本並健治

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本並 健治 Football pictogram.svg
名前
愛称 浪速のイタリアーノ[1][2]
カタカナ ホンナミ ケンジ
ラテン文字 HONNAMI Kenji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1964年6月23日(50歳)
出身地 大阪府枚方市
身長 186cm
体重 82kg
選手情報
ポジション GK
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1992
1992-1998
1997
1998-2001
松下電器
ガンバ大阪
ヴェルディ川崎(loan)
ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ
17 (0)
124 (0)
11 (0)
74 (0)
代表歴
1994 日本の旗 日本 3 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

本並 健治(ほんなみ けんじ、1964年6月23日 - )は、大阪府枚方市出身の元サッカー選手、解説者、サッカー指導者。選手時代のポジションはGKJリーグではガンバ大阪ヴェルディ川崎に所属していた。

経歴[編集]

松下/ガンバ時代[編集]

大阪商業大学卒業後の1986年ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。松下時代は1学年上の慶越雄二の控えであったが、慶越の移籍もあって正GKの座を奪取。

1993年のJリーグ発足後より、度々見せる鋭い反応や、自陣のぎりぎりまでも飛び出す攻撃的な姿勢が注目を浴び、人気選手の1人となる。当時のG大阪は弱小チームであり、守備の弱さから本並の出番は多かった。

突然の大怪我と選手生命の危機

7月7日サンフレッチェ広島戦において、後半終了直前のコーナーキックの競り合いで田口禎則と激しく接触し[1]腎臓破裂の重傷を負う[1]。試合は、延長開始直後にVゴールを決められ、ガンバが敗れて終了したが、「仮に延長戦が続いていたら助からなかっただろう」と診断されたほどの大怪我だった。本並は既に選出されていたJリーグオールスターの出場キャンセルは勿論、選手生命はおろか命の危機に晒されることとなった。手術では腎臓の4分の1を摘出した[1]

だが驚異的な回復力を見せ、7ヶ月後の翌1994年サントリーシリーズには再び正GKとしてピッチに立つ。ファルカンが監督を務めていた日本代表に選出されたのもこの年である。デビュー戦であるキリンカップフランス戦では、後半から出場し、トンネルを含む2失点(後半からの出場、試合結果は1-4[3])を喫し、その後出場した2試合(1994年7月のアシックスカップのガーナとの2試合)でどちらも失点すると、以後代表から声は掛からなくなり、結局代表キャップは3に留まった。

クラブではその後もチームの顔として活躍し、1995年には日刊スポーツ紙上の「ミスター GAMBA 銀の脚」賞、1996年には「ミスター GAMBA 黄金の脚」賞を受賞。しかしヨジップ・クゼ監督との確執から、1996年の中盤以降は正GKの座を岡中勇人に明け渡し、出場機会が激減していた。

ヴェルディ時代[編集]

G大阪で出場機会に恵まれなくなった本並は、ヴェルディ川崎の誘いに応え1997年シーズン途中にレンタル移籍した[1]。本並にとってはこれが学生時代も含めて初めての大阪以外のチームでのプレーでもあった[1]。1997年シーズン終了後、G大阪からはコーチ就任を打診されたが[1]、現役続行を選び、1998年はV川崎に完全移籍した[1]。この年までは菊池新吉の控えであり、特に1998年は起用されたのはリーグ戦1試合、天皇杯1試合のみであったが[1]1999年はシーズン前に菊池が腰痛を再発させたことからレギュラーに定着[1]2001年を最後に引退するまで、Jリーグ創世記からの武器である鋭い反応で、第2期全盛期と言える活躍を見せた。

1999年11月には日本代表候補に選ばれたこともあったが[2]、結局代表に選ばれることはなかった。Jリーグの通算出場は209試合。

引退後[編集]

2002年に引退後は吉本興業とマネージメント契約、サッカー中継での試合解説、リポーターなどを務める。2003年から京都産業大学東海大学付属仰星高等学校のサッカーコーチに就任。また、フジテレビ『すぽると!』、MBS「ガンバTV」など解説で出演。2012年8月3日なでしこリーグスペランツァFC大阪高槻の監督に就任した。

人物[編集]

