山下大輔

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山下 大輔
横浜DeNAベイスターズ 二軍監督 ##88
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 静岡県清水市(現・静岡市清水区
生年月日 1952年3月5日(59歳)
身長
体重
176cm
78kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 1973年 ドラフト1位
初出場 1974年4月7日
最終出場 1987年10月22日
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、元プロ野球選手内野手)・監督・野球解説者。愛称は「大ちゃん」。

2012年からは横浜DeNAベイスターズの二軍監督に就任。

目次

[編集] 経歴

静岡県清水市(現在の静岡市)出身。清水東高校から、一般入試で慶應義塾大学商学部に進学。東京六大学野球でプレーし、1971年秋からのリーグ3連覇に3番・遊撃手で貢献、「慶應のプリンス」と呼ばれた。4年時には主将を務める。リーグ通算88試合に出場し314打数102安打、11本塁打、50打点打率.325、首位打者1回(1973年春季)、ベストナイン4回。

[編集] プロ時代

1973年のドラフト会議を前に「巨人が第一志望。在京球団でも構わない」と態度を表明していた山下は、その言葉通り1番クジで1位指名した大洋ホエールズに入団した。入団当初は打撃が売り物だったが、当時大洋に所属していたクリート・ボイヤーの教えを受けて守備の名手に成長した。打球に対する反応が早く、1球ごとに球種や打者の特性を考慮して守備位置を変えるといった工夫を凝らした。並の遊撃手には難しい打球も正面に回り込んで難なく捕球してみせた。「ファインプレーを普通のプレーに見せる」と評されたゆえんである。

特徴的な一塁への送球は山下を山下たらしめている伝説の技といえる。打球に近づき、グラブの中でボールをふわりとさばいてサイドハンドから山なりの球を一塁に送る。ボールは計ったように打者走者が一塁に駆け込む寸前に一塁手のミットに収まった。打球の速さ、捕球位置、打者走者の足の速さなどを瞬時にとらえなければできない技であり、山下の守備技術の高さを物語っている。

全盛期には遊撃手の連続無失策リーグ新記録を打ち立て、後に自ら更新した。当時のダイヤモンドグラブ賞の遊撃手部門は山下の指定席であった。

遊撃手としての連続守備機会無失策記録(322, 1977年 - 1978年)は、山下の後の大洋の遊撃手として活躍した高橋雅裕に更新(353, 1988年 - 1989年)され、後にはヤクルト池山隆寛宮本慎也中日井端弘和が更新を重ねた。

[編集] 引退後

引退は1988年シーズン開幕の前日に突然発表された。横浜大洋はその年、背番号1を欠いたままシーズンを送ることになった。1989年から1992年までTBS野球解説者を務めた。その間、横浜大洋では1989年から谷繁元信捕手が背番号1を引き継いでいた。山下が守備走塁コーチとして横浜大洋から球団名が変更された横浜に復帰した1993年、監督に就任した近藤昭仁は「背番号1は捕手のイメージに合わない」として谷繁を8番に変更、内野手の進藤達哉(1992年まで36番)に1番を与えた。山下の前に大洋で1番を背負っていたのは当の近藤であった。

現役引退後はコーチ業で実績を残し、横浜ベイスターズが優勝した1998年にはヘッドコーチを務めた。2000年のシーズン終了後、権藤博監督とともに退任。権藤は著書の中で「彼は本当にチーム内の事を熟知していた。何でも知っているし、何を聞いても答えてくれる。とにかく引き出しがたくさんあるのだ。私が監督就任一年目で日本一になれたのも、彼の力に負うところがとても多かったように思う」と記している。[1]

