相川亮二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
相川 亮二
東京ヤクルトスワローズ #2
YS-Ryoji-Aikawa20120313.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県市川市
生年月日 1976年7月11日(38歳)
身長
体重
182 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1994年 ドラフト5位
初出場 1999年8月21日
年俸 1億1,000万円+出来高(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年
WBC 2006年2013年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

相川 亮二(あいかわ りょうじ、1976年7月11日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手捕手)。千葉県市川市出身。独身。

弟はファッションモデル俳優寿里

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

兄の影響で5歳で野球を始め、小学2年生の時に地元市川市リトルリーグに入る。このときのチームメイトにはG.G.佐藤がいた。子供の頃は横浜大洋ホエールズヤクルトスワローズのファンで、憧れていたプロ野球選手は屋鋪要池山隆寛であった。父がバスケットボールをやっていたこともあり、野球だけでなく様々なスポーツに取り組んでいた。中学校までは投手東京学館高校に入学後は外野手だったが、2年生の冬、外野守備を見ていた社会人チームの監督からの薦めで強肩を生かすために捕手へ転向。1学年下には後にプロでも同じチームに所属する石井弘寿がおり、バッテリーも組んでいた。

足も速く、3年生の春からは「1番・捕手」として活躍。高校時代は通算152安打を記録し、夏の千葉県大会はベスト8。捕手経験は4ヶ月程だったが、地肩の強さとバッティングセンスを買われ、1994年ドラフト会議横浜ベイスターズから5位指名を受け入団。同期には多村仁志福盛和男がいる。

横浜時代[編集]

捕手としての経験が浅いままプロ入りしたため、入団後しばらくは育成担当コーチの指導にただついていくという日々が続く[1]。2年目の1996年、教育リーグで首位打者となり打撃が開花。シーズンに入ってからも二軍で安定した成績を残すが、チーム事情から捕手のポジション争いが激しく、出場機会を得るために外野を守ることもあった。

一軍公式戦の初出場は入団5年目、1999年8月21日ヤクルト戦。9月3日阪神戦で初安打を放つ。翌2000年は当時の正捕手、谷繁元信が戦線離脱したのをきっかけにスタメン出場し、8月25日巨人戦では桑田真澄からサヨナラ安打を打つなど、徐々に頭角を現す。

森祇晶監督1年目の2001年も谷繁の控えながら代打などで活躍を見せ勝負強さを発揮する。5月3日のヤクルト戦で高校の後輩である石井弘寿からプロ初本塁打を放つ。オフに一度背番号25番への変更が決定し発表されたが、「変更するなら一ケタ」という相川本人の強い希望から25番のユニフォームを着ることなく59番に戻った。

2002年は谷繁の移籍により初の開幕スタメンを果たすなど正捕手候補と期待されたが、度重なる故障で離脱を繰り返し、谷繁と入れ替わる形で加入した中村武志がレギュラーとしてスタメンに就くことが多かった。

2003年も中村と併用が続くものの、5割近い盗塁阻止率を記録し存在感を見せる。この年からバッテリーコーチに就任した福田功の基礎からの徹底的な指導により自信を取り戻し、技術を身につけリードに成長をもたらすこととなった。

2004年、シーズン中にアテネオリンピック野球日本代表に選出され銅メダルを獲得。アテネオリンピック時に、裏方として貢献してくれた相川に、城島が自身のキャッチャーミットに投手陣からのメッセージとサインを募って贈呈。相川はそのミットが宝物と公言している。(アテネ五輪公式DVDより)。帰国後は好調な打撃を発揮し、中村の不振もあって、初めて100試合以上(102試合)に出場した。

2005年は自己最多の144試合出場を果たす。チームも4年ぶりのAクラス入り。前年まで投壊状態だった投手力も安定しチーム防御率もリーグ2位となるなど投手陣を引っ張り正捕手の座を不動のものとした。

2006年第1回WBC日本代表に選出される。この年から2008年まで横浜の選手会長を3年間務め、名実ともにチームの顔となった。

第1回WBCにて(2006年)

