オレステス・デストラーデ

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オレステス・デストラーデ
Orestes Destrade
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 キューバの旗 キューバ
サンティアーゴ・デ・クーバ州サンティアーゴ・デ・クーバ
生年月日 1962年5月8日(52歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
220 lb =約99.8 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手
プロ入り 1981年
初出場 MLB / 1987年9月11日
NPB / 1989年6月20日
最終出場 MLB / 1994年5月24日
NPB / 1995年6月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

オレステス・デストラーデ・ククアスOrestes Destrade Cucuas , 1962年5月8日 - )は、キューバ出身の元プロ野球選手内野手)、野球解説者。

日本での愛称はオーレカリブの怪人[1]。アメリカではオーと呼ばれた[2]

来歴[編集]

NYY、PIT時代[編集]

フィデル・カストロ統治時代のキューバで産まれ、5歳の時に家族とともにメキシコを経由してアメリカ合衆国亡命した[3]。当初は叔父の住むニューヨークに住み、英語の話せない父はタクシー運転手、大学の教員だった母はスペイン語教師をしていたが、生活は苦しかった[3]。このため、9歳の時に一家はキューバ人亡命者のコミュニティがあるフロリダ州マイアミ移住している[3][4]

マイアミで野球を始めてフレッド・マグリフらと仲良くなったが、高校時代は目立った実績を挙げていない[5]タンパにあるフロリダ短期大学英語版に進むと、野球とバスケットボールに夢中になった[4]。この間、実家から離れた事で精神的に成長したという[4]。同校では58試合で23本塁打を放ち、フロリダ州の短期大学ののシーズン記録を更新した[4]。この活躍で注目され、1981年ニューヨーク・ヤンキースと契約した[5]。しかしマイナーリーグで右足の靭帯断裂骨折という重傷を負い、一時は選手生命が終わったと感じるなど、1987年9月11日のメジャーデビューまでに約8年間を要した[5]

1988年5月30日、ヒッポリト・ペーニャ英語版とのトレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍[6]。同年はAAAのバッファロー・バイソンズで4番を務め、5月には2度の1試合4安打、6月には4試合連続本塁打を記録している[2]。9月11日の対フィリーズ戦ではスティーブ・ベドローシアンからMLB初の本塁打を放っている[7]

1989年NPB阪神タイガース監督の村山実が獲得を希望してデストラーデと食事までしていたが、フロントの拒否によって破談となった[1]。その後バイソンズでプレーしていたところ、チームの主砲を務めていたタイ・バンバークレオの不振を受けてアメリカで選手を探していた西武ライオンズスカウト部長の根本陸夫がオファーを出し、外国人選手としては格安の年俸3,250万円(推定)で入団契約を結んでいる[1]

西武時代[編集]

6月7日に来日すると環境に慣れるために二軍スタートとなったが、バークレオの極度のスランプのため予定を早めて一軍に昇格し[8]、NPBデビュー戦となった6月20日の対オリックス戦でいきなり本塁打を放っている。その後10試合ほどはNPBへの適応に苦しんだが、7月には3試合連続本塁打を記録するなど、清原和博の故障を補う活躍を見せた[9]。8月13日の対オリックス戦では佐藤義則からサヨナラ満塁本塁打を放ち[10]、9月には打率.232ながら8本塁打、19打点で初の月間MVPを受賞している[11]。同年は83試合で32本という驚異的なペースで本塁打を量産した[12]。打率こそ低かったものの打点も81とチャンスに強いところを見せ、シーズンを通じて出場すれば打撃タイトルも取れただろう、と球団首脳から高い評価を受けた[1]

1990年ハワイでのキャンプに初日から参加して日本人と全く同じ練習メニューをこなし[1]、シーズン序盤から好調な打撃を見せた。チームが8連敗して迎えた6月16日の対ダイエー戦では同点の延長11回に山内孝徳からサヨナラ3ラン本塁打を放つなど、ピンチを切り抜ける活躍をたびたび見せた[1]。8月16日の対オリックス戦では左右両打席を含む3打席連続本塁打を放つ[13]など、石嶺和彦や清原らを猛追して最多本塁打のタイトルを獲得し、打点王との二冠に輝いている。

