森本稀哲

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森本 稀哲
横浜DeNAベイスターズ #5
Hichori Morimoto, outfielder of the Yokohama BayStars, at Yokosuka Stadium.JPG
2011年3月19日 横須賀スタジアム
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都荒川区
生年月日 1981年1月31日(31歳)
身長
体重
184cm
81kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1998年 ドラフト4位
初出場 2000年8月2日
年俸 8,000万円(2012年)
※2011年から3年契約
経歴(括弧内は在籍年)

森本 稀哲(もりもと ひちょり、1981年昭和56年)1月31日 - )は、横浜DeNAベイスターズに所属するプロ野球選手外野手)。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

在日韓国人の父親と日本人の母を持つ。帝京中学校・高等学校では1998年主将遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の島根県立浜田高等学校戦で、8回に後に福岡ソフトバンクホークスへ入団する和田毅からバックスクリーンへの同点本塁打を放つも敗退した[1]。高校通算34本塁打。

1998年のドラフト日本ハムファイターズに4位で指名され、入団。当初は内野手だったが、外野手に転向した。

[編集] 日本ハム時代

日本ハム時代(2009年、打球を見上げる森本)

2年目の2000年に一軍初出場・初本塁打を記録。主に守備・代走要員で起用される。

2003年、監督に就任したトレイ・ヒルマンに「バーニー・ウィリアムスの再来」と評され、一番・中堅手で初めて開幕スタメン起用される。4月だけで4本塁打を打つが、その後は打撃が伸び悩み、移籍してきた坪井智哉にポジションを奪われ、守備・代走要員にとどまった。しかし、2005年には打撃が向上し、初の100試合出場で打率.264、7本塁打を記録した。

2006年は開幕スタメンの坪井の離脱などもあり4月下旬頃から1番・左翼手に定着し、初の規定打席に到達。パシフィック・リーグ最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を受賞した。オールスターゲームに初選出。

2007年、前年限りで引退した新庄剛志(SHINJO)に代わって中堅手に定着。シーズン終盤まで片岡易之西武)と盗塁王のタイトルを争うなど(結果は片岡が盗塁王)、不動の1番打者として全イニング出場を果たし、初の打率3割を記録。24試合連続安打はパ・リーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多タイ記録。右打者であるが、内野安打の数も稲葉篤紀に次ぐリーグ2位を記録。最多得票でゴールデングラブ賞と、初のベストナインを獲得。補殺数は両リーグ1位の15個を記録した。

2008年5月25日の対巨人戦で、西村健太朗から死球を受けて左手小指を骨折(全治5週間)。2006年から続いていたフルイニング出場も途絶えた。後半戦はケガの影響から不振に喘ぎ、自身最低の成績となった。5月19日に新庄剛志経営でアスリートのマネジメント等を業務とする株式会社レハサフとマネジメント契約を結ぶ。

2009年糸井嘉男に中堅手を奪われ、左翼手としての出場が多くなり、スタメン落ちも増え出場機会が激減。同年5月、出場登録日数が8年に達し、国内移籍が可能となるFA権を取得。オールスター戦明けには出場機会も増えていたが、8月6日の対西武戦でジョン・ワズディンから死球を受け、左手小指を骨折。107試合に出場したが規定打席に到達せず、打率も.247に終わった。田中賢介が1番に定着して2番に回り、リーグ最多の43犠打を記録し、成功率10割を誇ったが、巨人と対戦した日本シリーズでは何度もバント失敗を繰り返し、2併殺と不振だった。この年はFA権を行使せず残留し、記者会見で「どんな条件を出されても残留するつもりだった。他チームでプレーする理由がまったくない」と語った。

2010年7月14日の対西武戦の初回、犠打を試みた際に野上亮磨から死球を受け退場。右手薬指を骨折し、翌日に登録を抹消された。これで3年続けて死球により骨折したが、それでもリーグ最多の55犠打を記録し、打率も.272と持ち直した。

同年オフにFA権を行使し、横浜ベイスターズへ移籍。

[編集] 横浜時代

12月11日に正式契約。同日に横浜中華街の「媽祖廟(まそびょう)」で入団会見が行われた[2]。背番号は5に決定。 移籍初年度の2011年は開幕戦6番センターでスタメン出場。5月1日に扁桃腺炎のため登録を抹消された。その後復帰したが、7月6日の対広島戦で自打球を当て左足を負傷。左足脛骨近位骨挫傷と診断され8日に再び登録を抹消され、一軍復帰は10月となった。

[編集] 人物

真面目で、とにかく明るい性格とスキンヘッドが特徴。

「ひちょり」という名前は、「稀哲」の韓国語での発音「ヒチョル」( )から取って父が命名した(“稀哲”にした理由は不明)。プロ入り当時、一部の選手名鑑には「ひちょり」でなく「ひろより」と振り仮名を振っているものや、「稀哲」を「哲」と誤植しているものがあった(日本スポーツ出版社刊「'99プロ野球12球団全選手百科名鑑」など)。

初等教育は韓国学校で、本人も「在日としての民族意識は強かったです」と話している。

小学生の時、汎発性円形脱毛症にかかった。これは髪の毛などの体毛全てが、突然抜け落ちて生えなくなってしまう病気で、現在はほぼ克服しているが、「当時の苦労を忘れないように」「同じ病気で苦しむ人に勇気を与えるために」と、毎日自分で剃刀を当ててスキンヘッドにし続けている。

