タフィ・ローズ

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タフィ・ローズ
Tuffy Rhodes
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州シンシナティ
生年月日 1968年8月21日(45歳)
身長
体重
182 cm
100 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1986年 ドラフト3巡目
初出場 MLB / 1990年8月7日
NPB / 1996年3月30日
最終出場 NPB / 2009年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

カール・デリック・ローズ(Karl Derrick "Tuffy" Rhodes, 1968年8月21日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手外野手)。

日本では大阪近鉄バファローズ読売ジャイアンツオリックス・バファローズに所属した。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

母親がプレーしていたソフトボールに影響されて野球を始めたという。

アストロズ時代[編集]

1986年のドラフト3巡目でヒューストン・アストロズに入団。俊足の中堅手として、1A時代の1988年には年間65盗塁を記録している。1990年にメジャーリーグ初昇格を果たす。

カブス時代[編集]

1993年途中にシカゴ・カブスへ移籍。1994年の対ニューヨーク・メッツ戦で出場し、ドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ち、名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。しかし、メジャーに定着することはできなかった。

レッドソックス時代[編集]

1995年途中にカブスからウェーバー公示され、ボストン・レッドソックスへ移籍。移籍後も成績を残せず、シーズン終了後にFAとなった。

メジャー在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズには先頭打者としての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズは長距離打者として出場するために首脳陣と折り合わず、その夢を実現するために日本に来ることを決意した。1996年大阪近鉄バファローズが獲得を発表。

近鉄時代[編集]

シーズン3本のサヨナラ本塁打を放ち、この年のチーム三冠王となる活躍を見せる。1997年8月にパシフィック・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞を記録するなど活躍し、初のベストナインを獲得。1999年、シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばし、40本塁打・101打点を記録して、初の本塁打王打点王のタイトルを獲得。

2001年9月24日の対西武ライオンズ戦(大阪ドーム)で松坂大輔から本塁打を放ち、王貞治以来の当時の日本タイ記録となるシーズン55本塁打を達成してパ・リーグ優勝に貢献、初のMVPにも選出された[1]。日本シリーズでも第2戦で決勝3ラン本塁打を放つなど活躍。2002年には打点王を獲得。2003年は51本塁打を放ち、3度目の本塁打王獲得(当時、外国人選手の受賞回数最多タイ)。また、3年連続ベストナインにも選出された。

2001年-03年、ローズはアレックス・カブレラと3年続けて本塁打王争いを繰り広げた。ローズは2001年・2003年と2度に渡ってカブレラを上回り、本塁打王を獲得した[2]。2003年終盤には対西武ライオンズ戦で、近鉄のバッテリーがカブレラと勝負しなかった[3]ため、ベンチに帰ってからバッテリーに対して「俺に気を使っているなら(敬遠を)止めてくれ。そんなことまでして(本塁打王を)獲りたくない」と話した。その結果、直後の打席でカブレラは本塁打を放った。ローズはカブレラと仲が良く、試合後に食事に行っても「今回(2002年)はカブレラが本塁打王。俺は来年頑張れば良い。フェアに勝負していきたい」と語った。

2003年序盤、ローズと中村は厳しい内角攻めを受けていた。5月21日の対西武ライオンズ戦(大阪ドーム)では、中村が青木勇人から左肘に死球を受けた。青木は帽子を取って謝罪しなかったため、中村と青木が揉み合いになった。この騒ぎに一塁走者だったローズも激昂し、一塁からマウンドに駆け寄ると青木を激しいタックルで突き飛ばし、その場に押し倒した。青木は突き飛ばされた瞬間に頸部と右足首を捻挫してそのまま降板、大阪市内の病院に直行した。青木は中村に視線を送っていたため、一塁からローズが突っ込んでくることに全く気付かず、身構えてもいなかった。 このように、青木を「不意討ち」したローズは暴力行為で退場となったが、「ノリ(中村)を守るためにやった。どうして青木(勇人)は帽子を取らなかったんだ? 日本の野球では球をぶつけたら、投手が帽子を取って打者に謝るのが普通じゃないか」と主張した。しかし翌日、パ・リーグはローズに対して2試合の出場停止処分、近鉄球団にも厳重注意・30万円の罰金を課した。 ローズの行動に対して西武は猛反発し、刑事告訴を検討するまでに発展した。球団代表の小野は「病院で(青木の)診断書が出たら暴力行為として刑事告訴する。帽子を取る・取らないは別として、第三者が入ってくる理由は何もない」と語気を強め、監督(当時)の伊原春樹も「(告訴は)そりゃそうですよ。ふざけんな、なめてんのかよ、と。そこ(内角)を突かないと(投手は)生きていけない。それを関係ない人間がね。闇討ちだから。(ローズに)よう言っといて!日本では外道がすることだって!」と怒りを表した。