巨人と対戦した同年の日本シリーズでは、初戦の第1打席で槙原寛己から特大の3ラン本塁打を放ち、シリーズの流れを引き寄せた[14]。この打席は0ストライク3ボールになったら真ん中のストレートだけを狙うようにコーチの広野功から指示を出されており、その通りに打ったという[15]。第2戦でも東京ドームの上段まで飛び込む本塁打を斎藤雅樹から放つなど、2安打2打点を記録している[16]。このシリーズでは16打数6安打8打点の活躍で、MVPに選出された[17]。同年オフにはMLBの複数の球団からオファーを受けたが西武との交渉を最優先させ[18]、倍増の年俸1億3,000万円(推定)で契約を更改している[19]

1991年は4月に3試合連続本塁打を放つなどチームの開幕からの連勝に貢献し[20]、シーズンでは2年連続で最多本塁打と打点王の二冠を獲得し、ベストナインにも選出されている。同年の日本シリーズでは、2年連続となる初戦第1打席本塁打を佐々岡真司から放ち[21]、第2戦では川口和久から2ラン本塁打を打ってこの試合唯一の打点を挙げている[22]

1992年は初のオールスターゲームに出場し、第2戦では4番打者[23]、第3戦では5番打者[24]としてスタメンで起用されたが、ともに4打数無安打に終わっている。同年の夏場は不振が続き、7月から8月にかけて22試合本塁打が出なかった[25]。最終的には3年連続となる最多本塁打のタイトルを獲得している。同年の日本シリーズでは、第1戦で3年連続となる第1打席本塁打を含む2本塁打を岡林洋一から放っている[26]。第3戦では2安打を放ち[27]、全7戦でシリーズタイ記録となる8得点を記録している[28]

MLB新球団のフロリダ・マーリンズのスカウトとして来日していたカルロス・ポンセから高い評価を受け、シーズン終了後に移籍を決めた[29]。2年契約で350万ドル(当時のレートで約4億4,000万円、推定)+130試合の出場をクリアするとボーナス50万ドル、という契約条件だったとマイアミ・ヘラルド英語版で報じられている[16]。なお金銭面も含めて西武には全く不満がなく、地元フロリダの球団でなければMLBには復帰しなかった、と語っている[29]

FLA時代[編集]

地元マイアミ出身としてファンから歓迎され、同じくNPBから復帰して活躍したセシル・フィルダーのような働きを期待され[30]1993年の開幕戦では4番・一塁手を務めている。オールスターゲームまでの成績は打率.250、7本塁打、43打点だった[31]が、6月にゲイリー・シェフィールドが移籍してきてマークが分散したこともあり[32]、夏場に復調してシーズン通算ではチームトップの20本塁打、87打点となった。一方、同年は一塁手としてナ・リーグ最多の19失策を記録している[14]

1994年はリーグの一塁手最低の打率.208と極度の不振に陥り、5月22日の対カージナルス戦で大乱闘を引き起こした後、5月24日にウェーバー公示にかけられている[33]。マーリンズではキューバ人コミュニティなど地元から大きな期待を受けて、プレッシャーを感じていたという[34]ロッド・ブリューワの不振もあって任意引退選手となっていた西武への復帰も予想されたが、娘の病気などもあって同年中はマイナーでもプレーせず引退を続けた[35]。同年10月の日本シリーズ期間中に西武オーナーの堤義明が再契約の意向を表明し[14]、12月に年俸2億円(推定)で入団契約を結んでいる[36]

西武復帰、現役引退後[編集]

1995年には西武に復帰したが、半年以上のブランクもあって明らかな体重オーバーで往年の姿には程遠かった、と大塚光二に評されている[29]。春季キャンプでは右ヒザを痛め[37]、オープン戦が始まっても打撃の調子は上向かなかった[38]。42試合に出場して5本塁打、20打点と期待ほどの成績を残せず、夫人との離婚や子供の養育について話しあうため、6月9日に退団を表明した[39]。年俸については出場した分だけの支払いで合意し、本拠地での最終出場となった6月11日の西武球場での対ロッテ戦の試合後、ファンに別れのあいさつをしている[40]

