している。しかし、通算打率は、前年に続いて1割台と低迷。さらに、代打での打率は.186と、前年から大きく落ち込んだ。10月15日、『デイリースポーツ』紙の1面に「阪神を退団」という記事が掲載され、桧山自身が自らのサイトでこれを否定する一幕もあった。

2008年は進退をかけて臨み、開幕直後から代打で安打を重ねて高橋光信や葛城育郎らと共に代打として活躍。勝負強さを買われてセ・パ交流戦を中心にスタメンでも起用された。打率3割をマークし、この年から八木裕に代わる「代打の神様」として定着した。

2009年も主に代打として出場したが、前年よりも打撃成績は落ち込んだ。10月4日の対中日最終戦で、同年限りでの引退を表明した同学年の立浪和義に対し、阪神を代表して慰意の花束を贈呈した。

2010年は5月18日の対福岡ソフトバンクホークス戦で遠井吾郎の球団記録に並ぶ代打通算108安打[6]、6月4日の対オリックス・バファローズ戦で球団新記録となる代打通算109安打を記録した[7]。また9月16日の対横浜ベイスターズ戦では、代打で登場した金本が怪我のため守備につくのが困難なことや、他の控え外野手を使い切ってしまっていたことから、9回裏1イニングだけライトのポジションについた。この年守備についたのはこの一度であるが、桧山が打席に立たずに守備だけで出場するのは、2007年7月6日の中日戦以来3年ぶりのことであった。

2011年は、5月8日の対横浜戦の7回に適時打を打ち、代打での通算86打点で球団3位タイの記録に並び[8]、5月14日の対中日戦で9回裏二死に代打で登場して本塁打を放ち、球団新記録の代打通算14本塁打および球団3位の代打通算87打点を記録した[9]。シーズン終了後の11月22日には、海外FA権を行使せずに阪神への残留を表明。しかし翌23日に、自身の公式サイト「桧舞台」が主催するイベントで転倒して左鎖骨を骨折(後述)。同月30日に手術を受けた[10]

2012年には、前述の骨折の影響で、公式戦の開幕直前から一軍に合流。開幕から代打での起用が続いていたが、5月27日の対埼玉西武ライオンズ戦では5番右翼で先発出場。スタメンは2009年6月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦以来3年振りだが、守備についてのスタメンとなると2008年8月7日の対広島戦以来4年振りであった。しかし代打では、8月23日の中日戦で安打を放ったことを最後に、翌年5月8日の対巨人戦(東京ドーム)まで22打席ノーヒットが続いた[11]

2013年も開幕から一軍に帯同すると、前述の巨人戦で自身23打席振りの安打を放つとともに、球団新記録でセ・リーグ史上第3位となる代打通算99打点を挙げた[12]5月12日の対ヤクルト戦でも適時打を放ち、宮川孝雄浅井樹に次ぐ代打通算150安打、宮川・川又米利に次ぐ代打通算100打点(ともに史上3人目)を記録。8月7日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、セ・リーグ歴代単独2位となる代打通算155安打を放った[13]9月7日に今季限りでの現役引退を表明[14]。引退試合となった10月5日の対巨人戦(甲子園)には、「5番・右翼手」でスタメンに起用されたものの、3打数0安打で8回表の守備から交代した。最終打席となった第3打席は一塁ゴロ。試合後のセレモニーでは「今日ここまで皆さんと共に2回のリーグ優勝を僕は手に入れました。しかしながら、日本一という称号はまだ手に入れてません。この忘れ物をいつか必ず取りに来ます。その時はまた、ファンの皆さん、タイガース球団の皆さん、一緒に戦いましょう。本当に僕は幸せ者でした。22年間、ありがとうございました」と挨拶した[15]。なお、チームがシーズン2位でクライマックスシリーズ(CS)への進出を決めていたことから、引退試合の後も広島との同シリーズ・ファーストステージ(甲子園)に出場。第1戦では、7回裏1死1・2塁からの代打で遊飛に倒れた。しかし第2戦では、5点ビハインドで迎えた9回裏2死1塁の場面で代打で登場。2003年の日本シリーズでの広澤克実(41歳6カ月)の記録を更新するポストシーズン史上最年長(44歳3カ月)本塁打となる2ラン本塁打をライトスタンドに放つ。しかし、チームは4対7で敗れたためCSでの敗退が決定。結果として、前述の本塁打を放った打席が、桧山にとって現役最後の打席となった[16]

