井川慶

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井川 慶
オリックス・バファローズ #29
OB-Kei-Igawa20120501.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 茨城県東茨城郡大洗町[1]
生年月日 1979年7月13日(35歳)
身長
体重
186 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1997年 ドラフト2位
初出場 NPB / 1999年5月2日
MLB / 2007年4月7日
年俸 4,800万円(2015年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

井川 慶(いがわ けい、1979年7月13日 - )は、オリックス・バファローズ所属のプロ野球選手投手)。左投左打。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

茨城県大洗町出身。西武ライオンズ読売ジャイアンツ(巨人)でプレーした大久保博元とは実家が近く、小学校・中学校・高校すべて同じである[2]

大洗野球スポーツ少年団で野球をはじめ、小学生までは右投げだった。高校時代も体のバランスをとるために右投げの練習は続けていた。プロ入り後も、オフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている[3]

水戸商高3年春の県大会、対竜ヶ崎一高戦で、7回参考記録ながら18奪三振完全試合を達成。しかし夏は腰痛のためほとんど登板機会がなかった。県大会決勝の対茨城東高戦(水戸市民球場)に痛み止め注射をして登板したが、自らのミスなどで4失点し敗退した。

甲子園出場はなかったが、「東のドクターK」として一部[誰?]では名前が知られており、当時川口知哉能見篤史と並んで「高校生左腕三羽ガラス」と呼ばれた。1997年ドラフト2位で阪神タイガースに入団。この時は日本ハムファイターズも指名を一時検討していたが、先述の腰痛を理由に見送った。高校では簿記2級・英検3級の資格を取得している。

阪神時代[編集]

1999年5月2日の対広島東洋カープ戦(阪神甲子園球場)に中継ぎで一軍プロ初登板を果たした。5月7日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で4回に波留敏夫から初奪三振、5月19日の対広島戦(米子市民球場)でプロ初先発登板し初勝利を挙げたが、なかなか一軍に定着できないシーズンが続いていた。

2001年野村克也監督から先発ローテーションに抜擢され、4月24日の対巨人戦(甲子園)でプロ入り後初完投勝利。監督推薦によりオールスターゲームの出場を果たした。最終的に防御率はリーグ2位の2.67という成績を残したが、打線の援護がなく、チームも4年連続最下位で、9勝13敗と負け越した。防御率2位での負け越しは1991年の今中慎二以来であった。

2002年は監督が星野仙一に代わり、3月30日の対巨人戦(東京ドーム)で開幕投手を務め、3対1で完投、チーム12年ぶりの開幕戦勝利に貢献した。夏場に調子を落としたが、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得した。

2003年も開幕投手を任され、黒星を喫したものの、6月・7月に4戦連続完投勝利し、8月2日の勝利で12連勝を記録した。連勝中はゲンかつぎとして髪を切らなかったため、約3か月間も髪を伸ばしっぱなしになりアフロヘアーのような髪型になっていた。最終的にセ・リーグでは1999年の上原浩治以来の20勝投手となり、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。同年オフまで快適という理由で長らく寮生活を続けていたが、退寮指令を受け、梅本正之寮長の定年を節目に退寮。寮では模範生で、途中からは若手の講師役にも指名されていた。

2004年10月4日の対広島戦(広島市民球場)でプロ野球史上71人目となるノーヒットノーランを達成した。同年オフにポスティングシステムでのメジャー移籍を希望したが、球団との交渉が決裂。自費でのキャンプ参加となり、否定的な報道や一部世論の反発に遭った[4]。以降毎年オフに球団に対しポスティングによるメジャー移籍を希望することになった。

2005年8月23日の対広島戦(広島市民球場)で1,000投球回を達成。このとき井川が連続三振を奪った勢いで捕手の矢野輝弘が記念ボールをスタンドに投げ込んでしまい、ベンチ前にほとんどの選手とコーチが出て受け取ったファンに頭を下げ、記念ボールを返してもらった[5]