2003年シーズン終了後、中村の5年契約を引き合いに出して、2年・3年の複数年契約を望んでいたが、近鉄フロントは「複数年契約を認めない」と主張した。ローズは当時「外国人差別的なフロントの言い分に失望した」「どんなに活躍しても『ガイジン』としてしか扱ってくれない」と発言し、近鉄フロント・日本プロ野球界を非難した[4]。この交渉決裂により、読売ジャイアンツへ移籍した。背番号は20

巨人時代[編集]

2004年落合博満に次ぐ史上2人目で、外国人では史上初の両リーグでの本塁打王獲得(リーグを跨いでの2年連続本塁打王も史上初)。同年途中にFA権利を取得し、翌年から日本人扱い(郭泰源に続き2人目)となる。近鉄時代の左翼手・右翼手とは異なり、中堅手としての守備起用が主となる。2005年正月の報知新聞インタビュー上では「登録を狼主(ろうず)にしたい」「引退後は和室を作り、バットを飾りたい」と答えており、野球人生を巨人で終える考えを持っていた。

2005年4月26日の対東京ヤクルトスワローズ戦(福岡ドーム)で、9回表にアレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったことを弘田澄男コーチに「緩慢プレー」と指摘されると、激高して弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。試合も敗れて5連敗を喫し、試合後も怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、必死に宥める通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田(澄男)さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。この言動は物議を醸し、罰金を徴収された[5]5月29日の対オリックス・バファローズ戦で、主審に暴言を吐いたとして通算9回目(近鉄:6回、巨人:3回)の退場処分を受け、金田正一を抜いて最多記録となった。8月9日には右肩の故障として降格。帰国して手術を行ったため、シーズン中の復帰は絶望となった。11月7日、巨人から戦力外通告を受ける。

レッズ時代[編集]

2006年、帰国してシンシナティ・レッズとマイナー契約を結ぶ。しかし、オープン戦では12試合で27打数6安打と奮わず、レッズから降格を通達された。3月21日に一時は現役引退を表明するが、同年オフにオリックス・バファローズの球団関係者に電話で「日本で野球をやりたい。手術した右肩の状態も大丈夫だ」と日本球界への復帰を伝え、古巣合併先であるオリックス・バファローズへ入団。

オリックス時代[編集]

2007年の春季キャンプで入団テストを実施することが決定し、受験の為来日。当初は、体型が増量していて明らかに身体が丸まっており関係者一同不安にさせたが、本人は「少し時間をくれ」と発言。テスト期間中に見事絞り上げ2月26日に合格。3月1日に入団が決定し、背番号は8に決まった[6][7]。入団決定時の記者会見の第一声は、日本語での「タダイマ」だった。オリックスでのローズの応援歌は、曲自体は近鉄時代と同じだったものの、歌詞は「再出発」という意味で変更された。

4月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦で、小野晋吾から4号本塁打を放って日本球界では歴代28人目、外国人選手では初となる通算1000打点の記録を達成[8]4月25日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、山崎武司に与えた死球を巡って乱闘となり、山崎に対して暴力行為を働いたために通算10回目の退場処分を受け、退場最多記録を更新[9]5月10日の対ロッテ戦で1354試合目の出場となり、ロベルト・バルボンが持っていた外国人選手の最多出場記録を更新した。

5月27日の対巨人戦で上原浩治から決勝本塁打を放ち、「全球団から本塁打」を達成。6月30日の対北海道日本ハムファイターズ戦では通算1500本安打を達成[10]9月2日の対ロッテ戦では通算400本塁打を達成[11]9月18日の対西武戦では42号本塁打を放ち、山崎武司に1本差を付けたものの左股関節を悪化させ、2004年以来の本塁打王獲得間近だった終盤で無念の帰国となった(本塁打王は43本塁打の山崎が獲得)。長打率.603は両リーグ通じてトップ、出塁率.403、四球数88個、三振数147個はパ・リーグ1位であるなど、ローズにとっても前年に続いて記録ずくめのシーズンだった。

