山本功児
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 大阪府堺市 |
| 生年月日 | 1951年12月25日(60歳) |
| 身長 体重 |
187cm 95kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 左投左打 |
| ポジション | 一塁手、外野手 |
| プロ入り | 1975年 ドラフト5位 |
| 初出場 | 1976年4月6日 |
| 最終出場 | 1988年10月23日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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山本 功児(やまもと こうじ、1951年12月25日 - )はプロ野球選手、プロ野球監督。ポジションは一塁手、外野手。左投げ左打ち。打席に入り構える際に身体を幾度か揺り篭の様に左右に揺らす(但しバットを持つ手は不動)独特の構えがあった。大阪府堺市(兵庫県となっていることもある)出身。
目次 |
[編集] 来歴・人物
三田学園高3年次に選抜大会に出場。1969年のドラフト会議で南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否し法政大学経営学部に進学。東京六大学リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率.280、3本塁打、44打点。ベストナイン2回。本田技研鈴鹿から1975年にドラフト5位で読売ジャイアンツに入団した。当時のチームは一塁手に王貞治を擁し、王の控えであった(1979年から1980年にかけ7試合4番打者を務めている)。王の引退後も中畑清・原辰徳の控えに回り出場機会にあまり恵まれず、1984年、三宅宗源とのトレードによりロッテオリオンズに移籍、レギュラーとして初めて規定打席に到達し、打率.301を記録。同年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。コーチ兼任となった1988年に現役を引退。
引退後は1989年~1993年までロッテ一軍打撃コーチ、1994年は二軍打撃コーチ、1995年~1996年まで再び一軍打撃コーチ、1997年から1998年まで二軍監督を経て1999年から2003年までロッテ監督に就任。辞任後、2004年チームの先輩である堀内恒夫新監督の要請で古巣・巨人の二軍ヘッド兼打撃コーチに就任、翌2005年からは一軍ヘッドコーチとなる。しかし、チームの不振で堀内は辞任、山本も同年限りで退団した。
ロッテ監督としての選手起用については、当初は大塚明や立川隆史など、生え抜きの若手を積極的に起用したものの、決定的な実力不足を痛感し、ベテラン勢や外部補強選手を中心に戦いながらサブローや里崎智也、小林宏之などの台頭を気長に待つことになる。こうして監督を務めた5年間、ロッテはチームは全て5位か4位に終わっているが、年々勝率を上げ2003年には借金1にまでチームを戻したところで辞任した。
二軍監督から一軍監督時代の間に獲得・育成した選手が第2次バレンタイン政権下でのリーグ優勝・日本一に貢献する事となり、その手腕が評価された。一時的に特定の投手を頻用したことがあり、具体例としては、2003年の前半戦、中継ぎとしてフル回転していた小林宏之の例がある。(7月9日以後は先発ローテ入り) 当時、連投による小林の故障を危惧したファンと試合後口論となった。この時、ファンに発した「2日休んでるんだ、バカヤロー」は度々引用されている。当時のチーム事情的に仕方ないと見るか、もう少し小林宏之の負担は減らすべきだったと見るかは、意見の分かれるところである。
2006年から2007年までスポーツ報知野球評論家、アール・エフ・ラジオ日本(ジャイアンツナイター)野球解説者を務めた。
[編集] エピソード
- 実家は、当時の南海ホークスの練習場があった中百舌鳥球場の前でパン・菓子屋を営んでおり、南海選手から子供時代の山本が可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。
- 1981年8月26日、宇野ヘディング事件で打球を放ったのは山本功児である。
- 現役当時、法政大学の大先輩で広島東洋カープの4番打者山本浩二と同姓同名であったため、主に広島戦で『偽コージ』と野次を飛ばされることが多々あった。また、ジャイアンツ内でも山本幸二という同姓同名の捕手が在籍していたため区別するのが困難であった(背番号も功児と一番違いの43番)。『偽コージ』と呼ばれた事に対しては、「偽者と野次られるのも、同姓同名の偉大な先輩がいてこそ」と、山本浩二への尊敬の念も含めて答えていた。
- 巨人の4番を20打数以上務めた人物の中では最高打率(29打数11安打、打率.379)である。