  • チームの中で、特に当時は弱小チームだったG大阪所属時には、再三のピンチを凌ぐ本並は注目されることが多かった。だが、自身は「GKが目立つというのは、それだけチームがピンチにさらされているということであり、決して好ましい状況ではない」と再三発言していた。さらに「銀の脚賞」に選ばれた際にも、「嬉しいが、本当は自分が選ばれないようにしないといけない」との旨のコメントを出している。またヴェルディ時代のインタビューでは、「チームが30点取り優勝し、そのうち1点を自分が決める」のが夢だと語っている。

エピソード[編集]

  • 愛車は紫のベンツである。前述した1993年の怪我の際には、負傷後チームメイトに初めてした電話の内容が、練習場に停めたままの愛車を心配するものだったという。
  • 派手なユニフォームを纏っていた理由として、後年「GKは地味というイメージを変えたかった」と述べている。しかし、同時に「派手で目立つということは、相手にも自分の場所が分かりやすいということで、正直失敗だった」とも発言している。Jリーグ開幕直後に特注ユニフォームとして「昇り龍をプリントして欲しい」というリクエストを出したが、あえなく却下されたというエピソードもある。
  • 基本的に敗戦ゲームで着用したユニフォームは次の試合で着用しないという験担ぎをしていたが、1994年JリーグNICOSシリーズで連敗が続いた為、着用できるユニフォームが無くなってしまった。そこで仕方なく前年まで着用していたユニフォームを引っ張り出して着用し、難をしのいだ。
  • 腎臓破裂から復帰した直後は、ウォームアップ時にはゴールマウス付近に清めのを撒いてからアップを開始し、試合中は特注の腎臓を保護するプロテクターを着用し試合に臨んでいた。(ただし、プロテクターは動きがしっくりこない為に短期間で着用しなくなった。)
  • 阪神・淡路大震災の際には、チームメイトにも呼びかけ、被災者に救援物資を提供している。
  • 同じくGKで、元ポルトガル代表ビトール・バイーアに顔がそっくりとしばしば言われ、自らもネタにしていた。
  • 日本人離れした容姿がネタにされ、1999年にはJOMO CUP Jリーグドリームマッチに外国人選抜登録選手チーム側で出場した。
  • また、その濃い伊達男顔から「浪速のイタリア人」(ヴェルディ公式愛称は「浪速のイタリアーノ」)の愛称で親しまれ、髪を染めることすら珍しかった当時に金髪にしたり、自分でデザインした鮮やかなユニフォームを着たりと、かなりの派手好きでも知られていた。一方、演歌大相撲が大好きという古風好みな面もある。
  • 声優小野坂昌也は中学時代の同学年で「本並君のキック力が強くて校舎の2階にある職員室の窓ガラスが割れたので2階だけガードを付けた」とラジオで発言した (ラジオ関西 集まれ昌鹿野編集部 2013年9月22日放送分 )

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1986-87 松下 - JSL1部 0
1987-88 JSL2部 0
1988-89 JSL1部 0
1989-90 21 10 0 1 0 11 0
1990-91 6 0 1 0 7 0
1991-92 20 1 0 0 0 1 0
1992 G大阪 - J - 2 0 2 0
1993 16 0 0 0 0 0 16 0
1994 43 0 3 0 4 0 50 0
1995 49 0 - 4 0 53 0
1996 16 0 6 0 4 0 26 0
1997 12 0 0 2 0 - 2 0
V川崎 16 11 0 0 0 0 0 11 0
1998 21 1 0 0 0 1 0 2 0
1999 J1 29 0 2 0 4 0 35 0
2000 29 0 1 0 2 0 32 0
2001 東京V 15 0 0 0 0 0 15 0
通算 日本 J1 209 0 16 0 19 0 244 0
日本 JSL1部 17 0 2 0 0 0 19 0
日本 JSL2部 0
総通算 226 0 18 0 19 0 263 0

その他の公式戦

代表歴[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 3試合 0得点(1994)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
1994 3 0
通算 3 0

指導歴[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 「連載・男の背中 本並健治(ヴェルディ) 考える人」『週刊サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1999年6月2日号 No.713、38-41頁。
  2. ^ a b 慎武宏. “ヴェルディ川崎の2000年 スペシャルインタビュー 第2回 本並健治”. チケットぴあ. 2012年10月7日閲覧。
  3. ^ http://samuraiblue.jp/timeline/19940529/

外部リンク[編集]