その後はテレビの野球解説者に復帰した。NHKメジャーリーグ中継時は、7回裏に球場に流れる『私を野球に連れてって』に合わせて歌っていた。

2003年には生え抜きOBとして大きな期待の中で監督に就任する。しかし期待に比べて球団からの後方支援は手厚いとは言えなかった。慢性的な戦力不足を解消する糸口は与えられないまま迎えたシーズン、頼みの綱の主力は不振にあえいだ。投手陣は早々と崩壊し、守備のほころびも目立った。チームは開幕早々に最下位に沈み、閉幕まで最下位を独走した。最終成績は45勝94敗。同年のセントラル・リーグを制した阪神タイガースに途中16連敗も喫した。勝率は僅か.324と、ドラフト制度導入後のホエールズ、横浜大洋ホエールズ及び横浜ベイスターズにとっての最低勝率であった。

古巣横浜の監督として迎えた2年目、2004年は4月に単独首位に立つなど健闘したものの、徐々に調子を落として最終戦で最下位が決定した。同年オフ、山下は任期満了で退任した。在任2年間が連続最下位と振るわなかったが、権藤監督時代末期から森祇晶監督時代にかけて生じた球団内の不協和音を克服し、若手育成といった成果も一方では残した。

監督退任後は、2005年に創設された新球団東北楽天ゴールデンイーグルスに一軍ヘッドコーチとして迎えられた。優勝を含む3年連続Aクラスの横浜ヘッドコーチ時代の実績が評価されての招請だった(監督は田尾安志)。就任早々の5月にはチームの成績不振のため、二軍監督に配置転換される(なお、この年の楽天の最終勝率は2003年に山下自身が率いた横浜ベイスターズを下回る.281であった)。翌2006年から楽天の球団編成本部長を務め、2007年末で退任した。

2009年からメジャーリーグロサンゼルス・ドジャース傘下ルーキーリーグチームの守備コーチに就任した[2]

2012年より、古巣横浜DeNAベイスターズの二軍監督に就任することが発表された。

[編集] 略歴

  • 1974年 前年秋のドラフト1位指名(江川卓を回避)で大洋に入団。当初の背番号は20。中部謙吉オーナーは山下の入団を大変喜び、秋山登ヘッドコーチの提案もあってユニホームの色を出身地の静岡の名産にちなんだオレンジ(みかん)と緑(お茶)に変えた(これは親会社が食品会社なので食品にちなんだユニホームにしてイメージアップを図る意味もあった)。なお、この配色は湘南電車の色としても広く知られている。
  • 1975年 背番号を1に変更。遊撃のレギュラーに定着。
  • 1976年 ダイヤモンドグラブ賞を初受賞。以後1983年まで8シーズン連続で受賞(遊撃手としての受賞回数は現在も最多記録)。
  • 1977年~ 急速に頭髪が後退。1982年頃には現在のような後頭部にわずかに毛が残るだけの状態になってしまった。カツラメーカーからCM出演を打診されたが断る。代わりに出演したのが衣笠祥雄である。1980年代にアニメ映画化された『プロ野球を10倍楽しく見る方法』では、山下はあごひも付きの帽子・ヘルメット姿で描かれていた。
  • 1985年 二塁手へコンバート。
  • 1988年 キャンプ終了後、シーズン開始直前に突如現役引退。体力の限界、特に動体視力の低下が理由だった。引退後はTBS解説者・日刊スポーツ評論家を務めたほか、雑誌「Number」(文藝春秋)にコラムを連載。
  • 1993年 近藤昭仁監督に招聘され、横浜ベイスターズの初代内野守備コーチに就任。
  • 1996年 ファームヘッドコーチ就任。
  • 1998年 権藤博監督就任に伴い、ヘッドコーチとして一軍に復帰。チームのリーグ優勝および日本一に貢献。
  • 2000年 権藤監督とともに退団。
  • 2001年 NHK解説者となり、おもにMLB中継を担当。日刊スポーツ評論家も兼務。
  • 2003年 横浜ベイスターズの監督に就任。チームの打線に「大ちゃんス打線」というニックネームが付く(名付け親はセルジオ越後)。
  • 2004年 シーズン最終戦まで広島東洋カープと5位を争ったが、結局2年連続最下位に終わり監督を退任。
  • 2005年 東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッドコーチに就任も、開幕からわずか1か月強で2軍監督へ配置転換。フェニックスリーグでは、楽天球団初の優勝を飾る。シーズン終了後、同球団の編成本部長に転身。
  • 2007年 シーズン終了と共に退団。
  • 2008年 再び日刊スポーツ評論家に就任。TBSニュースバードtvkでも野球解説を務めた。
  • 2009年 アメリカ大リーグのロサンゼルス・ドジャース傘下のルーキーリーグチームの守備コーチに就任。
  • 2012年 横浜DeNAベイスターズの二軍監督に就任。