帰国後はタンパベイ・デビルレイズでコミュニティ開発ディレクターを務め、タンパでヒスパニック系のコミュニティを訪問したり講演、野球教室などを行った[41]。また、1996年には西武とデビルレイズの提携交渉にも携わっている[41]1997年には東京ドームでホームラン競争に参加し、ブランクにも関わらずホームランを打てたことでDHとして復帰するためのトレーニングを一時は真剣に検討した[42]

プロ野球マスターズリーグでは東京ドリームスでプレーし、2002-2003年には本塁打王となっている[43]。その後は野球解説者を務め、2009年にはWBC東京ラウンドの解説のため、来日している[44]

プレースタイル[編集]

NPB初のスイッチヒッターでの本塁打王となる[15]など、左右両打席から本塁打を量産し、1980年代から1990年代前半の西武黄金期で最も印象に残った外国人選手とも言われる[3]秋山幸二清原和博と構成したクリーンナップAKD砲と呼ばれ、他球団に恐れられた[3]日本シリーズでは3年連続で初戦の第1打席に本塁打を放つなど、勝負強さと集中力を高く評価され、ミスター・コンセントレーションとも呼ばれた[1]。左投手に強く、特に、1990年当時オリックスに在籍していたガイ・ホフマンに対し、同一投手から一シーズン本塁打8本(サヨナラ本塁打を含む)を記録している。

シーズン二桁盗塁の経験が3度あるなど、走塁技術も低くなかった。もともと一塁手だったが西武では清原和博がいるため、主に指名打者を務めていた[45]。日本シリーズでは一塁守備に緩慢な動きが見られ[46]、MLB復帰後もDH制のないナ・リーグでネックとなった[14]。また、1991年にスライディングの際に尾てい骨を圧迫骨折し、その後は背中の痛みが取れず毎日守備につくことが困難になっていた[34]1992年の日本シリーズでは左翼手としても起用されている[26]1989年6月20日から1992年8月5日にかけては423試合連続出場を果たしており、これはパ・リーグ外国人選手最長記録(2011年現在)である[47]

高校時代は投手もしており、1995年5月9日富山市民球場アルペンスタジアムで行われた対オリックス戦では、0-9とリードされた8回裏2アウトから投手として登板した。高田誠三塁打を打たれた後、トロイ・ニール藤井康雄四球を与え、結局1アウトも奪えずに降板した。監督の東尾修は「点差も離れていたのでファンサービスのつもりで登板させた」と話している[48]。なお、デストラーデ自身は登板には驚いたものの楽しんでいたという[15]

NPBについての考え[編集]

日本で対戦した投手については、「野茂英雄はNPB最高の投手、村田兆治はマウンドからオーラを感じられるほどの生きる伝説」と評している[29]。2人とも変則的な投球フォームに加えてフォークボールを投げるため打ちにくかったという[49]。野茂との対戦成績は79打数12安打、打率.151と非常に悪く、1991年にはヘッドコーチの黒江透修代打を送ることまで考えた[49]。また野手については、「ブーマー・ウェルズはNPBの歴代外国人で最高の選手、秋山幸二はMLBのどの球団でも主力として活躍できる」と語っている[29]

西武では毎試合前に行う長時間のミーティングが苦痛で、聞き流していた[8]。試合時間が長いことや審判の威厳や技術レベルが低い点については他の外国人選手同様に不満を感じていたが、日本のスタイルを尊重しながら自分の持ち味を出すことを心がけたという[8]川崎球場藤井寺球場など古い球場も残っており、ロッカールームは悪臭もしたが、落ち着いてコーヒーを飲める場所を確保して打席が回ってくるまで集中力を高めていた[29]

人物[編集]

