前田智徳

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前田 智徳
Maeda Tomonori 2012.jpg
2012年6月9日、マツダスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県玉名市
生年月日 1971年6月14日(43歳)
身長
体重
176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1989年 ドラフト4位
初出場 1990年6月6日
最終出場 2013年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 広島東洋カープ (2013)

前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )は、熊本県玉名市出身の元プロ野球選手外野手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

熊本県玉名郡岱明町(現・玉名市)生まれ。1987年熊本工業高校に入学。2年時の、3年時のの計3回甲子園に出場。3年時の夏には主将・4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は三振)となった。1989年のドラフト4位で広島に入団。

プロ入り後[編集]

1990年2月のオープン戦ロッテオリオンズ戦に7番打者として先発出場し、5打数5安打(4二塁打)を残した。公式戦初出場となる6月6日のヤクルト戦では6番・中堅で先発出場を果たし、二塁打を放つなど4打数2安打1打点を記録。

1991年の開幕戦では1番・中堅で先発出場し、プロ入り初アーチとなる先頭打者本塁打を放った。一時は打撃不振に陥り先発落ちも経験するが、6月以降は2番に定着した。129試合に出場し、打率.271、14盗塁、30犠打の成績でチームの優勝に貢献。外野手としては史上最年少(19歳で開幕)でゴールデングラブ賞を受賞した。

1992年の開幕戦から6月3日まで2番を打っていたが、それ以降は主に3番を任される。シーズンを通じて全試合に出場し、打点王は逃すもののラリー・シーツに次ぐリーグ2位の89打点、得点圏打率は.358を記録した。またリーグ5位の打率.308も残し、初めて打率を3割台に乗せた。これ以降規定打席に到達した年では1991年・2003年・2007年の3シーズン以外は打率3割以上を達成している。他に盗塁数18でリーグ4位、守備では刺殺数、補殺数ともにリーグトップを記録。外野手のベストナインに選ばれた。

1993年も2年連続となる全試合出場を果たし、リーグ3位タイの27本塁打、リーグ4位の打率.317(日本人選手中ではリーグ1位)、リーグ最多二塁打・最多塁打、OPS.945を記録するなど活躍した。

1994年は開幕戦から4番に座るが、4月30日以降は3番に固定。同年シーズンはアロンゾ・パウエル首位打者争いを繰り広げ、3厘差のリーグ2位の打率.321を記録し、本塁打はリーグ5位タイの20本塁打を残す。4年連続となるゴールデングラブ賞、3年連続となるベストナインを獲得した。

1995年は開幕から2試合連続本塁打を記録するなど絶好調なスタートだったが、この頃から勤続疲労等でアキレス腱の痛みが酷く毎試合テーピングは必須であった。好調だったスタートとは裏腹に打率もみるみる下がり、足の痛みも酷くなりテーピングの数を倍にして挑んだ5月23日、対ヤクルト戦で一塁への走塁時に右アキレス腱を断裂する大怪我を負う。選手生命の危機に陥り、残りのシーズンを棒に振った。同年以降からアキレス腱断裂の怪我がプレーに大きな影響を及ぼすようになり、故障がちにもなった。

1996年の開幕戦に先発出場するが、足の肉離れにより数試合で離脱。5月に復帰してからはほぼ全試合に出場し、2年ぶりに規定打席に到達した。同年から1999年まで、4年連続で打率3割以上・得点圏打率.340以上(.368、.368、.358、.343)を記録。

1997年は怪我の影響もあり休養を挟みながらの出場であったため、最終戦の9回終了時点では規定打席にわずかに足らなかったが、延長戦に突入して打席が回ってきたため、ぎりぎりで到達している。

1998年、足の負担を軽減するためセンターからライトコンバート。開幕戦から6日間、1番打者として出場し、それ以降は3番に定着。同年は打撃の調子や足の状態が良好で、毎試合スタメン出場を続けた。4月に打率.370・5本塁打・16打点を記録して月間MVPを受賞。前半戦を打率.336・14本塁打で折り返し、インタビューでは「怪我をせずにやってこれてるので、それが一番嬉しい」とコメントした。8月には首位打者争いのトップに立ち、5試合連続本塁打を記録。月間成績で打率.368・9本塁打・26打点を残し、一時はリーグの三冠王になる程の活躍で8月の月間MVPを受賞した。

9月の巨人戦では東京ドームの看板に直撃する本塁打を放ち、賞金100万円を獲得。同月13日のヤクルト戦で23度目の猛打賞を記録し、それまで与那嶺要が持っていたセ・リーグのシーズン最多記録を46年ぶりに更新した。しかし15日の試合で、走塁時に左ふくらはぎを痛めて立ち上がれなくなり、欠場。残りの試合を棒に振った。127試合出場に終わり、自身が目標にしていた「全試合出場」にはあと一歩及ばなかった。シーズンを通して鈴木尚典坪井智哉らと首位打者争いを繰り広げ、2厘差の打率.335でリーグ2位に終わるものの、1993年以来となるリーグ最多二塁打・最多塁打を記録。4年ぶりにベストナインに選出された。

