権藤博

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権藤 博
中日ドラゴンズ コーチ #72
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県鳥栖市
生年月日 1938年12月2日(73歳)
身長
体重
177cm
73kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手三塁手遊撃手
プロ入り 1961年
初出場 1961年4月9日
最終出場 1968年
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手投手内野手)・野球指導者・監督野球評論家2012年より中日ドラゴンズの一軍投手コーチ。

目次

[編集] 来歴

[編集] プロ入り前

佐賀県立鳥栖高校ではもともとは内野手であったが、ピッチャー不在となり投手に転向。甲子園には行けなかったもののその活躍からプロ野球西鉄ライオンズにスカウトされた。しかしこの誘いを蹴り社会人野球ブリヂストンタイヤに入社、同社の久留米工場野球部でプレーしていた。もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。織田幹雄が「何とかコイツを東京オリンピックに出せないものか。出れば金メダルは確実」とため息をついたという[1]。東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向してほしいという要請があったという逸話がある。

都市対抗野球で好成績をあげいくつもの球団からスカウトされたが、最終的に「契約金はどの球団よりも高くする」と言われた読売ジャイアンツの誘いを蹴り1961年中日ドラゴンズに入団[2]

[編集] プロ時代

杉下茂の後の背番号20を受け継ぐ。同年のオープン戦で28.1回を投げて自責点1(防御率0.31)の成績を残し、1年目よりエースとして活躍。同年はチーム試合数130の半分以上にあたる69試合に登板、そのうち先発登板は44試合。35勝19敗、投球回数429.1回、奪三振310、防御率1.70を記録。沢村賞新人王を受賞した[3]。35勝は新人での最多勝日本プロ野球記録。連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれた。翌1962年、61試合に登板(先発登板39)、30勝17敗、投球回数362.1回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し2年連続最多勝に輝いた[4]

過酷な登板に加え当時の誤ったトレーニングリハビリテーション方法(投球直後に肩を温めていた)により肩を痛め、3年目の1963年からは球威も落ち10勝しか挙げられず、1964年は6勝と調子を落とした。1965年から打者に転向し、1967年セ・リーグ最多犠打を記録する。しかし、それ以上芽が出ず1968年に投手復帰するも球威は衰えを隠せず、30歳の若さで現役を引退した。投手時代の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、後の日本プロ野球に多大な影響を与えた。

[編集] 引退後

引退後、ゴルフ関係の職やアメリカフロリダ教育リーグでのコーチを経て、1973年から1980年まで中日二軍投手コーチ、1981年から1983年まで中日一軍投手コーチを務め、1974年及び1982年のリーグ優勝に貢献。

1984年から1987年まで東海テレビ野球解説者中日スポーツ評論家を経て、1988年から近鉄バファローズ一軍投手コーチを務め、1989年のリーグ優勝に貢献したが監督の仰木彬と折り合いが取れず同年限りで辞任[5]

1991年から1993年まで福岡ダイエーホークス一軍投手コーチ、1994年から1996年まで東海テレビ解説者。1997年横浜ベイスターズバッテリーチーフコーチ、1998年に横浜監督に就任。1年目にチームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導き、2000年まで務めた。

その後、東海ラジオ放送スポーツ報知の野球評論家に転向。横浜監督辞任後は東海テレビとしばらく契約していなかったが、2009年より復帰することとなった。以前東海テレビ専属だった時代は、フジテレビとも契約していた。

2012年より再び中日ドラゴンズの一軍投手コーチに就任する。

[編集] 人物

[編集] 指導者として

選手の自主性を尊重しながら勝利に導く手腕は球界内でも評価が高い。投手コーチとしても、卓越した理論の持ち主。 現役時代は、中日ドラゴンズで活躍。引退後は中日、近鉄バファローズ福岡ダイエーホークス横浜ベイスターズのコーチ・監督を歴任した。鈴木孝政小松辰雄牛島和彦吉井理人阿波野秀幸村田勝喜吉田豊彦下柳剛などを育てたコーチとして知られる。

「投球フォームはその投手の主張」が持論で、フォームにはほとんど口を出さなかった。コーチとしてフォーム矯正を施したのは都裕次郎だけだという[6]