物静かな風貌でメガネをかけており、初来日時は牧師のようだと評されていた[12]。4歳年上の兄は弁護士をしており、一時は自身も同じ進路を目指していた[4]通訳とマンツーマンで日本語を習得し、辻発彦らと遠征先でカラオケに行くなど積極的にチームに溶け込んだ[1]。『越冬つばめ』が得意で、練習中も意味不明の歌を口ずさんでチームメートを笑わせていたという[1]

日本では本塁打を放った後に「Boom!」[30]と叫びながら、軽くステップを踏んで弓をひくようなガッツポーズをするのが有名だった[50]。アメリカでは侮辱とも取られるためほとんどしなかったが、日本ではむしろ周囲に期待され、特に子供から喜ばれたため進んで行っていた[30]

大学でもプレーしていたバスケットボールが趣味で、フロリダ・マーリンズ時代は自宅のバスケットゴールで毎朝シュート練習をしていた[51]シカゴ・ブルズニューヨーク・ニックスフェニックス・サンズのファンで、もし身長があと10cm高かったら野球ではなくバスケットボールを選んでいただろう、と語っている[51]。このほか、コンピュータいじりや読書、映画鑑賞を趣味として挙げており[2]、試合前には探偵小説などをベンチで読んでいた[12]。また、同じサンティアーゴ・デ・クーバ出身のホセ・ナポレスを尊敬し、伝記などナポレスにまつわる本はほぼ読破したという[12]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1987 NYY 9 24 19 5 5 0 0 0 5 1 0 0 0 0 5 0 0 5 1 .263 .417 .263 .680
1988 PIT 36 53 47 2 7 1 0 1 11 3 0 0 0 1 5 0 0 17 0 .149 .226 .234 .460
1989 西武 83 359 292 56 75 12 0 32 183 81 4 0 0 6 59 4 2 75 7 .257 .379 .627 1.006
1990 130 552 476 81 125 19 0 42 270 106 10 5 0 3 70 3 3 165 7 .263 .359 .567 .926
1991 130 544 437 90 117 21 0 39 255 92 15 5 0 4 100 5 3 119 5 .268 .404 .584 .988
1992 128 548 448 87 119 19 0 41 261 87 12 8 0 2 95 3 3 125 9 .266 .396 .583 .979
1993 FLA 153 637 569 61 145 20 3 20 231 87 0 2 1 6 58 8 3 130 17 .255 .324 .406 .730
1994 39 152 130 12 27 4 0 5 46 15 1 0 0 1 19 1 2 32 2 .208 .316 .354 .670
1995 西武 46 188 163 17 40 6 1 6 66 23 1 1 0 1 24 1 0 45 6 .245 .340 .405 .745
MLB:4年 237 866 765 80 184 25 3 26 293 106 1 2 1 8 87 9 5 184 20 .241 .319 .383 .702
NPB:5年 517 2191 1816 331 476 77 1 160 1035 389 42 19 0 16 348 16 11 529 34 .262 .381 .570 .951
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1995 西武 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----
NPB:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 0 ---- ----

タイトル[編集]

NPB
  • 本塁打王:3回 (1990年 - 1992年) ※外国人打者では唯一の3年連続タイトル獲得
  • 打点王:2回 (1990年、1991年)

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB

背番号[編集]