また、同年シーズンの首位打者争いは鈴木(横浜)の打率が.337、前田が.335の状態で残り試合は両チームの直接対決のみとなったが、横浜監督の権藤博は試合前に「広島が前田を出場させるのなら、鈴木を休ませ、前田を全打席敬遠させる」と発言した。これを聞いた前田も「ファンにみっともないものを見せたくない。敬遠されるくらいなら試合に出ない」と出場を拒否し[1]結果的に両選手が欠場している。

2000年FAで巨人へ移籍した江藤智の穴を埋めるために4番で起用される。同年は序盤から打撃が好調で、4月の月間MVPを受賞するなどハイペースで本塁打を量産していたが、シーズン途中で左アキレス腱の状態が悪化し、不調に陥る。7月27日に腱鞘滑膜切除手術を受け、残りのシーズンはリハビリに努める。79試合の出場で打率.237に終わった。同年にFA権を取得したが、行使はしなかった。翌2001年3月に結婚。しかし同年シーズンも足の状態が思わしくなく、公式戦出場は27試合に留まり、本塁打はゼロに終わった。

2002年は開幕から先発出場し、4月5日広島市民球場での対中日戦で、山本昌から約2年ぶりの本塁打を放つ。4月6日の試合中では、前田の走塁に不満を持ったルイス・ロペスに暴行を受けた。4月は5番、5月以降は6番打者として先発出場していたが、8月以降は5番に定着。打率3割を記録し、同年のカムバック賞を受賞した。2003年は移籍した金本知憲に代わってレフトを守る。2004年、開幕戦の4月2日から4月23日まで19試合連続安打(開幕からの連続試合安打としては球団記録。歴代では4位)。シーズンでは2年ぶりに打率3割に到達した。

2005年、5番レフトで全試合に先発出場を果たし、打率.319、32本塁打、自己最多の172安打を放つ。全試合出場は1993年以来13年振りで、三振率.073は自己最高だった。翌2006年は新監督のブラウンから野手のキャプテンに指名される。開幕当初は出塁率の高さを買われて2番打者を務めるが、打撃不振に陥り半月で5番に戻った。5月25日に通算100補殺を達成。8月22日の対阪神戦でライト前ヒットを放ち、史上40人目の3000塁打を達成した。134試合に出場して打率.314でシーズンを終え、通算11度目の3割(歴代5位タイ)を記録した。また規定打席に到達したシーズンの中では自己最高となる得点圏打率.373(リーグ2位)を残した。

2007年

2007年9月1日の対中日戦(広島市民球場)で、8回裏に久本祐一からライト前2点タイムリーヒットを放ち、史上36人目(メジャーリーグに所属している松井秀喜イチローを含めると38人目)となる2000本安打を達成。31三振は4年連続のリーグ最少(規定打席到達者中)、三振率.075もリーグ最小だった。一方、怪我が相次いだこともあり、最終戦で規定打席に到達。4年ぶりに打率3割を切った。

2008年は84試合に出場して打率.270、4本塁打に終わった。後半は外野手の若手起用、守備と走力重視のチーム編成により先発から外れたが、代打では打率.372の成績を残した。10月10日に球団と会談を行い、FA権の不行使と2009年シーズンの選手専任での現役続行が決まった。

2009年はキャンプからコンディションが整わず、ブラウン監督の若手重視の起用方針もあり、プロ入り初の一軍試合出場ゼロに終わった。緒方孝市引退試合では花束を渡し、涙ながらに抱擁をした。

2010年は代打での出場を目指して調整を行い、3月4日のオープン戦で2008年10月以来の対外試合へ出場を果たした[2]。開幕後の3月29日には代打として2年ぶりに公式戦に出場し、無死満塁の場面で犠牲フライを放った[3]4月11日には横浜スタジアムで2年ぶりの公式戦本塁打を打ち、4月16日にはマツダスタジアムでの対中日戦で、浅尾拓也からセンター前へ自身16年ぶりのサヨナラ安打を放った。同サヨナラ安打はマツダスタジアムでの初安打となった。同年シーズンは主に代打で起用され、2割代前半の打率ながらも代打としてはチーム最多の62試合に出場した。故障の不安を抱えたシーズンだったため守備には就かなかったが、指名打者制度を採用したセ・パ交流戦では、指名打者として6試合に先発出場した。

2011年シーズンも代打専任で過ごしたが、4試合で決勝打を放つなど勝負強さを発揮し、代打の切り札として活躍した。松田元オーナーからも2012年の現役続行を要請された。

2012年も前年同様に代打の切り札として起用されている[4]。7月1日の対DeNA戦では決勝の適時打を放ち、このプレーが2012年第7回「ジョージア魂」賞に選ばれた[5]。シーズン成績も打率.327、出塁率.408をマークし、昨シーズン以上に代打での勝負強さが発揮された1年となった。この年、金本知憲石井琢朗が現役引退したため、現役選手では日本プロ野球の通算最多安打記録保持者となった[6][7]

