山中正竹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山中正竹やまなか まさたけ1947年4月24日-)は、元社会人野球の選手・監督(ポジションは投手)である。左投げ左打ち。

[編集] 来歴・人物

大分県生まれ。大分県立佐伯鶴城高等学校を卒業後、法政大学に進学。1年次よりエースピッチャーとして活躍し、一年先輩の田淵幸一山本浩司富田勝ら「法大三羽ガラス」と共に、東京六大学リーグにおける法政大学の黄金時代を形成する大きな原動力となった。在学4年間で残した通算48勝(13敗)は、六大学リーグの最多勝記録である。

大学卒業後は住友金属工業に入社し、野球部の中心選手として活躍。1970年から1975年まで6年連続で、住友金属のエース、あるいは新日鐵広畑などの補強選手として都市対抗野球大会に出場するなど、社会人野球を代表する選手としてその名を轟かせた。

1980年に現役を引退し、翌1981年から住友金属の監督に就任。1982年には第53回都市対抗野球に優勝し、1983年1984年と2年連続で社会人野球日本選手権優勝を飾った。また、ソウルオリンピック1988年)では日本代表コーチとして、バルセロナオリンピック1992年)では日本代表監督として、二度のメダル獲得に大きく貢献している。

1992年、住友金属監督を退任。1993年より一年間、NHK高校野球大学野球の解説者を務めた後、1994年に母校・法政大学の監督に就任。退任する2002年までの間に、工学部教授を務めながら、六大学リーグに7度、全日本大学野球選手権大会に1度優勝(1995年)するなど、指導者としても法政黄金時代を築き上げた。

2004年横浜ベイスターズの専務取締役に就任。2006年にはワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表の技術委員を務めた。2007年現在は、プロ野球ドラフト会議にまつわる球団内の一連の問題の責任を取り、専務から常務に降格。その傍らで、ドラフト制度検討委員会の委員長も務めている。

[編集] 球歴

佐伯鶴城高(1963年~1965年)→法大(1966年~1969年)→住友金属(1970年~1980年)→住友金属監督(1981年~1992年)→法大監督(1994年~2002年)

[編集] 関連項目

先代:
鈴木義信1988年
オリンピック野球日本代表監督
(1992年)
次代:
川島勝司2000年
※カッコ内はオリンピック開催年。