野村謙二郎
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 大分県佐伯市 |
| 生年月日 | 1966年9月19日(42歳) |
| 身長 体重 |
176cm 78kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| 守備位置 | 遊撃手、三塁手、一塁手 |
| プロ入り | 1988年 ドラフト1位 |
| 初出場 | 1989年4月19日 |
| 最終出場 | 2005年10月12日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 銀 | 1988 | 野球 |
野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(内野手)。現在は野球解説者。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] アマチュア時代
- 佐伯鶴城高校では遊撃手として活躍。
- 1985年
- 駒澤大学に進学。
- 同大学史上初の1年春からベンチ入り。開幕戦から1番・ショートでスタメン出場し、レギュラーに定着。
- 1年春に1試合6打数6安打(6打席連続安打)をマークするなど早くも頭角を現す。
[編集] プロ入り後
- 1993年
- シーズンを通してリードオフマンに定着するも、盗塁が初めて20を割り込むなど低調な成績に終わる。
- 1994年
- 前半は打順に試行錯誤が行われたが、中盤以降は1番野村以下正田、前田、江藤で固定される。
- 8月3日から25日にかけて20試合連続安打を記録。
- 3年ぶりに3割を記録して打率.303、169安打でこの年から設けられた最多安打と、自己最高となる37盗塁で3度目の盗塁王を獲得。2冠に輝き、好成績をあげる。
- 1995年
- この年からインコースをさばくためにグリップの位置を高くしたフォームに改造する。この結果、打力・走力に加えて長打力が開花、シーズン前半は本塁打王争いをリードするなどの活躍を見せ、史上6人目のトリプルスリー(打率:.315、本塁打:32、盗塁:30)を達成。イチローとともに両リーグを代表するリードオフマンとして一躍注目を集めた。
- 5月13日から26日にかけて10試合連続得点を記録。
- 7月23日福岡ドームでの阪神大震災チャリティーマッチにジャパン・ドリームスの一員として出場。1番イチロー、2番野村のリードオフコンビが注目を集め、3回には二人の連打で一・二塁とした後にダブルスチールを決めて観客を沸かせた。
- 8月までは不動のリードオフマンとして活躍したが、9月から足の故障が癒えた緒方孝市が台頭して1番に定着したため、3番を打つようになる。
- 9月22日、当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で、1000本安打を達成。
- リードオフマンとしては異例のシーズン300塁打(308、リーグ最多)を達成、初の100得点も記録して2度目の得点王を獲得したほか、173安打で2度目の最多安打・ベストナイン、初のゴールデングラブ賞をそれぞれ受賞。攻・走・守がバランスよく揃った万能選手として、また内野の中心選手として、チームを引っ張った。どんなに点差のついた試合でもヘッドスライディングを果敢に行うなどの闘志溢れる全力プレーは、ファンを湧かせた。チームリーダーとして選手からの信頼も厚く、将来の監督候補としても期待され始める。
- 1997年
- リードオフマンに復帰。1番野村から緒方・前田・江藤・金本・ロペスと前年に続く強力打線の切り込み隊長を務めた。
- オフにFA権を取得。アメリカメジャーリーグのタンパベイ・デビルレイズからオファーが来るも、駒大時代の恩師(監督)・太田誠をはじめ周囲の人々の説得、そして野村自身の広島を愛する気持ちから残留を決意した。
- 1998年
- 当初は1番前田・3番野村と構想されたがまもなく1番野村・3番前田と前年と同じ打順に復帰。
- 9年連続2桁本塁打を達成。
- 3年ぶりに全試合出場を達成。
- 2001年
- 開幕当初は二塁手にコンバートされるが、すぐに三塁手に戻る。
- 9月27日、2年ぶりに先頭打者本塁打を記録(1回表初球)。
- 2002年
- 東出の故障の影響で再び遊撃を守るようになったが、自身も故障しプロ入り後最低の成績に終わる。
- 2003年
- 前年に続き左わき腹、右太もも裏など度重なる故障に苦しんだものの、三塁を守って.274を残す。
- 2004年
- 得点圏打率.329と勝負強さを見せた。
- 6月に右膝を負傷し1ヶ月欠場し、同年オフに手術する。
- 2005年