2007年は開幕から器用な打撃力で、高打率を保つ。プロ13年目にしてオールスターゲームに初出場。シーズン終盤、規定打席に到達させるために2番スタメンで出場したこともあり、初めて打率3割台を記録した。右肩の故障もあり盗塁阻止率は.250と低迷したが、攻守ともチームにも他球団にも強い存在感を見せた。北京五輪の代表候補選出では肩の故障が考慮され、星野仙一監督も相川の招集を見送るつもりだったが、手術を先送りして代表入りを熱望し、ギリギリまで代表の合同自主トレに参加していた。シーズン終了後、痛めていた右肩関節唇の手術を行った。契約更改で球団の提示額に不満を持っていたが、同時期に開催したクリスマスパーティーには女性を中心とする200人以上のファンが集まった。当初は20人集まれば良いとされていたイベントであったが、予想以上の人気により球団も考えを変え推定年俸1億円の大台に乗せ、「イケメン査定」として話題となった。

2008年は手術明けや故障で試合を欠場することも多く、チーム成績の低迷もあり、若手捕手に出場機会を譲ることもあった。持病の腰痛の再発もあって101試合出場の打率.255にとどまった。オフには海外FA権を行使し、アラン・ニーロを代理人としてメジャー挑戦を目指した。

ヤクルト時代[編集]

2010年4月3日(明治神宮野球場)

MLBの複数球団と交渉するも契約がまとまらず、2009年1月16日、唯一オファーしていた東京ヤクルトスワローズへの入団が内定した。これは、ヤクルト球団史上初のFA補強となり、FA補償は金銭補償となった。

相川が入団した際に、球団と古田敦也が推薦する選手が出るまで欠番となっていた背番号27を提示されたが、本人が辞退している。

2009年は開幕からスタメンマスクを被り、女房役としてチームの好調を支え、オールスターゲームにも選出された。クライマックスシリーズ争いが激しい最中、9月28日に左脇腹肉離れで登録抹消される。クライマックスシリーズにはケガをおして出場するもチームは敗戦。

2010年は引き続き正捕手を任される。開幕当初は打撃不振だったものの徐々に打撃の調子が上向き、打率2割台から5月には3割台にまで戻し、打順も上がって主に6番を打ち下位打線を支えた。最終的には打率.293に加え、6月4日西武戦から6日のロッテ戦にかけて、自身初の3試合連続本塁打を放ち、自己最多となる11本塁打65打点を記録した。また、チーム防御率もリーグ2位とリードでも貢献し、攻守に充実したシーズンとなった。

2011年8月26日の阪神戦でワンバウンドしたボールを右手に当てて親指の剥離骨折と亀裂骨折と診断される。1度は出場を見合わせるが、代わりにマスクを被っていた2番手捕手の川本良平も試合中に靱帯を断裂し離脱したため、骨折をしたまま最終戦まで強行出場した。

2012年、チームのキャプテンに就任。4月12日のDeNA戦で守備の際に相手打者のファウルチップを足に受け右足親指の末節骨骨折と診断され、開幕早々離脱してしまう。骨折から回復し一軍に戻ったものの、今度は8月16日広島戦でワンバウンド投球を止めに行ったときに胸に当て左第2肋軟骨を骨折。シーズン2度目の離脱となった。

2013年には、第3回WBC日本代表に選出された[2]。壮行試合のオーストラリア戦では逆転3ランとなる決勝本塁打を放ったこともあって、初戦のブラジル戦では、負傷した阿部慎之助に代わってスタメン出場した。

開幕から中村悠平との併用が続いていたが、4月7日の横浜DeNAベイスターズ戦の4回表に中村紀洋の右前安打で二塁ランナーのトニ・ブランコと本塁で交錯した。4回裏に打席に立ってタイムリーを放ったがそのまま交代。試合後の検査の結果、左肩鎖関節の亜脱臼と診断され離脱を余儀なくされた。怪我から復帰後も併用が続いていた中、9月14日の神宮球場での阪神タイガース戦で福留孝介の中前安打で本塁を突いたマット・マートンと交錯。激昂した相川はマートンに対して暴力行為を働いたとして自身初の退場処分となった。前年より出場試合数は減ったものの、打率・長打率共に向上し、打率.278ホームラン6本でシーズンを終えた。2010年以来となる盗塁も記録した。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

