今岡誠

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今岡 誠
LM-Makoto-Imaoka20110311.jpg
ロッテ時代(2011年3月11日、兵庫県立明石公園第一野球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県宝塚市
生年月日 1974年9月11日(40歳)
身長
体重
185 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1996年 ドラフト1位
初出場 1997年4月8日
最終出場 2011年6月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 千葉ロッテマリーンズ (2012)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

今岡 誠(いまおか まこと、1974年9月11日 - )は、日本野球解説者・元プロ野球選手内野手)。兵庫県宝塚市出身。夫人はネイリストで、タレントとしても活動している今岡梨惠

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

 宝塚市立美座小学校、宝塚市立宝塚中学校卒業。少年時代は宝塚シニアに所属し、阪急沿線に住んでいた影響で、阪急ブレーブスのファンであった。PL学園高校3年時に第64回選抜高等学校野球大会に出場し、8強入りする。東都大学野球連盟所属の東洋大学に進学後は遊撃手として大学通算89試合出場、335打数100安打打率.299, 12本塁打、73打点を記録。ベストナインに2回選出された。アトランタオリンピックでは日本生命福留孝介も含めて3人の遊撃手が選出されたが、主に7番遊撃手井口、8番二塁手今岡、9番三塁手福留で起用され、打率.435を記録した。

1996年のプロ野球ドラフト会議前に阪神タイガースを逆指名することを表明[1]。ドラフトでは阪神が1位指名で交渉権を獲得し契約金1億円、出来高払い5,000万円、年俸1,200万円(金額は推定)で入団合意した[2]

阪神時代[編集]

阪神時代(2008年6月25日、阪神鳴尾浜球場

1年目の1997年から二塁手として一軍に出場。翌1998年には2番遊撃手としてほぼ全試合に出場し、打率.293を記録した。しかし2000年は不振に陥り、40試合の出場で打率.212に終わる。翌2001年は開幕2戦目・3戦目で本塁打を放ったが、それ以降の成績は平凡で、シーズン中盤からは守備の負担を軽くするために三塁手として起用されたものの、シーズン4本塁打にとどまった。当時の野村克也監督との不仲説・軋轢説が指摘されることもあった(スポーツニッポン#疑義が持たれた報道)。ただし、引退後の日刊スポーツでの連載では、守備・走塁を重視する野村の野球観と、守備・走塁が不得手で打撃が売りと自覚する今岡は野球観が合わなかったことを認めている[3]

2002年は春季キャンプからの活躍が認められ、二塁手のレギュラーを奪取。故障した赤星憲広に代わって1番打者に固定され、自己最高を更新する打率.317, 15本塁打を記録する。翌2003年も1番として起用され、打率.340で首位打者のタイトルを獲得[4]。二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞するなど、1985年以来のリーグ優勝に貢献した。同年は得点圏打率リーグ最高の.428を残したほか、年間初回先頭打者本塁打を7本放ち(うち5本は初球)、2試合連続で先頭打者初球本塁打も記録した[5]

2004年には3番打者に抜擢され、打率.306、28本塁打、83打点の好成績を挙げる。同年から阪神選手会長に就任した。

2005年岡田彰布監督の意向により、守備の負担を軽減するため三塁手にコンバートされた。打撃では勝負強さを買われて5番打者を務めることになった。シーズンでは藤村富美男の球団記録を更新して日本プロ野球歴代3位となる147打点を残し、打点王のタイトルを獲得する活躍を見せ、リーグ優勝に貢献した[6]。同年は得点圏打率.371(打数170)、満塁打率.600(25打数15安打の49打点)、満塁本塁打4本(歴代2位タイ、セ・リーグでは西沢道夫以来55年ぶり)を記録。シーズン29本塁打のうち、実に15本塁打が得点圏で放ったものであった。また、同年の3番アンディ・シーツ、4番金本知憲、5番今岡らによるクリーンナップ3人の合計357打点は球団史上最高記録である。一方で三塁守備では不安定さが目立ち、三塁手としてリーグ3位の14失策を記録。腱鞘炎の一種である「バネ指」が影響したと言われた[誰によって?]。シーズン終了後に選手会長を退き、後任として赤星憲広を推薦した。