2013年4月23日、対ヤクルト戦(神宮)の8回表に代打で出場した際に江村将也から左手首へ投球を受け途中交代した。この後、前田がマウンドの江村に近寄り、両チームメンバーが入り乱れ古澤憲司投手コーチ退場になるなど乱闘のような事が起こる。東京都内の病院で検査を受け「左尺骨骨折」と診断された。これ以後はシーズン中の戦列復帰目指してリハビリテーションに取り組んでいたが、9月27日にマツダスタジアムで記者会見を行い、今季限りで現役を引退することを発表[8]10月3日のマツダスタジアムでの対中日戦が引退試合となり、8回裏2死に小窪哲也の代打として出場。小熊凌祐が投じた0ボール2ストライクからの3球目の直球を打ち返すが、投ゴロに倒れる。9回表にはそのまま右翼に入り、2009年に開場したマツダスタジアムで初めての守備についた[9]。試合後セレモニーが行われ挨拶をしている[10]

現役引退後[編集]

2013年12月26日には、球団主催イベントへの出演や商品開発への助言などを目的に、広島球団とアドバイザー契約を締結した[11]2014年には、広島市に本社を置く中国新聞野球評論家[12]や、テレビ朝日広島ホームテレビ野球解説者も務める。

評価[編集]

打撃練習をする前田(2004年)
  • プロ入り1年目のキャンプを訪れた野球関係者が前田の打撃を見て「これは将来凄い打者になる」と口を揃えた。当時広島の打撃コーチだった水谷実雄は、一発長打の魅力を持つ江藤と卓越した打撃技術を持つ前田に英才教育を施すべく、2人を競わせるよう猛特訓を課し、揃って主軸打者に成長させた。水谷の親友でオリックス二軍の監督をしていた福本豊は、ウエスタン・リーグで前田の打撃を目の当たりにし「なんでこんな選手が二軍におるんや!?」と驚愕したという[要出典]。前田はほどなく一軍に昇格、プロ初出場初先発初打席で初安打を放った。
  • プロ入り1年目、開幕早々のヤクルトとの公式戦に出場した。当時、ヤクルト監督であった野村克也は素晴らしい選手なのに自チームのドラフト候補にも上がっていなかった事に対し、「なんであの選手がうちのリストにないんだ」とスカウトをきつく叱責した。その際、スカウトが「打撃に目をつぶってくれるなら、いい選手がいます」と推薦してきたのが、古田敦也宮本慎也であった。[13]
  • 前田は野球に対する取り組み方から「サムライ」「求道者」などと呼ばれる。落合博満長嶋茂雄星野仙一らは前田の野球センスについて「天才」と評価する[要出典]。特に落合は「前田の打撃フォームはシンプルで無駄がない。これから野球を始める子供達がぜひ参考にすべきフォーム」などと絶賛している。だが当の前田本人は故障がちな身体になぞらえて、自らを「ガラクタ」と皮肉り評している。また「天才」と呼ばれることに関しては「本当の天才だったら、4割打ってますよ。だいたい、落合さんやイチローのようにタイトルを獲った経験がありませんから」と語るなど、あまり気に入っていない様子である[要出典]。「侍」についても、自身が幾度も故障していることなどから「侍は、そう簡単に倒れるもんじゃないんですよ」と語っているが、その一方で自分の持ち物に「武士魂」と書き入れてもいる[要出典]
  • このように天性の野球センスを評される一方、己の技術を高めるために努力を厭わない「練習の虫」でもある。前田は現在でもチーム随一の練習量をこなしている。本拠地・広島市民球場での試合前には早出特打で汗を流すのが日課。練習をこなした後にはマッサージを受け、さらに足回りにテーピングを施して試合に臨み、試合後にも夜遅くまで入念なマッサージを受ける。さらに自宅に帰ってからも深夜遅くまで素振りを行い、時にはバットを抱えて床に就く事もあるほどである[要出典]衣笠祥雄は「今の前田があるのは練習の賜物」と評し、達川光男も「あいつは天才じゃない。研究熱心で、相手が自分をどう攻めるかを考えながら練習している」と舌を巻き、小早川毅彦も「夏場の練習で他の選手が『きつい』と悲鳴をあげても、前田だけは黙々とバットを振っている」と、野球に対する厳しい姿勢を評価している[要出典]
  • 前田の出身校・熊本県立熊本工業高等学校のOBで、かつて「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治も「天才肌だが、こつこつと努力する野球にひたむきな選手」と後輩を評している。同校関係者は、前田を「歴代最高の天才打者」と評価している[要出典]
  • 彼らのみならず、多くのOB・評論家も前田のセンスや姿勢に強く共鳴している。辛辣な評論で知られる豊田泰光に対して自らの持論を堂々と述べたことで、かえって豊田の高い評価を得た[要出典]。さらには当時NHKで野球解説をしていた原辰徳には「前田選手とイチロー選手の2人は、他の多くの選手とは打撃センスの次元が違う」と言わしめた[要出典]。また掛布雅之は1995年の開幕前に「彼にとっては3割3分が最低ノルマ。他の打者と同じ基準で考えたらいけない」とコメントした(皮肉にも前田がアキレス腱断裂の大怪我を負ったのはこの年であった)[要出典]
