川相昌弘

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川相 昌弘
読売ジャイアンツ 二軍監督 #78
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県岡山市南区
生年月日 1964年9月27日(47歳)
身長
体重
176cm
74kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手
プロ入り 1982年 ドラフト4位
初出場 1984年4月24日
最終出場 2006年10月26日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2007 - 2010)
  • 読売ジャイアンツ (2011 - )

川相 昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日 - )は、岡山県岡山市南区出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者、監督

現役時代は読売ジャイアンツ中日ドラゴンズで活躍。同期入団に斎藤雅樹がいる。通算533本の犠牲バントは世界最多記録で、バント職人の異名を持つ。巨人史上屈指の守備力を誇る遊撃手でもあった。

ニックネームはしわが多く老け顔だったことと「和製オジー・スミス」に引っ掛けて「ジイ」。あるいは、「人生送りバント」と表現する者もいる。

現在は巨人の二軍監督を務める。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 高校時代

岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校から岡山県立岡山南高等学校へ入学。岡山南高では投手として活躍し、1981年第63回全国高等学校野球選手権大会1982年第54回選抜高等学校野球大会の2回、甲子園に出場した。1982年の春は主将も務め、2回戦で早稲田実と対戦。敗れはしたものの、荒木大輔と互角の投手戦を演じた。その年の夏も甲子園出場を期待されていたが、岡山大会の準決勝で岡山東商に敗れ、最後の夏は甲子園に出場できなかった。この時、岡山東商の4番を打っていたのが、当時2年生の八木裕だった。

[編集] 巨人時代

1982年ドラフト会議で巨人に4位指名を受け入団。高校時代はエースで主軸(おもに5番)打者を務め、投手としての指名だった。入団直後に野手へ転向。1983年二軍生活だったが、二軍コーチだった須藤豊の熱心な指導により徐々に才能が開花。1984年に守備力が王貞治監督(当時)の目に留まり一軍に初昇格。1985年から守備要員として一軍に定着し、プロ初犠打は同年6月13日の対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)の7回裏、阿井英二郎から決めた。

1987年のリーグ優勝には内外野の守備固め要員として貢献した。王政権時代、当時の巨人は引退した河埜和正の後を継ぐ遊撃手の定位置の座を、岡崎郁西武から移籍した鴻野淳基の2人が争っていたが、守備力を武器に勝呂博憲も台頭し、競争は激しさを増していた。1989年藤田元司が監督に復帰すると、第4の存在だった川相と緒方耕一が台頭する。レギュラーに定着したのは、打撃面で伸び悩み、守備要員としても守備位置が一定せず外野手での出場が6割を占めていたこともあった川相であった。なかなか定着しなかった当時の巨人の遊撃手候補は、一軍レベルで見ると遊撃手としてはやや足に難のあった岡崎、打力で川相以上に伸び悩む勝呂、即戦力要員ながら結果が出ず、守備も不安があった鴻野と他のメンバーに一長一短があったという事情もあったが、川相は持ち前の守備能力、確実性のある小技を磨き、絶対的な巨人の2番・遊撃の座を勝ち取った。この頃、スイッチヒッターに挑戦するが、結局は右打ちに戻す。

1987年の日本シリーズにて、秋山幸二のセンター前ヒットに対してウォーレン・クロマティが緩慢な送球を返し、一塁走者の辻発彦を一気にホームインさせたプレーの時に返球を受けていたのが川相だった。クロマティの動きに対する批判が多かったが、川相は「クロマティのプレーを頭に入れておかなかった自分のミス」と語り、悔しさを口にした。西武の三塁コーチだった伊原春樹も、川相が先頭の走者ではなく打者走者を見る癖があったのがポイントだったと語っている。1994年の西武戦(オープン戦)で、二塁走者だった川相は、次打者のセンターフライを佐々木誠が後ろ向きで捕球したのを見ると、猛然とタッチアップでスタートし、西武の緩慢な中継のスキを突いて本塁を落とし入れた。川相は後に、上記のプレーの反省が頭にあったと述べている。

1989年、それまでの背番号600へ変更。巨人では史上初の0番であった。

1990年和田豊の年間犠打記録を抜き、プロ野球新記録を樹立。1991年には66犠打を記録し、当時の年間犠打新記録を更新する(現在の記録は2001年に宮本慎也が記録した67犠打)。1993年1994年はチーム内首位打者になるなど打撃面でも成長を遂げ、攻守に渡ってチームを引っ張り、特に1994年は打率.302という好成績を記録。1990年代を代表する選手の一人にまで成長した。

