前園真聖
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|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||
| 愛称 | ゾノ | |||
| カタカナ | マエゾノ マサキヨ | |||
| ラテン文字 | MAEZONO Masakiyo | |||
| 基本情報 | ||||
| 国籍 | ||||
| 生年月日 | 1973年10月29日(38歳) | |||
| 出身地 | 鹿児島県薩摩郡東郷町(現薩摩川内市) | |||
| 身長 | 170cm | |||
| 体重 | 68kg | |||
| 選手情報 | ||||
| ポジション | MF/FW | |||
| 利き足 | 右足 | |||
| 代表歴 | ||||
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前園 真聖(まえぞの まさきよ、1973年10月29日 - )は鹿児島県薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)出身の元サッカー選手。マネジメント事務所サニーサイドアップ所属。
1996年のアトランタオリンピックで日本がブラジルに勝利した、「マイアミの奇跡」の時のサッカー日本代表キャプテン。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 幼少~プロ入り以前
東郷小学校在校時、4歳年上の兄の影響でサッカーを始める。ビデオがきっかけでマラドーナに憧れ、繰り返しビデオを見てはドリブルの練習に明け暮れる毎日を送り「東郷少年サッカー団」加入。5年生時、県大会ベスト4。6年生時、県代表として全国大会出場。東郷中学校進学、同校は当時サッカー部が無かったため陸上部に所属、中学1年生時に駅伝大会で1位。後、父兄の協力で中学2年生頃にサッカー部の創部にこぎつけて活躍、この頃から県選抜に選ばれるなど、名前を知られるようになる。
鹿児島実高では1年生時からレギュラーに定着、高校選手権に3年連続で出場。2年生時の69回大会では準優勝を果たした。
[編集] プロ入り
1992年、Jリーグの横浜フリューゲルス(横浜F)に入団。当時、横浜Fは長崎県、熊本県、鹿児島県の3県を特別活動地域(ホームタウンに準じる地区)としていたこともあって、地元出身の前園をチームの看板選手としてPRする狙いもあったと思われる。
1993年、Jリーグ開幕当初は加茂周監督の掲げるチーム戦術「ゾーンプレス」にはスタミナ不足のため出場時間は少なかったが、スピードとキレ有るドリブル突破で徐々に頭角を現し、翌1994年からは主力として活躍。西野朗監督率いるアトランタ五輪代表に選出、さらにフル代表監督ファルカンに抜擢され5月22日、キリンカップのオーストラリア戦で日本代表デビュー。10月の広島アジア大会でも全試合フル出場した。 1995年、1月の五輪代表遠征時に西野監督から指名され主将となる。3月、日本サッカー協会の方針「前園真聖の五輪代表一本化、フル代表のアンブロカップ(イングランド遠征)への不参加」が決定、五輪代表に専念することとなった。5~6月にタイと日本で行われたアトランタオリンピックアジア一次予選に出場。日本五輪代表は4戦全勝で翌年の最終予選進出を決めた。
[編集] オリンピック出場
1996年、3月にマレーシアで行われたアトランタオリンピックアジア最終予選に出場。3月24日、準決勝サウジアラビア戦で2ゴールを挙げ勝利に貢献、日本をメキシコシティ大会(1968年)以来、7大会(28年)ぶりのオリンピック本大会出場権獲得に導いた。 この年初めて1シーズン制を採用したJリーグでは所属の横浜Fが開幕から8連勝と好調。前半戦を首位で折り返し、初のクラブタイトル獲得のチャンスだったが、惜しくも3位に終わった。 7月、アメリカ合衆国で開催されたアトランタオリンピック本大会に出場。日本は予選リーグで金メダル候補のブラジルから大金星を挙げる(マイアミの奇跡)など2勝した(1敗)が得失点差で決勝トーナメント進出を逃した。 8月25日、フル代表復帰初戦のウルグアイ戦で日本代表初ゴール。12月にはアジアカップUAE大会に出場、日本はベスト8(準々決勝敗退)に終わった。
[編集] 移籍騒動
これに前後してオリンピックの始まる前の6月にスペインリーグのセビージャから関係者が来日し、横浜Fと移籍交渉を行っている。当時は有力選手の国外移籍は前例に乏しく、Jリーグのほとんどのチームが消極的であったことが背景にあったが、あくまでアジアの知名度の低い国の若手選手というセビージャ側の評価と、チームの看板選手である前園を安易に移籍させるわけにはいかない横浜F側のチーム事情とが合致せず、この話はなくなる。ついに同年シーズンオフには、スペインへの移籍が叶わずクラブに不信感を募らせた前園と国外移籍の決断を渋る横浜Fとの間で契約交渉が暗礁に乗り上げ、とうとう移籍リストに掲載されるに至った。
この時、三浦知良の国外移籍を容認した前例のあるヴェルディ川崎(V川崎)から獲得希望があり、2ヶ月に渡る紆余曲折の末V川崎への移籍が決定した。この時の移籍金は、当時Jリーグ最高額の推定3億5千万円[1]。前園自身は移籍記者会見の席で、V川崎が国外移籍を容認したことを移籍理由の一つに挙げた。