  • 現役選手の多くが前田を信奉しており、前田を目標としてプロ入りした選手も多い[要出典]。イチローはプロ入り以来「いちばん会いたいのは前田さん」と話していた[要出典]。 1994年にオールスターゲームに出場した際、前田との初対面を果たし、握手を交わしたイチローは満面の笑みを浮かべていた。松井秀喜読売ジャイアンツ時代の1995年、「週刊ベースボール」誌上の「『男』を感じさせる選手は誰か?」という設問に、他の11球団の選手が自球団の選手の名前を挙げる中、松井は「前田さんの背中に『男』を感じます。怪我が治ったらまた同じグラウンドでプレーしたいですね」と、右アキレス腱断裂で戦線離脱した前田にエールを送り、その後も前田について「打撃が素晴らしいし凄みもある。広角に打てるし好機にも強く、いつも打ちそうな雰囲気が漂っている。日本で一番いいバッターかもしれません。」と語っている。小関竜也も「憧れの選手は前田さん」と公言し、吉村裕基も同様のことを述べている[要出典]
  • 中日ドラゴンズの監督に就任した落合博満は、現役時代「天才は俺じゃない。前田だよ」と語り[要出典]、2005年の秋季練習では福留孝介森野将彦ら左打者に対して前田の打撃を引き合いにし「真似していいのは前田だけだ。前田だけを見習え」と語っている[要出典]。また、前田自身も落合に深い尊敬の念を抱いている。実際に福留も「理想のバッティングは前田さん」と公言しており[要出典]、この秋季練習では前田の打撃フォームを参考にしてフォーム改造を試みた。また熊本工業高校の後輩である荒木雅博も前田を尊敬しており、同年のオールスターゲームに出場した際にはずっと付き添い、打撃論や野球哲学についてアドバイスを受けた。また前田から最も多くの安打を喫した山本昌は以前、浜松球場での試合で外角低めの難しいコースを本塁打された事があり「あのコースを引っ張ってホームランにされた事は今まで無かった。その時に天才だなと思いましたね」と振り返っている[要出典]
  • チームの先輩であり、長年、前田を間近で見てきた緒方孝市は引退後の2009年秋に週刊プレイボーイ誌上で「23年間、いろんな選手を見て、 それで言うと自分の中でナンバー1は前田智。それこそ武士みたいな表現をよくされるけど、まさにそのとおり。 独特の世界を持ってるし、あれは何か命かけた真剣勝負してますよ。野球じゃない何かに自分の命かけてる感じ」と語っている。
  • 一方で、江夏豊は以前、広島が低迷している原因の一つとして、前田が満身創痍の状態でプレーしていることを挙げ「こんな痛々しそうにプレーしている姿を見せて、何のためになるのか。パ・リーグの球団に移籍してDHとして出場した方が、彼のためにも広島のためにもなるのでは」などと辛辣なコメントを寄せたことがある[要出典]。実際、前田も2004年オフ「このままではチームに迷惑が掛かる」と、パ・リーグ球団へのトレードをフロントに申し出たが[要出典]、交渉がまとまらず広島に残留。しかし翌2005年には自身12年ぶりの公式戦全試合出場を達成、シーズン自己最多の32本塁打を放ち、守ってもシーズン無失策補殺数でも1位を記録するなど気を吐いた。
  • かつては中堅を守り、1991年から4年連続でゴールデングラブ賞を獲得した経験もあるが、故障以後は脚力が失われたため守備範囲も狭くなり、歴代の首脳陣も守備での負担を軽減するため中堅から右翼、さらに左翼とコンバートを行っている。それでも守備力は故障後も健在で、時にはランニングキャッチやダイビングキャッチなど果敢なプレーを披露し、球際の強さを見せたこともある。
  • このように前田の打撃技術は周囲から高い評価を受けている一方、彼自身が目指すレベルが異常なまでに高く、その一例として高校時代、全体練習後には夜な夜な黙々とティー打撃を続け、思うような打球が飛ばないとスパイクで土を蹴り上げたりバットを叩き付けて怒り出したり、時には頭を抱え込んで悩んだり、といった事を繰り返していた[14]。プロ入り後も、フリー打撃などで思うような打撃ができなかった時には何度も声を荒げたり不貞腐れたりを繰り返し、遂には水谷実雄打撃コーチに「打撃投手が怖がって投げられないだろう」と言われたことがある。また水谷の下で江藤智と共に猛特訓を受けていた頃にも、二人一緒に素振りをしていたところ、突如前田が練習早退を申し出たため理由を訊くと「江藤さんのスイングスピードの速さには、とてもかなわない。凄く悔しくて、気が抜けてしまいました」と話した事もあるという[要出典]。現在でも完璧にミートした快打を放っても、その内容に納得がいかないと首を傾げたり、悔しそうに苦笑いしたりする事がしばしばあるが、これについて前田自身は「野球人として、バットマンとしてのこだわりがありますから」と語っている[要出典]