相川の打撃フォーム
(2011年10月15日、横浜スタジアム)

若手の頃から捕手の中では打撃の評価が高く、2007年に記録した打率.302は横浜の球団歴代捕手の中では最高打率である。

センター返しを基本とするセオリーに忠実な打撃で、捕手らしく配球を読んだ狙い打ちに挑む傾向がある[3][4]。速球に強く[5]、内角の球にも強い[6][7]

もともとセンターから逆方向を意識したバッティングが多かったが、2010年は広角に打球を放つようになり引っ張る長打も増えた。また、好機での勝負強い打撃を見せており、2006年から2010年までの通算得点圏打率.329と得点機に強い。

守備[編集]

捕手としては攻守ともに総合力が高く[8][9]、横浜時代に長年バッテリーを組んできたエースの三浦大輔からは「当たり前のことがすべて当たり前にできる捕手」と評されていた。積極的に3球勝負に持ち込む外角中心のリードを持ち味とする[4][10]館山昌平からは「配球やバッターに対する洞察力がすごい」と評されている[11]

盗塁阻止率はレギュラーに定着し始めた2004年から2010年までの通算31パーセントを誇る。特別な鉄砲肩というわけではないがスローイングが安定しており[3]、速い球を投げることよりも、リリースの早さとコントロールを重視しているという。サイド気味の低いリリースポイントから、野手が送球を受けて走者にタッチしやすいようにシュート回転のボールを投げる[12]。レギュラー定着前は盗塁阻止率が低く、これを改善し二塁送球を速くするため2003年から利き足を右足から左足に変える。小学生の頃にサッカーをやっており、そのときの利き足が右だったため極端に重心が左に乗っていたが、捕ってから投げるまでを早くするためにこれを矯正したという[13]。また、小中高と外野手で遠投の練習を続けてきたことが、捕手になってから送球、肩の強さに生きていると語る[14]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1999 横浜 8 8 8 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .250 .250 .250 .500
2000 39 82 73 6 16 2 0 0 18 7 0 0 3 1 3 0 2 11 2 .219 .266 .247 .512
2001 59 70 64 7 15 2 0 2 23 12 0 0 2 3 1 0 0 12 1 .234 .235 .359 .595
2002 73 184 174 16 39 6 0 1 48 12 0 1 1 1 6 3 2 34 5 .224 .257 .276 .533
2003 70 182 165 16 41 8 1 5 66 14 1 1 5 1 10 5 1 50 1 .248 .294 .400 .694
2004 102 323 304 31 80 16 1 8 122 46 3 0 5 1 13 2 0 77 8 .263 .292 .401 .693
2005 144 559 498 38 129 20 0 8 173 46 0 2 9 7 39 9 6 90 13 .259 .316 .347 .664
2006 119 438 388 36 95 19 0 6 132 39 2 1 9 7 29 10 5 83 11 .245 .301 .340 .641
2007 123 450 391 37 118 12 1 2 138 33 0 1 16 1 40 13 2 51 6 .302 .369 .353 .722
2008 101 339 306 27 78 5 1 7 106 22 0 1 11 1 19 3 2 52 7 .255 .302 .346 .648
2009 ヤクルト 122 446 413 26 102 21 1 5 140 43 2 2 6 3 23 3 1 69 14 .247 .286 .339 .625
2010 120 474 427 44 125 17 2 11 179 65 2 0 6 7 30 4 4 70 8 .293 .340 .419 .759
2011 126 458 409 24 100 14 1 1 119 33 0 0 11 4 30 5 4 62 13 .244 .300 .291 .591
2012 72 244 220 19 54 8 0 1 65 28 0 0 1 2 20 3 1 33 7 .245 .309 .295 .604
2013 66 239 219 23 61 13 0 6 92 30 1 1 4 2 14 1 0 42 2 .279 .319 .420 .739
通算:15年 1344 4496 4059 351 1055 163 8 63 1423 430 11 10 89 41 277 61 30 737 98 .260 .309 .351 .660

