井川慶

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井川 慶
Kei Igawa
スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキース #29
投球する井川(2007年)
基本情報
国籍 日本
出身地 茨城県東茨城郡大洗町
生年月日 1979年7月13日(29歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4cm
210 lb =約95.3kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 投手
プロ入り 1997年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1999年5月2日
MLB / 2007年4月7日
年俸 400万ドル(2008年)
経歴(括弧内は在籍年)

井川 慶(いがわ けい、1979年7月13日 - )は、MLBニューヨーク・ヤンキース傘下の3Aスクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースに所属するプロ野球選手投手)。茨城県東茨城郡大洗町出身。

最速151km/hのストレートチェンジアップスライダーが武器で、日本を代表する左投手である。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 高校時代

3年春の県大会竜ヶ崎一高戦で、7回参考記録ながら18奪三振の完全試合を達成する。夏は腰痛のためほとんど登板機会がなかった。決勝の茨城東高戦(水戸市民球場)に痛み止め注射をして登板するも、自らのミスなどで4失点し敗退。

甲子園出場は無かったが、「東のドクターK」として一部では有名な選手であったため、当時川口知哉平安高、元オリックス)、能見篤史鳥取城北高、阪神)と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。

[編集] 阪神時代

1997年ドラフト2位で阪神タイガースに入団。(日本ハムファイターズも井川を狙っていたが、先述の腰痛を理由に見送っている。)1999年5月2日広島東洋カープ戦(甲子園)中継ぎで一軍プロ初登板を果たした。5月7日横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で4回に波留敏夫から初奪三振、5月19日の広島戦(米子)でプロ初先発登板し初勝利を挙げるが、なかなか一軍に定着できないシーズンが続いていた。

2001年野村克也監督からローテーション投手に抜擢され、4月24日読売ジャイアンツ戦(甲子園)でプロ入り後初完投勝利。監督推薦によりオールスターの出場を果たす。チームが4年連続最下位と低迷する中、9勝13敗、防御率はリーグ2位の2.67、171奪三振と好成績を残した。

2002年、監督が星野仙一に代わり3月30日の巨人戦(東京ドーム)で開幕投手を務め、3対1で完投、チーム12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。夏場に調子を落とすも、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。

2003年も星野から開幕投手を任され、黒星を喫するも、6月、7月に4戦連続完投勝利、8月2日の勝利で自身12連勝を記録、結果的にセ・リーグでは1999年の上原浩治(巨人)以来の20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。

2004年10月4日広島東洋カープ戦(広島市民球場)でプロ野球史上71人目となるノーヒットノーランを達成した。2004年シーズンオフにポスティング制度でのMLB移籍を希望するが、球団との交渉が決裂。自費キャンプになり、否定的な報道、一部世論の反発に遭う[1]。以降毎年オフに球団に対しポスティング制度によるMLB移籍を希望することになった。

2006年には5年連続二桁勝利を達成、球団も井川のそれまでの貢献を考慮し3年越しの希望であったポスティング制度によるMLB移籍を容認した。

[編集] メジャー時代

2006年11月10日、ポスティングシステムによるMLB挑戦を表明。11月29日ニューヨーク・ヤンキースが2600万194ドル(日本円約30億円)で独占交渉権を得て落札。12月27日に5年2000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高で契約が成立した。2007年2月には結婚を発表した。

2007年4月7日ボルチモア・オリオールズ戦(ヤンキー・スタジアム)にMLB初登板。5回8安打4四死球2本塁打7失点で降板も、その後ヤンキースが逆転したため勝ち負けはつかず。4月18日クリーブランド・インディアンス戦(ヤンキー・スタジアム)で、6回5安打5奪三振2失点でMLB初勝利。しかし、フォーム、コントロールが安定せず、中継ぎへ降格。4月28日ボストン・レッドソックス戦では、先発投手が負傷降板した後、緊急登板ながら6回無失点と好リリーフし、メジャー2勝目を挙げた。この好投が認められ、先発復帰するも、5月7日マイナーリーグへ降格。6月22日の試合でメジャー復帰。7月28日、2度目のマイナーリーグ降格。9月22日の試合でメジャー再復帰。中継ぎとして登板した。9月25日には昇格後初めて先発し、5回を0点に抑えるも勝ち星はつかず。結局この年は2勝3敗、防御率6.25と不振に終わった。