エピソード[編集]

  • 3年時の甲子園大会後、熊工には西武を除く11球団、前田の自宅にも8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州のホークスは上位指名を示唆するなど熱心だったが、同年11月に行われたドラフト会議では広島が4位指名する一方ホークスからの指名はなかった。前田は会見場でテレビ中継を見た後1時間近く泣き続けた。前田は一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川(村上)スカウトは「ホークスは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった[15]
  • デビューして間もない頃、二宮清純に「理想の打球は?」と尋ねられたところ、「ファウルならあります」と答えた。ただし、「野球小僧」2006年4月号のインタビューでそれがウソであったことを告白している。また1992年の二宮のインタビューで「打席に立つ目的は?」と聞かれて、しばらく考え込んだ後、「理想の打球を打ってみたい、ということかなぁ」と答えた[16]
  • 1994年に三村敏之が監督に就任した際、前年まで3・4番だった前田と江藤の打順を入れ替えた。しかし共に不調に陥り「僕は4番というタイプではない。長打力のある江藤さんが4番を打つべきです」と三村に具申し、3番に戻っている。同年5月18日福岡ドームでの巨人戦で槙原寛己完全試合を喫した際(槙原寛己の完全試合)は江藤と共に欠場した。その後2000年に達川晃豊が監督に就任した際にも4番に指名されたが、「自分は4番を打つだけの打者ではない」と固辞し、金本を4番に据えるよう懇願。結局は達川の説得に折れて承諾、4月の月間MVPを獲得したもののその後は不振に陥り、後に「(4番を打つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前向きになれなかった」と語っている。その後も歴代首脳陣から何度も要請されているものの、足に不安材料を抱えることから「4番打者は全試合出られるような人間でないとダメ」と固辞している[要出典]
  • プレー中に笑顔を見せる事は滅多にないが、2007年ガリバーオールスターゲーム第1戦(東京ドーム)の7回裏、ホークス・馬原孝浩の直球をすくい上げるようにスイングし、右中間に飛び込むオールスター初本塁打を放った。一塁を回ったところで打球の着地点を見届けると拳を握り締め、三塁手前で笑顔で手を叩いて小さくガッツポーズを取りホームイン。ダッグアウト前でナインと嬉しそうにハイタッチを交わした。前田は「落合さん(博満・セ監督)からは『楽しめよ』と言われていたし、ファン投票で選んでもらったからには頑張りたかった。三振だけはしないようにと思っていたが、まさか本塁打になるとは思わなかった。本当に嬉しかった」と話した。
  • 2008年マツダオールスターゲームにファン投票で選出された際「ありがたい気持ち。ただ、試合に出ていない選手が選ばれるのはどうかなと。元気な姿を見せたいが、元気がない」と不本意な成績からノミネートの経緯など投票システムに疑問を投げかけている。
  • イギリスの大手雑誌社の「Wallpaper*社」から広島の著名人特集の代表として取材を受け、2008年9月号に掲載された。
  • チームメイトとなった石井琢朗から「生きた教科書」と呼ばれ、キャンプ中も彼の打撃練習を熱心に見ていた。しかし、写真撮影は「ブログに載せるから嫌だ」と断られた[要出典]
  • ストイックな印象とは裏腹にかなりの甘党で、大怪我を負う前は好物のアイスクリームを毎日食べていたとの証言もある。
  • 高校3年時の1989年夏、高校野球選手権熊本大会の決勝(藤崎台県営野球場)で東海大二高と対戦。0-1と熊工が1点リードして迎えた4回表の前田の打席で、東海大二側ベンチは勝負を避けても構わないと指示。投手・中尾篤孝がそれに従ってボールを2つ先行させた際、前田はバットを持ったままマウンドに歩み寄り「勝負せんかい! ストライク入れんかい!」と怒鳴った。これに中尾が「何やと!」とやり返したため、球審が間に割って入った。プレー再開後、中尾が勝負を挑んだ球をライトスタンドへ打ち込んだ。中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り)は後に「今となってはいい思い出です」と語っている。この試合に勝った熊工は甲子園に出場。初戦の日大三島戦で1回表にタイムリーヒットを放ったが、攻撃が終わっても「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、守備につこうとしなかった。前田は同学年の元木大介を強くライバル視しており、本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で打ち損じたことに納得できなかったという。これ以前にも、練習などで打撃に納得できないと深く考え込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあったという[17]
  • 1990年、プロ入り後初の日南の春季キャンプでは打撃マシンを相手に快打を連発。高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と振り返っている。ある日の練習中達川光男に「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれ「いや、来た球を打つんですよ」と答え、達川は「凄いな、お前」と感心した[18]
  • 北別府学の200勝のかかった試合の1992年9月13日の対巨人24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、川相昌弘の中前への当たりに飛び込んだが後逸、ランニング本塁打で同点となる。前田は8回表一死一塁の場面で決勝打となる勝ち越し2ランを放ち、ガッツポーズを見せた後涙を流しながらダイヤモンドを一周した。後日、決勝本塁打について「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、また本塁打後の涙について「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている[19]
  • 1994年5月18日の対巨人戦(福岡ドーム)で、広島は巨人・槙原寛己にプロ野球史上15人目の完全試合を許し敗れたが、前田はこの試合を欠場しており「この借りはいつか返す」と誓っていた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った。前田は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語った[20]
  • 1995年に右足のアキレス腱を完全断裂した後、打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。前田は走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのか、1996年頃から「俺の野球人生は終わった」「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などといった発言を繰り返す。またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった[21]
  • このアキレス腱断裂は、前田の野球人生にとって大きな転機となった。前田は1996年春のあるインタビューで「怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると、毎日が楽しかった。(野球をやってきて)これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが(怪我で)全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです」と語っている。また、右アキレス腱には既に前年から不安を抱えており、早く治さなかったことを後悔していたと明かしている[22]
  • 1998年8月もしくは9月[23]に行われた試合の後、タクシーで球場を出ようとした前田に女性ファンが「前田さん、がんばってください」と声をかけたところ、前田は「お前に言われんでもわかっとるわ」と大声で言い返した。朝日新聞西村欣也編集委員は、前田の言葉はユーモアにくるんだ言い方ではなくその場の空気が凍りついたとして、「野球選手はバットとボールで話をするという姿勢は彼の魅力のひとつでもある。しかし、それならば沈黙を貫くべきだろう」「ファンに暴言に近い言葉をぶつけてしまうのは、やはりプロフェッショナルとして欠けている部分があるというしかない」と記している[24]