[編集] 人物

明るく誠実な人柄が持ち味。現在では煌々と光る自らの頭部をもアピールポイントにするユーモアも持ち合わせており、以下のような発言がある。

  • テレビカメラに向かって帽子を取り「はげましておめでとう」
  • 選手たちに対する訓話で「僕の頭のようになって欲しい。怪我(毛が)無く、明るく、輝いてほしい」
  • 風が強い日に「僕のヘアスタイルも乱れがちで…」
  • 横浜スタジアムの芝の張り替え工事の際は「ヘアースタイルが変わったようなもんでしょ?」
  • 楽天ヘッドコーチ就任時「チームを(自分の頭で)明るくしたい」「私は(スキン)ヘッドコーチ」「昔はノーエラーの山下。今はノーヘアーの山下です」
  • 楽天編成本部長時代の2007年に頭を剃り上げたケビン・ウィットが入団会見を行った際、「彼とはセイムヘッド(同じ頭)ですが息子ではありません」

主に横浜監督時に自ら盛り上げ役を率先し、チーム内の不協和音を克服している。夫人いわく「主人が人の悪口を言っているのを聞いたことがない」という。横浜が日本一になった権藤博監督時代には「深夜に呼び出しても山下は必ず来てくれて、よく愚痴を聴いてくれた」と言っている(永谷脩の著作より)。また駒田徳広が権藤に造反した際は駒田をフォローし、後日のインタビューで駒田に感謝されるなど人格者であった。

ただし屋鋪要によると、現役時代の1983年の試合中、高木豊が「オレらが点をとってもピッチャーがこう打たれちゃあなぁ」とぼやいていたところ、山下が「みんな一生懸命やっているんだから、そういうことを言うな!」と高木を叱責したことがあった[3]

英語が堪能で、日本ハムとのオープン戦トレイ・ヒルマン監督に英語で挨拶すると、ヒルマン監督に日本語で挨拶された。

2010年には日本経済新聞にマイナーリーグでの日常をレポートする「米国コーチ修行奮闘記」を月に1度程度のペースで連載した[4]。この中ではマイナーリーグの環境と比較すれば日本プロ野球の2軍はまだ恵まれていると指摘し、「薄給でも野球をやりたい」という情熱のある若者を日本のプロ野球界はくみ上げ切れていないのではないかと述べている[5]

[編集] 家庭環境

静岡に本社を置く病院・社会福祉施設向けリネンサプライ、介護用具レンタル・販売会社「ヤマシタコーポレーション」の創業家一族(兄が現社長)であり、山下自身も主要株主の一人である。

大洋に入団して寮に入るときに兄が自分の車で山下を寮まで送った。だが、それが高級外車であったために、寮にいた関係者はあぜんとしたという。「ヤマシタコーポレーション」の社長であった父親は、山下が早く野球界から足を洗って後継者である兄を助けて会社を盛り立ててくれることを2002年に亡くなるまで望んでいた。だが、父の死から半年後に古巣・横浜からの監督就任要請があると、山下はこれを引き受けてしまい、父親との約束を果たすことができなかった。
ただし、山下自身はこうした「金持ちの息子」という出自から来るさまざまな先入観に悩んでいた時期があるようである。横浜監督時代に親しい記者からそうした面で損をしているのでは?と問われた時に「生まれだけは自分ではどうしようもない」と嘆息したという。