2006年には5年連続2桁勝利を達成。球団はそれまでの貢献を考慮して3年越しの希望であったメジャー移籍を容認したため、11月10日にポスティングによるメジャー挑戦を表明。11月29日にニューヨーク・ヤンキースが2,600万194ドル(当時のレートで約30億円)で独占交渉権を得て落札し、アーン・テレムを代理人として、12月27日に5年2,000万ドル(2011年まで毎年400万ドル)+出来高で契約。

ヤンキース時代[編集]

ヤンキース時代

2007年2月に結婚を発表。4月7日の対ボルチモア・オリオールズ戦(ヤンキー・スタジアム)でメジャー初登板。5回8安打4四死球2本塁打7失点で降板したが、その後ヤンキースが逆転したため勝ち負けはつかなかった。4月18日の対クリーブランド・インディアンス戦(ヤンキー・スタジアム)で、6回5安打5奪三振2失点でメジャー初勝利を挙げるが、その後も投球フォームや制球が安定せず中継ぎへ降格。4月28日の対ボストン・レッドソックス戦では、先発投手が負傷降板した後リリーフとして緊急登板、6回を無失点に抑えてメジャー2勝目を挙げた。この好投が認められて先発に復帰したものの、5月7日にマイナーに降格。6月22日の試合でメジャー復帰したが、7月28日に2度目のマイナー降格。9月22日の試合でメジャー再復帰し中継ぎとして登板。25日には昇格後初めて先発し5回を0点に抑えたが、勝ち星はつかなかった。結局この年は2勝3敗、防御率6.25, WHIP1.67と不振に終わったが、実力を評価する声は多く、「ヤンキース以外なら活躍できる投手」[6]、「ナ・リーグに行けば大化けする」との声も上がり[7]サンディエゴ・パドレスが「年俸を全て引き継ぐ形で獲得したい」と積極的な姿勢を示したが、ヤンキースがポスティングの入札金の分担まで要求したため破談となった[6]

2008年は前年の不振により開幕前から先発としての構想には入っておらず、スプリングトレーニングでは中継ぎとしての起用が続いた。若手起用のため、開幕はAAA級スクラントン・ウィルクスバリ・ヤンキースで迎えた。5月9日にメジャー昇格し、その日の対デトロイト・タイガース戦に先発したが、3回を11安打6失点で敗戦投手となり、15日にマイナー降格。6月28日に再昇格し、対ニューヨーク・メッツ戦の9回に登板し、1回を無失点に抑えた。しかしその翌日に再びのマイナー降格を通告された上、7月26日にはメジャー契約を解除され、40人枠から外れた[8]。本人は「メジャーリーグでローテーションを守れるピッチャーを目指して頑張りたい」と語ったが、結局この年はスクラントンで14勝6敗、防御率3.45, WHIP1.19の好成績を残したものの、メジャーリーグでの勝ち星を挙げることはできず、オフに過去の反省と今後のチーム編成について会見したGMのブライアン・キャッシュマンからは「井川の獲得は失敗だった」とコメントされるなど厳しい評価が続いた。

2009年はスプリングトレーニングに招待選手として参加し、15回3分の1を投げて1失点だったが与四球率5.35と四球が多く、3月23日にマイナー行きを通告され、2年連続で開幕をスクラントンで迎えた。スクラントンでは前半戦は9勝4敗、防御率4.04、WHIP1.24の成績を残していたが、後半戦は1勝4敗、防御率5.66, WHIP 1.70と不調に陥った。最終的にはチーム最多の10勝8敗、防御率4.15、WHIP1.41の成績を残したが、メジャーでの登板はなかった。12月にはグリーンカードを申請中であることを明らかにした[9]。29日には地元紙の『ニューヨーク・ポスト』が掲載した「過去10年のニューヨークのプロスポーツ選手ワースト10」において1位に選ばれた[10]

2010年もスプリングトレーニングに招待選手として参加したが、中継ぎとして2回3分の2を投げて失点5, 防御率16.87, WHIP1.88と振るわず、3月13日にマイナーに降格[11]。スクラントンでは先発として10試合に先発し防御率3.96, WHIP1.24の成績を残したが、リリーフでは12試合の登板で防御率5.00、WHIP1.65と結果を残せなかった。このシーズンもメジャーでの登板はなく、2年連続でメジャーの試合に出場することはなかった。オフには前年に申請していたグリーンカードを取得し、ヤンキースとの契約終了後もアメリカでのプレーを希望していることを明らかにした[12][13]

