郭泰源

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郭 泰源
統一セブンイレブン・ライオンズ コーチ
HAWKS83-Tai-Yuan Kuo.jpg
2014年8月14日 福岡ヤフオク!ドーム
基本情報
国籍 中華民国の旗 中華民国台湾
出身地 台湾省台南市
生年月日 1962年3月20日(52歳)
身長
体重
180 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
初出場 1985年4月8日
最終出場 1997年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
国際大会
代表チーム チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ
五輪 1984年
郭泰源
プロフィール
出生: 1962年3月20日
出身地: 台湾台南市
職業: 野球選手投手
各種表記
繁体字 郭泰源
簡体字 郭泰源
和名表記: かく たいげん
英語名 Tai-Yuan Kuo
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オリンピック
男子 野球
1984 野球

郭 泰源(クォ・タイユアン、かく たいげん、1962年3月20日 - )は、台湾台南市出身の元プロ野球選手投手)。右投げ右打ち。現役時代の愛称オリエンタル・エクスプレス[1]オリエント・エクスプレス[2]

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

台南市の農家で兄、姉それぞれ3人ずつの7人兄弟の末っ子として生まれる[3]。小学校5年生の時に野球を始め、クラブが全寮制だったため親元を離れた[4]。台南長栄中から長栄高等中学に進み、2年生の時に遊撃手から投手に転向している[3]。この頃、初めて郭を見に来たプロのスカウトが西武の人間だったという[5]。高校卒業後は合作銀行に入り、1982年には中華民国陸軍野球部に入隊[3]。同年の第27回IBAFワールドカップチャイニーズタイペイ代表として活躍し、各国のスカウトの注目を集める。

1983年アジア野球選手権大会では準決勝の対韓国戦で17回を無失点に抑え、さらに決勝の対日本戦では池田親興との投げ合いを2安打1四球の完封で制し[6]、同大会の優勝とそれによる翌年のロサンゼルスオリンピック出場権獲得に大きく寄与した。一時はMLBカージナルスメッツドジャースブルージェイズNPB巨人や西武、中日ヤクルト大洋などが獲得を検討するほどだった[3]

1984年のロサンゼルスオリンピックにもチャイニーズタイペイ代表として参加し、この頃には入団先は巨人と西武に絞られていた[3]。予選リーグの対アメリカ戦では最速158km/hを投げたと報じられ[7]、108球を投げて12奪三振で完投するも、7回にジョン・マーザノ本塁打を打たれて2失点で敗れている。準決勝の対日本戦では1回に広沢克己の打球が右すねを直撃する不運があり[8]、4回2/3を投げて6安打、1失点で降板し、チームも延長の末1対2で敗れた。最終的に台湾は銅メダルを獲得し、郭自身は契約金8000万円(推定)で西武への入団が決まった[6]

プロ野球選手時代[編集]

プロ1年目の1985年は自主トレの投球練習から広岡達朗監督や宮田征典投手コーチの高い評価を受け[6]その後も広岡の厳しいキャンプに耐え[9]、初登板となった4月10日の対近鉄戦でいきなり完投勝利を挙げる。これでプロで投げていく自信がついたといい[9]、4月は3完投で2勝0敗、防御率は0.32という好成績で月間MVPを受賞[10]6月4日には対日本ハム戦でノーヒットノーランを達成し、同年はシーズン途中で肩を痛めて[9]登板15試合にとどまりながら9勝を挙げている。

2年目の1986年はキャンプ終盤まで肩痛が残っており、肩を心配した新監督の森祇晶の方針で開幕から抑えに回り[9]、16セーブを記録。9月頃からは先発に戻り、同年の日本シリーズでは第3戦の先発でシリーズ初登板を経験し、4回2/3を投げ4失点で敗戦投手となった。第7戦では6回途中に松沼博久本塁打を打たれた場面から救援で3回1/3を投げ、シリーズ初セーブを挙げている。

1987年先発ローテーションに定着し、自身初の二桁勝利となる13勝を挙げる。肩痛で一時チームを離れた[11]が、同年の日本シリーズ第3戦では江川卓との投手戦を1失点の完投で制し、シリーズ初勝利を挙げた。子供の頃から台湾のヒーローだった王貞治監督率いる巨人が相手だったため、喜びが倍増したという[11]。オフには森繁和と共に台湾で漢方薬温泉、運動療法などによる肩のケアを行なった[12]

