ロバート・ローズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ロバート・ローズ
Robert Rose
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州コビーナ
生年月日 1967年3月15日(47歳)
身長
体重
180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手
プロ入り 1985年 MLBドラフト5巡目
初出場 MLB / 1989年8月12日
NPB / 1993年4月10日
最終出場 MLB / 1992年5月19日
NPB / 2000年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ロバート・ローズ[1](Robert Richard "Bobby" Rose, 1967年3月15日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手

勝負強い打撃と堅実な守備で活躍。ジョン・シピンカルロス・ポンセなどと並んで、横浜ベイスターズの球団史上に残る外国人選手の一人である。

来歴・人物[編集]

アメリカ時代[編集]

1985年MLBドラフト5巡目でカリフォルニア・エンゼルスに指名され契約。1989年メジャーに昇格。この頃より横浜大洋ホエールズ牛込惟浩スカウトから注目される。メジャーでも将来を嘱望される野手だったが1992年5月ニューヨークからボルチモアへ移動中だったバスが交通事故を起こし足首をねんざしたため、マイナーへ降格させられる。この降格処分にローズは激怒し、監督と口論になったという。結局メジャーリーグでは通算73試合の出場にとどまった。肘の故障もありマイナーでも戦線に復帰できず、失意の中、同年オフの11月に「横浜ベイスターズ」と改称する直前の同球団と契約した。ローズ自身は、バス事故からベイスターズとの契約までの期間を、「ずっと眠っていて、起きたら日本にいたという感じだった」と表現している。

横浜時代[編集]

助っ人外国人として26歳の若さで来日。35万ドルという1年目の契約年俸や、開幕戦でいきなり犠打のサインが出たことからもわかるように、来日当初は併殺のとれる二塁手として打撃はあまり期待されておらず、守備要員という印象すらあった。同じく1993年に入団したグレン・ブラッグスの方が大リーグでの実績が格上で注目度も高かったが、オープン戦から確実性の高い打撃を見せつけ、開幕すると勝負強さも発揮し、来日1年目から首位打者打点王の二冠王争いをした[2]。オフにはベストナインを獲得する活躍で、長年チームの正二塁手であった高木豊三塁にコンバートされしばし守った後、最終的には一塁手に追いやられた。1993年4月10日の開幕戦から1996年4月23日まで、4月24日に風邪で欠場するまで405試合連続出場を果たすなど、体も丈夫な選手であった。入団時約3600万円だった年俸は、1995年のオフに1億円を超えた。1994年の後半戦に3番打者や1番打者として多く出場したり、ブラッグスが欠場した際は4番打者を打つこともあったが、基本的には4番ブラッグスの後ろの5番バッターを多く務めていた。

大矢明彦新監督の構想により3番打者として開幕を迎えた来日4年目の1996年も、序盤こそ守備位置のコンバートの影響もあったためか絶好調ではなかったが、最終的には打率を3割に乗せ及第点の成績を残す。しかし、球団はローズのパワー面を物足りないと考えていて、オフの契約も微妙な状況であったと言われる。しかし翌1997年ブラッグスが退団し、前年の終盤4番打者として育てていた鈴木尚典も怪我で開幕を出遅れると、半ば消去法的に4番打者に収まる。ローズ自身、自分は4番バッタータイプではないと考えていたというが、前年から一転し開幕から絶好調で、シーズンを通し4番打者として十分すぎる活躍を見せる。3番鈴木、4番ローズを中心としたいわゆる「マシンガン打線」もこのころ完成した。日本での活躍が認められ、オフには新設された大リーグ・ダイヤモンドバックスから獲得オファーが来るも、断っている。翌1998年は開幕から不調と怪我が重なり4番打者を外れることも多かったが、7月の末より猛打を取戻し、シーズン終盤、優勝争いに入り疲れと固さの見えていた打線のポイントゲッターとして、リーグ優勝、日本一に大きく貢献した。

1999年は、開幕から例年にないハイペースで打ちまくり、6月30日にはプロ野球史上初となる自身3度目のサイクル安打を記録。特に打点はシーズン記録(161打点)の更新が期待される程で、7月22日ヤクルト戦(横浜スタジアム)では1試合10打点のセ・リーグタイ記録を達成した。前半戦を打率.388、27本塁打、100打点という成績で折り返し、史上初めて前半戦(81試合目)で100打点に到達した。ユニフォーム姿の息子も一緒にベンチ入りした7月25日オールスター第2戦では2度の満塁でのタイムリーヒットに加えソロ本塁打を放ち、オールスタータイ記録となる6打点を挙げてMVPに選出されている。