2011年はキャンプからマイナーでスタート。故郷の大洗町が東日本大震災で被災したことで3月14日に一時帰国したが20日に再渡米し、開幕はAA級トレントン・サンダーで迎えた。4月21日にはスクラントンでAA級の対リーハイバレー・アイアンピッグズ戦に先発するも、その試合以外はトレントンで5先発を含む11試合に登板し、6月12日にスクラントンに昇格。当日AAA級の対シラキュース・チーフス戦に先発し、球団史上最多タイ記録となる73先発を記録した[14]が、トレントンで故障者が続出したことに伴い17日にトレントンに再降格した[15]。26日にはスクラントンに再昇格したが、2試合に先発した後に再降格し、左ひじの張りで故障者リスト入りした。8月中旬に復帰し、最終的にリリーフではマイナー通算10試合の登板で1勝0敗1セーブ、防御率1.90, WHIP1.01の成績を残したが、先発では同10試合の登板で2勝2敗、防御率4.72, WHIP1.57の成績に終わった。

アメリカで成績を残せなかった要因として、球団側からの信頼度の低さと獲得の際の調査不足により、数度の失敗でチャンスを失ったことを挙げている[16]。井川の獲得は当時のヤンキースGM補佐のビリー・エプラーの強い推薦により実現したが、1年目のスプリングトレーニングでブルペンに入った際、エプラーはブルペン捕手に「どうだい? すごい球を投げるだろう」と聞いたところ、「故障をしているならわかるがとてもメジャーのレベルじゃない。制球は最悪だ」と返される場面があったという[17]。しかし井川本人はアメリカでの5年間について「(失ったものは)ないですね。すべてが自分の血となり肉となってます」と語り、マイナー生活も悪いことばかりではなかったと語っている[16]。上述の通り、2007年にはパドレスがトレードでの獲得に積極的な姿勢を示したことがあった。また、2008年と2009年には日本の球団が獲得を打診したことがあり、その際にキャッシュマンは井川に「君の能力はメジャーリーグには適応しないというのが我々の評価だ。日本の球団との取引はヤンキースの財政的な負担も軽くする」と井川に直接話したが、同時に「しかし君がヤンキースにいたいのならこのトレードを断ることもできる」とも伝え、結果的に井川は2度ともトレードを拒否した[18]

オリックス時代[編集]

2012年3月28日にオリックス・バファローズへの入団を自身のオフィシャルサイトにて発表し、6年振りに日本復帰が決まった[19][20][21]。背番号は阪神・メジャー時代と同じく「29」となった[22]。5月9日に一軍登録されると、同日の対福岡ソフトバンクホークス戦(ほっともっとフィールド神戸)に、先発投手としてNPBの一軍公式戦へ2,032日振りに登板した。しかし、4回表に江川智晃へ2球目を投じたところ、右太股の痙攣を訴えて62球で降板。3回2/3を1失点の内容で敗戦投手になった[23]。7月11日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で8回3安打1失点に抑え、2006年10月16日以来2,095日ぶりに日本で白星を挙げた[24]。7月26日の対楽天戦でも7回1失点で勝利投手となり、続く8月2日の対西武戦でも7回を無失点に抑えたが、この時に左脇腹を痛めてしまった。阪神時代には球速140 km/h後半を記録していたが、この年は平均球速137 km/h[25]と球速が出ず、苦しいピッチングを強いられた。その後は2試合連続で8失点し、8月16日に登録抹消[26]。8月31日に一軍復帰すると、2試合連続でクオリティ・スタートを達成したものの敗戦投手となり、9月14日の対楽天戦で先発した歳に左脇腹痛が再発して[27]1回限りで降板し、そのままシーズン終了となった。結局、日本球界復帰初年度は12試合の先発で2勝7敗、防御率4.65に終わった。10月30日にはオリックス移籍前から違和感を持っていた左肘の遊離軟骨と骨棘の除去手術を受けた。