1994年には、10月1日の対ヤクルト戦で決勝打を放ち、試合後のヒーローインタビューで子供たちの名前(当時は二男一女)を叫んだ[1]10.8決戦では、9回にバックスクリーンを直撃する打球を放つが、三塁打の判定に長嶋茂雄が猛抗議するも受け入れられず、結局1994年の本塁打は0本だった。

1996年から1998年まで巨人の選手会長を務め、名実ともに巨人の顔となった。長嶋が清水隆行を2番に据える攻撃的な野球を標榜したため、7番や8番を打つ機会も増えてきた。1998年には平野謙が樹立した通算451犠打のプロ野球記録を抜き、日本球界歴代1位に躍り出る。1999年には二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員で依然チームに欠かせない存在だった。二岡の台頭もあり遊撃手での出場機会が大幅に減り、三塁手での出場が中心になる。2000年より、石井浩郎の退団に伴って空いた6番に背番号を変更。2003年8月20日には通算512犠打を達成し、エディ・コリンズMLB記録を超え、ギネスブックにも記録された。なお、この犠打を決めた時、川相の右足が打席から出ていた、という写真が『巨人軍5000勝の記憶』にも掲載された。

同年、現役引退を表明。一軍コーチ就任が内定していたが、原辰徳辞任により、混乱の後に二軍コーチ降格を言い渡され、引退を撤回し巨人を「退団」。1998年に川相自身に対してヘッドコーチとして理不尽な暴力をふるったと噂されている堀内恒夫の監督就任も退団の大きな要因と言われている(著書では否定)。直後、落合博満率いる中日ドラゴンズに入団テストを経て移籍。

[編集] 中日時代

自身と同じ遊撃手で、球団史上最多通算本塁打記録を持つ宇野勝がつけていた背番号7を与えられたことからも、川相に対する期待の大きさが窺える[2]

2004年は落合監督の「一芸に秀でている選手を使う」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バント・守備要員として存在感を発揮。サヨナラヒットを2本打つなど、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。移籍後初めて巨人戦に代打出場してバントを決めたことや、札幌ドーム佐藤宏志から本塁打を打ったことで、古巣・巨人の応援席を含めて球場全体から歓声が沸き起こったこともあった。同年の日本シリーズ第2戦では、9回表から主軸の立浪和義に代わる守備固めで三塁の守備に就き、無死無走者で赤田将吾岩瀬仁紀から放ったゴロを一塁に送球し無難に処理、それが同試合唯一の守備機会ながら、球団史上初の「ナゴヤドームでの日本選手権試合初勝利」に貢献。

2005年、出場機会は減少したものの、守備固めや代打として活躍した。

2006年には球界初の「メンタルアドバイザー」に就任。コーチの肩書では会議に出席する必要があるので、あくまで相談役というポジションに落ち着いた。チームが勝っている試合で8・9回辺りから主に立浪の守備固めとして出場することが多かったが、荒木雅博の怪我などで5月には「2番・二塁手」としてスタメン起用された。しかし、森野将彦が怪我から復帰しスタメン獲得、立浪が代打要員となり、セカンド要員として奈良原浩をトレード獲得、7月頃に荒木が復帰したことから出場機会が無くなり、球宴直前に登録抹消。その後は一軍に帯同しながら、メンタルアドバイザーとして裏方からリーグ優勝に貢献した。中日スポーツで毎週月曜日に「明日への送りバント」という題名で寄稿もしていた。「初回からバントをするような野球は好きではない」とも語っている。攻撃的な2番打者が理想らしく、2006年5月24日に2番・二塁で出場した時には第1打席からセーフティバントを狙ったこともある。

10月13日、来季の選手契約を結ばない方針と一軍コーチ就任要請を球団から伝えられて現役引退を表明。翌年(実質的には同年オフのキャンプ時)から中日一軍の内野守備走塁コーチに就任することも発表された。

2006年10月15日、ナゴヤドームでのシーズン最終戦の横浜戦は川相の引退試合として、2番・三塁でスタメン出場。1打席目は安打、2打席目では送りバントを三塁線に決め、観客から大きな拍手が送られた。7回には1イニングだけ、慣れ親しんだ遊撃の守備にも就く。この日の犠打で通算犠打数は「533」となり、自身が持つ世界記録を更新。試合終了後はチームメイトから胴上げされ、挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。日本シリーズを花道にしたい」と語った。2006年の日本シリーズでは第5戦に代打で登場。最後の送りバントを決め、有終の美を飾った。川相の引退により、1964年度生まれのプロ野球選手は全員がユニフォームを脱いだ。