年度別守備成績[編集]


捕手
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 捕逸 守備率 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1999 6 10 0 0 0 0 1.000 2 2 0 .000
2000 17 95 10 0 0 0 1.000 12 6 6 .500
2001 21 52 4 1 2 1 .982 2 2 0 .000
2002 71 373 23 4 4 5 .990 33 26 7 .212
2003 63 352 26 2 6 1 .995 35 19 16 .457
2004 102 624 44 2 9 2 .997 58 40 18 .310
2005 144 1067 68 9 11 4 .992 89 61 28 .315
2006 116 825 71 5 13 4 .994 81 57 24 .296
2007 123 865 59 5 4 3 .995 80 60 20 .250
2008 101 575 69 4 8 5 .994 75 50 25 .333
2009 122 747 80 3 9 2 .996 75 45 30 .400
2010 120 828 82 2 11 8 .998 85 58 27 .318
2011 125 851 67 8 9 2 .991 63 42 21 .333
2012 68 394 43 5 5 1 .989 38 23 15 .395
2013 60 390 35 1 3 0 .998 35 24 11 .314
通算 1333 8048 681 51 94 38 .994
  • 2013年度シーズン終了時
  • 太字は各年度のリーグ最高

表彰[編集]

  • 「ジョージア魂」賞:1回 (2010年度第5回)
  • 県知事賞(2004年) - 千葉県より
  • 市民栄誉賞(2004年) - 千葉県市川市より
アテネオリンピック野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて

記録[編集]

初記録
その他の記録
  • 1イニング2三振:2005年4月3日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、5回表に記録[21]
節目の記録[22]
その他の記録

背番号[編集]

  • 59 (1995年 - 2003年、2004年アテネ五輪、2006年WBC)
  • 8 (2004年 - 2008年)
  • 2 (2009年 - 、2013年WBC)

脚注[編集]

  1. ^ リポビタンDプレゼンツ スポーツリアルトーク AMラジオ 1242 ニッポン放送 2009年4月20日~2009年4月24日
  2. ^ 第3回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)出場選手について 東京ヤクルトスワローズ公式サイト
  3. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、117頁。ISBN 978-4-7572-1744-7
  4. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクト、2008年、157頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  5. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2008』 白夜書房、2008年、53頁。ISBN 978-4-86191-374-7
  6. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2009』 白夜書房、2009年、129頁。ISBN 978-4-86191-508-6
  7. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2010』 白夜書房、2010年、43頁。ISBN 978-4-86191-595-6
  8. ^ 捕手の総合力比較SMR Baseball lab
  9. ^ Baseball Lab守備評価~CatcherSMR Baseball lab
  10. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年、136頁。ISBN 978-4-86191-246-7
  11. ^ 『プロ野球選手100人が選ぶ! 現役最強ベストナイン』 宝島社、2011年、34頁。ISBN 978-4-7966-8666-2
  12. ^ なぜ?相川 鉄砲肩でもないのに盗塁阻止率トップの秘密スポニチ、2012年2月3日
  13. ^ 貯金9、最多タイ ヤクルト躍進、支える相川(2009年6月14日、朝日新聞社)
  14. ^ ヒットエンドラン 2009年7月号(ベースボール・マガジン社)
  15. ^ a b 神奈川新聞、1999年9月22日。
  16. ^ 神奈川新聞、1999年9月4日。
  17. ^ 神奈川新聞、1999年10月14日。
  18. ^ 神奈川新聞、2000年8月21日。
  19. ^ 神奈川新聞、2001年5月4日。
  20. ^ 神奈川新聞、2003年9月20日。
  21. ^ 神奈川新聞、2005年4月4日。
  22. ^ [1]セ・リーグ公式サイト

関連項目[編集]

外部リンク[編集]