田代富雄
| 東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #82 | |
|---|---|
横浜ベイスターズ二軍監督時代
(2010年8月15日、横須賀スタジアム) |
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 神奈川県小田原市 |
| 生年月日 | 1954年7月9日(57歳) |
| 身長 体重 |
185cm 88kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 三塁手、一塁手 |
| プロ入り | 1972年 ドラフト3位 |
| 初出場 | 1976年4月4日 |
| 最終出場 | 1991年10月10日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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選手歴
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監督・コーチ歴
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この表について
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田代 富雄(たしろ とみお、1954年7月9日 - )は、神奈川県小田原市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、野球指導者、野球解説者。
2012年から東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍打撃コーチを務める。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 現役時代
当初は投手で、小田原市立酒匂中学校在学時はエースだった。藤沢商業高等学校(現藤沢翔陵高等学校)に進学し、2年生の時、野手(三塁手)に転向した。1973年のドラフトで大洋ホエールズに3位で指名され入団。背番号は生涯26番だった。
1976年、一軍に初昇格。1977年4月、11本塁打を放って月間MVPを獲得。三塁手のレギュラーに定着し、130試合フル出場。
長打力のある打者で、1979年には開幕戦で3本塁打を放つなど主力としてチームの2位躍進に貢献。1980年には自己最多の36本塁打を記録。現役前半は主に三塁、後半は一塁を守る事が多かった。1980年から6年連続20本塁打以上、1977年から10年連続2桁本塁打の記録を残し、大洋の主砲として活躍。
1986年6月18日の対広島戦にて一塁の守備中、打者走者の正田耕三と激突し左手首骨折。その故障以後、打撃成績は下降。
1991年10月10日、引退試合となった対阪神最終戦(横浜スタジアム)に先発出場し、第1打席で葛西稔から満塁本塁打を放った。この本塁打は、この年田代が放った、唯一のヒットでもあった。当初は試合の最後まで出場する予定だったが、この満塁本塁打を最後の打席とするために試合途中に交代した。
[編集] 引退後
tvk・ニッポン放送で野球解説をする傍ら、ラーメン好きが高じて神奈川県茅ヶ崎市でラーメン店「田代ラーメン」を経営。1997年より大洋の後身である横浜ベイスターズ二軍(2000年に「湘南シーレックス」と改称[1])打撃コーチに就任し、それと相前後してラーメン店は廃業した。
コーチとして、多村仁、金城龍彦、村田修一、吉村裕基といった野手を育てた。2001年まで湘南打撃コーチ、2002年は一軍打撃コーチ、2003年は再び湘南打撃コーチ、2004年~2006年は一軍打撃コーチを務めた後2007年からは湘南監督に就任した。
2009年5月18日、横浜ベイスターズの監督大矢明彦の無期限休養に伴い、一軍監督代行に就任。同年5月20日のロッテ戦で監督代行として初白星を挙げた。しかし、チームを立て直すことはできず、5位と16ゲーム差も離れた最下位でシーズン終了となり、一軍監督代行を退任した。
2010年からは再び湘南の監督に復帰し背番号は「76」から「78」に変更した。横浜球団は田代に対して来季からのフロント入り(編成担当)を打診したが、田代は「現場にこだわりがあり、背広は似合わない」と固辞した為、今季限りで横浜球団を退団する運びとなった。尚、シーズン最終戦まで指揮は執り9月27日退団した[2]。打診されたのは編成担当ではなく球団広報であった[3]。
2011年、韓国KBO・SKワイバーンズのコーチに就任[4]。だがシーズン中の8月18日、監督の金星根解任とともにSKのコーチを辞任した。
2012年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍打撃コーチを務める[5]。
[編集] 人物
現役時代のニックネームは「オバQ」。プロ入り当初、間の抜けた受け答えをした田代に対して、沖山光利コーチが呼び始めた。風貌がオバケのQ太郎に似ていたという説、ホームランがオバケのようにボールが飛んでいくからという説は関係ないという。
大洋では松原誠と双璧をなす長距離打者で、滞空時間の長い放物線を描くホームランを量産した。全盛期の横浜大洋初期時代に、球団の制度でヘルメットの横に打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を付けていたが、その星印が上の方(頭頂部)に近いぐらいになる程ホームランを量産した。
多くのホームランを量産したが、打率は低く、「人間扇風機」とあだ名が付いたように、3度のシーズン最多三振を喫するなど三振の多い打者(通算1081三振)でもあった。しかし、その三振の多さが「三振かホームラン」という田代のバッティングを証明するものであり、多くのファンの心に刻み込まれている。田代の晩年以降はチームとしてホームラン量産型(つまり「ホームランバッター」)の選手、特に日本人選手のそのタイプの選手が(村田修一入団前は)なかなか誕生しなかった為に、余計に「こんな時に全盛期の田代がいたらなぁ」と思う当時の横浜ファンも少なくなかった。[独自研究?]