[編集] 引退後

2007年シーズンからは中日ドラゴンズ一軍内野守備走塁コーチに就任。公式戦では一塁コーチスボックスに立っていた。オープン戦では経験を積む為、三塁コーチスボックスに立っていることもあった。2010年シーズンからは二軍監督を務めるが、同年限りで突然の退団通告を受ける[3]

2011年からは古巣巨人で二軍監督を務める[4]。巨人には7年振りの復帰となる。超重量打線と呼ばれる巨人の打撃陣にも、積極的にバントをさせると宣言。その言葉通り、チームの犠打数は大幅に増え、8月末の時点で盗塁数もリーグトップを独走。本塁打数はリーグ最少ながら、確率を求めた細かい野球によってチームを牽引した[5]

[編集] プレースタイル

[編集] 打撃・走塁面

2番打者としてレギュラーに定着してからは、送りバントや右打ち、ファールで粘って四球を奪い取るなど、「つなぎ」の姿勢に徹していた。長打力こそ無いものの、確実性の高いバッティングでチームを支えた。原監督には「日本で一番エンドランが上手い選手」と言わしめた。

スタメンで出場する場合、ほとんどは2番での起用となるが、7番や8番の下位打線に回ることもあった。ごくまれにポイントゲッターとして6番を任されることもあったが、プロに入ってからクリーンナップで起用されたことはない。晩年はスタメンで起用される機会も減ったが、「代打バント」という川相ならではのポジションを築いた。

走塁に関しては、決して俊足というわけではなく、二桁盗塁を記録したことはない。ただしランナーとして塁に出たときには、相手投手のクセを研究して、少しでも早くスタートが切れるように心掛けていた。

[編集] 守備面

遊撃手としてゴールデングラブ賞6回受賞という記録が表すように、非常に高い守備力で知られた。決して派手さは無いが、打撃同様に安定した守備が持ち味だった。川相本人は「池山(隆寛)や野村(謙二郎)のほうが上だよ」と語っており、「負けてたまるか」という気持ちでやってきたと述べている。

晩年はショートを守る機会も減ってきて、サードの守備固めが中心だった。少ない守備機会でも確実に仕事をこなしていた。また、外野手として出場したこともある他、中日では1試合だけファーストを守ったこともある。

[編集] バント技術

犠打数の世界記録保持者であり、バントの技術はプロ野球史上最高峰のレベルである。巨人でのレギュラー時代は2番打者として多くの犠打を記録し、レギュラーを外れた晩年は「ピンチバンター」として活躍した。誰もが送りバントと分かっている状況で代打で登場し、いとも簡単に成功してみせた。2000年の日本シリーズ第5戦では「5番・DH」のドミンゴ・マルティネスに代わって代打で登場し、無死一二塁の場面でバントを決めた。

通算の犠打成功率は9割を超えている。1995年は47犠打を記録したが、失敗数は0である。

送りバントのコツとしては「割り切りが大事」「ここに転がすと決めたら、どんなボールが来てもそこに転がす」という気持ちの整理が重要だという。技術面では、目とバットの距離を変えないようにする(手先ではなく膝でバットをボールに合わせて、目とバットの距離を一定に保つ)ことが重要なポイントだと話している。