  • 2000年江藤智FAの権利を行使して巨人へ移籍。新4番として迎えた3月31日、開幕戦の対巨人1回戦(東京ドーム)では、2回表に回ってきた初打席で巨人先発上原浩治から先制ソロ本塁打、4回には二塁打、8回にも犠飛を放つなど3得点に絡み、5-4で逃げ切った。前田はヒーローインタビューで開幕4番について「はっきり言って、気持ち的には中途半端で入った。前向きに考えるのが難しかったけれど(監督に)『チームのために頑張ってくれ』と言われた。それがいい結果で出たんでよかった」と話し、さらにチームのムードについて「やっぱり緊張感の中で勝てたのは大きいし、これから頑張っていきたいと思う。みんなで力を合わせて頑張るっていうのがウチの野球なんで」と語った。この「みんなで力を合わせる」という文言は同年シーズン序盤、前田の常套句となった[25]
  • 同年7月、アキレス腱が伸び切って炎症が悪化し断裂の恐れがあることが判明した。27日に左アキレス腱の腱鞘滑膜を切除する手術を受け長期離脱。フリーエージェントの権利を獲得したが10月30日に記者会見で「まだ乗り越えなくてはいけない物がたくさんあるし、カープで最後までいいプレーをしたいという気持ちになったので、今回はFA宣言というものは自分には関係ないという気持ちです。大きな怪我もあったがここまでやれるとは思わなかったし、チームとファンに恩返ししたい。今年権利を行使しないということは、来年もしないという事です」と、広島に残留する旨を表明した。
  • 2005年1月にグアムで自身初の海外自主トレを敢行。2月の春季キャンプでは「守備重視」というチーム方針もあってレギュラー特権を剥奪される厳しいスタートとなったが、毎日早出・居残りで鍛錬を続けた。キャンプ中盤の2月14日、練習後の取材に応じた前田は「今までのように(マイペースで)調整させてもらっている立場じゃない。周りから『走れん』とばかり言われているが、文句を言われんように、また走れるようになりたい。試合で(身体を)作っていくのがベストだし、オープン戦もできれば全部出たい。賭けだよ、賭け。駄目なら賭けはおしまい」とシーズンへの意欲を見せた。
  • 2006年シーズン後の秋季練習の初日に「うまく打撃のコツもつかみたいし、そのためにはバットを振るのは普通のこと。まあ、多分つかめはしないんだろうけど。何年やっても、どう打っていいか分からん」と発言。
  • 通算安打数「1999本」で迎えた2007年9月1日の対中日ドラゴンズ17回戦(広島市民)、前田は4打席凡退していたが6-7とリードを許して迎えた8回裏、広島は代打嶋重宣の3ランで逆転する。その後も攻め立てて二死満塁とし、打者一巡して前田の打席。久本祐一の3球目を右前へ運ぶ2点適時打を放ち、プロ通算2000安打に到達した。前田は一塁上で安堵の笑顔を見せ、長男・二男から花輪を受け取った(このとき前田は子供たちに「お母さんはどこにいるの?ありがとうって伝えておいてね。」と言った)。この回広島は一挙8点を奪って14-7で勝利、前田の金字塔に華を添えた。試合後お立ち台に立った前田はまず「自分個人の事でここまで騒がれるのは非常に残念な事。ここまでチームの戦い方を考えると悔しい思いばかりだし、自分が(怪我などで)いいシーズンを送れていないので、責任を感じています」「怪我をして、チームの足を引っ張って…。こんな選手を応援して下さって、ありがとうございます」と声を詰まらせた。そして「最高の形で(自分に打順を)回してくれたので、ここで打たなきゃと思った。今日という日は一生忘れないと思います」と喜びを語った。その後記念のボールを手に場内を一周してファンの声援に応え、チーム全員で記念撮影を行った。また試合後の記者会見では「今日は何となく負けるような展開だったが、みんなが凄い力を発揮して、最後に打たせてもらった。18年やっているけれど、こんな凄い試合は初めてです」と8回の攻撃を振り返り、「こういう記録を達成できて、こんな選手にいろんな声援を送ってくれたのに、充分応えることができなかった。これからも暖かい応援を頂きたい」とファンにメッセージを送った。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1990 広島 56 45 43 15 11 3 0 0 14 5 4 1 1 0 1 0 0 3 1 .256 .273 .326 .598
1991 129 465 395 54 107 21 1 4 142 25 14 10 30 4 31 0 5 57 4 .271 .329 .359 .688
1992 130 585 493 82 152 23 3 19 238 89 18 4 30 6 54 3 2 51 7 .308 .375 .483 .858
1993 131 568 499 85 158 33 2 27 276 70 10 1 2 3 61 0 3 63 3 .317 .392 .553 .945
1994 123 554 492 66 158 26 0 20 244 66 4 3 2 3 57 10 0 56 12 .321 .389 .496 .885
1995 25 99 86 15 22 4 1 4 40 11 3 0 0 1 10 0 2 12 1 .256 .343 .465 .809
1996 105 435 396 54 124 20 2 19 205 65 0 0 0 3 34 1 2 61 10 .313 .368 .518 .885
1997 100 419 382 55 116 23 1 15 186 68 1 0 0 7 28 2 2 35 7 .304 .348 .487 .835
1998 127 551 504 71 169 36 0 24 277 80 5 2 0 2 41 1 4 54 8 .335 .388 .550 .938
1999 108 428 392 53 118 17 0 12 171 65 1 1 2 5 25 0 4 36 8 .301 .345 .436 .781
2000 79 284 262 32 62 14 0 13 115 44 0 0 1 3 18 1 0 39 6 .237 .283 .439 .722
2001 27 30 27 1 8 2 0 0 10 7 0 0 0 0 3 2 0 3 2 .296 .367 .370 .737
2002 123 462 422 50 130 11 1 20 203 59 0 1 0 2 37 2 1 38 11 .308 .364 .481 .845
2003 128 473 427 50 124 14 2 21 205 71 2 2 5 3 35 7 3 45 10 .290 .346 .480 .826
2004 121 438 407 45 127 28 1 21 220 70 2 0 1 2 23 0 5 38 8 .312 .355 .541 .895
2005 146 590 540 77 172 25 1 32 295 87 1 2 0 0 44 2 6 43 9 .319 .376 .546 .923
2006 134 522 472 66 148 22 1 23 241 75 2 3 2 3 40 4 5 42 6 .314 .371 .511 .882
2007 124 446 414 41 118 17 0 15 180 71 1 2 0 4 20 2 8 31 12 .285 .327 .435 .762
2008 84 186 174 11 47 4 1 4 65 29 0 1 0 2 8 1 2 24 4 .270 .306 .374 .680
2010 68 86 77 5 17 3 0 2 26 19 0 0 0 2 6 1 1 19 2 .221 .279 .338 .617
2011 52 51 44 0 11 3 0 0 14 13 0 0 0 1 5 0 1 8 2 .250 .333 .318 .652
2012 56 56 49 1 16 4 0 0 20 19 0 0 0 2 5 3 0 5 2 .327 .375 .408 .783
2013 12 12 11 0 4 0 0 0 4 4 0 0 0 0 0 0 1 2 0 .364 .417 .364 .780
通算:23年 2188 7785 7008 929 2119 353 17 295 3391 1112 68 33 76 58 586 42 57 765 134 .302 .358 .484 .842
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績[編集]