[編集] 代表落ち~海外移籍
1997年、完全移籍したV川崎では前述の移籍騒動の影響でコンディション不良となりパフォーマンスが低下、3月のフランスワールドカップアジア一次予選オマーンラウンドでの招集・出場選手登録(出場無し)を最後に日本代表落ちとなった。
1998年10月、ブラジル・サンパウロ州の名門クラブ、サントスFCにレンタル移籍し、念願の海外移籍を果たす。10月18日、ブラジル全国選手権ポルトゲーザ戦に後半20分(65分)から交代で初出場、直後の66分に初ゴール。この後も活躍が期待されたが出場試合数・時間は少なく、1999年に出場機会を求めてゴイアス州の強豪クラブ、ゴイアスECにレンタル移籍。移籍当初はゴイアス州選手権、コパ・ド・ブラジル(ブラジル杯)等に主力として出場していたが、次第に出場機会を失いシーズン途中で退団、その後は以前より移籍を希望していた欧州の各クラブ(スペイン・バジェカーノ、ポルトガル・ギマラエス、ギリシャ・PAOKサロニカ等)との移籍交渉、練習参加から仮契約まで交渉が進んだクラブも有ったが、結局本契約には至らなかった。
[編集] Jリーグ復帰
2000年、加藤久監督に請われ、この年からJ2に降格した湘南ベルマーレにレンタル移籍し、Jリーグ復帰。湘南のJ1再昇格の切り札として期待されたがチームは8位に終わり、再昇格はならなかった。 2001年、所属のJ1東京ヴェルディ1969に3年ぶり復帰。チームは低迷し残留争いをしていた9月15日、セカンドステージ第5節横浜F・マリノス戦の前半35分、ゴール前への飛び出しから先制点を奪った際、横浜FMのGK川口能活との接触を避けようと引いた左足がピッチに引っ掛かり足首を骨折。長期離脱しそのまま2001年シーズンを終え、結果的にこれがJリーグ最後の試合出場となった。2002年7月、ロリ監督の構想外となり東京Vから戦力外通告を受けた。
[編集] 現役引退
2003年に、韓国・Kリーグの安養LGチータースに移籍。2004年にKリーグの新チーム・仁川ユナイテッドFCと契約したが、2004年末で契約が解除された。その後、2005年にセルビア・モンテネグロ1部リーグのOFKベオグラードの入団テストを受けるなどするものの本契約には至らずに5月19日、引退を表明。
現在はテレビ東京サッカー解説者、日本テレビの高校サッカー選手権中継で解説者を務める一方、少年サッカーの普及促進活動などにも参加している。2007年からはJFAアンバサダーとしても活躍している。また、サッカー普及活動の一環として、幼稚園児から小学生までを対象とした「ZONOサッカースクール」を、東京体育館、神宮外苑、フットサルポイント川口、JOフットサルベース越谷、フットサルステージ町田、FUEL鎌ヶ谷等で実施している。2008年には中田英寿の立ち上げた元サッカー選手で構成するサッカーチーム「TAKEACTION FC.」の一員となっている。
2009年にはビーチサッカー日本代表に選出され、10月に行われたポルトガル代表との親善試合に2試合出場した[2]。またビーチサッカーワールドカップにも出場し、サッカーとは別の形でワールドカップ出場を果たした。これについて、テレビ番組『S THE STORIES』のインタビューで「ワールドカップという舞台でプレーすることはなかったので、やっぱり日の丸を背負って戦うと興奮するし、本当に嬉しかった」と喜びを語っている[3]。
[編集] エピソード
2006年にはホノルルマラソンに参加、5時間43分で完走した。
2008年1月2日に放送された『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』で、木梨JAPANの一員として中村俊輔とサッカーボウリング(サッカーボールをキックしてボウリングを行う番組のゲーム)対決を行い、前園は4回のシュート機会を与えられたが、いずれも1本しか倒せず、チームの足を引っ張った結果、「Mr.1本」というあだ名をつけられた。しかし、サドンデスで行われた1本のピンを倒す対決では、唯一の成功者として、見事、中村に勝利することができた。
「真聖」という名は両親がクリスチャンであるからということを古くから公言しており、本人もキリスト教徒である。
遠藤保仁とは家族ぐるみの付き合いでとても慕われている(遠藤の兄(長男)と高校時代のチームメイト)。なお、遠藤の両親からは真聖ちゃんと呼ばれているが、テレビでそう呼ばれたときは嫌がっていた。
鹿児島実業高校のサッカー部の監督から、結婚できない理由は赤いスポーツカーに乗っているからと言われた。
[編集] 発言
| “ | 「皆の力と、応援した(してくれた)皆のおかげだと思います。本当に、感謝してます。」
「ここまでずっと、チームの皆、スタッフも含めて一丸と(なって)支えてくれたので、そのおかげだと思います。本当に感謝してます。」 「非常に苦しかったですけど、応援してくれた皆とチームの皆のおかげだと思います。」 |
” |