2013年は9試合に先発し、防御率2.59の成績だった。

2014年はオープン戦で結果を残し、開幕ローテ入りを勝ち取る。しかし3月29日の対北海道日本ハムファイターズ戦で、陽岱鋼に先頭打者本塁打を浴びるなど初回から打ち込まれ、自己最短となる2/3イニングで降板した[28]。その後異例の中3日で4月3日の対楽天戦に先発し、5回無失点で勝利投手となった[29]。交流戦を機に先発投手の頭数の関係で5月に登録抹消されると、ルーキーの東明大貴や井川と同じ先発左腕の松葉貴大のローテ定着もあり、以後一軍での登板は無かった。

選手としての特徴[編集]

オーバースローから投げるストレートはかつて最速151 km/hを記録していたが近年は140 km/hに満たないことが多い。フォークボールのように落ちるチェンジアップ[30]スライダーが武器。ヤンキース移籍後はカットボールツーシームも投げるようになった[31]。ボールの威力自体はメジャーでもトップクラスとの評価を受けており[誰によって?]、2007年には「芯でとらえられる率(ハードヒット・アベレージ)」の低さがマリアノ・リベラに次ぐチーム2位の.196をマークした[6]

スクラントンでのチームメイトらは井川について「ビッグリーグで投げるべきピッチャー」[32]「上でやれる力はあっても、そういう機会に恵まれないことだってある」と語っていた[33]が、フランク・トーマスから「四球が多いといった制球力の問題よりも、コースが甘くなることが最大の問題」と言われ[34]、またジョー・トーリから「球は悪くない。問題は制球力」と言われる[35]ように、コマンド(狙ったスポットに投げる能力)の不足や日本時代から高かった被本塁打率の高さなどによりメジャー昇格を果たせなかった[36]

デーゲームを苦手としており、登板時はサングラスを着用する。

人物[編集]

コントロールが悪かった新人時代、当時の監督である野村より「ダーツの的に当てるイメージで投げろ」とアドバイスを受けた[37]。自らも2万円のダーツボードを購入している。オフシーズンは自主トレの一環として茨城県内のオリエンテーリング大会に参加している[38][39]

ゲーマーの一面もあり、2012年にはセガWORLD CLUB Champion Football』の第16回 JAPAN WINNER'S CHAMPIONSHIPで関東ブロックのエリア大会を勝ち抜き全国大会に進出した[40]

阪神時代には新幹線で移動の際に球団が用意する「のぞみグリーン車のチケットを自ら「ひかり」の自由席に変更し、差額を貯金していた。この点について金本知憲が井川に直接確認したところ「当然じゃないですか」と答えた[41]。『週刊トラトラタイガース』で、藪恵壹と一緒にゲスト出演したとき、藪に「月に1万円しか使わないケチ」といわれたことがある。

