佐藤真一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
佐藤 真一
東京ヤクルトスワローズ ヘッドコーチ #82
20111015 Shinichi Sato,coach of the Tokyo Yakult Swallows, at Yokohama Stadium.jpg
2011年10月15日 横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道札幌市豊平区
生年月日 1965年8月7日(48歳)
身長
体重
185 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1992年 ドラフト4位
初出場 1993年4月11日
最終出場 2005年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2006 - )
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 1992年
オリンピック
男子 野球
1992 野球

佐藤 真一(さとう しんいち、1965年8月7日 - )は日本の元プロ野球選手(外野手)。北海道拓殖銀行バルセロナオリンピック野球日本代表を経て、27歳でプロ入り。実働13年で、40歳を迎えるまで現役選手としてプレーした。 引退翌年の2006年より東京ヤクルトスワローズコーチを務め、2014年シーズンより一軍ヘッドコーチに就任。

来歴・人物[編集]

アマチュア時代[編集]

学生時代、勉学は常に学年でトップクラスの成績だった。甲子園などの大舞台への出場はならなかったが、野球部の中心選手として「文武両道」を地でいく活躍を見せ、東海大学付属第四高等学校時代には「松前賞」を受賞している。その後東海大へ進学し同期に荻原満首都大学リーグ通算28試合出場、104打数30安打、打率.288、15打点。卒業後は北海道拓殖銀行に入行した。

1990年8月アトランタでのアマチュア野球ワールドオールスターゲームで東軍代表(アジア・欧州・オセアニア、名誉監督王貞治監督山中正竹)として出場しハンク・アーロンが名誉監督の西軍代表(アフリカ・アメリカ)破り初代最優秀選手に。

1992年のバルセロナオリンピックではプロ入り後にもチームメイトとなる小久保裕紀伊藤智仁と共に山中監督率いる日本代表に選ばれた。当時から強肩で知られていたが、一次リーグ5試合目イタリア戦ではピッチャーとしてマウンドにも上がっている。打撃でも全日本の3番を打ち、銅メダル獲得に貢献した。

その年のプロ野球ドラフト会議福岡ダイエーホークスから4位で指名を受け、27歳にしてプロ入りを決めた。即戦力として期待され、背番号は「7」が与えられている。契約金1億円は下位指名では史上最高額、史上初の1位指名以外で契約金1億円突破。

プロ入り後・ダイエー時代[編集]

1993年は、1年目から一軍で56試合に起用されている。同年オープン間もない福岡ドームで開催されたフレッシュオールスターゲーム出場。(同年4月17日同球場初の公式戦でスコアが0-1で9回裏1アウト走者二塁、一発出ればサヨナラ本塁打の場面で代打出場し同試合完封記録の野茂英雄光山英和のバッテリーにキャッチャーへのファウルフライを喫した)

2年目の1994年は一軍で24試合に出場して1安打に留まった。当時の監督根本陸夫は、4番を打っていた秋山幸二が負傷欠場した際、他の選手の打順を繰り上げずに佐藤を4番で起用したこともあった。しかしこのように期待をかけられるも打撃で結果を出せずに、徐々に出番が減っていき、控えに甘んじることも多くなる。 翌1995年には王監督就任1年目だが僅か7試合の出場に終わり、同年オフに田畑一也と共に、柳田聖人河野亮との交換トレードヤクルトスワローズに移籍することになる。

プロ入り後・ヤクルト時代[編集]

ヤクルトスワローズに移籍後は、背番号「00」が与えられた。野村克也が監督在任中は守備固め中心の起用が続くことになるが、徐々に出場機会が増加していく。1997年の日本シリーズでは、8回裏1死2塁の場面で打席が回り、ダメ押しとなる2点本塁打を放っている。

同じ道産子、同じく札幌市内の私立高校で学んだ若松勉に監督就任1年目1999年は、シーズン途中6月からシュアな打撃で3番に定着した。最終的に113試合に出場し、規定打席未到達ながら打率.341、13本塁打、10盗塁と才能を開花させている。この時の25試合連続安打は、2013年現在もヤクルトのチーム記録である。