年度 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1990 44 20 0 1 0 .952
1991 126 207 6 3 2 .986
1992 130 254 10 5 2 .981
1993 128 262 9 2 3 .993
1994 123 279 7 2 1 .993
1995 24 46 1 0 0 1.000
1996 102 160 5 3 2 .982
1997 95 181 4 6 0 .969
1998 119 211 12 4 2 .982
1999 103 155 6 3 0 .982
2000 68 115 3 0 2 1.000
2001 1 1 0 0 0 1.000
2002 115 154 10 2 0 .988
2003 119 161 6 3 2 .982
2004 110 106 8 2 1 .983
2005 144 172 12 0 2 1.000
2006 112 141 6 1 0 .993
2007 96 147 3 2 1 .987
2008 28 38 0 1 0 .974
2013 1 0 0 0 0 ----
通算 1788 2810 108 40 20 .986
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1997年7月17日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤドーム)、1回表に村田勝喜から右越2ラン ※史上193人目
  • 1000本安打:1998年8月28日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、7回表に阿波野秀幸から中堅フェンス直撃2点適時二塁打 ※史上189人目
  • 1000試合:1999年7月22日、対阪神タイガース19回戦(阪神甲子園球場)、3番・右翼手として先発出場 ※史上353人目
  • 150本塁打:2000年4月9日、対阪神タイガース3回戦(広島市民球場)、8回裏にカート・ミラーから右越逆転決勝満塁本塁打 ※史上112人目
  • 200本塁打:2004年4月9日、対横浜ベイスターズ1回戦(広島市民球場)、3回裏にピート・ウォーカーから右越ソロ ※史上78人目
  • 1500本安打:2004年5月8日、対読売ジャイアンツ8回戦(広島市民球場)、5回裏に前田幸長から左中間へ二塁打 ※史上84人目
  • 5000打数:2004年6月4日、対中日ドラゴンズ8回戦(ナゴヤドーム)、6回表に朝倉健太から右越ソロを放ち達成
  • 1500試合出場:2004年9月10日、対中日ドラゴンズ24回戦(ナゴヤドーム)、5番・左翼手として先発出場 ※史上142人目
  • 250本塁打:2005年9月28日、対ヤクルトスワローズ20回戦(広島市民球場)、7回裏に吉川昌宏から右越ソロ ※史上47人目
  • 300二塁打:2005年10月4日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、5回表に野間口貴彦から右翼線二塁打 ※史上44人目
  • 3000塁打:2006年8月22日、対阪神タイガース13回戦(広島市民球場)、4回裏に井川慶から右前安打 ※史上40人目
  • 1000打点 2007年8月12日、対東京ヤクルトスワローズ17回戦(広島市民球場)、7回裏にセス・グライシンガーから二塁ゴロの間に記録 ※史上31人目
  • 2000本安打:2007年9月1日、対中日ドラゴンズ17回戦(広島市民球場)、8回裏に久本祐一から右前2点適時打 ※史上36人目
  • 2000試合出場:2008年10月7日、対横浜ベイスターズ24回戦(横浜スタジアム)、9回表に倉義和の代打として出場 ※史上41人目
  • 350二塁打:2012年4月22日、対中日ドラゴンズ6回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)、8回裏に浅尾拓也から右翼線適時二塁打 ※史上33人目
その他の記録
  • シーズン打率3割以上:11回(1992年 - 1994年、1996年 - 1999年、2002年、2004年 - 2006年)※歴代5位タイ。
  • シーズン猛打賞:23回(1998年)※セ・リーグ歴代2位、両リーグ歴代3位タイ。
  • 打率ベストテン入り:10回(1992年 - 1994年、1996年 - 1998年、2002年、2004年 - 2006年)※歴代8位タイ
  • 1試合6安打(1997年9月19日)※延長での2安打を含む
  • 5試合連続本塁打(1998年8月6日 - 8月11日)
  • 4試合連続本塁打:2回(2005年9月2日 - 9月7日、2006年9月3日 - 9月8日)
  • 11試合連続得点(1998年4月25日対中日・ナゴヤドーム - 5月9日対横浜・熊本球場)
  • 37試合連続出塁(2002年7月30日対ヤクルト・明治神宮野球場 - 9月13日対中日・広島市民球場)
  • 月間安打数(41本・2002年8月、39本・1998年8月)
  • 月間打点数(26打点・1998年8月)
  • 通算満塁本塁打:6本
  • オールスターゲーム出場:7回 (1993年、1994年、1996年、1998年、2005年、2007年、2008年)