同じく米球界から復帰しオリックスと契約した中島裕之へ「(経験を)伝えられることもあると思う」と橋渡し役を買って出た。[42]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1999 阪神 7 3 0 0 0 1 1 0 -- .500 80 15.1 23 1 13 0 1 14 0 0 11 11 6.46 2.35
2000 9 5 0 0 0 1 3 0 -- .250 172 39.1 36 5 19 1 0 37 7 0 19 19 4.35 1.40
2001 29 28 3 2 0 9 13 0 -- .409 829 192.0 174 11 89 6 3 171 6 0 76 57 2.67 1.37
2002 31 29 8 4 2 14 9 1 -- .609 830 209.2 163 15 53 1 7 206 8 0 63 58 2.49 1.03
2003 29 29 8 2 3 20 5 0 -- .800 839 206.0 184 15 58 3 3 179 5 0 72 64 2.80 1.17
2004 29 29 6 3 1 14 11 0 -- .560 840 200.1 190 29 54 0 6 228 5 0 95 83 3.73 1.22
2005 27 27 2 1 1 13 9 0 0 .591 749 172.1 199 23 60 0 1 145 4 0 91 74 3.86 1.50
2006 29 29 8 3 2 14 9 0 0 .609 844 209.0 180 17 49 3 6 194 4 0 77 69 2.97 1.10
2007 NYY 14 12 0 0 0 2 3 0 0 .400 313 67.2 76 15 37 1 4 53 5 1 48 47 6.25 1.67
2008 2 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 24 4.0 13 0 0 0 0 0 0 0 6 6 13.50 3.25
2012 オリックス 12 12 0 0 0 2 7 0 0 .222 278 62.0 64 5 31 0 2 36 3 1 35 32 4.65 1.53
2013 9 9 0 0 0 3 3 0 0 .500 205 48.2 48 2 15 0 2 41 2 0 15 14 2.59 1.34
2014 8 8 0 0 0 2 2 0 0 .500 149 33.0 37 4 12 0 0 28 0 0 17 14 3.82 1.48
NPB:11年 219 208 35 15 9 93 72 1 0 .564 5815 1387.2 1298 127 453 14 31 1279 44 1 571 495 3.21 1.26
MLB:2年 16 13 0 0 0 2 4 0 0 .333 337 71.2 89 15 37 1 4 53 5 1 54 53 6.66 1.76
  • 2014年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB投手記録
  • 初登板:1999年5月2日、対広島東洋カープ6回戦(阪神甲子園球場)、5回表に2番手で救援登板、1安打2四球1死球3失点で降板
  • 初奪三振:1999年5月7日、対横浜ベイスターズ6回戦(横浜スタジアム)、4回裏に波留敏夫から
  • 初先発・初勝利:1999年5月19日、対広島東洋カープ8回戦(米子市民球場)、6回0/3を2失点
  • 初完投勝利:2001年4月24日、対読売ジャイアンツ4回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:2001年8月17日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)
  • 初セーブ:2002年10月12日、対広島東洋カープ28回戦(広島市民球場)、8回裏に3番手で救援登板・完了、2回無失点
  • 1000投球回数:2005年8月23日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、7回裏3死目に前田智徳を空振り三振で達成 ※史上304人目
  • 1000奪三振:2006年4月14日、対広島東洋カープ3回戦(阪神甲子園球場)、9回表に梵英心から ※史上119人目
NPB打撃記録
  • 初安打:1999年6月1日、対横浜ベイスターズ9回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に福盛和男から左翼へ二塁打
  • 初打点:2001年5月10日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、7回表に米正秀から投手前スクイズ
NPBその他の記録

背番号[編集]

  • 29 (1998年 - 2008年、2012年 - )

