ロバート・ローズ
| 基本情報 | |
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| 国籍 | |
| 出身地 | |
| 生年月日 | 1967年3月15日(44歳) |
| 身長 体重 |
180cm 85kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 二塁手 |
| プロ入り | 1985年 MLBドラフト5巡目 |
| 初出場 | MLB / 1989年8月12日 NPB / 1993年4月10日 |
| 最終出場 | MLB / 1992年5月19日 NPB / 2000年10月9日 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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ロバート・ローズ(Robert Richard Rose , 1967年3月15日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手。主に横浜ベイスターズで活躍した。
「ロバート」の愛称である「ボビー」と表記されることも多い。また、タフィ・ローズと区別するためR.ローズと表記されることがある。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1985年のMLBドラフト5巡目でカリフォルニア・エンゼルスに指名され契約。1989年、マイナーでの成績が認められ、メジャー初昇格。この頃より横浜大洋ホエールズの牛込惟浩スカウトから注目される。1992年、移動中の交通事故で骨折したために再びマイナーへ降格し、その年のオフに自由契約となったR.J.レイノルズと入れ替わりに「横浜ベイスターズ」と改称する直前の同球団と契約。
来日当初は併殺のとれる二塁手として打撃はあまり期待されておらず、守備要員という印象すらあった。同じく1993年に入団したグレン・ブラッグスの方が長打力があり評価が高かったが、驚異的と思えるほどの勝負強いバッティングを見せ、来日1年目から19本塁打ながら94打点を挙げ、打点王のタイトルを獲得。長年チームの正二塁手であった高木豊から完全にポジションを奪い、同年オフに高木を戦力外に至らしめた。ほとんど怪我をしない丈夫な選手で、1993年から1995年まで、来日から3年間全試合出場を果たした。1994年は後半戦、1番打者も多く務めた。
1996年、絶好調とはいかずとも、最終的には打率を3割に乗せ及第点の成績を残す。しかし、球団はローズのパワー面を物足りないと考えていて、オフの契約も微妙な状況であったと言われる。1997年シーズンは開幕から絶好調で、ブラッグス退団後の横浜の4番に収まった。翌1998年は開幕から不調に陥り、4番を外れることも多かったが、中盤より猛打を見せ「マシンガン打線」のポイントゲッターとして、1998年のリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。
1999年、一度引退宣言をしたが後に撤回。開幕から例年にないハイペースで打ちまくり、6月30日にはプロ野球史上初となる自身3度目のサイクル安打を記録。特に打点はシーズン記録(161打点)の更新が期待される程で、7月22日のヤクルトスワローズ戦では1試合10打点のセ・リーグタイ記録を達成した。前半戦を打率.388、27本塁打、100打点という成績で折り返し、史上初めて前半戦(81試合目)で100打点に到達した。7月25日に行われたオールスター第2戦では2度の満塁でのタイムリーヒットに加えソロ本塁打を放ち、オールスタータイ記録となる6打点を挙げてMVPに選出されている。
チームは3位に終わったものの、同年に記録した153打点は小鶴誠(松竹)の161打点(1950年)に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり打点王、更に右打者では当時史上最高の打率.369で首位打者、192安打は当時セ・リーグ歴代1位で最多安打、本塁打もリーグ3位の37本と、いずれも驚異的な打撃成績を残した。この年のセ・リーグMVPは優勝した中日の野口茂樹だったが、ローズも3位チームの選手であるにも関わらず、MVPの投票で5位につけた。
2000年にも2年連続でリーグ最多安打を記録するが、そのオフにアメリカでの生活を家族が望んだことや、高額となった年俸・複数年契約の希望など、横浜球団との条件面での折り合いがつかなくなったことから、横浜を退団・帰国した。
2年間のブランクの後、2002年シーズンオフに千葉ロッテマリーンズと契約し日本球界に復帰。しかし、春季キャンプ中の紅白戦で8打数無安打と極度の不振に陥り、そのままキャンプ途中に憔悴しきった表情で「野球に対する情熱と野球に関するすべてのものがなくなった」との記者会見を開き、プレーすることなく開幕前に退団、引退となった。