コーチとしては直言居士で、たとえ上司(監督)であっても、間違いだと思う意見にはトコトン喧嘩を挑むタイプであり、近鉄コーチ時代には仰木彬と、ダイエーコーチ時代には田淵幸一との不仲説も噂された。

一方で照れ屋の一面も持ち、横浜監督時代は自らを「監督」ではなく「権藤さん」と呼ぶように指示していた。これは監督を退いた後を見据えていたのと、肩書きを捨てることで部下との垣根をなくすことも目的だった。このルールは選手・スタッフ一同だけでなく、取材陣も対象とされ、違反した場合は罰金1,000円を支払うことになっていた。実際に谷繁元信は権藤に「監督!」と呼び掛け、権藤が聞こえていないフリをし、それに気付かず再び「監督!」と呼んだところで権藤に「ハイお前、罰金2,000円な!」と言われた。同様に試合後のインタビューもあまり愛想よく応じず、リーグ優勝を果たして胴上げ直後の勝利監督インタビューも一言二言だけで終わらせ、その後の個別インタビューも「主役は選手だから」と出演を控えた。

権藤が監督を務めている間、大活躍を見せたロバート・ローズに「最高のボス」と慕われている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得したり、年俸を渋ったりする横浜フロントにわだかまりを持ち、引退も考えていた。1999年の夏頃、権藤は球団の通訳ではなく英語を話せる自分の娘のみを同伴させて1対1でローズと腹の割った話をした。結果「権藤が監督でいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置き、大活躍の下地を作った。

ダッグアウトで采配を取る時、ベンチに座らず立ち上がったままアゴもしくは頬に掌を当てる姿がしばしば中継カメラに映された。このスタイルは権藤のトレードマークとなり、当時のスポーツ新聞週刊誌風刺漫画ではよくネタにされていた。

カウント2ストライク0ボールから明らかなボール球で外すことについて「投手が有利なのに何故わざわざ外すのか」と、3球勝負をしないバッテリーが多いことに苦言を呈している。

[編集] その他

  • 同じ九州出身の大投手・稲尾和久を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりだった。
  • 権藤は「ドラフト指名された選手達は才能があるから指名されたのであって、全員にプロとしての素質と可能性がある」と考える一方で、「コーチがどれだけ教えても、全員が同じ200勝、300勝を挙げられるような名投手になれる訳ではない」として、名投手と呼ばれた人達が監督やコーチとして選手達の素質や適性を考慮せずに現役時代の自分と同じ指導法を押し付ける風潮があることを強く懸念していた。コーチ時代、「先発投手は完投が基本」であると考える元投手で名球会会員の野球解説者の東尾修が権藤の指導法を「手ぬるい」と批判した。すると、権藤は「全てのピッチャーがあなたと同じ(200勝、300勝投手)になれる訳ではない」と言い返したという。[要出典]
  • 2002年より巨人の投手コーチとして入閣の予定があったが、親交のある長嶋茂雄の退任に伴い立ち消えになった。
  • ラグビーに造詣が深く、親交のある森重隆とテレビで対談した時には該博な知識を見せた。
  • ゴルフが趣味である。現役引退後に一時期ゴルフ関係の仕事に就いたことがある。プロゴルファーへの誘いもあったが断った[7]。飛ばし屋で72歳にしてヘッドスピード48m/sを記録した[8]
  • 1998年の横浜優勝時に横浜・八景島シーパラダイスゴンドウクジラの名付け親として招待された際、「優子」と命名した。

[編集] 采配の特徴

アメリカ・フロリダ教育リーグでのコーチ修業時代の経験から、「Don't over teach(教え過ぎない・言い過ぎない)」という采配・指導方針が基本にある。選手の感性と自主性を重んじた、この一見放任主義的なスタイルは当時、マスメディアでも話題となった[9]。権藤自身はこのスタイルを放任主義ではなく「奔放主義」と述べている[10]