チームは3位に終わったものの、同年の153打点は小鶴誠松竹)の161打点(1950年)に次ぐプロ野球歴代2位の記録となり打点王を獲得、更に右打者では当時史上最高の打率.369を記録し首位打者を獲得、また192安打は当時セ・リーグ歴代1位の記録となり最多安打も獲得、本塁打もリーグ3位の37本を記録するなど、いずれも驚異的な打撃成績を残した。この年のセ・リーグMVPは優勝した中日野口茂樹だったが、ローズも3位チームの選手であるにも関わらず、MVPの投票で5位につけた。

このように大活躍をしたシーズンであったが、そのペナントレース中盤に突如引退宣言をし周囲を驚かせた(公式戦閉幕後撤回し、現役続行)。

2000年も2年連続でリーグ最多安打を記録するが、そのオフにアメリカでの生活を家族が望んだことや、高額となった年俸・複数年契約の希望など、横浜球団との条件面での折り合いがつかなくなったことから、横浜を退団、帰国した。年俸で揉めて退団した選手を獲得すると球界に悪しき前例が残るとする当時の風潮もあり、いずれのチームもローズの獲得には乗り出さなかった。

横浜退団後[編集]

2年間のブランクの後、2002年シーズンオフに千葉ロッテマリーンズと契約し日本球界に復帰。しかし、春季キャンプ中の紅白戦で8打数無安打と極度の不振に陥り、そのままキャンプ途中に憔悴しきった表情で「野球に対する情熱と野球に関するすべてのものがなくなった」との記者会見を開き、プレーすることなく開幕前に退団、引退となった。

引退後はアメリカ・コロラド州の、自身の子供が通う高校で野球のコーチをしていたという。

2012年4月4日、横浜スタジアムでの新球団・横浜DeNAベイスターズ開幕戦の試合前のイベントで、1998年の横浜優勝時の監督、メンバーである権藤博佐々木主浩谷繁元信とともに登場。佐々木から「ヒット」を打った[2]

2013年よりテキサス・レンジャース1Aのコーチを務めている。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

長打はそれほどはないが、毎年打率3割、15本~20本塁打、90打点をコンスタントに記録できる安定感があった。在籍8シーズン中、打率3割を7回記録するなど通算打率.325を残している。生涯通算打率ランキングの条件となる4000打数まで71打数足りないが、仮にこの71打数全て凡退したとしても打率.319であり、ランキング1位のレロン・リーの打率.320に肉薄する。横浜時代に記録した1275安打は、外国人選手が一球団で放った安打数としてはレロン・リーについで史上2位である。また、チャンスに非常に強く、得点圏打率も毎年3割を超えた。

来日当初はクローズド・スタンス、1995年頃はボールを良く見るために極端なオープンスタンスで打っていた。パワーのついた1999年頃はガニ股スタイルになるなど[3]、打撃スタイルを微調整している。

右打者であるが右中間から中堅方向の打球が多かった。特に右中間方向の打球に関しては、打った瞬間には平凡なライトフライのように見える打球がグングン伸びて本塁打ということも多かった[4]。また内角高めの球に対しても、詰まらせるようにライト前に落とす打撃術により対応し、打率を維持した。横浜スタジアムでの練習時、スコアボードの一番上に打球をぶつけ、周囲の度肝を抜いたこともある。自宅にジムの機器を徹底して揃える程ウエイトトレーニングには熱心であり、入団1年目には身長180cm、体重85kgという登録だったが、横浜を退団する2000年には97kgにまで体重が増加していた。その結果は、1999年の37本塁打という記録に現れている。

しかし右の強打者の宿命ともいえる併殺打の数が非常に多く、ローズの後ろを打つ、併殺打数のセ・リーグ記録も持つ駒田徳広と毎年「併殺打王」を争った。25併殺打以上を二回記録したのは史上ローズのみである。

守備[編集]