現役引退後[編集]

2013年10月23日付で、セントラル・リーグから任意引退公示[17]。これを機に、阪神タイガースを退団した。同年12月1日付でホリプロとマネジメント契約を締結。「ベースボール&スポーツ・コメンテーター」として活動することを表明した。

2014年からは、朝日放送の野球解説者や、日刊スポーツ新聞西日本(大阪本部)専属の野球評論家を務める[4]。同年2月20日には、現役時代に阪神のコンディショニングコーチや個人トレーナーとして桧山と接してきた仲田健(ホリプロ所属のストレングス&コンディショニングコーチ)との共同執筆による自身初の著書「代打の哲学」が、幻冬舎から刊行された。同年3月31日には、自身初の単著「待つ心、瞬間の力」を、廣済堂出版から発売している。

社会貢献活動[編集]

阪神の現役選手時代から、公式サイトの「桧舞台」をベースに、以下のような社会貢献活動を展開。「桧舞台」内の「チャリティー」ページで、活動の成果を随時報告している。

  • 2002年 - 2013年:母子生活支援施設で暮らす子どもたちを、甲子園球場の公式戦へ招待。2011年には、この活動に対して、同年に創設されたばかりの「第1回若林忠志賞」を阪神球団から授与された[18]
  • 2003年 - :「神戸レインボーハウス」(2002年の阪神ヘルメットスポンサー・あしなが育英会が運営する阪神・淡路大震災遺児のための施設)を毎年訪問。遺児たちとの交流を図ると共に、寄付金を贈呈。
  • 2010年11月:出身地の京都市と、甲子園球場がある兵庫県西宮市内に対して、児童養護施設および関連施設への図書費を寄付[19]
  • 2011年 - :自主トレーニング先のグアム日本人学校を訪れたうえで、生徒たちとの交流を図りながら、学校へ寄付金を贈呈。現役引退後の2014年以降も、グアムでのトレーニングと寄付を続けている[20]
  • 2011年:東日本大震災の発生(3月11日)を機に、桧山のサインが入った数量限定のチャリティーグッズを「桧舞台」で販売したうえで、収益金の全額を日本赤十字社へ寄付。プロ野球シーズン中にも、楽天とのセ・パ交流戦で仙台へ遠征した際に、現地の仮設住宅を慰問した[21]

また、プロ野球のオフシーズンには毎年、ファン参加型のチャリティーイベントやチャリティーオークションを実施。チャリティー活動の収益金を、「24時間テレビチャリティー委員会」へ全額寄付している。