2008年4月12日の対楽天戦で、レロン・リー(通算1579本安打)が持つ外国人選手通算最多安打を抜き、通算安打数が1582本になり、外国人通算安打の新記録を達成。5月26日の対横浜ベイスターズ戦では通算1500試合出場記録、10月1日の対福岡ソフトバンクホークス戦では杉内俊哉から40代での40号本塁打を達成し、自身3度目の打点王を獲得。[12]

2009年4月26日の対日本ハム戦で、榊原諒から史上12人目となる通算450本塁打を達成[13]。しかし、5月13日の対西武戦で星野智樹から死球を受け、右手第五中手骨折と診断されて離脱した。8月4日の対楽天戦で復帰し、岩隈久志から先制適時打を含む3安打猛打賞を記録。8月7日の対ロッテ戦で通算300二塁打を達成。しかし、前述の骨折による離脱の影響もあり、日本でプレーした年で最低の成績(84試合出場、91安打・22本塁打、最少となる62打点)で、規定打席数に到達しなかったのも2005年以来、2度目だった(ただし、打率自体は.308と2001年の.327に次ぐ成績)。

シーズン終了後の契約交渉が難航したため、12月2日に球団から発表された次年度契約保留選手名簿から名前が外され、自由契約選手として公示された。しかし、球団側は貴重な戦力として評価しており、今後も残留へ向けて交渉を続けるとしていたがローズ側から連絡が一切なかったため、2010年1月23日に交渉を打ち切り、そのまま退団した。契約交渉が難航した理由として、結果を残しても41歳と高齢で、3億5000万(推定)の高年俸がネックとなり、再契約のために球団が2億5000万を提示したことで、公傷(5月13日に星野智樹から受けた死球)を認めてほしいというローズとの折り合いが付かなかったためである。ローズ本人のコメントによると、「年俸はどんなに安くてもいいから、(近鉄の監督だった)梨田さんの下でプレーしたい」と北海道日本ハムファイターズの入団を希望していたが、ゼネラルマネージャーの山田正雄に断られた[要出典]。その後、どこの球団に所属することはなくこの年限りで現役を引退。

引退後[編集]

引退後はアメリカに帰国し、テキサス州ヒューストン郊外で父親と二人暮らしをしている。なお、中村紀洋とは現在でも電話で連絡し合っているという[14]

プレースタイル[編集]

通算450本塁打(外国人選手ではローズのみ)・1500安打を放つなど、日本プロ野球界で「史上最強助っ人」との呼び声が高い。オリックス在籍当時は、バファローズファンや関西マスコミからは「ミスターバファローズ」と称されるなど、外国人でありながら名実共にオリックス・バファローズの顔となっていた。

打撃[編集]

現役時代は当時の年間本塁打記録55本を記録し、40本塁打以上を7度記録するズバ抜けた長打力が持ち味。一方で長打を警戒するために四球が多く、出塁率も通算.381と優秀で、100打点も6度記録している反面、故障で出場が少なかった2009年以外は全て100三振を記録している。打率は年度によってムラがあることも特徴である。

バットを上段に構えてひょこひょこ振ってタイミングを取る独特の打法(一部では「水平打法」と記載)だが、1998年までは「バットを寝かせて構える」、1999年以降は「バットを立てて構える」、といった微妙な変更が行われている[15]。また、上段から振り上げる打法のせいか、内角低めの膝元に来る球に非常に強かった。

守備・走塁[編集]

巨人時代までは強肩と俊足も兼ね備え、長距離打者でありながら二桁盗塁を3度記録しており、二塁打も多かった。近鉄時代は主に左翼手、巨人時代は中堅手での起用が多かったが、故障や年齢による衰えからキャリア晩年は指名打者での出場が主になり、盗塁もほとんど行わなかった。

エピソード[編集]

名前[編集]

  • 愛称の「タフィ」はタフ(tough)からきている。幼少時代、顔面に死球を受けて鼻血を出したにも関わらず翌日の試合に出場している姿を「母親が『タフだ』と言った」「監督が『タフな奴だ』と言ったから」の2説が流れているが、母親の話は巨人入団後のプロフィールに記載されたもので、近鉄在籍時は監督の話だったことから母親の話が誤りである可能性が高い。
  • 2000年頃まで、新聞記者に「横浜ローズと何か関係があるのか?」と尋ねられることが何度もあったが、その度にローズはユニフォームの背中部分を見せて「よく見てくれよ。俺のはROSE(バラ=ロバートの表記)じゃなくてRHODES(ロードス島)だろ?」と呆れながら答えていた。なお、語源的にはrose(薔薇)とRhodes(ロードス島)は関係がある。