二塁手として守備範囲はそれほど広くはなかった。しかし、マイナーリーグ時代は、ショートサードを主に守っていたように肩は強く[5]、二塁手の通常の守備位置よりも深い位置に守り、センター方向へ抜けたかと思われた打球を正面で捕球したり、一塁への鋭い送球でセカンドゴロや併殺を成立させることも多かった。1996年に大矢明彦が監督に就任した直後の春季キャンプでは、当時三塁手であった俊足の石井琢朗を、守備力を生かすために遊撃手にコンバートし、ローズは打撃に専念させることを目的として、アメリカ時代に経験のある三塁手にコンバートされた。しかし開幕から失策を連発したこと、また同時に遊撃手から二塁手にコンバートされた進藤達哉の怪我などにより、すぐに二塁手に戻った。優勝した1998年は、ゴールデングラブ賞の常連であった立浪和義外野手転向などもあり、二塁手部門で生涯唯一のゴールデングラブ賞を獲得している。ちなみに1997年のオープン戦で同じ内野手のビル・セルビーの加入に伴い、守備のバリエーションを増やすためと、自ら志願してライトを守っている。また、1999年から一塁の守備もこなしている。

走塁[編集]

横浜在籍8年間で16盗塁しか記録しておらず決して足は速くないが、打球が右翼方向に多いためでもあるが、横浜歴代3位(2012年現在)となる三塁打の多さが示す通り、走塁センスが良かった。野手の守備位置や、打者のバットにボールが当たった角度などを瞬時に判断しスタートを切れる判断力があり、脚力の割に走塁に安心感があった。サイクルヒットを生涯3度達成するというNPBで唯一の記録も持っている。

人物・その他[編集]

憧れの選手はスティーブ・ガービー

巨人のバッテリーミーティングにおいて、長打はともかくシングルヒットを打たれる分には投手能力をマイナスに査定しない、とされるほど恐れられていたという。ローズが満塁で打席に入った際、豊田泰光(当時フジテレビ解説者)に、「私が敵の監督だったら『敬遠四球で押し出しで1点献上しても良い』と指示する。次打者も満塁男の駒田だが、それ以上にこういうケースでローズは8割以上打つイメージがある」と言わせるほど、驚異的な勝負強さを誇っていた[6]

グラウンド上では、審判への抗議や死球に対する報復行為、ラフプレーとは無縁の紳士であったが、ベンチ裏では凡退をするとバットを叩き割ったりするなど熱くなることで有名であった[7]

1998年から2000年まで横浜の監督を務めた権藤博を「最高のボス」と慕っている。ローズは毎年のように自分に取って代わる外国人を獲得したり、年俸の値上げを渋ったりする横浜フロントにわだかまりを持ち、打撃不振に陥っていた1998年のシーズン序盤や、絶好調であった1999年のシーズン中も引退を考えていた。1999年の夏頃、これを憂えた権藤は球団通訳ではなく、英語を話せる自分の娘のみを同伴させて1対1でローズと腹の割った話をした。結果「権藤がボスでいる間は引退を考えないようにするよ」と権藤に全幅の信頼を置いた。そして権藤が退任した2000年に、自らも横浜を去ることになる。引退の理由の一つに、家族との時間を大切にしたいということを挙げている。自分の知らないうちに娘がブラジャーをするようになっており、そのことに関して「娘の成長に目を向けられないほど、家族のことをほったらかしにしてしまっていた」という旨の発言をしている。

8年という長きに渡り横浜球団に在籍していたが、当時横浜の渉外担当だった牛込惟浩によると、ローズは日本語を一切喋ろうとも、覚えようともしなかったと言う。これについて牛込は「あくまで自分はアメリカからの助っ人であり、日本に染まりたくはなかったのではないか」としている。もっとも、来日当初は日本語を覚えようとしていたというが、結局「日本には野球をしに来ている」と割り切る思考に転換して、日本語を覚えるのを断念したそうである。しかしチームから孤立していたというわけではなく、退団が決まった際、佐伯貴弘や二遊間を組んだ石井琢朗らは号泣したと言い、石井は当時受け持っていた週刊ベースボールのコラムに、ローズへのメッセージを掲載している。