中学生まではサッカーもやっていて、中学生時代に東京ヴェルディの入団テストを受験したことがある。

日本ハム時代に着用していた背番号1は、2006年シーズン限りで引退した新庄剛志から後継者に直接指名されて受け継いだ。

実家は東京都荒川区西日暮里の焼肉店「絵理花」。

自らのイメージカラーを日本ハム時代は、横浜移籍後はに定めている。

自らと同じ帝京高校野球部の先輩であるとんねるず石橋貴明と交遊があり、正月特番『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)にも「チーム石橋」の一員として2009年2011年と続けて出演している。

[編集] パフォーマンス

日本ハム時代に、他の選手を交えて様々なパフォーマンスを披露している。

2004年
2005年
  • 9月19日:試合前練習に新庄剛志、稲葉篤紀小谷野栄一、石本努とともに同じマスク(新庄の顔を模ったもので「5人のツヨシくん」と命名)をつけて参加。
2006年
2007年
  • 6月2日:試合前練習に竹馬とズボンを履いて登場。身長3mの「ひちょ・マックス」(ジャンボマックスにちなむ)姿で守備練習を行った。
  • 7月20日:オールスター第1戦の試合前イベントに、帽子から「伸びた頭」を付けて登場[5]。21日の第2戦試合前イベントには、タイのムエタイ風の姿(上半身裸に緑のトランクス)で登場した。
  • 12月10日:ゴールデングラブ賞表彰式会場に、マイケル・ジャクソンの様な上下赤のレザーファッションとメイクで登場。
2008年
  • 2月14日:沖縄キャンプでの紅白戦初打席の登場曲に国生さゆりバレンタイン・キッスを選曲、口には口紅で大きなハートマークを書いて登場。北海道文化放送で前年末に放送された番組での公約を守るためだったが、相手投手の藤井秀悟に試合終了後、謝罪した。
  • 7月22日:「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2008」で「ひちょりイリュージョン」と称し、バックスクリーン横の地上17メートルからワイヤーに吊られて登場。
  • 8月1日:オールスター試合前イベントに、ユニフォームを上下逆さまに着て尻に人形の頭をつけ、一見すると逆立ちしているような姿で登場。その格好のまま堀内恒夫山本浩二の野球殿堂入り表彰式に臨んだため、一部批判を受けた。
2010年
2011年
  • 2月1日:春季キャンプに黄色いリストバンドを披露。緑から変えた理由は「青いユニホームに映える色にしたかったから」。[6]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
2000 日本ハム 7 16 13 2 2 0 0 1 5 3 0 1 0 0 3 0 0 5 0 .154 .313 .385 .697
2001 65 148 133 16 33 4 2 1 44 9 11 2 3 1 9 0 2 35 2 .248 .303 .331 .634
2002 66 66 60 6 10 3 0 1 16 5 5 1 1 1 1 0 3 16 0 .167 .215 .267 .482
2003 61 151 133 21 26 2 1 4 42 16 3 2 3 0 14 0 1 48 2 .195 .277 .316 .593
2004 78 71 58 19 11 3 0 0 14 3 1 2 0 0 12 0 1 24 3 .190 .338 .241 .579
2005 103 325 295 48 78 10 3 7 115 25 9 2 5 1 22 1 2 82 3 .264 .319 .390 .709
2006 134 595 520 84 148 28 6 9 215 42 13 9 21 5 46 1 3 103 4 .285 .343 .413 .757
2007 144 660 584 91 175 27 3 3 217 44 31 3 17 6 47 1 6 111 6 .300 .355 .372 .726
2008 121 549 478 66 121 15 1 0 138 21 12 7 17 1 49 1 4 81 5 .253 .327 .289 .616
2009 107 404 316 50 78 14 4 1 103 29 9 2 43 0 43 0 2 52 2 .247 .341 .326 .667
2010 115 505 408 65 111 11 3 2 134 30 10 3 55 1 36 0 5 71 12 .272 .338 .328 .666
2011 横浜 48 153 134 13 25 3 1 1 33 9 0 1 9 1 8 0 1 42 4 .187 .236 .246 .482
通算:12年 1049 3643 3132 481 818 120 24 30 1076 236 104 35 174 17 290 4 30 670 43 .261 .328 .344 .672
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:2010年9月26日、対埼玉西武ライオンズ24回戦(札幌ドーム)、2番・左翼手として先発出場 ※史上439人目
その他の記録

[編集] 背番号

  • 53 (1999年)
  • 46 (2000年 - 2006年)
  • 1 (2007年 - 2010年)
  • 5 (2011年 - )

[編集] 登場曲

[編集] 関連情報

[編集] CM出演

[編集] 脚注

  1. ^ 敗戦後、帝京高校野球部の前田三夫は「今回のチームは『仲良しグループ』のようなチームだった」と辛口の意見を述べていた。
  2. ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/101211/bse1012111611000-n1.htm
  3. ^ 版権の問題からか、実況は一切コメントをしなかった。
  4. ^ ラリージャパンの宣伝のためで、他の先発メンバーは全員ラリーカーに乗って入場。
  5. ^ 遠目ではよく分からなかったため、不評であった。
  6. ^ 【横浜】ひちょり佑にライバル心 2011年2月1日

[編集] 関連項目

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