長く大洋の主力選手として活躍しながら、一軍ではベストナインやゴールデングラブ賞も含めてタイトルを獲得していない(この時期の同じサードで阪神の掛布雅之や広島の衣笠祥雄というセ・リーグの看板選手がいたため)。また優勝も経験していない。オールスターゲームは1977年の一度のみ出場(1980年は選出されたが怪我により出場辞退)。
横浜スタジアム初の場外ホームランを放っている。
広島市民球場や阪神甲子園球場では、サードを守る田代に近い三塁側内野席のファンが辛辣な野次を飛ばした。標的はその顔に集中し、「ワリャ顔なんとかせいやぁ(お前、顔を直せよ)」といった理不尽な内容だった。[要出典]
引退後、茅ヶ崎市内で経営していたラーメン店がテレビ東京系『浅草橋ヤング洋品店』の中の「お料理水戸黄門」で取り上げられ、田代も加藤博一と共に出演したこともある。
引退した年のオフにゴルフ場で長嶋茂雄に会った際、現役選手に対して行うような励ましを受け、思わず頷いてしまった。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1976 | 大洋 | 89 | 247 | 235 | 18 | 60 | 8 | 1 | 8 | 94 | 21 | 0 | 0 | 2 | 0 | 9 | 0 | 1 | 56 | 5 | .255 | .286 | .400 | .686 |
| 1977 | 130 | 549 | 484 | 79 | 146 | 25 | 3 | 35 | 282 | 88 | 2 | 4 | 0 | 6 | 52 | 2 | 7 | 118 | 13 | .302 | .373 | .583 | .956 | |
| 1978 | 129 | 527 | 472 | 66 | 136 | 28 | 2 | 27 | 249 | 104 | 1 | 5 | 0 | 6 | 48 | 2 | 1 | 94 | 3 | .288 | .351 | .528 | .879 | |
| 1979 | 124 | 391 | 357 | 41 | 84 | 12 | 2 | 19 | 157 | 54 | 0 | 4 | 1 | 1 | 30 | 2 | 2 | 86 | 14 | .235 | .297 | .440 | .737 | |
| 1980 | 128 | 529 | 472 | 74 | 140 | 22 | 4 | 36 | 278 | 94 | 6 | 8 | 1 | 4 | 50 | 6 | 2 | 104 | 12 | .297 | .364 | .589 | .953 | |
| 1981 | 130 | 540 | 489 | 62 | 131 | 19 | 1 | 30 | 242 | 81 | 8 | 5 | 0 | 7 | 42 | 5 | 2 | 90 | 15 | .268 | .324 | .495 | .819 | |
| 1982 | 124 | 525 | 469 | 66 | 119 | 21 | 2 | 27 | 225 | 83 | 1 | 1 | 1 | 4 | 49 | 4 | 2 | 102 | 10 | .254 | .324 | .480 | .804 | |
| 1983 | 119 | 486 | 442 | 60 | 111 | 23 | 2 | 28 | 222 | 91 | 2 | 0 | 1 | 5 | 35 | 6 | 3 | 88 | 10 | .251 | .307 | .502 | .809 | |
| 1984 | 130 | 543 | 479 | 56 | 125 | 14 | 2 | 21 | 206 | 71 | 4 | 2 | 1 | 6 | 54 | 1 | 3 | 95 | 21 | .261 | .336 | .430 | .766 | |
| 1985 | 110 | 403 | 366 | 44 | 95 | 14 | 1 | 24 | 183 | 68 | 0 | 1 | 0 | 2 | 34 | 1 | 1 | 94 | 9 | .260 | .323 | .500 | .823 | |
