永川勝浩

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永川 勝浩
広島東洋カープ #20
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県三次市
生年月日 1980年12月14日(28歳)
身長
体重
189cm
93kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 2002年 自由獲得枠
初出場 2003年3月29日
年俸 1億6,000万円(2009年)
経歴(括弧内は在籍年)

永川 勝浩(ながかわ かつひろ、1980年12月14日 - )は、広島東洋カープに所属するプロ野球選手投手)。

目次

[編集] 人物・プレイスタイル

最速153km/hの球威あるストレートと、2種類のフォークボール(落差の小さいカウントをとるフォークと、落差が非常に大きな空振りを取るフォーク)が武器。特に空振りを取るフォークは、打者の顔の高さから一気に落ちてワンバウンドするほど落差が大きく、石原慶幸しか止められないと言われる。フォークを決め球にする投手は、直球を主体に組み立てつつフォークで空振りを取りに行くスタイルが多いが、永川は投球の半分以上がフォークであり、カウントを整えるのも空振りを奪うのもフォーク、という極端なフォークピッチャーである。奪三振率が非常に高く、毎年投球回を大きく上回る奪三振数を記録している。

この投球スタイルのため、フォークの制球が甘くなると、まともに投球を組み立てることが出来ない。フォークでカウントを取れずに四死球でランナーを溜め、甘くなったストレートを痛打されるのが不調時のパターンである。フォークが思うように落ちないときには、代用としてプロに入ってから覚えたスライダーを多投することもある。また、前述のように永川のフォークをまともに捕球できる捕手は広島に石原しかいないため、倉義和など他の捕手とバッテリーを組んだ場合はフォークを投げる割合が減り、極端に崩れることがある。

ノーラン・ライアンを真似たという、セットポジションから上げた足(膝)が顎に当たる投球フォームが特徴。しかし入団当初からフォームがあまり良く無いと多くの評論家から指摘された。腰痛を持病にもつ。

チームメイトの梵英心は三次市の同じ少年野球チームに所属した幼なじみ。CHEMISTRY堂珍嘉邦は新庄高の2年先輩で、新人王を争った読売ジャイアンツ木佐貫洋、元中日ドラゴンズ選手の小山良男亜細亜大学時代の同期。いわゆる松坂世代の選手の1人である。

現在、広島選手会副会長。

2007年には日本テレビのドラマ「ドリーム☆アゲイン」の第1話冒頭で反町隆史演じる巨人の打者・小木駿介と劇中で対決するという設定で登場している。記録は9回ウラ2アウト満塁で空振り三振で勝った。

中学時代の3年間はバスケット部に所属。

マウンドでは意識的に恐い顔を作っているという。「抑えはやるか、やられるかのポジション。なめられたら終わり」といい、「恐い顔で得することはあっても、損することは絶対ない」と語ってる。

[編集] 経歴

広島県新庄高校から亜細亜大学を経て、2002年ドラフトにおいて広島東洋カープから球団史上初の自由獲得枠として入団。東都大学リーグ通算6勝4敗。通算防御率1.83。球団として8年間欠番が続いていた北別府学の永久預かり番号である背番号20を継承した。

[編集] プロ入り後

2003年2000年苫米地鉄人以来となる新人開幕一軍入り。前年30セーブを挙げた小山田保裕が故障で出遅れるとクローザーを任され活躍。新人としては球団最高の25セーブを記録。オールスターゲームにも出場。41イニングで16個と四球は少なく、50三振を奪った。10勝を挙げた木佐貫洋や25本塁打を打った村田修一とハイレベルな新人王争いを繰り広げ、結局新人王は木佐貫に譲った。

2004年は開幕から不調で、4月に4セーブを挙げたものの、5月1日の巨人戦で逆転負けを喫するとクローザーの役割を剥奪され、5月以降は0セーブに終わった。8月に一軍再昇格すると、8月15日の阪神戦で初先発し、勝利投手になった。この試合は、大竹寛が抑えで登板するという本来とは逆のパターンでの起用であった[1]。先発として球種が足りないためスライダーやカーブも駆使するピッチングだったが、速球で押す本来の良さが消えて長続きせず、右肩痛も重なり再度二軍落ちした。