- 足の故障と手術、また打撃に専念させるのために一塁手にコンバートされる。
- 6月23日、広島市民球場で行われた対ヤクルトスワローズ戦の4回裏第2打席に川島亮投手から安打を放ち(打ったのはカーブ)、プロ野球史上33人目、大卒・社会人出身の選手としては15人目の2000本安打を達成した。
- 6月24日には広島県から県民栄誉賞が贈られることが発表され、7月9日の対読売ジャイアンツ戦前に広島市民球場で顕彰式が実施された。
- 2000本安打達成以後は代打の切り札として活躍が多くなった。
- 若手選手の成長もあり、9月14日に引退を表明した(引退会見は2日後の9月16日)。
- 1991年の優勝貢献、トリプルスリー、2000本安打の実績を球団が評価し、背番号7を永久欠番にする打診があるも野村本人が辞退し、本人の推薦が出るまでは永久預かりという形で準永久欠番となった。
- 引退試合となった2005年10月12日の対横浜戦(広島市民球場)では自身3年ぶりとなる1番打者での先発出場を果たし、プロで長らく守った遊撃手や中堅手を守り、ファンを魅了した。この試合では軽快な守備を見せ、6回に最後の安打となる2塁打を放った。
- 引退セレモニーで「今日集まってくれた子供達、野球はいいもんだぞ! 野球は楽しいぞ!」と球場にいる子供たちに呼びかけた。この言葉について、プロ野球のご意見番である大沢啓二と張本勲は「わざわざ『楽しい』って言わないと野球の楽しさが伝わらないって悲しいことだ。」と嘆いていた。
遊撃手に定着した1990年から1998年まで、ほとんどの試合に出場し、9年連続2桁本塁打、シーズン150安打以上を7度(あとの2年は148安打と149安打)、20盗塁以上を6度記録。1999年以降、怪我のため成績が低迷、安打のペースも鈍るが、直向きな全力プレーは変わらなかった。
[編集] プロ野球選手引退後
- 2007年
- 春季キャンプでは臨時コーチとして走塁指導をするなどしている。
- 2008年
- 北京オリンピックの野球競技で解説を務める。
- 2009年に行われるワールドベースボールクラシックの監督を決めるWBC検討会議のメンバーに選ばれ、第一回の会議で12球団の監督に代表候補を選んでもらうというアイデアを提案、採用されたが、中日の落合監督、ロッテのバレンタイン監督に提出を拒否されるなど若干空振りに終わった。
[編集] 経歴
- 初出場 1989年4月9日対阪神タイガース(広島市民球場・代走での出場)
- 初盗塁 1989年4月12日対横浜大洋ホエールズ(横浜スタジアム)
- 初安打 1989年5月4日対ヤクルトスワローズ(広島市民球場)
- 初打点 同上
- 初本塁打 1990年4月15日対読売ジャイアンツ(広島市民球場)
- 引退試合 2005年10月12日対横浜ベイスターズ(広島市民球場)
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] タイトル
- 最多安打:3回(1991年、1994年、1995年)※タイトル獲得数は2回(1994年から正式タイトルとなったため)
- 盗塁王:3回(1990年、1991年、1994年)
- ベストナイン:3回(1991年、1995年、1996年)
- ゴールデングラブ賞:1回(1995年)
[編集] 表彰
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1991年)
- 月間MVP:2回(1993年4月、1995年5月)
- 優秀JCB・MEP賞:2回(1994年、1995年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1995年)
- セ・リーグ会長特別表彰:1回(2005年)
[編集] 記録
- トリプルスリー:1回(1995年)
- シーズン150安打以上:7回(1991年、1992年、1994年 - 1998年)※歴代4位タイ。
- 5年連続シーズン150安打以上(1994年 - 1998年)※歴代5位タイ。
- 通算初回先頭打者本塁打:21本(表6本、裏15本)※歴代9位。
- 通算初回先頭打者初球本塁打:7本(表3本、裏4本)※歴代1位。
- シーズン初回先頭打者初球本塁打:3本(1990年 表2本、裏1本)※歴代2位。
- 2試合連続初回先頭打者本塁打(1997年8月21日 - 8月22日)
- 1試合3犠飛(1996年6月30日)※日本タイ記録。
- 3試合連続三塁打(1990年4月8日 - 4月11日)
- 20試合連続安打(1994年8月3日 - 8月25日)
- 10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日)
