本並健治
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| 名前 | ||||
| 愛称 | 浪速のイタリア人 | |||
| カタカナ | ホンナミ ケンジ | |||
| ラテン文字 | HONNAMI Kenji | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1964年6月23日(47歳) | |||
| 出身地 | 大阪府 | |||
| 身長 | 186cm | |||
| 体重 | 82kg | |||
| 選手情報 | ||||
| ポジション | GK | |||
| 利き足 | 左足 | |||
| 代表歴 | ||||
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本並 健治(ほんなみ けんじ、1964年6月23日 - )は、大阪府出身の元サッカー選手、解説者。選手時代のポジションはGK。Jリーグではガンバ大阪、ヴェルディ川崎に所属していた。
目次 |
[編集] 人物紹介
驚異的な反応能力や攻撃的なスタイルを武器として活躍。Jリーグ創生期を代表するスタープレイヤーの1人であり、礒貝洋光、永島昭浩、松波正信らと共に当時のガンバの顔でもあった。ファルカン・ジャパン時代には、国際Aマッチも3試合経験している。
[編集] 松下/ガンバ時代
大阪商業大学卒業後の1986年、ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。松下時代は1学年上の慶越雄二の控えであったが、慶越の移籍もあって正GKの座を奪取。
1993年のJリーグ発足後より、度々見せる鋭い反応や、自陣のぎりぎりまでも飛び出す攻撃的な姿勢が注目を浴び、人気選手の1人となる。当時のガンバは弱小チームであり、守備の弱さから本並の出番は多かった。
- 突然の大怪我と選手生命の危機
同年のオールスター戦にも選出されたが、7月7日のサンフレッチェ広島戦において、後半終了直前に田口禎則と激しく接触し、腎臓破裂の重傷を負う。試合は、延長開始直後にVゴールを決められ、ガンバが敗れて終了したが、「仮に延長戦が続いていたら助からなかっただろう」と診断されたほどの大怪我だった。本並はオールスター戦のキャンセルは勿論、選手生命は疎か命の危機に晒されることとなった。
だが驚異的な回復力を見せ、7ヶ月後の翌1994年サントリーシリーズには再び正GKとしてピッチに立つ。ファルカンが監督を務めていた、当時の日本代表に選出されたのもこの年である。だが、デビュー戦であるキリンカップのフランス戦で、トンネルを含む2失点(後半からの出場、試合結果は1-4)を喫し、その後出場した2試合(アシックスカップ)でどちらも失点すると、以後代表から声は掛からなくなり、結局代表キャップは3に留まった。
クラブではその後もチームの顔として活躍し、1995年には日刊スポーツ紙上の「ミスター GAMBA 銀の脚」賞、1996年には「ミスター GAMBA 黄金の脚」賞を受賞。しかしヨジップ・クゼ監督との確執から、1996年の中盤以降は正GKの座を岡中勇人に明け渡し、出場機会が激減していた。
[編集] ヴェルディ時代
ガンバで出場機会に恵まれなくなった本並は、ヴェルディ川崎の誘いに応え1997年シーズン途中にレンタル移籍し、翌1998年には完全移籍した。この年までは菊池新吉の控えであり、特に1998年は起用されたのは1試合のみであったが、1999年以後は菊池からポジションを奪って正GKとなり、2001年を最後に引退するまで、Jリーグ創世記からの武器である鋭い反応で、第2期全盛期と言える活躍を見せた。
その間には日本代表候補に名前が挙がったこともあったが、結局代表に選ばれることはなかった。Jリーグの通算出場は209試合。
[編集] 引退後
2002年に引退後は吉本興業とマネージメント契約を結ぶ。2003年から京都産業大学や東海大学付属仰星高等学校のサッカーコーチに就いている。また、『すぽると!』などで解説もしている。
[編集] 姿勢
チームの中で、特に当時は弱小チームだったガンバ所属時には、再三のピンチを凌ぐ本並は、注目されることが多かった。だが、自身は「GKが目立つというのは、それだけチームがピンチにさらされているということであり、決して好ましい状況ではない」と再三発言していた。「銀の脚賞」に選ばれた際にも、「嬉しいが、本当は自分が選ばれないようにしないといけない」との旨のコメントを出している。
またヴェルディ時代のインタビューでは、「チームが30点取り優勝し、そのうち1点を自分が決める」のが夢だと語っている。
[編集] エピソード
- 愛車は紫のベンツである。前述した1993年の怪我の際には、負傷後チームメイトに初めてした電話の内容が、練習場に停めたままの愛車を心配するものだったという。