日本時代は安室奈美恵のファンだったという。

現在、ベイスターズのチャンステーマにローズが現役の時のテーマ[3]が使われている[8]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1989 CAL 14 42 38 4 8 1 2 1 16 3 0 0 1 0 2 0 1 10 2 .211 .268 .421 .689
1990 7 16 13 5 5 0 0 1 8 2 0 0 1 0 2 0 0 1 0 .385 .467 .615 1.082
1991 22 69 65 5 18 5 1 1 28 8 0 0 0 1 3 0 0 13 1 .277 .304 .431 .735
1992 30 96 84 10 18 5 0 2 29 10 1 1 1 1 8 1 2 9 2 .214 .295 .345 .640
1993 横浜 130 544 486 61 158 33 4 19 256 94 2 3 1 4 47 8 6 63 16 .325 .389 .527 .915
1994 130 574 510 71 151 28 4 15 232 86 1 1 0 7 55 0 2 72 25 .296 .362 .455 .817
1995 130 552 492 76 155 32 4 22 261 97 3 1 0 6 38 2 16 76 15 .315 .379 .530 .909
1996 126 552 483 62 147 21 6 16 228 86 1 0 0 12 53 0 4 66 11 .304 .370 .472 .842
1997 130 572 463 70 152 30 7 18 250 99 3 2 0 7 91 11 11 70 17 .328 .444 .540 .984
1998 124 545 468 70 152 29 4 19 246 96 2 3 0 4 68 6 5 79 25 .325 .413 .526 .938
1999 134 597 521 93 192 34 2 37 341 153 3 1 0 6 63 7 7 81 19 .369 .439 .655 1.093
2000 135 589 506 71 168 31 5 21 272 97 1 1 0 4 73 10 6 59 16 .332 .419 .538 .957
MLB:4年 73 223 200 24 49 11 3 5 81 23 1 1 3 2 15 1 3 33 5 .245 .305 .405 .710
NPB:8年 1039 4525 3929 574 1275 238 36 167 2086 808 16 12 1 50 488 44 57 566 144 .325 .402 .531 .933
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル[編集]

NPB

表彰[編集]

NPB

記録[編集]

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録
  • 1試合10打点:1999年7月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(横浜スタジアム) ※セ・リーグタイ記録
  • サイクル安打:3回 ※史上46人目(達成3度はプロ野球史上唯一)
    • 1回目:1995年5月2日、対中日ドラゴンズ2回戦(横浜スタジアム) ※史上48度目
    • 2回目:1997年4月29日、対ヤクルトスワローズ4回戦(横浜スタジアム) ※史上49度目
    • 3回目:1999年6月30日、対広島東洋カープ11回戦(富山アルペンスタジアム) ※史上54度目
  • オールスターゲーム出場:4回 (1995年、1997年、1999年、2000年)
  • オールスターゲーム1試合最多打点:6(1999年第2戦、タイ記録)
  • シーズン安打:192(1999年) ※二塁手記録
  • シーズン打点:153(1999年) ※外国人歴代1位

背番号[編集]

  • 6 (1989年 - 1992年)
  • 23 (1993年 - 2000年)
  • 4 (2003年)

脚注[編集]

  1. ^ アメリカ球界での登録名は、「ロバート」の愛称である「ボビー」・ローズ。また、日本球界でも途中から登録名をボビー・ローズに変更している。
  2. ^ 打点王争いは、広沢克己との一騎打ちとなり、広沢が先に94打点を記録して10月19日に全日程を終了すると、ローズは翌10月20日のダブルヘッダーで、近藤昭仁監督の計らいによりチャンスの場面で代打で登場する。1試合目は凡退に終わったが、2試合目では犠牲フライを放ち広沢と並んだ。この試合ではもう1打席立って安打を放ち、打率でも首位に立ったが、翌10月21日トーマス・オマリーが2打数2安打の成績を残しローズを逆転したため、ローズは同日の最終ダブルヘッダーで再逆転を狙った。しかし1試合目は4打数1安打、1番打者として出場した2試合目も2打席を凡退し、その時点でオマリーを再逆転することがほぼ不可能になったためベンチに退き、結局打点王も広沢と同数で分け合うことになった。
  3. ^ 同僚だった多村仁は、2000年当時ローズの打撃フォームを取り入れていた。
  4. ^ 横浜時代同僚だった駒田徳広は「同じチームでやっていて、本当に心強かった。どんな球がきてもヒットにしてしまいましたから。やや差し込まれても、右中間に打球が飛んでいく。その技術は凄かったですね」と語っている(週刊ベースボール、2011年8月22日号、P31、ベースボールマガジン社より)。
  5. ^ ローズ自身も肩には自信があり、横浜スタジアムで行われた試合前のスピードガンコンテストで、148km/hを記録したことがある。
  6. ^ 【6月30日】1999年(平11) 史上初!横浜最強助っ人3度目のサイクルヒット!
  7. ^ また、ブラッグスが与田剛の投球に激昂した際、二塁走者だったローズは逃げる与田を捕まえ、ブラッグスをアシストしたことがある [1]。後年斎藤隆は「ブラッグスとローズのタッグは最強だった」とプロ野球珍プレー・好プレー大賞で語っている。
  8. ^ サヨナラのチャンス時、相手チームの投手交代時、東京ドームでの巨人戦で使用される。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]