現在、横浜ベイスターズのチャンステーマにローズが現役の時のテーマ[1]が使われており(サヨナラ時、相手チームの投手交代時、東京ドームでの巨人戦で使用される。)、ジョン・シピン、カルロス・ポンセなどと並んで、球団史上に残る外国人選手の一人として今も多くのファンから愛されている。
横浜時代同僚だった駒田徳広は「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っている[1]。
[編集] プレースタイル・特筆
[編集] 打撃
来日当初はクローズド・スタンス、1995年頃はボールを良く見るために極端なオープンスタンスで打っていた。パワーのついた1999年頃はガニ股スタイルになるなど、打撃スタイルを微調整している。右打者であるが右中間から中堅方向の打球が多かった。特に右中間方向の打球に関しては、打った瞬間には平凡なライトフライのように見える打球がグングン伸びて本塁打ということも多かった。また内角高めの球に対しても、詰まらせるようにライト前に落とす打撃術により対応し、打率を維持した。三塁打も多く記録。横浜スタジアムでの練習時でスコアボードの一番上に打球をぶつけ、周囲の度肝を抜いたことがある。自宅にジムの機器を徹底して揃える程ウエイトトレーニングには熱心であり、入団1年目には180cm・85kgという登録だったが、横浜を退団する2000年には97kgにまで体重が増加していた。その結果は、1999年の37本塁打という長打力アップにも現れている。
在籍8シーズン中、打率3割を7回記録するなど通算打率.325を残している。生涯通算打率ランキングの条件となる4000打数まで71打数足りないが、仮にこの71打数全て凡退したとしても.319であり、ランキング1位のレロン・リーの打率.320に肉薄する。
[編集] 守備
守備範囲はそれほど広くはないが、外国人特有の肩の強さで貢献した。通常の二塁手のポジショニングより常にかなり深い位置に守り、完全にセンター方向へ抜けたと思われた打球や、通常であれば併殺が成立しないような打球を真正面で捕球して鋭い送球でアウトにすることも珍しくなかった。1999年の開幕戦ではヤクルト真中のファーストライナーを駒田が弾いてセカンド方向へボールが転がり、それをローズが素早く処理してピッチャー三浦にトスしてアウトにするという離れ業をしている。ローズ自身も肩には自信があり、横浜スタジアムでのスピードガンコンテストに出場し148km/hを記録したことがある。1996年に大矢明彦が監督に就任した直後のキャンプで、三塁手にコンバートされたが、失策を連発したこと、二塁手にコンバートされた進藤達哉の怪我などのより、すぐに二塁手に戻った。1998年にはゴールデングラブ賞に選出されている。ローズがベースカバーに入る二塁併殺は、堅守を誇った横浜守備陣の大きな武器となった。1997年のオープン戦でライトを守っている。また、1999年ごろからファースト守備もこなしている。
[編集] 走塁
足も決して速くはないが、走塁センスが抜群であった。無死あるいは1死で二塁上に走者がいる場合、右方向に低いライナー性の当たりが出た時は、通常走者は内野手の間を完全に抜けてからスタートを切るため一気に生還することは難しいが、ローズはそのような打球であっても、野手の守備位置や、打った打者のバットにボールが当たった角度などを瞬時に判断しスタートを切って生還することが珍しくなかった。
[編集] エピソード
巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかくシングルヒットを打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とまで恐れられていた。ローズが満塁で打席に入った際、豊田泰光(当時フジテレビ解説者)は、「私が敵の監督だったら『敬遠四球で押し出しで1点献上しても良い』と指示する。次打者も満塁男の駒田徳広だが、それ以上にこういうケースでローズは8割以上打つイメージがある」と言わせるほど、驚異的な勝負強さを誇っていた。[2]
グラウンド上では、審判への抗議や死球に対する報復行為とは無縁の紳士でもあった。ただし例外的にグレン・ブラッグスが与田剛の投球に激昂した際、二塁走者だったローズは逃げる与田を捕まえ、ブラッグスをアシストしたことがある[2](後年斎藤隆は「ブラッグスとローズのタッグは最強だった」とプロ野球珍プレー・好プレー大賞で語っている)。