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—1996年3月24日、五輪アジア最終予選サウジ戦後のインタビュー。五輪代表主将としての重責から解放された安堵からか「皆のおかげ」「感謝」の言葉が何度も口をついて出た印象的な発言。 |
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| “ | いじめ問題のことなんだけど。別にみんな型にはまることはないし、カッコつけてもいいと思う。俺もそうだった。でも俺いじめなんかしたことなかったよな。だって恥ずかしいだろ。誰か泣かしたり。昔からカッコ悪いことだけはしたくなかったし。いじめは最低だよ。カッコ悪いよ。 | ” |
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—1996年に公共広告機構(現:ACジャパン)のいじめ防止キャンペーンに全面的に協力し、そのCM内で残した言葉。いじめられっ子なぐさめ型・抱擁型ではなく、いじめという行為を、みっともないもの、恥ずべきもの、という視点で発した発言[4] |
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[編集] 評価
切れ味鋭いドリブルと、左右どちらの足でも蹴れる精度の高いフリーキックが特徴的である。特にそのドリブルは顕著で現在でもJリーグの歴代トップクラスのドリブラーであると評価する向きが少なくない。とは言え全盛期は短かった。
また、西野朗など攻撃的プレーヤーであっても前線での守備を要求する監督とは、戦術を巡ってしばしば衝突した。
また日本代表監督だった加茂周からはトップ下として期待されていたが、応えることはできず、結局日本代表からはずされ、森島寛晃、中田英寿などにポジションを奪われることとなった。加茂の前園に対する期待は大きく、時に余人を排して懇々と指導する姿が何度か見られたが、結局プレースタイルを変えることはできなかった。
Jリーグおよび日本代表のスター選手であったがゆえに、前園の評価・露出は試合以外の部分にも及んだ。特にアトランタ・オリンピック前後の期間において、マスメディアへの露出は相当の数に上り、それはサッカーやスポーツと無関係なコマーシャルにまで及んだ。
フィリップ・トルシエ(元日本代表監督)が2000年に前園を例示しつつ、大きな怪我をした小野伸二に対するメディアの過度な期待を批判した。
[編集] 所属クラブ
- 1992年 - 1996年
横浜フリューゲルス - 1997年 - 1998年途中
ヴェルディ川崎 - 1998年途中 - 1998年末
サントスFC - 1999年
ゴイアスEC - 2000年
湘南ベルマーレ - 2001年 - 2002年
東京ヴェルディ1969 - 2003年
安養LGチータース - 2004年
仁川ユナイテッドFC
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1992 | 横浜F | - | J | - | 0 | 0 | |||||
| 1993 | 横浜F | - | J | 24 | 2 | 5 | 0 | 5 | 1 | 34 | 3 |
| 1994 | 横浜F | - | J | 38 | 8 | 2 | 0 | 2 | 0 | 42 | 8 |
| 1995 | 横浜F | - | J | 40 | 7 | - | 2 | 0 | 42 | 7 | |
| 1996 | 横浜F | - | J | 26 | 8 | 11 | 7 | 2 | 0 | 39 | 15 |
| 1997 | V川崎 | 7 | J | 28 | 5 | 0 | 0 | 2 | 0 | 30 | 5 |
| 1998 | V川崎 | 7 | J | 22 | 3 | 2 | 1 | - | 24 | 4 | |
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1998 | サントス | 全国選手権A | 5 | 1 | |||||||
| 1999 | ゴイアス | 全国選手権B | |||||||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2000 | 湘南 | 10 | J2 | 38 | 11 | 2 | 0 | 3 | 2 | 43 | 13 |
| 2001 | 東京V | 11 | J1 | 13 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 15 | 1 |
| 2002 | 東京V | 11 | J1 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | |
| 韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003 | 安養 | Kリーグ | 22 | 0 | |||||||
| 2004 | 仁川 | Kリーグ | 22 | 1 | |||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 191 | 34 | 22 | 8 | 13 | 1 | 226 | 43 | |