人物[編集]

  • インタビューなどでの明るいトークと親しみやすい性格などで人気がある。ヒーローインタビューは、近鉄時代の途中からインタビュアーの言葉を理解したために通訳が不要で、「ローズが英語で話して通訳が和訳する」スタイルで行われていた。インタビューの内容によっては通訳を介さず、日本語で直接答えた。
    • 近鉄時代、佐々木恭介の台詞「ヨッシャー!!」を絶叫していた。
    • 巨人移籍時、発言によるトラブルの発生を避けるため、「記者と会話する際は基本的に通訳を介して話すように」という契約が交わされていた。このため、インタビュアーの質問を通訳を介さずに直接聞き取り、自らの英語の答えを通訳に日本語に訳してもらうという一風変わった場面も見られた(後に入団した李承燁も同様の場面が見られる)。「ヨッシャー!!」も関東の球団に移籍したのに合わせて「ヤッタゼー!!」に変更するプランもあったが実現せず、阿部慎之助がインタビューで発する「最高でーす!」を多用するようになった(オリックス入団後も用いていた)。
    • 普段は陽気だが、試合中における乱闘や審判に対する暴言などで退場を宣告されることが多く、日本プロ野球在籍中に課された退場処分は史上最多の14回を記録している。

シーズン本塁打記録を巡って[編集]

  • ローズが55号本塁打を記録したのは135試合目、2001年9月24日大阪ドームでの西武ライオンズ戦松坂大輔投手からで、残り5試合。138試合目の9月30日、福岡ドームでの福岡ダイエーホークス戦でローズは1番打者に起用されシーズン最多本塁打記録(当時)の更新に挑んだが、完投勝利を収めた田之上慶三郎がローズに投じた18球のうちストライクはわずか2球(球審:前田亨)、この試合2打数0安打2四球で達成出来なかった。この日ホークスのバッテリーコーチだった若菜嘉晴は試合前の監督不在の作戦会議でも、報道陣に対しても、「王・長嶋は野球の象徴。いずれ彼(ローズ)はアメリカに帰るんだから、オレたちが配慮して、監督(王貞治)の記録を守らないといけない。うちが打たれるわけにはいかない」と発言し、投手陣全員にローズに対して敬遠を指示していたことが判明。この件は日本以上にアメリカで反響を呼び、「の記録を守ろうとする日本プロ野球の閉鎖的な姿勢」「人種差別と戦ったハンク・アーロンの記録を抜いた王自身が、人種差別をして自らの記録を貶めた」などと地元誌やニュースで非難された。王は試合前の練習時に直接、ローズに対して本塁打新記録達成を望む声を掛けていた。それにも関わらず、試合では敬遠を止めなかったため、若菜だけではなく現場の最高責任者である王にも責任があるという声もあった。
    • 「ローズが1打席でも多く立てるように」「相手の敬遠を避けるため(1回の先頭打者から敬遠することは有り得ない)」として、ローズを1番打者として出場したが、1打席目から明らかなボール球ばかりで、業を煮やしたローズはボール球に手を出して凡退、2打席目:同様、3打席:四球、4打席目:敬遠で、この日のローズの打席には2球しかストライクボールが来なかった。
    • ローズは試合前に王から記録達成を望む声をかけられたにも関わらず敬遠を受けたため、試合後に「日本プロ野球に失望した」というコメントを残した(試合も4-12で敗戦)。事態はこれだけに留まらず、10月1日に川島廣守がフェアプレーを訴える異例のコミッショナー宣言を出し、個人記録への妨害を意図する行為の排除を強く求めた。10月2日、パシフィック・リーグの小池唯夫はダイエーに対し、「ローズとの勝負を記録阻止のために意図的に避けたともとれる言動をした」として厳重注意を行った。
    • 張本勲はこの敬遠に対して「投手だって打たれたくないのだからしょうがない。(中略)そんなに打ちたいなら2球ストライクが入っているのだからこれを打てばいい(サンデーモーニングより)と発言している。また、徳光和夫が生放送中に「血液型もよくわからないような奴に王さんの記録を抜いてほしくない(THE・サンデーより)と発言し、翌週の放送で釈明した。
  • 139試合目(10月2日、大阪ドーム、1番打者)、140試合目(10月5日、神戸、3番打者)は仰木彬率いるオリックス戦で2戦とも真っ向勝負であったが、本塁打なし。
  • 日本シリーズ第2戦(10月21日、大阪ドーム)では五十嵐亮太から右翼へ本塁打、第4戦(10月24日、神宮)では前田浩継から中越え本塁打で、この年は計57本の本塁打を記録した。
  • 京セラドーム大阪の外野席には、日本タイ記録となる55号本塁打が着弾した(とされる)座席を「ローズシート」とし、一番近い入口に記念プレートを設置。ホームランボールが当たった座席は特別にローズ色(バラ色)に塗られている。