1998年から2000年まで横浜の監督を務めた権藤博を「最高のボス」と慕っている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得したり、年俸の値上げを渋ったりする横浜フロントにわだかまりを持ち、1998年終了後には引退も考えていた。同年の夏頃これを憂えた権藤は球団通訳ではなく、英語を話せる自分の娘のみを同伴させて1対1でローズと腹の割った話をした。結果「権藤がボスでいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置いた。そして権藤が退任した2000年に、自らも横浜を去ることになる。引退の理由の一つに、家族との時間を大切にしたいということを挙げている。自分の知らないうちに娘がブラジャーをするようになっており、そのことに関して「娘の成長に目を向けられないほど、家族のことをほったらかしにしてしまっていた」という旨の発言をしている。
8年という長い間横浜球団に在籍していたが、当時横浜の渉外担当だった牛込惟浩によると、ローズは日本語を一切喋ろうとも、覚えようともしなかったと言う。これについて牛込は「あくまで自分はアメリカからの助っ人であり、日本に染まりたくはなかったのではないか」としている。また、「ベースボールマガジン」では来日当初は日本語を覚えようとしたが、結局「日本には野球をしに来ている」と割り切る思考に転換して、日本語を覚えるのを断念した、とあった。しかし孤立していたわけではなく、退団が決まった際、二遊間を組んだ石井琢朗や佐伯貴弘らは号泣したと言い、石井は当時受け持っていた週刊ベースボールのコラムに、ローズへのメッセージを掲載している。
- 憧れの選手はスティーブ・ガービーであった。
- 薔薇の絵柄をトレードマークとしており、着衣のワンポイントなどにしていた。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1989 | CAL | 14 | 42 | 38 | 4 | 8 | 1 | 2 | 1 | 16 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 1 | 10 | 2 | .211 | .268 | .421 | .689 |
| 1990 | 7 | 16 | 13 | 5 | 5 | 0 | 0 | 1 | 8 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | .385 | .467 | .615 | 1.082 | |
| 1991 | 22 | 69 | 65 | 5 | 18 | 5 | 1 | 1 | 28 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 13 | 1 | .277 | .304 | .431 | .735 | |
| 1992 | 30 | 96 | 84 | 10 | 18 | 5 | 0 | 2 | 29 | 10 | 1 | 1 | 1 | 1 | 8 | 1 | 2 | 9 | 2 | .214 | .295 | .345 | .640 | |
| 1993 | 横浜 | 130 | 544 | 486 | 61 | 158 | 33 | 4 | 19 | 256 | 94 | 2 | 3 | 1 | 4 | 47 | 8 | 6 | 63 | 16 | .325 | .389 | .527 | .915 |
| 1994 | 130 | 574 | 510 | 71 | 151 | 28 | 4 | 15 | 232 | 86 | 1 | 1 | 0 | 7 | 55 | 0 | 2 | 72 | 25 | .296 | .362 | .455 | .817 | |
| 1995 | 130 | 552 | 492 | 76 | 155 | 32 | 4 | 22 | 261 | 97 | 3 | 1 | 0 | 6 | 38 | 2 | 16 | 76 | 15 | .315 | .379 | .530 | .909 | |
| 1996 | 126 | 552 | 483 | 62 | 147 | 21 | 6 | 16 | 228 | 86 | 1 | 0 | 0 | 12 | 53 | 0 | 4 | 66 | 11 | .304 | .370 | .472 | .842 | |
| 1997 | 130 | 572 | 463 | 70 | 152 | 30 | 7 | 18 | 250 | 99 | 3 | 2 | 0 | 7 | 91 | 11 | 11 | 70 | 17 | .328 | .444 | .540 | .984 | |
| 1998 | 124 | 545 | 468 | 70 | 152 | 29 | 4 | 19 | 246 | 96 | 2 | 3 | 0 | 4 | 68 | 6 | 5 | 79 | 25 | .325 | .413 | .526 | .938 | |