1988年はシーズン初先発の4月10日の対南海戦で8回を投げて12安打、6失点の内容ながら9点の援護をもらって勝利を挙げると[13]、そのまま6月25日の対ロッテ戦まで12試合に先発して10勝0敗という好スタートを切った[14]。この間、5月21日には対日本ハム戦で西崎幸広と投げ合い、187球を投げて延長12回を完投し引き分けに持ち込んでいる[13]。また6月には全て完投で4勝を挙げ、防御率1.25で2度目の月間MVPに選ばれている[10]。シーズン前半は最多勝争いを独走し、オールスターゲームでは同年セ・リーグでブレイクした呂明賜との台湾人対決が期待された[14]が、7月8日の対南海戦で延長11回を完投して負けた直後にヒジ痛を訴えてオールスターには推薦されなかった。オールスター後の8月4日の対近鉄戦では1失点で完投勝利を挙げたが8月11日にヒジ痛のため登録を抹消され[14]、最終的に前年と同じ13勝となり初タイトルとなる最高勝率を獲得している。同年の日本シリーズでは第2戦に先発し、7回まで3失点に抑えるも8回に4点を失い敗戦投手となった。この試合では7回から郭源治が登板し、台湾人同士の投げ合いが実現している。

1989年は引退した東尾修に代わるエースとしての活躍が期待され[15]、自己最多となる26試合に先発し198回1/3を投げてリーグ3位の防御率3.27となった。なお、6月7日の対ロッテ戦では初めて荘勝雄との先発対決が実現し、0対1で敗れている。同年は自身最低の10敗(10勝)となった[16]が、チームトップの防御率が評価されて10%増の年俸6,600万円(推定)で契約を更改している[16]。翌1990年は初めてオールスターゲームに出場し、第1戦で1イニングを投げてパ・リーグの完封リレーの一翼を担っている。同年はヒジや肩の故障で4年ぶりに規定投球回を割り込んだ[17]が、18試合で9勝を挙げた。日本シリーズでは第4戦に先発して6回を3失点に抑え、3年ぶりにシリーズでの勝利を挙げている。

1991年のキャンプでは同じ投手のレイモンド・ヤングが競争相手となったが、5月5日の対近鉄戦ではシーズンベストの投球内容[18]で1失点完投。オールスター前には5連敗するも、同期間の調整が効を奏して7月30日の対ロッテ戦から9月28日の対オリックス戦まで[19]、パ・リーグ歴代2位[20]となる9連続完投勝利を記録した。この間の8月、9月はいずれも無敗の4完投勝利、防御率もそれぞれ2.00、1.00という好成績をおさめて2ヶ月連続で月間MVPを受賞し、渡辺智男工藤公康の一時離脱[18]を十分カバーしている。また同年は優勝を争った近鉄に対して防御率0.78で7勝1敗と好投して優勝の原動力となり[17]MVPベストナインに輝いた。一方、同年の日本シリーズではヒジの疲労もあって[17]第2戦では4回1/3を投げて4失点で敗れている。第6戦では5回を1失点に抑え、継投した石井丈裕が勝利投手となった。

1992年7月12日の対近鉄戦で腰痛を訴えて途中降板し、これを理由にオールスターゲームを直前で辞退した[21]。これについて他球団から仮病の疑いを指摘されて物議を醸し、球団側が自主的に後半戦開始直後の10試合をベンチから外している。シーズン終盤の8月21日の対オリックス戦から9月8日の対日本ハム戦まで、パ・リーグタイ記録となる3試合連続完封勝利[19][22]を挙げるなど、同年は14勝を挙げた。この年は2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞している。同年の日本シリーズでは第2戦に先発し、6回1/3を無失点に抑えて勝利投手となっている。オフには3,000万円増の年俸1億3,000万円(推定)で契約を更改した[23]

1993年は3年ぶりに二桁勝利に届かず、8勝8敗に終わる。同年の日本シリーズでは第2戦に先発するも2回0/3で8安打4失点と打ち込まれて敗れたが、第6戦の先発では6回を3安打無失点に抑える好投で勝利投手となっている。またオフには台湾人女優の張瓊姿と結婚し、これを契機に張は女優業を引退した[24]