2000年も中心選手として期待され、背番号も一桁で東海大野球部の偉大な先輩原辰徳の現役時代と同じ「8」が与えられた。開幕直後から前年同様3番レフトでの起用が続いたが、4月終了時点で打率.241と極度の不振に陥った。それでも7月頭まで我慢の起用が続いたが、7月3日に登録抹消されることになる。続く2001年はプロ入り後初めて一軍出場なしとなってしまった。

2002年はキャンプ・オープン戦も二軍で過ごしたが、前年3番をつとめた稲葉篤紀が安定感に乏しく、5月に一軍に登録されると、6月には一時的に3番としてスタメンに返り咲いた。際立った成績は残せなかったものの、以降もセンターが手薄だったことから、強肩を期待されてたびたび起用されている。

2003年もほぼ一年間を一軍でプレーし、8月16日の対中日ドラゴンズ戦では、9回表に抑えの大塚晶則から逆転となる二塁打を放つなど、代打の切り札的存在としてパワーある打撃を見せた。驚異的な代打成功率を誇り、その勝負強さを発揮している。翌2004年は体力を不安視される形で打席数こそ減ったものの、スタメン出場も多く、一時4割を越える高打率をマークした。最終的にも.323の打率をマークしている。

現役引退の年となった2005年には、生え抜きの有名選手以外では珍しく、引退セレモニーも行われている。現役最終打席は代打で出場し、横浜ベイスターズ那須野巧からあわや本塁打というライトフェンス直撃の二塁打を放った。

引退後の2005年オフに守備・走塁コーチ(主に2軍、1軍は馬場敏史)就任(2007年オフからは一軍守備・走塁コーチとなった馬場の代わりに角富士夫との体制に)、2009年からは1軍打撃コーチ、2011年からは1軍打撃コーチ兼作戦担当を務める。

2013年10月23日2014年シーズンより一軍ヘッドコーチに就任することが発表された[1]

人物[編集]

フルシーズンの活躍といった目覚しい活躍はなかったものの、40歳まで現役を務めた。総じて目立つところの少ない選手であったが、チームメイトからの人望は厚く、引退直後から選手兼任監督となった古田敦也の元でコーチに就任している。

趣味はクラシック音楽鑑賞。数多いプロ野球選手(関係者)の中でポップスのジャンルを好む人は多いが、クラシック音楽の趣味を公表する人は非常に珍しい。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1993 ダイエー 56 107 100 11 18 6 0 0 24 6 1 2 0 0 6 0 1 19 0 .180 .234 .240 .474
1994 24 14 14 2 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .071 .071 .071 .142
1995 7 4 4 1 1 0 0 0 1 0 1 0 0 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .250 .500
1996 ヤクルト 61 139 124 19 24 8 0 2 38 7 1 1 0 0 11 1 3 14 3 .194 .275 .306 .581
1997 61 45 40 8 9 1 0 2 16 7 3 0 1 1 3 0 0 9 1 .225 .273 .400 .673
1998 30 24 21 2 4 1 0 1 8 4 0 1 0 0 3 0 0 5 2 .190 .292 .381 .673
1999 113 366 337 57 115 25 1 13 181 48 10 4 3 2 19 0 4 44 6 .341 .381 .537 .918
2000 70 253 230 30 52 11 0 8 87 19 4 0 1 2 18 1 2 33 8 .226 .286 .378 .664
2002 84 237 220 20 50 7 1 4 71 20 1 2 4 0 13 0 0 43 8 .227 .270 .323 .593
2003 76 221 206 16 57 7 2 4 80 31 4 1 1 3 6 0 5 38 1 .277 .309 .388 .697
2004 40 134 130 9 42 3 0 2 51 13 0 0 0 0 4 0 0 13 6 .323 .343 .392 .735
2005 7 15 14 0 3 1 0 0 4 0 0 1 0 0 1 0 0 2 2 .214 .267 .286 .553
通算:12年 629 1558 1440 175 376 70 4 36 562 155 25 12 10 8 84 2 15 220 37 .261 .307 .390 .697

記録[編集]

背番号[編集]

  • 7 (1993年 - 1995年)
  • 00 (1996年 - 1999年)
  • 8 (2000年 - 2005年)
  • 82 (2006年 - )

脚注[編集]

関連項目[編集]