登場曲[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ Vol.38 井川慶(いがわけい)”. 夢追い紀行. 2013年5月24日閲覧。
  2. ^ “【楽天】悪魔のデーブ、打倒後輩井川”. 日刊スポーツ. (2012年7月11日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120711-981624.html 2012年7月12日閲覧。 
  3. ^ ヤンキース井川が地元で野球教室開催 - ウェイバックマシン(2007年1月16日アーカイブ分) - 日刊スポーツ(2007年1月14日)
  4. ^ 阿部珠樹. “NUMBER EYES 上原と井川のポスティング要求は、わがままだろうか。”. Number web. 2013年5月24日閲覧。
  5. ^ 矢野しまった!?記念のボールを無意識に… - ウェイバックマシン(2005年11月29日アーカイブ分) - 日刊スポーツ(2005年8月24日)
  6. ^ a b c 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2008』 廣済堂出版、2008年、57頁。ISBN 978-4-331-51300-2
  7. ^ 井川、大逆転劇へのシナリオ シーズン途中での移籍は実現するのか - 杉浦大介 sportsnavi(2007年8月14日)
  8. ^ NY Yankees take Igawa off 40-man roster”. NJ.com. 2008年7月27日閲覧。
  9. ^ 「まったく知らない」井川、グリーンカード申請中 - スポーツニッポン(2009年12月8日)
  10. ^ Worst New York players of the decade - NEWYORK POST(2009年12月8日)
  11. ^ Igawa among nine Yankees cuts - yankees.com(2010年3月13日)
  12. ^ 日本球界復帰は?井川「何もやっていない 結果を出したい」 - スポーツニッポン(2011年1月27日)
  13. ^ 井川が自主トレ公開「来年以降も米国で」グリーンカードも取得 - ウェイバックマシン(2011年2月9日アーカイブ分) - 産経ニュース(2011年1月27日)
  14. ^ 井川3Aで球団最多先発、73度目 - 日刊スポーツ(2011年6月14日)
  15. ^ 井川がわずか1試合で2Aに再降格 - 日刊スポーツ(2011年6月18日)
  16. ^ a b 激白 原点回帰『週刊ベースボール』2012年24号、ベースボール・マガジン社、雑誌20441-6/4、6-10頁。
  17. ^ ジョー・トーリ、トム・ベルドゥーチ 『さらばヤンキース―我が監督時代』 青志社、2009年ISBN 978-4-9038-5-3567
  18. ^ Kei Igawa: The Lost Yankee - The New York Times(2011年7月23日)
  19. ^ オリックス入団が決まりました from Osaka - 井川慶オフィシャルサイト(2012年3月28日)
  20. ^ MLB=井川がオリックス入団、6年ぶりの日本球界復帰 - ロイター(2012年3月29日)
  21. ^ オリックスが井川獲得、6年ぶり日本復帰 - 日本経済新聞(2012年3月28日)
  22. ^ 井川が6年ぶり日本球界 オリックス、背番号29 - 47NEWS、共同通信(2012年3月28日)
  23. ^ オリ・井川、6年ぶり登板も4回負傷降板 - ウェイバックマシン(2012年5月12日アーカイブ分) - サンケイスポーツ(2012年5月9日)
  24. ^ “井川8回1失点で6年ぶり日本1勝”. 日刊スポーツ. (2012年7月12日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20120712-981857.html 2012年7月12日閲覧。 
  25. ^ 『2013 プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2013年、191頁。ISBN 978-4-905411-11-6
  26. ^ “井川、脇痛で登録抹消も軽症を強調「調整するだけ」”. スポーツニッポン. (2012年8月16日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/08/16/kiji/K20120816003917190.html 2012年10月10日閲覧。 
  27. ^ “井川が登録抹消 星野コーチ「もう治療に専念させる」”. スポーツニッポン. (2012年9月15日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/15/kiji/K20120915004122790.html 2012年10月10日閲覧。 
  28. ^ “井川1回持たず自己最短KO 1回2死わずか19球”. 日刊スポーツ. (2014年3月31日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/03/31/kiji/K20140331007882770.html 2014年12月21日閲覧。 
  29. ^ “井川 汚名返上の5回零封 19球KOから中3日”. 日刊スポーツ. (2014年4月3日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/04/03/kiji/K20140403007903700.html 2014年12月21日閲覧。 
  30. ^ 友成那智、村上雅則 『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』 廣済堂出版、2007年、35頁。ISBN 978-4-331-51213-5
  31. ^ 井川慶、4年目の現状 マイナーでのレギュラーシーズンを終えて - カルロス山崎 sportsnavi(2010年9月9日)
  32. ^ 井川慶の現状 “見えない壁”の前で - カルロス山崎 sportsnavi(2009年5月21日)
  33. ^ 減量でキレの戻った井川 昇格には他力本願な要素も - カルロス山崎 sportsnavi(2009年6月24日)
  34. ^ 井川は“イラブ”の二の舞か!? メジャーで結果が残せない理由 - 杉浦大輔 sportsnavi(2007年7月17日)
  35. ^ 『月刊スラッガー』2007年7月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-7, 75頁。
  36. ^ 井川慶、マイナーで過ごした渡米3年目 来シーズンへの決意とは!? - カルロス山崎 sportsnavi(2009年9月24日)
  37. ^ 大石幸史、川村亮選手公開練習 - パンクラス オフィシャルサイト(2007年5月30日)
  38. ^ オリックス井川も自主トレ参戦-元気水戸新年オリエンテーリング大会―Orienteering News in Japan
  39. ^ 続・続オリエンテーリング
  40. ^ 準備できています from Mito - K's self(2012年3月12日)
  41. ^ J SPORTSガンバレ日本プロ野球!?』2010年シーズン・第2回
  42. ^ 日本復帰の“先輩”井川、中島助ける!

関連項目[編集]

外部リンク[編集]