武藤孝司

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武藤 孝司
徳島インディゴソックス #48
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県川崎市
生年月日 1973年6月6日(41歳)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 1995年 ドラフト3位
初出場 1996年5月15日
最終出場 2002年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

武藤 孝司(むとう たかし、1973年6月6日 - )は、神奈川県川崎市出身の元プロ野球選手内野手)。

2014年より、四国アイランドリーグplus徳島インディゴソックスの守備走塁コーチを務める。

来歴[編集]

横浜商高創価大学を経て1995年のドラフトで近鉄に3位指名され、入団。

高校時代は1990年夏の甲子園に出場し、ランニングホームランを放った。

2年目の1997年ショートのレギュラーとして定着、入団当初「守備はいいがバッティングはいまひとつ」といわれていたにもかかわらず、規定打席に到達し、.282、26盗塁の好成績を残し、同期の岡本晃と共に新人王候補に挙がる活躍を見せた。

1998年は開幕戦の延長でサヨナラ安打を放ち、チームの3年連続開幕戦勝利に貢献、同時に自身初のお立ち台にもあがった。前半は主に9番を、7月ごろからは大村直之と共に俊足左打者の1・2番コンビを形成、共にオールスターゲームに出場した。この年は後半に不調になり最終的には.250に終わった。

1999年も大村と1・2番を打ったが、6月の初めにバッティングの月間打率.125の不調や守備でのミスによるファーム行き、ケガの影響で規定打席到達はならなかった。2週間ほどファームでフォームの修正などを行い、7月は月間打率.314、8月は.323と絶好調になり、9月12日の対ダイエー戦(大阪ドーム)で、プロ初本塁打を放ち、「やっと出てくれてホッとしました。」とコメントしている(ちなみにこのときは2対1で近鉄が敗れている)。翌年の背番号変更で2000年のシーズンへの期待から6の背番号をもらう。この年私生活で結婚している。一説ではこの頃から後に影響を与える右肩の故障で悩んでいたともされる。


2000年は規定打席に到達し打率.311、20盗塁、さらにはあと少しでベストナイン選出のところだったり(本職のショートではなくセカンドにて。得票数は近鉄出身の大島公一についで42票)と自己最高の成績を残した(月間打率は4月以外全て3割を超えていた)。7月8日の対オリックス戦で、プロ入り2本目にして最後の本塁打をグリーンスタジアム神戸で、推定飛距離115mで右翼席中段に届く本塁打を放った(このときも4対3で敗れている)。これには武藤自身も「(試合前の)バッティング練習でもあんなに飛んだことはありません」と驚きのコメントを残した。但し、シーズン途中に右肩を痛めてしまい、8月9日からはショートではなくセカンドDHとして出場した(ただし具体的にいつ肩を損傷したかは不明)。8月8日を最後に引退まで本職である遊撃手での出場はなかった。シーズンオフの11月に右肩を手術した。

この右肩の手術は当初、術後3ヶ月で完治し、開幕にぎりぎり間に合うとされていたが、チームが優勝した2001年は2月の終わりごろからティー練習を再開(このときはすでに開幕絶望視されていた)、そのご6月ごろ復帰とされていたが最終的に一軍出場はなく(但し7月の前半戦最後あたりに2軍に落ちていた吉岡雄二とともに1軍に1度だけ昇格している)、2002年はスタメン復帰が期待されていたものの、手術後の弱肩ぶりはショートはおろかセカンドですら満足にできる状態ではなく、そのため、わずか5月、9月、10月に18試合、そのほとんどが代打としての出場で、スタメンは5月の3試合の出場にとどまった。打点は10月5日の日本ハム28回戦(東京ドーム)で9回に放ったタイムリーヒットでの1点だけであり、同時にこの1点が1軍での最後の打点になっている。ファームの試合ではファーストを守ることもあった。

肩が完治した2003年も一軍出場はなく、当時機動力をもつ選手の不足に悩んでいた横浜とのトレード(門倉健、宇高伸次⇔福盛和夫、矢野英司)の追加要員の可能性が出たが結局移籍せずシーズンオフには戦力外通告を受け、その後スカウトへの転身が発表された。2004年は近鉄で、2005年オリックス・バファローズで、2006年東北楽天ゴールデンイーグルスでスカウトを務めていたが、2012年11月30日退団が発表された[1]

2013年12月30日プロ野球独立リーグ四国アイランドリーグplusに所属する徳島インディゴソックスの守備走塁コーチに就任することが発表された[2]

プレースタイル・人物[編集]

現役時代の怪我からか肩はあまり強いほうではないとイメージが強いが、高校時代はもともと三塁手も勤めていて、俊足に加え強肩をかわれて入団した選手だった。ただ手術した2000年の時点ではすでに右肩は古傷とされていた。入団した年に監督に就任した佐々木監督は自ら武藤の練習につきあうなど、期待されていた。

打撃力は選球眼、バットコントロールにも長けており、98・99・00年の3年間は四死球数が三振を上回っていた。こけしバットを使用していたためシングルヒット中心で、プロ入り初の本塁打はプロ4年目の1999年、デビューから1000打席ほど経過してのことであり、プロ野球史上5本の指に入る遅さである(他に五指に入っている選手に村松有人がいる)。

走力は抜群で、入団してから98年のシーズン途中まで706打席連続無併殺を記録していた。ちなみにこれは歴代5位の記録である。

守備力は、入団当初上記のとおり「守備範囲が広いがバッティングがいまひとつ」といわれていたにもかかわらず、打撃成績とは対照的に2,3年目は失策が目立ち、1999年の契約更改で当時球団の管理部課長だった藤瀬史朗から「アマチュア以下の守備」と酷評される等、むしろ高いとはいえなかった。その守備力故に2000年の契約更改の際には最低6000万希望に対し球団は4000万円代を提示、下交渉の時点で早々と越年宣言、さらにはこの待遇がいい選手の流出につながっていると過激なフロント批判の発言を行ったりもした。

タイプ的にはリードオフマンではあるが、打順は前半8,9番、後半1,2番が多い(97年と99年を除く)。2000年は3割越えにもかかわらず、ほとんどが8,9番での出場だった。また、この年は唯一7番出場がある。

応援歌は1996年にオリックス・ブルーウェーブへ移籍した大島公一のものを受け継いだ。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1996 近鉄 14 20 17 2 4 0 0 0 4 1 1 1 1 0 2 0 0 3 0 .235 .316 .235 .551
1997 119 447 390 55 110 13 7 0 137 29 26 11 29 2 25 0 1 54 0 .282 .325 .351 .676
1998 127 470 392 53 98 20 3 0 124 32 16 9 38 2 34 0 4 36 1 .250 .315 .316 .631
1999 100 332 279 34 78 6 3 1 93 19 7 6 25 1 25 0 2 24 3 .280 .342 .333 .675
2000 119 436 366 62 114 20 6 1 149 41 20 9 15 3 46 0 6 31 3 .311 .394 .407 .801
2002 18 23 21 1 4 0 0 0 4 1 1 0 2 0 0 0 0 2 0 .190 .190 .190 .380
通算:6年 497 1728 1465 207 408 59 19 2 511 123 71 36 110 8 132 0 13 150 7 .278 .342 .349 .691

記録[編集]

背番号[編集]

  • 48 (1996年 - 1999年,2014年 - )
  • 6 (2000年 - 2003年)


登場曲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 退団スタッフに関して”. 東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト. 2012年11月30日閲覧。
  2. ^ 徳島IS 来季の監督・コーチ・トレーナー人事のお知らせ”. 徳島インディゴソックス公式サイト. 2013年12月30日閲覧。

関連項目[編集]