2008年は前シーズンの不振により開幕前から先発としての構想には入っておらず、オープン戦では中継ぎとしての起用が続いた。若手起用のため、MLB2年目の開幕はマイナーで迎えることとなった。5月9日にメジャー昇格、デトロイト・タイガース戦に先発するも、3回を11安打6失点で敗戦投手となった。5月15日にマイナー降格。6月28日に再昇格、ニューヨーク・メッツ戦の9回に登板し、1回を無失点に抑える。しかしその翌日にマイナーリーグ降格を通告されてしまう。 7月26日にメジャー契約を解除され、40人ロースターから外された[2]。本人は「メジャーリーグでローテーションを守れるピッチャーを目指して頑張りたい」として再びメジャーリーグを目指すといっている。 結局この年はメジャーリーグでの勝ち星を挙げる事ができなかったが、3Aでは14勝6敗の好成績を残している。

2009年は春季キャンプに招待選手として参加し、オープン戦では15回3分の1を投げて1失点とまずまずの出来だったが、3月23日にマイナー行き通告され、2年連続で開幕をマイナーで迎えることとなった。

[編集] タイトル・表彰

NPB

[編集] 年度別投手成績







































W
H
I
P
1999 阪神 29 7 0 1 3 0 0 1 1 0 .500 80 15.1 23 1 13 1 14 11 11 8.34 6.46 2.45
2000 9 0 1 5 0 0 1 3 0 .250 172 39.1 36 5 19 0 37 19 19 8.52 4.35 1.41
2001 29 3 0 25 2 0 9 13 0 .409 829 192.0 174 11 89 3 171 76 57 8.02 2.67 1.39
2002 31 8 2 21 4 2 14 9 1 .609 830 209.2 163 15 53 7 206 63 58 8.86 2.49 1.07
2003 29 8 0 21 2 3 20 5 0 .800 839 206.0 184 15 58 3 179 72 64 7.82 2.80 1.19
2004 29 6 0 23 3 1 14 11 0 .560 840 200.1 190 29 54 6 228 95 83 10.25 3.73 1.25
2005 27 2 0 25 1 1 13 9 0 .591 749 172.1 199 23 60 1 145 91 74 7.58 3.86 1.51
2006 29 8 0 21 3 2 14 9 0 .609 844 209.0 180 17 49 6 194 77 69 8.35 2.97 1.12
2007 NYY 14 0 0 12 0 0 2 3 0 .400 313 67.2 76 15 37 4 53 48 47 7.10 6.25 1.74
2008 2 0 0 1 0 0 0 1 0 .000 24 4.0 13 0 0 0 0 6 6 0.00 13.50 3.25
NPB:8年 190 35 4 144 15 9 86 60 1 .589 5183 1244.0 1149 116 395 27 1174 504 435 8.49 3.15 1.26
MLB:2年 16 0 0 13 0 0 2 4 0 .333 337 71.2 89 15 37 4 53 54 53 6.66 6.66 1.83
通算:10年 206 35 4 157 15 9 88 64 1 .579 5520 1315.2 1238 131 432 31 1227 558 488 8.40 3.34 1.29
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] エピソード