1994年は打ち込まれる試合が続くも、打線の援護に恵まれ、開幕から9連勝を飾る。5月17日の対日本ハム戦で完封で通算101勝目を挙げ、外国人選手としてNPBの通算最多勝利記録を更新した[25]。シーズン通算では規定投球回に達した投手の中でリーグ最低の防御率4.98ながら、13勝5敗で自身2度目となる最高勝率のタイトルを獲得。同年の日本シリーズでは第4戦に先発し、2回2/3を5安打2失点の内容で降板した。

1995年伊良部秀輝最優秀防御率のタイトルを最後まで争ったが、シーズン終盤に右手首を痛めて伊良部と0.01差の防御率2.54で惜しくもタイトルを逃している[9]。この手首の故障が大きな原因となり、翌1996年は0勝6敗に終わった。なお、同年オフには外国人選手として初めてFA権を取得、規定により外国人枠から外れている。1997年も復活する事なく、9月に現役引退を決めた[24]西武球場最終戦となる10月5日の対ダイエー戦の先発が引退登板となり、長年チームメイトでもあった秋山幸二がダイエーの1番打者として出場し、全て直球を投げて中飛に打ち取っている[24]。ちなみにこの時投げたストレートは140km台を記録しているが、この年二軍でも本人が肘などの痛みを訴えて練習らしい練習を殆どしていない中でのこの結果である。これは後年テレビの企画で歴代の外国人選手ついてのインタビューに答えたデニー友利が証言している。なお、この試合では秋山の打席を終えると、同じく引退する鹿取義隆に交代した。

現役引退後[編集]

西武退団後は、かねてからの計画通り台湾で1、2年プレーして引退する予定だったが、台湾大聯盟設立など台湾球界の混乱もあってそのまま現役を引退[24]。台湾大聯盟の技術顧問として渡辺久信を台湾に呼び寄せるなどの活動を経て、2004年から2005年にかけては中華職棒誠泰コブラズの監督を務めた。

2007年2月16日に台湾代表監督に就任して翌年の北京五輪出場を目指したが、予選となるアジア野球選手権日本、韓国に敗れ3位に終わり出場権を逃した。その責任を取り12月14日に台湾代表監督を辞任し、後任には洪一中が就任している。2009年には、同年の第2回WBCチャイニーズタイペイ代表の投手コーチを務めた。2010年第5回世界大学野球選手権ではチャイニーズタイペイ代表の投手コーチを務めている[26]

2013年からは福岡ソフトバンクホークスの一軍投手コーチ(ブルペン)に就任[27]。同年は先発のチーム防御率がリーグワースト2位の4.14と低迷した[28]。2014年は一軍投手コーチ(ベンチ)を担当し、11月5日に今季限りで退団することが発表された[29]。 同年11月11日に統一セブンイレブン・ライオンズの一軍ヘッドコーチ兼投手コーチに就任することが発表された。

プレースタイルなど[編集]

投球[編集]

オリエンタル・エクスプレスという通称の由来となった最速158km/h(プロ入り後の最速は156km/h)の速球に加え、キレの良い高速スライダーシュートを駆使した。ロサンゼルスオリンピックで郭と対戦した広澤克実は「(郭の)当時の速球は、(セーブ数の日本タイ記録を残した)2007年頃の藤川球児にも劣らない」と評している[30]。また、制球力は西武黄金期の投手陣の中でも1・2を争うほどの良さと言われた[31]落合博満は「郭泰源の投球は野茂英雄よりもすごいと思った」と語っている[32]

郭自身は、若い時からシュートを一番の武器と考え[9]、シュートの調子が悪い時にはスライダーを多投した[18]。スライダーはカット・ファスト・ボールのような軌道で、球速を落とさずに真横に変化して常に低めに決まり[33]三振を取るのに非常に有効だったという[18]。また、スライダーはバッテリーを組んだ伊東勤にとって西武の全投手の中で最も印象に残ったほどの変化球で、郭はこの球のサインに従わない事が全く無かった[33]という。