2007年に東北楽天ゴールデンイーグルスが静岡の草薙球場でオープン戦を行った際にはヤマシタコーポレーションがメインスポンサーを務めている。

妻との間に子が3人(長男・長女・二男)いる。1981年に渋谷にある自宅(斜め向かいは五月みどり邸)の庭を拡張するため1坪40万円で土地を買ったが、4年後に1坪800万円に高騰した。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1974 大洋 92 186 166 15 30 1 1 4 45 9 1 1 1 0 13 0 6 37 3 .181 .265 .271 .536
1975 103 257 222 28 55 12 2 3 80 10 6 4 7 2 21 2 5 37 4 .248 .324 .360 .684
1976 113 428 380 47 105 19 2 7 149 21 14 9 4 1 41 1 2 43 5 .276 .349 .392 .741
1977 105 488 423 77 110 17 3 18 187 48 6 7 12 2 49 2 2 68 6 .260 .338 .442 .780
1978 129 546 466 55 118 22 8 9 183 41 8 2 14 2 61 4 3 77 12 .253 .342 .393 .735
1979 129 530 458 59 129 24 3 12 195 53 6 4 11 6 53 4 2 63 7 .282 .355 .426 .780
1980 121 461 419 50 111 21 4 9 167 41 15 6 9 3 29 1 1 52 9 .265 .312 .399 .711
1981 130 554 490 68 136 31 1 16 217 52 6 11 9 2 51 1 2 38 10 .265 .336 .443 .779
1982 130 592 519 79 144 23 2 18 225 42 3 4 12 2 54 5 5 50 3 .277 .350 .434 .784
1983 130 575 495 73 133 33 2 11 203 36 11 4 9 2 66 7 3 42 11 .269 .357 .410 .767
1984 116 468 413 38 102 6 0 6 126 33 4 3 14 5 36 1 0 36 9 .247 .304 .305 .609
1985 99 329 293 25 82 17 0 6 117 25 3 2 8 1 26 1 1 32 6 .280 .340 .399 .739
1986 118 381 343 31 91 14 0 7 126 33 9 2 10 4 22 2 2 52 3 .265 .310 .367 .677
1987 94 196 172 12 32 5 0 3 46 11 3 3 11 1 12 1 0 15 1 .186 .238 .267 .505
通算:14年 1609 5991 5259 657 1378 245 28 129 2066 455 95 62 131 33 534 32 34 642 89 .262 .332 .393 .725
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別監督成績

年度 球団 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム
チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2003年 横浜 6位 140 45 94 1 .324 42.5 192 .258 4.80 51歳
2004年 6位 138 59 76 3 .437 20.0 194 .279 4.47 52歳
通算:2年 278 104 170 4 .380 Bクラス2回

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • オールスターゲーム出場:4回 (1974年、1975年、1978年、1981年)
  • 遊撃手最高守備率 .988(1976、当時セ・リーグ最高)
  • 遊撃手連続守備機会無失策 205(1976/7/11~1977/4/5、当時セ・リーグ記録)
  • 遊撃手連続守備機会無失策 322(1977/8/28~1978/5/6、当時日本記録)
  • 通算1000試合出場 1982年7月22日(230人目)

[編集] 背番号

  • 20(1974年)
  • 1(1975年 - 1988年)
  • 80(1993年 - 2000年)
  • 86(2003年 - 2004年)
  • 77(2005年)
  • 88(2012年 - )

[編集] 関連情報

[編集] 出演番組

[編集] 出典

  1. ^ 権藤博、『教えない教え』、集英社新書、2010年、P196-197。
  2. ^ 元横浜監督の山下氏、ドジャースマイナーのコーチに 産経新聞 2008年12月16日閲覧
  3. ^ B・B MOOK 626 スポーツシリーズ NO.499『ホエールズ&ベイスターズ 60年の軌跡』 P32-33 ベースボール・マガジン社 2009年8月 ISBN 4583616171
  4. ^ 米国コーチ修行奮闘記(山下大輔)一覧”. 日本経済新聞. 2011年9月15日閲覧。
  5. ^ 米国コーチ修行奮闘記(山下大輔)「ハプニング連続でたくましく、中村君のマイナー挑戦」”. 日本経済新聞 (2010年8月4日). 2011年9月15日閲覧。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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