  • 53 (1987年)
  • 2 (1988年)
  • 39 (1989年 - 1995年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.42
  2. ^ a b c 「アメリカから緊急“デューダ”途中入団助っ人の『実力診断』 デストラーデ 早くも“効果”。狙いは郭、バークレオへの刺激剤か!?」『週刊ベースボール』、1989年6月19日号、P.109
  3. ^ a b c d e 「特別読み切り あの助っ人は今(I)デストラーデ 西武黄金期を支えたカリブの怪人」『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.25
  4. ^ a b c d e 「'90日本シリーズ 緊急インタビュー&プロフィール 褐色の爆発」『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.40
  5. ^ a b c 『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.26
  6. ^ baseball-reference.com Orestes Destrade
  7. ^ baseball-reference.com Sep 11, 1988, Phillies at Pirates Box Score and Play by Play
  8. ^ a b c 『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.27
  9. ^ 「BALL PARK EYE “将来型”と“現在型” ブラウンとデストラーデの気になる“違い”」『週刊ベースボール』、1989年7月24日号、P.12
  10. ^ 読売新聞、1989年8月14日付朝刊、P.19
  11. ^ パ・リーグ BLUE BOOK 月間MVP賞
  12. ^ a b c d 「助っ人ファイル’90 数字より中身だ!“印象派”3外人の自己主張 O・デストラーデ 価値あるV打は数知れず、タイトル取ればMVP!?」『週刊ベースボール』、1990年9月24日号、P.32
  13. ^ 「垂涎の両舶来砲 デストラーデ&バークレオは秋山の影も郭の穴も消してしまうほど派手に輝く」『週刊ベースボール』、1990年9月3日号、P.127
  14. ^ a b c d 朝日新聞、1994年11月7日付夕刊、P.3
  15. ^ a b c 読売新聞、1996年11月8日付夕刊、P.3
  16. ^ a b 「ベースボール・ルネッサンス1993 緊急インタビュー さよならデストラーデ 僕のガッツ・ポーズを忘れないでほしい。」『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.74
  17. ^ 『Sports Graphic Number』、1990年11月20日号、P.43
  18. ^ 読売新聞、1990年10月28日付朝刊、P.19
  19. ^ 読売新聞、1990年12月21日付朝刊、P.19
  20. ^ 読売新聞、1991年4月15日付朝刊、P.19
  21. ^ 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  22. ^ 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第2戦)
  23. ^ 日本野球機構 1992年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第2戦)
  24. ^ 日本野球機構 1992年度サンヨーオールスターゲーム 試合結果(第3戦)
  25. ^ 毎日新聞、1992年8月22日付朝刊、P.17
  26. ^ a b 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)
  27. ^ 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)
  28. ^ 朝日新聞、1992年10月27日付朝刊、P.17
  29. ^ a b c d e f 『ベースボールマガジン』、2011年9月号、P.28
  30. ^ a b c 『Sports Graphic Number』、1993年1月20日号、P.75
  31. ^ 「故郷フロリダでオーレは『20本塁打&90打点』を約束してくれた!!」『週刊ベースボール』1993年8月2日号、p.123
  32. ^ 「来年こそ”日本野球”の代表として30発&100打点を達成したい!!」『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.133
  33. ^ 「先のことは決めていないが、今年いっぱいは引退したままでいるつもりだ オレステス・デストラーデ」『週刊ベースボール』、1994年6月20日号、P.24
  34. ^ a b 『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.114
  35. ^ 『週刊ベースボール』、1994年6月20日号、P.26
  36. ^ 読売新聞、1994年12月15日付夕刊、P.3
  37. ^ 読売新聞、1995年3月1日付朝刊、P.21
  38. ^ 読売新聞、1995年3月9日付朝刊、P.23
  39. ^ 読売新聞、1995年6月10日付朝刊、P.21
  40. ^ 朝日新聞、1995年6月12日付夕刊、P.11
  41. ^ a b 「大リーグ新球団、タンパベイ・デビルレイズの職員として活躍中の"オーレ"の近況報告とアメリカ野球事情」『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.112
  42. ^ 『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.113
  43. ^ 読売新聞、2003年1月27日付朝刊、P.21
  44. ^ 埼玉西武ライオンズ ニュース 『オレステス・デストラーデ氏が表敬訪問!』
  45. ^ 『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.132
  46. ^ 読売新聞、1991年10月24日付朝刊、P.18
  47. ^ パ・リーグ BLUE BOOK 個人打撃連続記録(1)
  48. ^ 読売新聞、1995年8月9日付朝刊、P.15
  49. ^ a b 「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.30
  50. ^ 「すぽーつ・ふらすとれいてっど 4回 惜別。 ※日本球界を去るオレステス・デストラーデ選手」『Sports Graphic Number』、1995年7月5日号、P.20
  51. ^ a b 「THE SCENE 或る日のデストラーデ」『Sports Graphic Number』、1993年7月20日号、P.16

関連項目[編集]

外部リンク[編集]