夜間練習の強制は止めさせ、各選手の自主性に任せた。また、選手全員を集めるミーティングは基本的に行わず、その代わりグラウンド等で個々にコミュニケーションを取った。試合でも「(自分は)8割はピッチングコーチ」と公言、攻撃面の作戦進行はヘッドコーチの山下大輔や打撃コーチの高木由一にほぼ一任し、打者・走者へのサインも最小限に止め選手の自主性に任せるなど、特徴的な采配方針を見せた。一例としては、1,2番を任せられることが多かった石井琢朗波留敏夫にはノーサインでコンビプレーを任せていたことなどが挙げられる。

審判は絶対である」という原則を遵守し、判定にほとんど異議を唱えることはなかった。岡田功によると、ある日の試合で、ストライク・ボールの判定で揉めて選手に押されて抗議には向かったが、審判の前に立つなり、「選手の手前、黙ってるわけにはいかんから、世間話していいかな? ちょっと時間くれな」というなり世間話をはじめ、「ありがとう」といってベンチに戻っていったという。(『プロ野球 歴代監督の「采配力と人間力」』P79より)

自身の体験から「投手の肩は消耗品」が持論である。横浜の監督となった1998年には、抑え投手佐々木主浩を不動の中心とし、リリーフ投手に『中継ぎローテーション』を確立した。ただしダイエーコーチ時代、下柳剛に関してだけは「奴はどれだけ放っても壊れない」と例外扱いし、制球力をつけさせるため毎日のように練習や試合で登板させた。

横浜監督時代、「送りバントというのは、わざわざ敵にアウトを献上するという世にも馬鹿馬鹿しい作戦だ」と述べており、実際にも限られた場面でしかバントを用いなかった。いわゆるマネー・ボール理論で語られるものと類似しており、「投手の肩は消耗品」「中継ぎローテーション」という持論などからもメジャーリーグでみられる思想と通じるものがある。ただし、チームが優勝争いの輪に加わっている間は、100試合を超えた辺りからは監督は勝利のためなら何をやってもいいという考えも持っていた。事実、優勝した1998年は9月後半あたりから送りバント、セーブのつかない場面でも佐々木を起用するケースも見られた。

横浜監督就任時の野手陣はいわゆる「マシンガン打線」の絶頂期であり、投手の起用法さえしっかりしておけば、細かなサインプレーをせずとも得点を重ね勝利する力はあった。しかし前述の放任主義・審判絶対主義的スタイルは時を経るごとにチーム内での軋轢を生み、特に野手陣との亀裂が深まって行く。その象徴的な出来事として、2000年6月18日の対広島12回戦で、相手の右投手ネイサン・ミンチーに対し、左打者の駒田徳広に代えて右打者の中根仁を代打に送ったことで、プライドを傷つけられた駒田が試合中にもかかわらず帰宅するという造反事件が起きた。なお、駒田はこのシーズン終了後に現役を引退。一方の権藤も、当時球団社長の大堀隆とは兄弟のように蜜月だったが、他のフロント陣との対立も相俟って同年限りで退任した。

[編集] 野村克也との野球観をめぐる対立

監督としての権藤は、「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」という哲学を貫いた。これに対し、同時期にヤクルト阪神の監督であり「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」という持論を展開する野村克也は、権藤の采配スタイルやマシンガン打線を「勝手無礼な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開した。1998年、優勝マジック3の横浜は10月3日 - 10月6日と地元・横浜スタジアムでヤクルトとの4連戦を迎えた。この連戦以前の横浜は上記の因縁から権藤が「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけていたこともあり、ヤクルト戦では特に闘志をむき出しにして戦い、大きく勝ち越していた。地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎石井一久伊藤智仁らをぶつけて3連勝し、自身の目の前での胴上げだけは阻止した。

一方で権藤も、「グラウンド上で詰め将棋など見たくもないでしょう」と暗に野村を皮肉っていた。そして、1998年の日本シリーズでは相手の西武の監督が以前から親交のある東尾修だったため、シリーズ直前にマスコミ公開での食事会を行っている。そこで非公式とはいえ、予告先発を約束した。グラウンド外での腹の探りあいや舌戦、駆け引きを排除し、選手同士の力と技の勝負を堪能してもらいたいという意味合いであった。