- 派手なユニフォームを纏っていた理由として、後年「GKは地味というイメージを変えたかった」と述べている。しかし、同時に「派手で目立つということは、相手にも自分の場所が分かりやすいということで、正直失敗だった」とも発言している。Jリーグ開幕直後に特注ユニフォームとして「昇り龍をプリントして欲しい」というリクエストを出したが、あえなく却下されたというエピソードもある。
- 基本的に敗戦ゲームで着用したユニフォームは次の試合で着用しないという験担ぎをしていたが、1994年JリーグNICOSシリーズで連敗が続いた為、着用できるユニフォームが無くなってしまった。そこで仕方なく前年まで着用していたユニフォームを引っ張り出して着用し、難をしのいだ。
- 腎臓破裂から復帰した直後は、ウォームアップ時にはゴールマウス付近に清めの塩を撒いてからアップを開始し、試合中は特注の腎臓を保護するプロテクターを着用し試合に臨んでいた。(ただし、プロテクターは動きがしっくりこない為に短期間で着用しなくなった。)
- 阪神・淡路大震災の際には、チームメイトにも呼びかけ、被災者に救援物資を提供している。
- 同じくGKで、元ポルトガル代表のビトール・バイーアに顔がそっくりとしばしば言われ、自らもネタにしていた。
- 日本人離れした容姿がネタにされ、1999年にはJOMO CUP Jリーグドリームマッチに外国人選抜登録選手チーム側で出場した。
- また、その濃い伊達男顔から「浪速のイタリア人」(ヴェルディ公式愛称は「浪速のイタリアーノ」)の愛称で親しまれ、髪を染めることすら珍しかった当時に金髪にしたり、自分でデザインした鮮やかなユニフォームを着たりと、かなりの派手好きでも知られていた。一方、演歌と大相撲が大好きという古風好みな面もある。
[編集] 所属クラブ
- 清風高校
- 大阪商業大学
- 1986年 - 1997年5月 松下電器/ガンバ大阪
- 1997年5月 - 2001年 ヴェルディ川崎/東京ヴェルディ1969
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1986-87 | 松下 | JSL1部 | 0 | ||||||||
| 1987-88 | 松下 | JSL2部 | 0 | ||||||||
| 1988-89 | 松下 | JSL1部 | 0 | ||||||||
| 1989-90 | 松下 | 21 | JSL1部 | 10 | 0 | 1 | 0 | ||||
| 1990-91 | 松下 | 21 | JSL1部 | 6 | 0 | 1 | 0 | ||||
| 1991-92 | 松下 | 20 | JSL1部 | 1 | 0 | 0 | 0 | ||||
| 1992 | G大阪 | - | J | - | 2 | 0 | |||||
| 1993 | G大阪 | - | J | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 16 | 0 |
| 1994 | G大阪 | - | J | 43 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | 50 | 0 |
| 1995 | G大阪 | - | J | 49 | 0 | - | 4 | 0 | 53 | 0 | |
| 1996 | G大阪 | - | J | 16 | 0 | 6 | 0 | 4 | 0 | 20 | 0 |
| 1997 | G大阪 | 12 | J | 0 | 0 | 2 | 0 | - | 2 | 0 | |
| V川崎 | 16 | J | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 0 | |
| 1998 | V川崎 | 21 | J | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 |
| 1999 | V川崎 | 21 | J1 | 29 | 0 | 2 | 0 | 4 | 0 | 35 | 0 |
| 2000 | V川崎 | 21 | J1 | 29 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 32 | 0 |
| 2001 | 東京V | 21 | J1 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 15 | 0 |
| 通算 | 日本 | J1 | 209 | 0 | 16 | 0 | |||||
| 日本 | JSL1部 | 33 | 0 | ||||||||
| 日本 | JSL2部 | 0 | |||||||||
| 総通算 | 0 | ||||||||||
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 5試合0得点
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1994)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 3 | 0 |
| 通算 | 3 | 0 |