ちなみに、川相が記録してきた送りバントのほとんどは、自軍のベンチからのサインによるもので、自分で判断してバントしたケースは通算で10回あるかないかだという。過去に何度か「死んでも成功させる」という気持ちで打席に立ったことがある。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1984 巨人 18 11 9 4 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .111 .273 .111 .384
1985 35 27 23 1 5 4 0 0 9 3 0 0 2 0 1 0 1 4 0 .217 .240 .391 .631
1986 48 37 31 6 6 1 0 0 7 0 0 0 3 0 1 0 2 3 0 .194 .265 .226 .491
1987 58 49 38 8 8 4 0 0 12 0 0 0 5 0 4 1 2 7 1 .211 .318 .316 .633
1988 53 81 71 7 19 1 2 2 30 6 3 0 6 0 3 0 1 11 1 .268 .307 .423 .729
1989 98 381 319 40 81 9 5 5 115 28 6 4 32 2 23 0 5 46 4 .254 .312 .361 .673
1990 94 406 309 53 89 19 2 9 139 32 9 5 58 4 32 0 3 34 4 .288 .356 .450 .806
1991 126 562 439 53 110 17 2 2 137 36 8 0 66 2 49 0 5 56 6 .251 .331 .312 .643
1992 98 398 330 42 85 13 1 5 115 23 4 5 42 0 20 0 6 38 9 .258 .312 .348 .660
1993 131 553 462 58 134 23 2 5 176 35 2 10 45 2 43 0 1 64 9 .290 .350 .381 .731
1994 130 567 473 69 143 18 4 0 169 33 3 0 35 2 54 0 3 51 13 .302 .376 .357 .733
1995 108 467 371 51 97 13 0 2 116 19 3 3 47 0 47 0 2 47 12 .261 .348 .313 .660
1996 126 549 440 50 102 14 0 2 122 22 5 1 56 2 48 0 3 49 7 .232 .310 .277 .588
1997 124 507 416 68 120 21 2 6 163 25 2 3 45 2 39 0 5 40 6 .288 .355 .392 .747
1998 93 300 266 27 68 14 1 1 87 16 2 1 14 2 17 1 1 36 8 .256 .301 .327 .628
1999 82 186 149 19 44 1 0 0 45 14 0 2 19 0 17 1 1 12 3 .295 .371 .302 .673
2000 54 74 58 8 11 1 0 0 12 4 0 1 6 1 8 0 1 9 0 .190 .294 .207 .501
2001 73 64 52 6 15 3 0 2 24 5 0 0 10 0 2 0 0 11 0 .288 .315 .462 .776
2002 88 132 114 11 25 5 0 1 33 8 0 0 14 0 3 0 1 25 4 .219 .246 .289 .535
2003 72 90 80 5 19 3 1 0 24 3 0 1 9 0 1 0 0 10 3 .238 .247 .300 .547
2004 中日 80 34 23 4 6 0 0 1 9 3 0 0 6 0 4 0 1 4 2 .261 .393 .391 .784
2005 69 24 17 1 5 2 0 0 7 6 0 0 7 0 0 0 0 5 0 .294 .294 .412 .706
2006 51 29 22 0 6 0 0 0 6 1 0 0 6 0 0 0 1 6 0 .273 .304 .273 .577
通算:23年 1909 5528 4512 591 1199 186 22 43 1558 322 47 36 533 19 418 3 45 570 92 .266 .333 .345 .678
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • 初出場:1984年4月24日、対大洋戦(横浜) 8回より石渡茂に代わり遊撃に就く
  • 初安打:1984年6月2日、対ヤクルト戦(後楽園) 8回、鹿取義隆の代打。宮本賢治から単打
  • 初打点:1985年5月6日、対ヤクルト戦(後楽園) 2回、大川章から適時二塁打
  • 初本塁打:1988年7月7日、対中日戦(札幌) 4回、近藤真一から左越ソロ
  • 通算1000試合出場:1996年4月7日(329人目)
  • 通算1500試合出場:2001年5月23日(132人目)
  • オールスターゲーム出場:2回 (1990年、1993年)

[編集] 背番号

  • 60 (1983年 - 1988年)
  • 0 (1989年 - 1999年)
  • 6 (2000年 - 2003年)
  • 7 (2004年 - 2006年)
  • 71 (2007年 - 2010年)
  • 78 (2011年 - )

[編集] 関連情報

[編集] 過去の出演番組

  • バース・デイ」(TBS) - 中日コーチに就任したばかりの川相の奮闘ぶりが紹介された。

[編集] 書籍

[編集] 脚注

  1. ^ 1994年10月2日付読売新聞17面14版
  2. ^ 同番号の前任者・谷繁元信は、正捕手のエースナンバー森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22にするという落合監督の方針により27に変更。
  3. ^ “中日 川相2軍監督退団通告に「理由?聞いていません」” (日本語). スポーツニッポン. (2010年9月29日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/flash/KFullFlash20100929004.html 2010年10月25日閲覧。 
  4. ^ http://www.giants.jp/G/gnews/news_393546.html
  5. ^ “大きく変貌する 巨人2軍 川相昌弘監督 中日コーチ時代の苦い経験生きる” (日本語). スポーツニッポン. (2011年8月30日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/08/30/kiji/K20110830001516110.html 2011年9月23日閲覧。 

[編集] 関連項目

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