1988年には、球が見やすく速球主体の投手が不利とされたデーゲーム[13]で連勝を重ねるなど、来日3年目の1987年頃から変化球をうまく使う投球スタイルを樹立した[18]。逆に変化するシュートを持つために打者はスライダーに対して踏み込みにくくなり、これに加えてカーブフォークボールなどの緩い球も有効に使っていた[33]

調整方法[編集]

肩やヒジの負担を抑えるため中6日ないし5日での先発を基本とし[16]、登板翌日は軽く汗を流し2日目もランニング程度、3日目はキャッチボールで4、5日目に80%程度の力で60-70球を投げ、6日目は汗を流す程度で翌日の登板に備える、という調整を行なっていた[2]

台湾人選手として[編集]

台湾にプロ野球がない時代から日本プロ野球で活躍した台湾人選手の嚆矢として、郭源治荘勝雄とともに二郭一荘と並び称された。通算117勝は外国人投手としては歴代最多、NPB全体でも歴代86位(2010年現在)に当たる。体格的に日本人と差がなくプロ野球の経験もない状態で来日しており、またシーズン中の扱いは日本人同様である事などから、台湾人選手にも外国人枠の規定を一律に適用する事に対して配慮を願っていた[34]

台湾大聯盟の顧問時代には投手コーチを求めて東尾修に相談して渡辺久信を選手兼任コーチとして招聘し、石井丈裕の台湾球界入りも斡旋するなど、台湾球界の発展に大きく貢献した。また、許銘傑曹竣揚ら台湾人選手の日本球界入りをアシストしている。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1985 西武 15 15 9 3 0 9 5 0 -- .643 484 117.2 89 14 48 1 4 75 1 0 44 33 2.52 1.16
1986 39 9 5 1 0 5 7 16 -- .417 450 108.1 93 10 38 7 0 105 1 0 39 35 2.91 1.21
1987 22 21 11 2 0 13 4 0 -- .765 640 158.0 136 12 40 6 4 81 2 1 56 53 3.02 1.11
1988 19 18 15 1 3 13 3 1 -- .813 583 149.1 113 10 23 3 2 76 0 0 50 40 2.41 0.91
1989 26 26 14 4 1 10 10 0 -- .500 804 198.1 172 15 49 7 3 117 2 0 78 72 3.27 1.11
1990 18 17 5 1 0 9 4 0 -- .692 504 119.1 113 14 44 0 2 84 2 0 53 47 3.54 1.32
1991 24 23 12 4 1 15 6 1 -- .714 721 184.1 162 17 30 3 1 108 0 0 54 53 2.59 1.04
1992 23 23 9 3 0 14 4 0 -- .778 661 168.0 128 17 44 5 4 108 1 1 54 45 2.41 1.02
1993 22 22 4 1 1 8 8 0 -- .500 540 133.1 121 15 26 0 4 88 3 0 56 52 3.51 1.10
1994 27 21 4 2 0 13 5 0 -- .722 569 130.0 137 23 52 2 3 86 1 0 75 72 4.98 1.45
1995 22 22 3 2 0 8 6 0 -- .571 642 163.0 131 11 34 2 6 115 0 0 48 46 2.54 1.01
1996 14 11 1 0 0 0 6 0 -- .000 248 52.1 72 9 22 3 1 26 1 0 48 43 7.39 1.80
1997 1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 1 0.1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:13年 272 229 92 24 6 117 68 18 -- .632 6847 1682.1 1467 167 450 39 34 1069 14 2 655 591 3.16 1.14
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000投球回数:1991年9月6日、対近鉄バファローズ21回戦(藤井寺球場)、3回裏2死目に達成
  • 100勝:1994年5月10日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(米子市民球場)、6回3失点(自責点0) ※史上110人目
  • 1500投球回数:1995年4月30日、対千葉ロッテマリーンズ6回戦(千葉マリンスタジアム)、6回裏1死目に達成
  • 1000奪三振:1995年6月23日、対近鉄バファローズ10回戦(西武ライオンズ球場)、6回表に中村紀洋から ※史上93人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 12 (1985年 - 1986年)
  • 18 (1987年 - 1997年)
  • 88 (2004年 - 2005年)
  • 83 (2013年 - 2014年)