2011年11月23日に京都府宇治市で開催のチャリティーイベントでは、子どもたちとの交流企画であったキックベースボールで女児を抱えながら打席から一塁へ走ったところ、バランスを崩したため女児をかばって左半身を地面で強打。その後の診断で左鎖骨の骨折が判明したが[22]、女児は大事に至らず、桧山自身も翌年にはオープン戦の終盤から一軍へ合流できるまでに患部が回復している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1992 阪神 7 17 17 1 3 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .176 .176 .176 .353
1993 33 73 68 8 11 4 0 2 21 6 0 0 0 0 5 0 0 26 1 .162 .219 .309 .528
1994 32 36 36 6 10 2 0 2 18 7 0 0 0 0 0 0 0 15 0 .278 .278 .500 .778
1995 115 338 305 34 76 17 2 8 121 36 3 2 4 3 20 1 6 67 10 .249 .305 .397 .702
1996 130 541 464 65 122 23 0 22 211 73 5 7 0 8 66 1 3 108 11 .263 .353 .455 .808
1997 136 544 466 68 106 13 5 23 198 82 2 2 0 3 68 4 7 150 4 .227 .333 .425 .758
1998 122 456 398 42 90 19 4 15 162 52 3 5 2 2 47 1 7 101 9 .226 .317 .407 .724
1999 95 323 285 29 73 11 2 8 112 37 6 2 3 2 30 1 3 55 7 .256 .331 .393 .724
2000 87 186 159 18 35 9 2 4 60 16 0 2 0 1 22 2 4 43 6 .220 .328 .377 .705
2001 121 448 406 52 122 24 0 12 182 57 7 3 0 5 29 2 8 62 7 .300 .355 .448 .803
2002 110 452 416 51 122 20 2 13 185 61 7 1 2 3 21 1 10 69 7 .293 .340 .445 .785
2003 111 456 414 70 115 21 3 16 190 63 1 3 0 3 34 0 5 77 9 .278 .338 .459 .797
2004 130 513 468 59 143 26 1 18 225 84 4 0 1 7 32 0 5 74 7 .306 .352 .481 .832
2005 119 342 302 29 84 19 0 8 127 40 1 1 1 3 29 1 7 66 4 .278 .352 .421 .772
2006 85 144 133 8 24 5 0 2 35 12 1 0 0 0 10 1 1 42 0 .180 .243 .263 .506
2007 85 106 89 6 17 1 0 3 27 13 1 0 0 1 15 3 1 27 5 .191 .311 .303 .615
2008 94 121 110 7 33 8 2 0 45 19 0 0 0 1 9 1 1 26 2 .300 .355 .409 .764
2009 82 99 89 5 20 2 1 1 27 9 0 0 0 2 7 2 1 27 1 .225 .283 .303 .586
2010 72 71 67 4 17 3 1 1 25 12 0 0 0 0 3 0 1 18 0 .254 .296 .373 .669
2011 69 69 62 1 17 2 0 1 22 8 0 0 0 1 5 2 1 17 1 .274 .333 .355 .688
2012 67 69 58 0 13 1 0 0 14 6 0 0 0 1 8 2 2 13 3 .224 .333 .241 .580
2013 57 59 51 0 10 4 0 0 14 13 0 0 0 0 6 1 2 12 2 .196 .305 .275 .580
通算:22年 1959 5463 4863 563 1263 234 25 159 2024 707 41 28 13 46 466 26 75 1100 96 .260 .331 .416 .750

年度別守備成績[編集]


一塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1992 - 5 5 0 0 0 1.000
1993 - 23 35 0 0 0 1.000
1994 - 12 10 0 0 0 1.000
1995 - 109 180 4 1 2 .995
1996 - 130 193 7 4 1 .980
1997 - 134 245 7 2 3 .992
1998 - 113 179 3 4 0 .978
1999 - 86 129 6 0 1 1.000
2000 14 100 3 0 13 1.000 38 46 0 2 0 .958
2001 - 116 167 8 2 1 .989
2002 - 110 177 5 1 2 .995
2003 33 240 12 4 18 .984 75 124 3 0 0 1.000
2004 - 123 209 4 2 0 .991
2005 - 89 123 1 0 1 1.000
2006 - 25 18 0 0 0 1.000
2007 - 12 6 0 0 0 1.000
2008 - 10 10 0 1 0 .909
2009 - 1 1 0 0 0 1.000
2010 - 1 1 0 0 0 1.000
2012 - 3 2 0 0 0 1.000
通算 47 340 15 4 31 .989 1215 1860 48 19 11 .990

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:2002年4月23日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、6回表に長谷川昌幸から中越2ラン ※史上218人目
  • 1000試合出場:2003年4月10日、対中日ドラゴンズ3回戦(阪神甲子園球場)、5番・一塁手として先発出場 ※史上384人目
  • 1000本安打:2004年8月25日、対横浜ベイスターズ19回戦(大阪ドーム)、8回裏に秦裕二から中前適時打 ※史上226人目
  • 150本塁打:2005年8月31日、対中日ドラゴンズ16回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に川上憲伸から右越ソロ ※史上139人目
  • 1500試合出場:2007年9月5日、対横浜ベイスターズ18回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に久保田智之の代打として出場 ※史上154人目
  • 1000三振:2008年7月18日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤドーム)、8回表に川上憲伸から空振り三振 ※史上42人目
  • 代打100打点:2013年5月12日、対東京ヤクルトスワローズ12回戦(松山坊っちゃんスタジアム)、9回表にオーランド・ロマンから右前適時打
その他の記録
  • サイクルヒット:1回(2003年7月2日、対中日ドラゴンズ戦、阪神甲子園球場) ※史上58人目(球団史上4人目)
  • オールスターゲーム出場:3回 (1997年、2002年、2003年)
  • ポストシーズン最年長本塁打:44歳3カ月(2013年10月14日、クライマックスシリーズファーストステージ第2戦、対広島東洋カープ戦、阪神甲子園球場)、9回裏にキャム・ミコライオから代打で右越2ラン[16]