| 日本 | J2 | 38 | 11 | 2 | 0 | 3 | 2 | 43 | 13 | ||
| ブラジル | 全国選手権 | ||||||||||
| 韓国 | Kリーグ | 44 | 1 | ||||||||
| 総通算 | |||||||||||
その他の公式戦
- 1990年 第68回全国高等学校サッカー選手権大会 2試合2得点
- 1991年 第69回全国高等学校サッカー選手権大会 6試合4得点(PK1)
- 1992年 第70回全国高等学校サッカー選手権大会 3試合2得点
- 1994年 ゼロックス・スーパーカップ 1試合0得点
- 1997年 ゼロックス・スーパーカップ 1試合0得点
オールスター戦
- 1995年10月10日 JOMO CUP Jリーグドリームマッチ JAPAN DREAMS 3-1 WORLD DREAMS 背番号7
- 1996年10月10日 JOMO CUP Jリーグドリームマッチ JAPAN DREAMS 1-2 WORLD DREAMS 背番号7 1得点
[編集] 経歴
- Jリーグ初出場 - 1993年6月5日 Jリーグファーストステージ第7節 ヴェルディ川崎1-1(PK5-4)横浜フリューゲルス ※途中出場
- Jリーグ初得点 - 1993年7月10日 Jリーグファーストステージ第17節 横浜フリューゲルス1-0横浜マリノス
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
日本五輪代表
- 1995年 アトランタオリンピックアジア一次予選(タイ、日本) 4試合5得点(PK2)
- 1996年 アトランタオリンピックアジア最終予選(マレーシア) 4試合4得点(PK1)
- 1996年 アトランタオリンピック本大会(アメリカ) 3試合2得点(PK1)
日本代表
- 1994年 第12回アジア競技大会(日本) 4試合0得点
- 1995年 第3回ダイナスティ杯(香港) 3試合0得点
- 1996年 第11回AFCアジアカップ(UEA) 4試合2得点
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 19試合 4得点(1994-1997)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1994 | 6 | 0 |
| 1995 | 4 | 0 |
| 1996 | 7 | 4 |
| 1997 | 2 | 0 |
| 通算 | 19 | 4 |
[編集] ハットトリック
- 1995年5月28日 アトランタオリンピックアジア一次予選 日本4-1チャイニーズ・タイペイ (44分、50分PK、61分)
- 2000年9月3日 Jリーグディビジョン2 第31節 ベガルタ仙台2-6湘南ベルマーレ(16分、54分、62分)
[編集] タイトル
[編集] クラブ
横浜フリューゲルス
- 1994年 第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会 優勝
- 1995年 アジアカップウイナーズカップ 優勝 ※決勝戦は不出場
ゴイアスEC
- 1999年 ゴイアス州選手権 優勝 ※優勝決定時には退団
[編集] 日本代表
- 1995年 第3回ダイナスティ杯(香港) 優勝 ※決勝戦は累積警告で出場停止。五輪代表に合流するため帰国。
[編集] 個人
- Jリーグベストイレブン 1回(1996年)
[編集] 出演CM
- ナイキ 「サッカー維新」 ※小倉隆史 、北澤豪 、中西永輔 との共演。単独映像バージョンも有り。
- ナイキ ※単独での出演。
- ブルボン 「DEWAウォーター、IONウォーター」(ミネラルウォーター)
- ブルボン 「ツイスター」(菓子)
- 日清食品 「ラ王」 ※中田英寿との共演。
- AC 公共広告機構(ACジャパン)
- マンダム 「ASI's(アズ・イズ)」
- 大正製薬 「リポビタンD」
- アステル東京 「PHS」 ※BEGINとの共演。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 脚注
- ^ “浦和が4億円で千葉・阿部獲り”. スポニチ Sponichi Annex (Internet Archive) (2006年12月9日). 2009年1月4日閲覧。
- ^ 「日本敗れ、前園は無得点/ビーチサッカー」sanspo.com、2009年10月11日。
- ^ 『S THE STORIES』第132話 Aから始まる物語「夢の舞台へ」(AGAIN) - 前園真聖 テレビ朝日系列 2010年9月11日放送より。
- ^ 「1996年度作品│ACジャパン」
[編集] 関連項目
- 山本浩 元NKKアナウンサー。重要な試合(Jリーグ初得点試合、73回天皇杯決勝、五輪アジア最終予選等)の実況を数多く担当。
- オリンピックサッカー日本代表選手
- マイアミの奇跡
- U-31(前園がモデルとなる「河野敦彦」というキャラクターが登場している)
[編集] 外部リンク
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