  • 大洗野球スポーツ少年団で野球をはじめ、小学生までは右投げ。高校時代も体のバランスをとるために右投げの練習は続けていた。今でも、オフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている[1]
  • 茨城出身のせいか、「ダッペ」の愛称で親しまれる。地元名産の納豆は苦手にしているが、ヤンキースに移籍する際に、井川の納豆嫌いを知らなかった松井秀喜は「ニューヨークにも『水戸納豆』は売っていますから、ご心配なく」とコメントした。
  • 水戸商業時代、簿記2級・英検3級の資格を取得している。
  • ダーツはマイダーツ所有(2万円)。コントロールが悪かった新人時代、野村監督(当時)より「ダーツの的に当てるイメージで投げろ」とアドバイスを受けたことがある。
  • 中学生時代は、サッカー部があれば野球部に入っていなかったかもしれないほど、昔からサッカーが好きだった。入団前は井川の実家のある茨城県(鹿嶋市)をホームタウンとする鹿島アントラーズのファンだったが、今はガンバ大阪のファンで、2006年新春に宮本恒靖と特別番組で対談。ワールドカップ日本代表の1次リーグ敗退には肩を落とした。また、イタリア代表アズーリ」も御贔屓という。
  • 将棋は初段でチーム内外(今岡誠古田敦也吉野誠広澤克実桧山進次郎安藤優也など)で対局、ピッチャーでリーグを作ったり、登板前に気持ちを落ち着かせるためロッカーで詰将棋をしていた。2006年のオフには棋王戦の本戦準決勝(羽生善治-深浦康市)を観戦。番組企画で投了図からのかなりのハンデ戦であるが森内俊之名人に勝利。2007年1月、日本将棋連盟は日本国外での将棋普及のため「将棋親善大使」に任命、初段の免状と委嘱状を贈呈した。
  • 大のテレビゲーム好きであり、甲子園球場付近のゲームショップでゲームを購入することもしばしばあった。あるゲームショップで井川が購入した信長の野望にはそれ以降「井川選手お買い上げ」という宣伝文句がつけられたという。
  • 携帯ゲーム『ポケットモンスター』の発売日に先発登板し、凄まじい投球テンポで完投勝利し球場を後にしたという逸話がある。
  • 体のケアには敏感である。毎試合後アイシングなど深夜まで入念な体のケアを行う。食事はコンディションを保つため専属の料理人に作ってもらっていた。また、アルコール類、コーヒー炭酸飲料も口にしない。2003年のリーグ優勝の時には、翌日が先発だったため、ビールかけに参加しなかった(ただし、この件に関してはチームの和を乱すとして当時の星野監督から叱責を受けた。なお、アルコールの類を避けるのは井川自身の下戸という体質に起因する部分もあり、2005年のリーグ優勝の際のビールかけでは途中でダウンしてしまった)。入団当初からオフには添田専属トレーナーとトレーニングをしている。
  • デーゲームを苦手としており、登板時はサングラスを着用する。
  • 球団選手の寮である「虎風荘」の模範生で途中からは若手の講師役にも指名された。快適と言う理由でしばらく生活をしていたが2003年の暮れに退寮指令を受け、恩人・梅本寮長の定年を節目に退寮。
  • 連勝中はゲンかつぎとしてを切らないため、2003年に12連勝(約3ヶ月)した際にはアフロヘアーのような髪型になった。
  • 2005年の1000投球回数達成時には井川が連続三振を奪った勢いで矢野輝弘が記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらった。
  • 一塁手として試合に出場したことがある。
  • 2007年2月、タンパでの自主トレ中「相手は一般の人ですので、周囲の方々のご迷惑にならないよう配慮した結果、スタッフとも相談し、渡米後に発表しようという結論に至りました」と自身のウェブサイトに記し結婚したことを表明。ヤンキースのコナーズ統括部長の報道陣へのコメントがきっかけとなった。
  • かなりマイペースで尚且つ天然キャラな人物で天然エピソードに事欠かない。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

  1. ^ 阿部珠樹. "NUMBER EYES 上原と井川のポスティング要求は、わがままだろうか。". number web. 2008年4月11日 閲覧。
  2. ^ "NY Yankees take Igawa off 40-man roster". NJ.com. 2008年7月27日 閲覧。

[編集] 外部リンク

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