- 巨人選手時代、控えとなる場合が多い中、元同僚で阪神へ移籍した小林繁には抜群に相性が良く、小林が登板する試合にはフル出場する事が多かった。
- 44という背番号については、「ハンク・アーロンと同じ番号で気に入っている」と言い、巨人時代、活躍を認められて小さい番号に変更する話もあったものの拒否し、ロッテ移籍後も同じ番号を背負い続けた。
- 好きな歌はフランク・シナトラで有名なマイ・ウェイ。カラオケで披露する時、決まって最後のフレーズを「♪~私には愛するロッテがあるから」と変えて歌っていた。
- ジャイアント馬場のファンでサインを貰い少年の様に喜んでいた一幕があった。
- 人情味があって熱血漢な性格である。ロッテ監督時代、日本ハム戦で、相手の野次に対し、大島康徳監督とベンチ越しで野次の応酬をしていた。
- 2003年のシーズン最終戦、当時のフロントが球場に来た数人のコーチに突然の解雇通告をするという事件が起きたとき「何で最後の試合の前に…。こんなことがあってはいかん」 という怒りのコメントを述べている。このとき山本本人は既に解任が決まっており彼自身も最後の試合であったが、このように部下への気遣いから怒りを顕にするような性格であった。
- 現役最終年となる88年の選手兼任打撃コーチに始まり、二軍打撃コーチ、二軍ヘッド、二軍監督、一軍打撃コーチ、一軍ヘッド、一軍監督と指導者としてのすべてのポジションを経験するという稀有なキャリアを持つ。特に巨人復帰した2004年の二軍ヘッド(のちに打撃コーチ兼任)というポジションは通常ありえない役職のため、今後同じキャリアを積む者は現れない可能性が高い。ちなみにこの二軍ヘッドという役職はすでに組閣を終えた後に、当時の堀内恒夫監督がどうしても復帰させたい、としたため急きょ作ったもの。翌05年には一軍ヘッドに昇格した。
- コーチ、監督時代、1時間でも2時間でもつきっきりで打撃指導するなど指導熱心であった(スタンドのファンから「山本イズム」と書かれた垂れ幕が掲げられた)。しかし、その一本槍の性格がゆえに、監督になってから、一打席ヒットが出ないだけで、すぐに選手のバッティングフォームを変えさせようとするなどして、首脳陣との軋轢が生じ、オフに退団するコーチが多かった[1]。
- また、一本槍な性格がゆえに、思い込みから失言してしまうこともあった。黒木知宏が浦和で怪我と闘っていた時期、マスコミに復帰時期を尋ねられ、「練習してない人間を一軍に上げるわけにはいかない」と発言した。
- 成績は低迷したが、上記の性格もあり選手からも慕われていた。特に、山本に見出され巧打・巧守の一塁手として主力選手に成長した福浦和也は子供の名前の一部に「功」の字を入れるほどである。
- 2005年5月18日の対広島戦において、小林雅英が150セーブを達成したとき、ヒーローインタビューで「山本監督に感謝しています」と発言があった。
- ロッテ退団が決まった2003年の最終戦では、選手側から「試合後に監督を胴上げしよう」という提案があった。そして試合終了後、胴上げをするべく選手達がベンチから出ようとしたところ、山本は「胴上げは次の監督にやってあげてくれ。ありがとう」と涙ながらに固辞。そして2年後(2005年)、チームは31年ぶりのリーグ優勝を果たし、次期監督ボビー・バレンタインの胴上げが実現した。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1976 | 巨人 | 67 | 68 | 66 | 5 | 18 | 1 | 0 | 1 | 22 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 13 | 0 | .273 | .294 | .333 | .627 |
| 1977 | 89 | 98 | 94 | 6 | 26 | 5 | 0 | 2 | 37 | 18 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1 | .277 | .296 | .394 | .690 | |
| 1978 | 87 | 116 | 102 | 11 | 30 | 2 | 2 | 3 | 45 | 24 | 0 | 0 | 1 | 3 | 8 | 1 | 2 | 12 | 1 | .294 | .348 | .441 | .789 | |
| 1979 | 117 | 232 | 220 | 24 | 64 | 12 | 0 | 5 | 91 | 29 | 1 | 0 | 1 | 2 | 8 | 2 | 1 | 24 | 4 | .291 | .316 | .414 | .730 | |
| 1980 | 106 | 137 | 124 | 6 | 29 | 7 | 1 | 1 | 41 | 20 | 0 | 0 | 1 | 2 | 8 | 0 | 2 | 17 | 3 | .234 | .287 | .331 | .617 | |