人間関係[編集]

  • ケン・グリフィー・ジュニア(元シアトル・マリナーズ)とは幼馴染で、いつも一緒にプレーしていた。グリフィー家とローズ家は母親同士が古くからの友人で、家族ぐるみでの付き合いもあったという[16]
  • 梨田昌孝には「養子にしたいくらい」と可愛がられていた。近鉄時代にヘッドコーチだった伊勢孝夫を「日本のお父さん」と慕い、ヘッドコーチからフロントへ転進した後もスランプに陥った際は指示を仰いでいた。
  • 清原和博と仲が良く「ジャイアンツ移籍時に、キヨさん(清原)がセ・リーグ投手の特徴を良くアドバイスしてくれた」「(オリックス入団時)キヨさんと野球が出来るのが楽しみ」というコメントを残している。清原が引退した2008年には、足の故障でクライマックスシリーズに出場しないことを明らかにした清原に対して「ベンチに座っているだけで良いから一緒に出てください」と涙ながらに頼んでいた。そして、清原の引退試合で40号本塁打を放ったあと、ベンチ前で清原と抱擁を交わして「キヨさんの最後の試合に一緒に出て、本塁打を打てたことが嬉しい」とコメントしている。
  • 中村紀洋とはお互い親友というほど仲がよく、前述の通り今でも電話で連絡を取っている。
  • 1997年から2000年まで同僚のフィル・クラークとは同じ年ということもあり仲がよく、ベンチなどで談笑していることが多々あった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1990 HOU 38 101 86 12 21 6 1 1 32 3 4 1 1 1 13 3 0 12 1 .244 .340 .372 .712
1991 44 152 136 7 29 3 1 1 37 12 2 2 0 1 14 3 1 26 3 .213 .289 .272 .562
1992 5 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1993 5 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
CHC 15 63 52 12 15 2 1 3 28 7 2 0 0 0 11 0 0 9 0 .288 .413 .538 .951
'93計 20 65 54 12 15 2 1 3 28 7 2 0 0 0 11 0 0 9 0 .278 .400 .519 .919
1994 95 308 269 39 63 17 0 8 104 19 6 4 3 2 33 1 1 64 1 .234 .318 .387 .705
1995 13 17 16 2 2 0 0 0 2 2 0 0 0 1 0 0 0 4 1 .125 .118 .125 .243
BOS 10 28 25 2 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 3 0 0 4 1 .080 .179 .120 .299
'95計 23 45 41 4 4 1 0 0 5 3 0 0 0 1 3 0 0 8 2 .098 .156 .122 .278
1996 近鉄 130 564 501 80 147 29 1 27 259 97 11 8 0 5 57 2 1 122 10 .293 .363 .517 .880
1997 135 607 511 88 157 37 0 22 260 102 22 8 0 5 87 6 4 109 7 .307 .409 .509 .917
1998 134 579 494 81 127 25 0 22 218 70 15 3 0 4 81 7 0 120 14 .257 .359 .441 .801
1999 131 565 491 94 148 38 1 40 308 101 5 2 0 3 69 7 2 115 7 .301 .388 .627 1.015
2000 135 589 525 85 143 25 2 25 247 89 6 6 0 4 58 5 2 134 10 .272 .345 .470 .815
2001 140 643 550 137 180 19 0 55 364 131 9 2 0 2 83 2 8 140 14 .327 .421 .662 1.083
2002 138 613 534 94 145 31 2 46 318 117 5 2 0 3 71 8 5 140 10 .272 .361 .596 .956
2003 138 614 508 94 140 16 0 51 309 117 7 1 0 6 98 11 2 137 10 .276 .391 .608 .999
2004 巨人 134 601 523 95 150 17 0 45 302 99 3 1 0 1 72 2 5 147 16 .287 .378 .577 .955
2005 101 445 379 54 91 9 0 27 181 70 2 0 0 7 55 1 4 125 12 .240 .337 .478 .815
2007 オリックス 132 554 464 75 135 19 0 42 280 96 0 0 0 2 88 10 0 147 7 .291 .403 .603 1.006
2008 142 600 499 82 138 31 1 40 291 118 2 0 0 2 95 9 3 145 8 .277 .394 .583 .977
2009 84 346 295 41 91 15 0 22 172 62 0 1 0 3 44 7 4 74 5 .308 .402 .583 .985
MLB:6年 225 675 590 74 132 29 3 13 206 44 14 7 4 5 74 7 2 121 7 .224 .310 .349 .659
NPB:13年 1674 7320 6274 1100 1792 311 7 464 3509 1269 87 34 0 47 958 77 40 1655 130 .286 .381 .559 .940
  • 各年度の太字はリーグ最高。