2006年の春季キャンプでは打率3割を切った前年の反省から、「当てること(安打を打つこと)を目標にすれば、自然に打点も付いてくる。大事なのは当てること」と打撃フォームの改造に着手。しかし、バネ指がさらに悪化して打率は2割前後に低迷する。開幕から5番を任され続けたものの調子は上向かず、6月17日の対オリックス・バファローズ戦でウェス・オーバーミューラーから死球を受けて右手首を挫傷したこともあり、バネ指の手術に踏み切った。9月17日の対中日ドラゴンズ戦に代打で復帰したが、手術後のため送球ができなかったこともあり、復帰後はスタメンでの出場はなかった。

2007年も開幕から5番に座り前半戦は打率3割前後をキープするも、2005年とは逆に走者がいない場面では4割を超える出塁率を記録したが得点圏で打てず、前半戦は17打点にとどまった。7月25日に一軍登録を抹消され、9月27日に再昇格。5番三塁手の定位置に戻り、6試合で7打点を挙げた。同年のオリンピック・アジア予選の第一次候補選手(5月8日発表)に名を連ね、星野仙一日本代表監督に右のキーマンとして期待されていたが、10月12日に発表された最終候補選手では選考から漏れた。

2008年のキャンプでは、本塁打増産を目指して前年オフから始めた加圧トレーニングなどによる筋力強化に取り組んだ。このシーズンより同じく三塁手の新井貴浩FAで加入したが、岡田監督は早いうちから新井を一塁手、今岡を三塁手で起用する方針を明言。5番三塁手で開幕を迎えた。しかし、打率1割台前半と低迷して守備も失策やミスが目立ったことから、5月25日に一軍登録を抹消された。9月11日に一軍に再昇格して3番三塁手に復帰すると9月だけで5本塁打を放ったが、シーズン序盤の低打率を巻き返すことはできず、関本賢太郎アーロム・バルディリスにスタメンを譲ることもあった。同年のクライマックスシリーズ (CS) では代打で1打席しか出番を得られず、成績も低迷した。

2009年は背水の陣で挑む覚悟と前年にコメントし、真弓明信監督も今岡の復活に期待をこめて新井を三塁手にコンバートし、一塁手で今岡を使えるように配慮した。しかし、結局不振から脱却できずに打率1割前半と低迷、出場の機会を失った。9月1日に複数のメディアが引退、もしくは来季の戦力構想外と報じた[7]。同年10月に戦力外通告を受けて阪神を退団。11月11日に行われた12球団合同トライアウトに参加した。

ロッテ時代[編集]

阪神退団後のトライアウトでロッテが興味を示したのを受けて、2010年2月1日からのロッテ春季キャンプにテスト生として参加。2月3日に球団から合格が発表された。背番号は前年まで監督を務めたボビー・バレンタインが付けていた「2」で、年俸は推定1,500万円[8]。開幕一軍を勝ち取り、代打や指名打者で起用された。交流戦の時期に一時二軍にも落ちたが、秋口に復帰し、勝てばCS出場が決まるシーズン最終戦で2安打を放ち、気迫のヘッドスライディングでの生還を見せるなど活躍。CS第2ステージ初戦では先制の口火を切る二塁打を、4戦目では移籍後初本塁打を放ち、5戦目では5年ぶりに犠打を決めるなど大一番での強さを見せた。

2012年シーズンから、選手兼任で二軍チーム打撃守備コーチに就任[9]。しかしこの年自らの一軍出場はなく、9月18日に現役引退を発表[10][11]。10月5日のイースタン・リーグ公式戦終了後に正式引退記者会見を行い、「マリーンズのファンは阪神同様すごく熱く、そういうファンが温かく一年目から応援してくれたというのがすごく嬉しかったので、本当に感謝をしています。またこれからも心の片隅で、この今岡という人間を応援してもらいたいなと思っています」とコメントした。

現役引退後[編集]