脚注[編集]

  1. ^ 「最強日本代表をつくろう! 台湾というアウェーへようこそ オリエンタル・エクスプレスからの招待状 郭泰源・台湾代表監督」『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2007年3月19日号、P.33
  2. ^ a b 「『必殺仕事人』大田卓司のこの男を斬る! そろそろ台湾選手を外人枠の対象からはずしてもいいのでは?」『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.23
  3. ^ a b c d e 『報知新聞』1984年8月2日付、1面
  4. ^ 『朝日新聞』、1985年6月6日付 朝刊、P.3
  5. ^ 「郭泰源(西武ライオンズ)素晴しい環境を与えてくれた日本の球界には、深く感謝しています ('97引退選手リレー・インタビュー『燃え尽きて』〔5〕)」『週刊ベースボール』、1997年12月15日号、P.143
  6. ^ a b c 『朝日新聞』、1985年1月26日付 夕刊、P.3
  7. ^ 『週刊ベースボール』、1984年8月20日号、グラビア
  8. ^ 『別冊宝島』、宝島社、1545号、P.65
  9. ^ a b c d e f 週刊ベースボール、1997年12月15日号、P.142
  10. ^ a b パ・リーグ月間MVP記録
  11. ^ a b 「レオ戦士は語る」『Number』、文藝春秋社、1988年3月20日号、P.63
  12. ^ 『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.25
  13. ^ a b c 『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.22
  14. ^ a b c 「“狂った夏”にふさわしい?4つのベースボール・ミステリー また出た郭の“イタイイタイ病”。森監督どうする?」『週刊ベースボール』、1988年9月5日号、P.23
  15. ^ 「郭泰源&呂明賜の一大決意報告 『郭源治に続くのはオレたちだ!』」『週刊ベースボール』、1989年1月23日号、P.25
  16. ^ a b c 「'90ライバルのいる風景 5回 郭源治vs荘勝雄vs郭泰源 異国での仲間意識と“台湾No.1”を巡る競争意識と…」『週刊ベースボール』、1990年2月5日号、P.37
  17. ^ a b c 「SPECIAL INTERVIEW ヒジの調子が悪くて、いつものスライダーが放れなかった。でも、それを切り抜けるのがエースだと思う」『Number』、1991年11月20日号、P.59
  18. ^ a b c d e 『Number』、1990年11月20日号、P.58
  19. ^ a b パ・リーグ 投手の連続記録
  20. ^ 歴代1位は1978年に鈴木啓示が記録した10試合連続。
  21. ^ 毎日新聞、1992年7月22日付朝刊、P.21
  22. ^ 1972年清俊彦以来、20年ぶりの記録。
  23. ^ 毎日新聞、1992年12月26日付朝刊、P.17
  24. ^ a b c d 『週刊ベースボール』、1997年12月15日号、P.140
  25. ^ 従来の記録はジョー・スタンカジーン・バッキーの100勝
  26. ^ 毎日新聞、2010年8月5日付朝刊、P.17
  27. ^ 2013年 コーチングスタッフについて”. 福岡ソフトバンクホークス (2012年10月29日). 2012年10月29日閲覧。
  28. ^ ソフトB大石ヘッド、高山コーチが退団
  29. ^ コーチの退団について福岡ソフトバンクホークス公式サイト2014年11月5日配信
  30. ^ 別冊宝島、1545号、P.64
  31. ^ 毎日新聞社・編『西武ライオンズファンブック 1994年度版』、P.57
  32. ^ J-SPORTS『野球好きニュース マル秘メジャーシーズン2』(2011年12月11日放送)
  33. ^ a b c 「変化球探求2008 魔球の秘密 伊東勤が体感したすさまじき変化球の世界『郭泰源はスライダーのサインで首を振ったことがなかった!』」『週刊ベースボール』、2008年06月23日号、P.38
  34. ^ 『週刊ベースボール』、1988年7月4日号、P.24
  35. ^ 1994年は勝率1位でありながら、規定投球回数に達した投手の中で防御率は最下位という珍しい記録となっている。
  36. ^ 1988年の春のトーナメント大会(オープン戦の一部)でもノーヒットノーランを達成。

関連項目[編集]