背番号[編集]

  • 24 (1992年 - 2013年)

登場曲[編集]

主な出演[編集]

テレビ[編集]

以下はいずれも、野球解説者として出演するABCテレビの番組。

ラジオ[編集]

いずれもABCラジオの番組

映画[編集]

  • 蒲田行進曲1982年) - 中学生時代にエキストラの1人として出演
  • ミスター・ルーキー2002年、阪神タイガースを舞台にした作品) - 同球団の現役選手として、本人役で最終決戦のシーンに「3番・左翼手」として出演

著書[編集]

連載[編集]

  • 「虎よ 突っ走れ」(「朝日新聞」大阪本社発行の関西版夕刊「関西発」木曜日の連載コラム)- 2014年4月17日付紙面から随時掲載

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 阪神 - 2013年度契約更改 - データ集 - プロ野球 - 野球 - SANSPO.COM サンケイスポーツ、2013年6月17日閲覧。
  2. ^ a b c d 朝鮮日報-阪神タイガースの檜山進次郎選手が「在日」を公表 朝鮮日報、2004年1月20日。※リンク先は、インターネット・アーカイブ2007年4月18日付保存キャッシュ。
  3. ^ a b 元阪神・桧山氏、ホリプロとマネジメント契約スポーツ報知、2013年12月2日、同日閲覧。
  4. ^ a b 新年の御挨拶(桧舞台2014年1月1日付記事)
  5. ^ ホリプロ公式サイト
  6. ^ 阪神、熱戦制し2位浮上!桧山が同点タイムリー サンケイスポーツ、2010年5月18日、2010年6月6日閲覧。
  7. ^ 阪神:桧山、代打で左前適時打…代打通算で球団記録を更新 毎日新聞、2010年6月5日、2010年6月6日閲覧。
  8. ^ 桧山 代打通算86打点!球団3位真弓に並ぶ デイリースポーツ、2011年5月9日。
  9. ^ 【阪神】桧山代打弾!八木抜いた14本目 日刊スポーツ、2011年5月14日。
  10. ^ 【阪神】鎖骨骨折の桧山が退院日刊スポーツ、2011年12月5日
  11. ^ 12回V打 神様桧山様!巨人に3連勝で2・5差 スポーツニッポン、2013年5月8日。
  12. ^ 桧山”代打の神様”超え99打点! スポーツニッポン、2013年5月8日。
  13. ^ 代打155安打!虎・桧山、セ歴代単独2位浮上 サンケイスポーツ、2013年8月8日。
  14. ^ 阪神・桧山が現役引退表明 デイリースポーツ、2013年9月7日。
  15. ^ 【阪神】桧山「幸せ者」引退あいさつ全文 日刊スポーツ、2013年10月6日
  16. ^ a b 阪神・桧山 惜別弾 44歳ポストシーズン最高齢アーチスポーツニッポン2013年10月14日配信
  17. ^ 2013年度 任意引退選手 日本野球機構オフィシャルサイト 2013年10月24日閲覧。
  18. ^ 第1回「若林忠志賞」は桧山進次郎選手が受賞阪神タイガース公式サイト2011年12月1日付「球団ニュース」
  19. ^ 京都府庁へ訪問(「桧舞台」2010年10月29日付記事)西宮市役所へ訪問(「桧舞台」2010年11月8日付記事)
  20. ^ グアム自主トレ(「桧舞台」2014年1月16日付記事)および寄付のご報告(「桧舞台」同月6日付記事)
  21. ^ 仙台慰問時の写真「桧舞台」2011年6月3日付記事
  22. ^ 阪神桧山鎖骨骨折だった…キャンプ微妙

関連項目[編集]

外部リンク[編集]