2013年からは、日刊スポーツ野球評論家毎日放送野球解説者として、地元・関西を中心に活動している[12]2012年12月1日には、自身初の著書「感じるままに生きてきて」が、ベースボール・マガジン社から発売された。

プレースタイル[編集]

バットコントロールが巧みで三振が少ない悪球打ちで、初球から積極的に打つ傾向にあり、苦手なコースも少なく左右に打ち分けることもできるマルチな打者[13]。今岡の2003年シーズンの打撃を見たランディ・バースは「左肘に遊びを持たせたフォームが対応力を増し、ボールの芯にミートする率を高めている」と分析した[14]。147打点を記録した2005年には得点圏打率.370を記録し、特に三塁に走者を置いた際には.643という数字を残した勝負強さも持ち味[13]

一方、走塁面では足が遅く併殺打も多い[15]。また、気持ちを前面に出すタイプではないため、野村監督に「覇気がない」と誤解されたこともあった[13]

阪神入団当初は遊撃手で、和田豊の現役晩年からは二塁手、2005年からは膝蓋靱帯炎に配慮して三塁手にコンバートされた。かつてはチーム屈指の強肩を誇り、守備の動きも悪くはなかったものの、持病のバネ指もあり送球が浮く場面を見せるなど、スローイングに難があって守備範囲も広くはなかった[13]。2009年は真弓監督の意向で新井が三塁手に再コンバートされたため一塁手としてシーズンに臨んだが、不振のため一軍で守る機会はほとんどなかった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1997 阪神 98 279 252 18 63 11 1 2 82 20 1 0 13 0 11 0 3 48 3 .250 .289 .325 .614
1998 133 524 471 48 138 20 3 7 185 44 6 4 27 4 22 0 0 54 15 .293 .322 .393 .715
1999 128 503 457 36 115 11 1 6 146 39 4 9 11 1 32 3 2 55 12 .252 .303 .319 .622
2000 40 124 113 8 24 5 0 2 32 2 0 2 4 0 7 0 0 19 9 .212 .258 .283 .541
2001 123 453 400 36 107 15 0 4 134 40 3 1 20 1 29 1 3 60 16 .268 .321 .335 .656
2002 122 548 505 46 160 40 0 15 245 56 0 1 10 2 28 6 3 62 8 .317 .355 .485 .840
2003 120 526 485 67 165 35 1 12 238 72 1 1 4 7 28 6 2 52 9 .340 .374 .491 .865
2004 138 632 572 87 175 29 0 28 288 83 0 2 4 4 48 1 4 68 21 .306 .361 .504 .865
2005 146 630 559 71 156 26 2 29 273 147 1 1 0 9 57 2 5 88 21 .279 .346 .488 .834
2006 59 218 204 16 45 3 2 7 73 29 1 0 0 4 7 0 3 42 13 .221 .252 .358 .610
2007 85 345 323 23 90 8 0 4 110 24 0 1 0 1 19 2 2 50 7 .279 .322 .341 .663
2008 55 186 169 15 29 3 0 7 53 29 0 0 0 3 13 0 1 38 5 .172 .231 .314 .545
2009 23 30 30 0 4 2 0 0 6 2 0 0 0 0 0 0 0 8 1 .133 .133 .200 .333
2010 ロッテ 26 45 44 3 10 2 0 0 12 6 0 0 0 0 1 0 0 3 4 .227 .244 .273 .517
2011 13 26 23 2 3 1 0 0 4 1 0 0 1 0 2 0 0 3 0 .130 .200 .174 .374
通算:15年 1309 5069 4607 476 1284 211 10 122 1881 594 17 22 94 36 304 21 28 647 144 .279 .325 .408 .733
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]