年度別守備成績[編集]


外野







1996 129 232 8 5 1 .980
1997 135 264 14 6 5 .979
1998 133 261 9 6 1 .978
1999 131 243 8 5 1 .980
2000 135 244 7 4 2 .984
2001 140 254 3 3 1 .988
2002 135 213 3 6 0 .973
2003 136 247 11 5 4 .981
2004 134 226 5 3 0 .987
2005 101 183 6 3 1 .984
2007 18 25 1 1 0 .963
2008 27 45 1 1 0 .979
2009 17 24 0 0 0 1.000
通算 1371 2461 76 48 16 .981

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1999年7月20日、対千葉ロッテマリーンズ16回戦(大阪ドーム)、5回裏に川井貴志から右越2ラン ※史上206人目
  • 150本塁打:2001年5月13日、千葉ロッテマリーンズ9回戦(大阪ドーム)、7回裏に小野晋吾から右越2ラン ※史上117人目
  • 200本塁打:2002年4月22日、対日本ハムファイターズ4回戦(東京ドーム)、1回表にカルロス・ミラバルから中越先制ソロ ※史上76人目
  • 1000本安打:2002年8月13日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回表にエド・ヤーナルから左前安打 ※史上210人目
  • 250本塁打:2003年5月12日、対福岡ダイエーホークス7回戦(福岡ドーム)、5回表に山田秋親から右越ソロ ※史上44人目(外国人選手5人目)
  • 1000試合出場:2003年6月10日、対オリックス・ブルーウェーブ13回戦(大阪ドーム)、3番・左翼手として先発出場 ※史上387人目
  • 1000三振:2003年9月13日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(大阪ドーム)、1回裏に小林宏之から ※史上35人目
  • 300本塁打:2004年5月2日、対広島東洋カープ5回戦(東京ドーム)、8回裏にジョン・ベイルから右越ソロ ※史上28人目(外国人選手初)
  • 350本塁打:2005年6月14日、対東北楽天ゴールデンイーグルス4回戦(東京ドーム)、4回裏に朝井秀樹から右中間へ2ラン ※史上18人目(外国人選手初)
  • 1000打点:2007年4月4日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(京セラドーム大阪)、9回裏に小野晋吾から右越2ランを放って達成 ※史上28人目(外国人選手初)
  • 1500本安打:2007年6月30日、対北海道日本ハムファイターズ4回戦(京セラドーム大阪)、7回裏に江尻慎太郎から右前安打 ※史上91人目
  • 3000塁打:2007年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ16回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏に久保康友から左越ソロを放って達成 ※史上41人目(外国人選手初)
  • 400本塁打:2007年9月2日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(千葉マリンスタジアム)、9回表に薮田安彦から中越ソロ ※史上14人目(外国人選手初)
  • 1000得点:2008年5月21日、対阪神タイガース2回戦(スカイマークスタジアム)、4回裏に後藤光尊の右中間適時二塁打で生還して達成 ※史上34人目(外国人選手初)
  • 1500試合出場:2008年5月26日、対横浜ベイスターズ2回戦(横浜スタジアム)、4番・左翼手として先発出場 ※史上158人目(外国人選手初)
  • 1500三振:2008年6月8日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、7回表に渡辺亮から ※史上6人目
  • 450本塁打:2009年4月26日、対北海道日本ハムファイターズ5回戦(スカイマークスタジアム)、4回裏に榊原諒から右中間へソロ ※史上12人目(外国人選手初)
  • 300二塁打:2009年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ13回戦(京セラドーム大阪)、1回裏に渡辺俊介から左中間二塁打 ※史上53人目(外国人選手初)
  • 3500塁打:2009年9月25日、対千葉ロッテマリーンズ22回戦(千葉マリンスタジアム)、2回表に成瀬善久から右越安打 ※史上23人目(外国人選手初)
最多記録・最多タイ記録
  • シーズン55本塁打(2001年、パ・リーグ最多タイ記録、プロ野球史上2位タイ)
  • シーズン137得点(2001年、パ・リーグ最多記録、プロ野球史上2位)
  • シーズン364塁打(2001年、パ・リーグ最多記録、プロ野球史上3位)
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:10回 (1997年 - 2004年、2007年、2008年)
  • 2試合連続満塁本塁打(2003年6月23日 - 6月25日、プロ野球タイ記録)
  • 10年連続シーズン100三振以上(1996年 - 2005年、プロ野球史上初)
  • 在籍12シーズン連続100三振以上(1996年 - 2005年、2007年 - 2008年)
  • 全球団から本塁打:2007年5月27日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、11回表に上原浩治から右越決勝2ラン ※史上8人目