| 1986 | 67 | 222 | 200 | 22 | 48 | 9 | 0 | 13 | 96 | 40 | 0 | 2 | 0 | 4 | 17 | 1 | 1 | 52 | 5 | .240 | .297 | .480 | .777 | |
| 1987 | 82 | 243 | 229 | 19 | 56 | 13 | 1 | 5 | 86 | 28 | 4 | 2 | 1 | 0 | 13 | 1 | 0 | 46 | 6 | .245 | .285 | .376 | .661 | |
| 1988 | 46 | 97 | 91 | 5 | 27 | 4 | 0 | 1 | 34 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 17 | 5 | .297 | .330 | .374 | .704 | |
| 1989 | 55 | 115 | 106 | 7 | 25 | 4 | 0 | 0 | 29 | 5 | 1 | 0 | 2 | 1 | 6 | 2 | 0 | 21 | 4 | .236 | .274 | .274 | .548 | |
| 1990 | 51 | 74 | 58 | 5 | 17 | 4 | 0 | 3 | 30 | 19 | 0 | 0 | 0 | 3 | 13 | 2 | 0 | 16 | 2 | .293 | .405 | .517 | .923 | |
| 1991 | 12 | 14 | 12 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 2 | .083 | .214 | .333 | .548 | |
| 通算:16年 | 1526 | 5505 | 4961 | 625 | 1321 | 220 | 21 | 278 | 2417 | 867 | 29 | 34 | 10 | 50 | 459 | 36 | 25 | 1081 | 136 | .266 | .328 | .487 | .816 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 通算監督成績
- 107試合 38勝69敗 勝率.355
[編集] タイトル
- イースタン・リーグ本塁打王(1975年)
- イースタン・リーグ打点王(1975年)
[編集] 表彰
- 月間MVP:2回(1977年4月、1980年5月)
[編集] 記録
- 5試合連続本塁打(1977年4月5日 - 4月10日)
- オールスターゲーム出場:1回 (1977年)
- 通算1000試合出場 1984年5月9日(245人目)
- 最多連続試合併殺打 5 (1979年10月21日~10月25日) ※日本記録・セ・リーグ記録
[編集] 背番号
- 26 (1973年 - 1991年)
- 75 (1997年 - 1998年)
- 76 (1999年 - 2009年)
- 78 (2010年)
- 89 (2011年)
- 82 (2012年 - )
[編集] 関連情報
[編集] 出演番組
[編集] 脚注
- ^ 「湘南シーレックス」は2010年度限りで廃止となり、2011年度より二軍も「横浜ベイスターズ」に統一され、親会社がTBSからDeNAに変更された2012年度より「横浜DeNAベイスターズ」となった。
- ^ “横浜・田代2軍監督退任へ 最終戦まで指揮は執る予定”. 夕刊フジ. 2010年9月17日閲覧。
- ^ “切り捨てられた横浜一筋33年の功労者 退団する田代二軍監督を直撃!”. 日刊ゲンダイ. 2010年9月27日閲覧。
- ^ “横浜退団の田代氏が韓国SKコーチに”. 日刊スポーツ (2010年11月15日). 2011年11月1日閲覧。
- ^ “来季のコーチ契約について”. 東北楽天ゴールデンイーグルス (2011年10月31日). 2011年11月1日閲覧。
[編集] 関連項目
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