一塁 二塁 三塁 遊撃
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1997 1 9 1 0 1 1.000 60 100 148 5 32 .980 26 9 32 1 5 .976 5 5 9 1 3 .933
1998 - 10 6 12 0 5 1.000 - 126 217 363 15 82 .975
1999 - 21 44 61 1 16 .991 - 110 195 324 10 71 .981
2000 - 28 54 70 1 14 .992 7 1 7 0 0 1.000 16 12 33 0 7 1.000
2001 - 64 124 172 3 27 .990 71 43 77 3 8 .976 8 7 16 1 4 .958
2002 - 121 200 349 6 68 .978 1 1 0 0 0 1.000 -
2003 - 119 191 305 7 59 .986 - -
2004 - 130 269 362 7 72 .978 10 6 12 0 0 1.000 -
2005 - - 146 87 233 14 20 .958 -
2006 - - 49 32 72 5 7 .954 -
2007 - - 85 39 122 5 17 .970 -
2008 - - 44 16 50 5 6 .930 -
2009 3 19 1 0 3 1.000 - - -
2011 2 13 0 0 1 1.000 - - -
通算 6 41 2 0 5 1.000 553 988 1479 30 293 .988 439 234 605 33 63 .962 265 436 745 27 167 .978
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • シーズン打点:147(2005年)※歴代3位、阪神タイガース球団記録
  • シーズン初回先頭打者初球本塁打:5本 (2003年)※歴代1位
  • オールスターゲーム出場:5回 (1998年、2002年 - 2005年)
  • オールスターゲームファン投票年間得票数:1,588,712票(2003年)※史上最多

背番号[編集]

  • 7 (1997年 - 2009年)
  • 2 (2010年 - 2012年)

関連情報[編集]

野球解説者としての出演番組[編集]

いずれも毎日放送(MBSテレビMBSラジオ

テレビ[編集]

  • せやねん!2013年1月 - )「せやねん!スポーツ」以降の第1部
  • ちちんぷいぷい 水曜日(2013年1月 - 2013年5月)→月曜日(2013年6月 - 2014年3月)→水曜日(2014年4月 - )
  • 侍プロ野球(2013年シーズンから阪神戦中継の解説を担当)

ラジオ[編集]

CM[編集]

いずれも阪神タイガースの現役選手時代に出演

著書[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 朝日新聞』1996年11月6日付朝刊(23面)
  2. ^ 『朝日新聞』1996年11月23日付朝刊(27面)
  3. ^ 日刊スポーツ』(大阪)2013年1月7日付(1面)
  4. ^ 年度別成績 2003年 セントラル・リーグ
  5. ^ 『日本プロ野球偉人伝 vol.14 2000→2005編』 ベースボール・マガジン社、2014年、34-35頁。ISBN 978-4-583-62118-0
  6. ^ 年度別成績 2005年 セントラル・リーグ
  7. ^ 阪神今岡今季限りで引退、打撃低迷で決意”. 日刊スポーツ (2009年9月1日). 2011年12月3日閲覧。
  8. ^ ロッテ、今岡と契約 1年契約、年俸1500万円”. 朝日新聞 (2011年2月5日). 2011年2月5日閲覧。
  9. ^ 2012年度のコーチングスタッフのお知らせ”. 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト (2011年11月27日). 2011年12月3日閲覧。
  10. ^ 今岡選手 引退のお知らせ”. 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト (2012年9月18日). 2012年9月18日閲覧。
  11. ^ ロッテ・今岡が現役引退=阪神時代、2度優勝に貢献-プロ野球 時事通信、2012年9月18日閲覧
  12. ^ 今岡の引退記念パーティーを報じた2012年12月10日付「日刊スポーツ」の記事を参照。2012年12月22日に毎日放送(MBSテレビ)の『せやねん!』へ出演した際には、2013年から同局の野球解説者に就任することが初めて公表された。
  13. ^ a b c d 小関順二、泉直樹、荒井太郎 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクトムック、2006年、220-221頁。ISBN 978-4-7572-1246-6
  14. ^ 「ランディ・バースが語る星野阪神の謎」『スポーツ・ヤア!』2003年7月25日&8月7日号、角川書店、2003年、雑誌25401-8/7、28-32頁
  15. ^ 2002年シーズンは俊足の二塁手上坂太一郎とスタメンを争ったが、星野監督は走力よりも打撃重視で今岡を一番打者に固定した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]