- オールスター出場:8回(1990年、1991年、1993年 - 1998年)
[編集] 記録達成歴
- 1995年9月22日対横浜ベイスターズ(横浜スタジアム) - 通算1000本安打達成(デニー友利から、181人目。857試合での達成は歴代9位)
- 1996年5月28日対中日ドラゴンズ(ナゴヤ球場) - 通算100本塁打(山本昌から、187人目)
- 1999年5月19日対阪神タイガース(米子球場) - 通算1500本安打達成(井川慶から、77人目。1289試合での達成は歴代5位)
- 2001年8月26日対阪神タイガース(甲子園球場) - 1500試合出場(6番サードで、133人目)
- 2001年10月6日対中日ドラゴンズ(広島市民球場)通算150本塁打(小笠原から、119人目)
- 2005年4月1日 - 通算300二塁打(42人目)
- 2005年6月23日対ヤクルトスワローズ - 通算2000本安打達成
- 2005年7月1日 - 通算250盗塁(37人目)
[編集] 年度別打撃成績
| 年度 | 球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
四 死 球 |
三 振 |
打 率 |
年俸 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1989年 | 広 島 | 7 | 88 | 151 | 29 | 39 | 4 | 5 | 0 | 53 | 12 | 21 | 10 | 21 | .258 | |
| 1990年 | 125 | 519 | 84 | 149 | 28 | 8 | 16 | 241 | 44 | 33 | 54 | 83 | .287 | |||
| 1991年 | 132 | 524 | 75 | 170 | 22 | 7 | 10 | 236 | 66 | 31 | 38 | 62 | .324 | |||
| 1992年 | 130 | 545 | 89 | 157 | 22 | 5 | 14 | 231 | 63 | 21 | 61 | 73 | .288 | |||
| 1993年 | 130 | 556 | 67 | 148 | 21 | 1 | 14 | 213 | 48 | 12 | 44 | 83 | .266 | |||
| 1994年 | 130 | 558 | 77 | 169 | 20 | 4 | 10 | 227 | 61 | 37 | 49 | 75 | .303 | |||
| 1995年 | 131 | 550 | 109 | 173 | 29 | 5 | 32 | 308 | 75 | 30 | 59 | 60 | .315 | 1億800万 | ||
| 1996年 | 124 | 514 | 77 | 150 | 30 | 3 | 12 | 222 | 68 | 8 | 43 | 63 | .292 | 1億7000万 | ||
| 1997年 | 131 | 540 | 81 | 151 | 25 | 0 | 13 | 215 | 52 | 26 | 59 | 68 | .280 | 1億9000万 | ||
| 1998年 | 135 | 561 | 75 | 158 | 26 | 4 | 14 | 234 | 49 | 15 | 44 | 63 | .282 | 2億 | ||
| 1999年 | 101 | 350 | 37 | 102 | 20 | 1 | 6 | 142 | 42 | 2 | 35 | 34 | .291 | 2億 | ||
| 2000年 | 61 | 208 | 15 | 50 | 4 | 1 | 2 | 62 | 17 | 1 | 18 | 22 | .240 | 2億 | ||
| 2001年 | 117 | 403 | 35 | 110 | 18 | 1 | 9 | 157 | 53 | 7 | 31 | 59 | .273 | 1億7500万 | ||
| 2002年 | 85 | 175 | 14 | 37 | 4 | 0 | 3 | 50 | 11 | 1 | 9 | 33 | .211 | 1億7000万 | ||
| 2003年 | 94 | 310 | 25 | 85 | 8 | 0 | 5 | 108 | 32 | 3 | 28 | 49 | .274 | 1億5000万 | ||
| 2004年 | 107 | 359 | 27 | 97 | 18 | 2 | 5 | 134 | 43 | 1 | 27 | 48 | .270 | 1億+出来高 | ||
| 2005年 | 106 | 272 | 19 | 75 | 14 | 0 | 4 | 101 | 29 | 1 | 19 | 42 | .276 | 1億+出来高 | ||