権藤は野村による一連の批判が相当不快だったという。オフのトークショーで観客から「野村監督は好きですか?」と質問され、「どちらかと言えば大嫌いです」と返し、後年には「私の在任期間中(コーチ時代の1997年も含めて)、ノムさんが指揮したチームに負け越したことは一度もなかった」と豪語、自論が野村の理論より正しかったことを強調している(リップサービスとしての要素も含むところを考慮しなければならない)。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
1961 中日 69 44 32 12 8 35 19 -- -- .648 1645 429.1 321 20 70 8 3 310 3 1 97 81 1.70 0.91
1962 61 39 23 6 3 30 17 -- -- .638 1421 362.1 307 26 69 2 3 212 5 0 108 94 2.33 1.04
1963 45 31 9 0 1 10 12 -- -- .455 922 220.2 205 29 79 2 4 88 1 1 105 94 3.83 1.29
1964 26 16 3 0 1 6 11 -- -- .353 458 105.1 105 12 45 1 3 47 4 0 53 49 4.19 1.42
1968 9 1 0 0 0 1 1 -- -- .500 95 18.1 32 5 11 0 2 10 0 0 23 22 10.80 2.35
通算:5年 210 131 67 18 13 82 60 -- -- .577 4541 1136.0 970 92 274 13 15 667 13 2 386 340 2.69 1.10
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1961 中日 70 163 144 18 31 7 0 1 41 8 1 0 13 0 6 0 0 24 4 .215 .247 .285 .531
1962 61 130 117 10 25 5 0 4 42 13 0 0 8 1 4 0 0 19 3 .214 .238 .359 .597
1963 49 83 76 8 18 5 0 3 32 8 0 0 3 0 4 0 0 12 2 .237 .275 .421 .696
1964 29 39 38 3 7 2 0 1 12 4 0 0 0 0 1 0 0 5 1 .184 .205 .316 .521
1965 81 212 196 28 39 11 0 3 59 18 3 3 2 0 14 0 0 24 3 .199 .252 .301 .553
1966 54 198 179 17 32 7 1 1 44 7 2 5 4 1 12 0 2 28 0 .179 .237 .246 .483
1967 107 331 288 34 62 8 3 5 91 27 6 6 26 4 11 0 2 50 3 .215 .246 .316 .562
1968 12 3 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 1 .000 .000 .000 .000
通算:8年 463 1159 1041 119 214 45 4 18 321 85 12 14 56 6 52 0 4 163 17 .206 .245 .308 .553
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1998年 横浜 1位 136 79 56 1 .585 - 100 .277 3.49 60歳
1999年 3位 135 71 64 0 .526 10.0 140 .294 4.44 61歳
2000年 3位 136 69 66 1 .511 9.0 103 .277 3.92 62歳
通算:3年 407 219 186 2 .541 Aクラス3回
※1 順位の太字は日本一
※2 1998年から2000年までは135試合制

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 20 (1961年 - 1968年)
  • 64 (1973年 - 1977年)
  • 76 (1978年 - 1983年)
  • 70 (1988年 - 1989年、1991年 - 1993年)
  • 72 (1997年 - 2000年、2012年 - )

[編集] 関連情報

[編集] 著書

  • 『教えない教え』(2010/11/17 集英社

[編集] 出演番組

[編集] 脚注

  1. ^ 『スポーツ20世紀』ベースボール・マガジン社、2000年7月、p126
  2. ^ 『週刊文集』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博
  3. ^ 年度別成績 1961年 セントラル・リーグ
  4. ^ 年度別成績 1962年 セントラル・リーグ
  5. ^ 『週刊文集』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博
  6. ^ 文春ビジュアル文庫「ヒーロー列伝」
  7. ^ 『週刊文集』2010年10月14日号 新・家の履歴書 権藤 博
  8. ^ http://blog.golfdigest.co.jp/user/doracon1/archive/3442
  9. ^ 私の野球観”. 日本プロ野球トレーナー協会. 2008年3月2日閲覧。
  10. ^ 『教えない教え』集英社、2010年

[編集] 関連項目

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