| 1981 | 95 | 197 | 179 | 16 | 43 | 8 | 0 | 4 | 63 | 17 | 0 | 2 | 0 | 2 | 14 | 5 | 2 | 16 | 6 | .240 | .299 | .352 | .651 | |
| 1982 | 107 | 284 | 254 | 29 | 56 | 5 | 2 | 13 | 104 | 33 | 5 | 1 | 4 | 2 | 21 | 3 | 3 | 44 | 6 | .220 | .286 | .409 | .695 | |
| 1983 | 78 | 131 | 117 | 15 | 33 | 6 | 0 | 5 | 54 | 15 | 0 | 0 | 3 | 1 | 8 | 2 | 2 | 19 | 5 | .282 | .336 | .462 | .797 | |
| 1984 | ロッテ | 125 | 487 | 429 | 49 | 129 | 28 | 2 | 10 | 191 | 66 | 4 | 1 | 6 | 7 | 42 | 1 | 3 | 45 | 8 | .301 | .362 | .445 | .807 |
| 1985 | 122 | 449 | 413 | 45 | 121 | 19 | 0 | 10 | 170 | 67 | 1 | 4 | 3 | 4 | 29 | 2 | 0 | 30 | 22 | .293 | .336 | .412 | .748 | |
| 1986 | 85 | 240 | 221 | 16 | 58 | 11 | 0 | 4 | 81 | 26 | 0 | 2 | 2 | 2 | 13 | 0 | 2 | 26 | 9 | .262 | .307 | .367 | .673 | |
| 1987 | 95 | 274 | 251 | 29 | 80 | 12 | 0 | 6 | 110 | 42 | 2 | 0 | 2 | 0 | 18 | 0 | 3 | 34 | 5 | .319 | .371 | .438 | .810 | |
| 1988 | 44 | 65 | 53 | 2 | 12 | 4 | 1 | 0 | 18 | 5 | 0 | 1 | 1 | 0 | 11 | 4 | 0 | 13 | 1 | .226 | .359 | .340 | .699 | |
| 通算:13年 | 1217 | 2778 | 2523 | 253 | 699 | 120 | 8 | 64 | 1027 | 369 | 13 | 11 | 24 | 26 | 184 | 20 | 21 | 306 | 71 | .277 | .328 | .407 | .735 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 年度別監督成績
| 年度 | 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 打率 |
チーム 防御率 |
チーム 本塁打 |
年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1999年 | 平成11年 | ロッテ | 4位 | 135 | 63 | 70 | 2 | .474 | 15.5 | .257 | 3.64 | 97 | 48歳 | |
| 2000年 | 平成12年 | 5位 | 135 | 62 | 67 | 6 | .481 | 9.0 | .259 | 4.73 | 109 | 49歳 | ||
| 2001年 | 平成13年 | 5位 | 140 | 64 | 74 | 2 | .464 | 14.0 | .258 | 3.93 | 133 | 50歳 | ||
| 2002年 | 平成14年 | 4位 | 140 | 67 | 72 | 1 | .482 | 23.0 | .247 | 3.72 | 102 | 51歳 | ||
| 2003年 | 平成15年 | 4位 | 140 | 68 | 69 | 3 | .496 | 14.0 | .271 | 4.37 | 145 | 52歳 | ||
| 通算:5年 | 690 | 324 | 352 | 14 | .479 | Bクラス5回 | ||||||||
[編集] 表彰
- ダイヤモンドグラブ賞:2回 (一塁手 1984年 - 1985年)
[編集] 記録
- オールスターゲーム出場:2回 (1982年、1985年)
- 1000試合出場:1986年4月17日(261人目)
[編集] 背番号
- 44 (1976年 - 1988年)
- 86 (1989年 - 2003年)
- 87 (2004年 - 2005年)
[編集] 関連情報
[編集] 過去の出演番組
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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