| 通算成績 | 1927 | 7095 | 935 | 2020 | 313 | 47 | 169 | 2934 | 765 | 250 | 628 | 938 | .285 | |||
- 太字はリーグ最高。
- 年俸は推定金額。
[編集] エピソード
- グリップの位置を高くした1995年以降、左打者としてインコース打ちの技術は球界屈指として知られていた。安定した下半身はインコースを攻められてもミートまで開かないため、ライト線へのライナーがファウルにならず、長打につながっていた。
- 1990年代の通算安打1527本は期間中1位、通算盗塁215は同僚の緒方孝市に次いで期間中2位である。[2]
- 全盛期の野村は強肩、好守で知られたが、守備機会の多い遊撃手ということを考慮しても失策数が多かった。これに関しては、守備範囲が非常に広かったことと、普通なら捕れない打球を全力で追い無理して捕球しようとするなどの、積極守備が原因だったともいわれている。
- プロ入り後しばらくは一塁への悪送球が目立ったが、1994年に身長190センチを超えるメディーナが一塁手になると、高い送球を問題なく受けられるようになり、野村自身のスローイングも安定し始めた。
- 怪我のため1999年後半以降はポジションを遊撃手から三塁手(一時期二塁手も守ったがすぐに三塁手へ戻った)、一塁手へと変えていった。また、2005年には一塁手の他に、キャンプの紅白戦で数試合のみ捕手を守ったことがある。
- 2年目の1990年に33盗塁で盗塁王を獲得しているが、逆に盗塁死も23個あり、成功率は高いとはいえなかった。しかし、翌1991年にはきっちり盗塁技術を向上させ、失敗数を減らしている(成功31、失敗5)。
- 左打者であることと俊足を生かし、1991年から1994年までリーグ最多内野安打を記録している。
- 全盛期は常に本塁打を10本以上打つなど、俊足・巧打に加え強打も兼ね備えたリードオフマンだったが、流石に打順の関係か、打点が100を超えることは無かった(トリプルスリーを獲得した1995年の75が最多)。
- プロ入り当初はスイッチヒッターで、右打席でも安打を打ったことがある。
- 1997年オフにFA権を取得、メジャーからのオファーを受けた際には恩師・太田誠(当時駒大野球部監督)と5時間にわたる会談を行い、「FA宣言せずに残留」を選択した。イチローが2001年にメジャー挑戦に向けて出発する際に電話を受けた件については「野村さんが先にいってくれると思っていた、ってね。ただ、自分の決断には後悔はないよ」とコメントしている。[3]
- 広島アスリートマガジンの対談からサンフレッチェ広島選手・森保一と意気投合し、現役時代にはお互いの試合を見に行ったり、合同自主トレを行っていた[4]。双方ともに現役引退した後も、吉田安孝が作ったフットサルチームに特別参加する[5]など、交流を続けている。ちなみに、双方共に現役時代の背番号は「7番」であった。
- 実弟・昭彦は同じく佐伯鶴城のエースとして1986年の夏の甲子園に出場しベスト8に進出している。大学も同じ駒沢大に進学し卒業後は日本石油に所属、現在は駒澤大学硬式野球部コーチ。
- 1996年3月15日に大分県佐伯市民栄誉賞を受賞。
- 温厚で面倒見の良い性格である為、現役時代日本人選手のみならずペレス等の外国人選手からも慕われていた。
- 冷静な野球解説をすることでしられている。
[編集] 参照
- ^ http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/05kikaku/nomura/5.html
- ^ http://www.baseball.per.sg/column/200002.htm
- ^ http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/05kikaku/nomura/4.html
- ^ http://www.sel.cs.hiroshima-cu.ac.jp/~sato/carp/diary/cd9601.html 1/17日参照
- ^ http://blog.yoshida-yasutaka.com/20060616.shtml
[編集] 現在の出演番組
- PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球(広島戦を中心に担当。まれに広島に絡まない試合も数本)
- テレビ宣言
- 進め!スポーツ元気丸(番組ホームページでは自身のコラムが不定期で連載)
[編集] 関連項目
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