背番号[編集]

  • 51 (1990年 - 1991年)
  • 31 (1992年 - 1993年)
  • 1 (1994年 - 2013年)

解説者としての出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ http://www.narinari.com/Nd/2007097877.html
  2. ^ “前田、代打で出場 復活への一歩”. 中国新聞. (2010年3月4日). http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/Cs201003050133.html 2010年3月29日閲覧。 
  3. ^ “広島前田智が2年ぶりの公式戦打席”. nikkansports.com. (2010年3月28日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20100329-611684.html 2010年3月29日閲覧。 
  4. ^ “【広島】前田智2点適時打「体が反応」”. 日刊スポーツ. (2012年5月3日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120503-944629.html 2012年5月7日閲覧。 
  5. ^ 二宮清純. “魂こもった打撃技術を置き土産に 第7回(7月上期) ジョージア魂賞受賞:広島東洋カープ 前田智徳選手”. http://www.georgia.jp/baseball/award/column/2012_07.html 2012年8月12日閲覧。 
  6. ^ イチローなど、大リーグでの成績のと合計を除く
  7. ^ 安打【通算記録】NPB公式サイト
  8. ^ 前田智が引退表明 広島一筋24年、現役生活にピリオド スポーツニッポン 2013年9月27日閲覧
  9. ^ 前田智 最終打席は投ゴロ マツダで初の守備もスポーツニポン2013年10月3日配信
  10. ^ 前田智あいさつ「故障だらけの野球人生」も広島一筋のプロ生活に誇りスポーツニポン2013年10月3日配信
  11. ^ 広島 前田氏とアドバイザー契約、商品開発に助言(『スポーツニッポン2013年12月26日付記事)
  12. ^ 2014年2月1日からスポーツ面 「前田智徳の目」カープ見つめる(『中国新聞』公式サイト2014年1月17日付「お知らせ」)
  13. ^ 「週刊朝日」2013年10月25日付発行
  14. ^ 「Title」2000年7月号・文藝春秋発行
  15. ^ 「月刊アスリートマガジン」5月号・株式会社アスリート・平成7年4月20日付発行
  16. ^ My First BIG(コンビニコミック版)あぶさん「戦線離脱」2002年5月発売
  17. ^ 「Title」2000年7月号・文藝春秋発行
  18. ^ 「Number」632号・2005年7月28日付・文藝春秋発行
  19. ^ 「Number」322号・1993年9月5日付・文藝春秋発行
  20. ^ 「Number」468号・1999年4月22日付・文藝春秋発行
  21. ^ 「Title」2000年7月号・文藝春秋発行、「Number」468号・1999年4月22日付・文藝春秋発行
  22. ^ 「Number」468号・1999年4月22日付・文藝春秋発行
  23. ^ 記事(9月15日)の「数週間前」と記しているため不明
  24. ^ 1998年9月15日付・朝日新聞
  25. ^ 「Athlete(アスリートマガジン)」No.79・2000年5月20日号・株式会社アスリート発行
  26. ^ 2013年度 表彰選手(セントラル・リーグ)

関連商品[編集]

  • 「前田の美学」迫勝則
  • 「前田智徳2000本安打達成記念[DVD]限界の向こうで」テレビ新広島
  • 「HEY! BROTHER」矢野昌大 前田智徳イメージソング[SAMURAI-侍-][孤高の天才]2曲収録

関連項目[編集]

外部リンク[編集]