| 1999 | 134 | 597 | 521 | 93 | 192 | 34 | 2 | 37 | 341 | 153 | 3 | 1 | 0 | 6 | 63 | 7 | 7 | 81 | 19 | .369 | .439 | .655 | 1.093 | |
| 2000 | 135 | 589 | 506 | 71 | 168 | 31 | 5 | 21 | 272 | 97 | 1 | 1 | 0 | 4 | 73 | 10 | 6 | 59 | 16 | .332 | .419 | .538 | .957 | |
| MLB:4年 | 73 | 223 | 200 | 24 | 49 | 11 | 3 | 5 | 81 | 23 | 1 | 1 | 3 | 2 | 15 | 1 | 3 | 33 | 5 | .245 | .305 | .405 | .710 | |
| NPB:8年 | 1039 | 4525 | 3929 | 574 | 1275 | 238 | 36 | 167 | 2086 | 808 | 16 | 12 | 1 | 50 | 488 | 44 | 57 | 566 | 144 | .325 | .402 | .531 | .933 | |
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] タイトル
- NPB
- 首位打者:1回 (1999年)
- 打点王:2回 (1993年、1999年)※1999年の153打点は外国人歴代1位
- 最多安打:2回 (1999年、2000年)
- 最高出塁率:1回 (1997年)
- 最多勝利打点:1回 (1994年)
[編集] 表彰
- NPB
- ベストナイン:6回 (1993年、1995年、1997年 - 2000年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1998年)
- 月間MVP:3回 (1995年7月、1998年9月、1999年6月)
- オールスターゲームMVP:1回 (1999年 第2戦)
- セ・リーグ会長特別表彰:1回 (1999年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1999年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1999年)
[編集] 記録
- NPB初記録
- 初出場・初先発出場:1993年4月10日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、5番・二塁手として先発出場
- 初打席・初安打:同上、2回表に斎藤雅樹から
- 初本塁打・初打点:1993年4月11日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、4回表に宮本和知から
- 100本塁打:1998年7月19日、対広島東洋カープ18回戦(横浜スタジアム)、6回裏に黒田博樹から中越ソロ
- 1000本安打:1999年6月19日、対ヤクルトスワローズ13回戦(函館オーシャンスタジアム)、2回表に石井一久から右前安打 ※史上195人目
- 150本塁打:2000年4月6日、対広島東洋カープ3回戦(広島市民球場)、6回表に高橋建から左中間へ満塁本塁打 ※史上111人目
- 1000試合出場:2000年8月17日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、4番・二塁手として先発出場 ※史上363人目
- その他の記録
- 1試合10打点:1999年7月22日(セ・リーグタイ記録)
- サイクル安打:3回 ※達成3度はプロ野球史上唯一
- 1回目:1995年5月2日、対中日ドラゴンズ戦、横浜スタジアム
- 2回目:1997年4月29日、対ヤクルトスワローズ戦、横浜スタジアム
- 3回目:1999年6月30日、対広島東洋カープ戦、県営富山野球場
- オールスターゲーム出場:4回 (1995年、1997年、1999年、2000年)
- オールスターゲーム1試合最多打点:6(1999年第2戦、タイ記録)
- シーズン192安打(二塁手記録)
[編集] 背番号
- 6 (1989年 - 1992年)
- 23 (1993年 - 2000年)
- 4 (2003年)
[編集] 脚注
- ^ 週刊ベースボール、2011年8月22日号、P31
- ^ 【6月30日】1999年(平11) 史上初!横浜最強助っ人3度目のサイクルヒット!
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
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