2005年、クローザーのジョン・ベイルへつなぐ中継ぎとして起用された。キャンプで覚えたツーシーム、交流戦終盤から使い始めたスライダーで投球の幅を広げた。8月に右足内転筋を痛め一ヶ月戦列を離れたが、チーム最多、自己最多の57試合に登板し、守護神ベイル不在時はクローザーとしてもフル回転。狭い広島市民球場をホームにしながら被本塁打は2本、防御率は3.13と好成績を記録。

2006年、投球の2段モーションの規制により投球フォームを修正すると制球が前より安定しだした。開幕当初は中継ぎとして起用されたが、5月中旬、ベイルが左足内転筋痛により登録抹消されるとクローザーを担当。5月16日の西武戦で9回一死、8-7の一点差で登板し、2者を完璧に抑えシーズン初セーブ。その後も順調にセーブを重ねた。リーグ最多の65試合に登板し、岩瀬仁紀に次ぐ27セーブを挙げた。防御率も1.66と安定しており、クローザー転向後の救援成功率は79%を誇った。2度目のオールスターゲーム、オフの日米野球に出場。

2007年、近年の広島投手陣のクローザーは小山田保裕小林幹英のように1年間だけ好成績を挙げるものの、翌年には成績が急降下する例が続いていたが、永川は大野豊以来球団史上2人目の2年連続25セーブ以上球団記録を更新する31セーブを達成した。ただ制球力が前シーズンより不安定となり、特にフォークボールが打者の手前でワンバウンドし(自己最多の11暴投)、結果与四球率が高まった。そのためストライクを取りにいくストレートを痛打され、WHIPが前年より大きく悪化した。2試合連続でサヨナラ負けを喫するなどセーブ機会を10回以上も失敗し、同点や点差が大きく離れた試合等を含めると16回もチームの逆転負けに関わった。また不調による2軍落ちもあったため、31セーブを上げたとはいえ「クローザーの責務を果たした」とは言い難い不安定な内容のシーズンであった。

2008年、前年の不安定ぶりやフォーム改造の遅れの影響で、開幕を2軍で迎えたが、4月下旬に中継ぎで復帰した後、5月からはクローザーに復帰。フォーム改造が上手く行かず投球の大半をフォークに頼る苦しい投球を続けるが、結果としてシーズンを通して救援失敗が1度だけという抜群の安定感で、8月には大野豊以来球団史上2人目の3年連続20セーブを記録。9月には2年連続30セーブをあげ、9月12日には自らの球団記録を更新する32セーブ目を挙げた。最終的に藤川球児と並んでリーグ2位となる38セーブを記録。シーズン終了後に推定年俸が倍増の1億6000万円で契約更改し、チーム最高年俸となった。

2009年5月24日西武戦で、大野豊の記録を更新する球団新記録の通算139セーブ目を挙げた。

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
2003 広島 40 0 0 0 0 3 3 25 -- .500 178 41.2 40 3 16 1 2 50 7 1 20 18 3.89 1.34
2004 22 4 0 0 0 3 4 4 -- .429 201 41.2 53 10 30 1 0 48 7 0 39 37 7.99 1.99
2005 57 0 0 0 0 3 5 2 14 .375 311 69.0 72 2 33 2 3 79 6 0 30 24 3.13 1.52
2006 65 0 0 0 0 5 6 27 9 .455 283 70.2 45 5 24 2 0 86 7 0 15 13 1.66 0.98
2007 61 0 0 0 0 4 7 31 4 .364 270 61.2 51 5 33 1 2 74 11 0 28 21 3.06 1.36
2008 56 0 0 0 0 4 1 38 5 .800 239 61.0 33 3 24 2 1 64 3 0 12 12 1.77 0.93
通算:6年 301 4 0 0 0 22 26 127 32 .458 1482 345.2 294 28 160 9 8 401 41 1 144 125 3.25 1.31
  • 2008年度シーズン終了時

[編集] 背番号

  • 20(2003年 - )

[編集] 記録

[編集] ドラマ出演

[編集] CM出演

[編集] 脚注

[編集] 関連項目

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