背番号[編集]

  • 4 (1990年 - 1993年)
  • 25 (1993年 - 1995年)
  • 29 (1995年)
  • 20 (1996年 - 2005年)
  • 8 (2007年 - 2009年)

関連情報[編集]

ローズを取り上げた作品[編集]

2001年、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。

脚注[編集]

  1. ^ 年度別成績 2001年 パシフィック・リーグ
  2. ^ これによってカブレラは、「50本塁打を記録しながら本塁打王になれなかったプロ野球史上初の選手」となった。年別では、2001年:ローズ55本・カブレラ49本、2002年:ローズ46本・カブレラ55本、2003年:ローズ51本、カブレラ50本。
  3. ^ 観客席からはブーイングが起き、ローズは外野で頭にグラブを乗せて下を向いていた。
  4. ^ 「外国人選手に対しての複数年契約は認めない」という話は、2002年にも言われたという。
  5. ^ 結果としてこの発言が、シーズン後の戦力外通告の遠因になったと言われている。後にローズは、巨人でチームメイトから常に疎外されていたことなどを暴露した。
  6. ^ 8を付けた理由として「近鉄で8年間プレーし、親友の中村紀洋が付けていた番号だから」(当時、中村は中日ドラゴンズへ育成選手として入団)
  7. ^ 入団テスト期間中「もし(テストに)合格したなら、背番号は近鉄に入団した(1996)年にちなんで96が良い」と言っていた。
  8. ^ 1325試合目での達成は落合博満、藤村富美男に次ぐ史上3位のスピード記録である。
  9. ^ 選手として在籍した3球団で退場処分を受けたのは、日本プロ野球でローズと山崎の2名のみである。
  10. ^ 外国人選手ではレロン・リーに次ぎ史上2人目。
  11. ^ 日本プロ野球において外国人選手の400号は史上初である。1435試合での400号達成は、王貞治の1422試合に次いで史上2番目のスピード記録。また、39歳4ヶ月での400号到達は門田博光に次ぐ2番目の年長記録である。
  12. ^ 40代での40号本塁打達成は1988年の門田博光に次いで史上2人目。その年に門田は本塁打王・打点王を獲得したが、これに続く史上2人目の40代でのシーズンタイトルを獲得する快挙を達成。更に4年ぶり、そして所属3球団で全てとなるベストナインにも選出された。
  13. ^ 日本プロ野球において外国人選手の450号は史上初(1609試合で450号達成は、王貞治の1559試合についで史上2番目のスピード記録)。これによって通算224人の投手から本塁打を記録し、清原和博が持つプロ野球記録を更新した。
  14. ^ 09年引退ローズ氏 父と豪邸暮らし「いつか野球コーチも」、Sponichi Annex、2013年9月16日掲載。
  15. ^ 二冠王となった1999年に、打法を変えたことで成績が良くなったと本人が話している。
  16. ^ 日本テレビ, 本気顔 タフィ・ローズ プロ野球(読売ジャイアンツ), 2004年3月5日(金)放送

関連項目[編集]

外部リンク[編集]