河原純一
| 愛媛マンダリンパイレーツ | |
|---|---|
中日時代(2009年7月16日、阪神甲子園球場)
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 神奈川県川崎市中原区 |
| 生年月日 | 1973年1月22日(39歳) |
| 身長 体重 |
183cm 74kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1994年 ドラフト1位(逆指名) |
| 初出場 | 1995年6月3日 |
| 年俸 | 2,250万円(2011年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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河原 純一(かわはら じゅんいち、1973年1月22日 - )は、神奈川県川崎市中原区出身の愛媛マンダリンパイレーツに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
川崎北高校3年時に全国高等学校野球選手権神奈川大会準々決勝の対厚木高校戦で後に横浜に入団する川村丈夫と延長16回の投手戦を演じ、投げ勝っている。
駒澤大学に進み、東都大学野球連盟の新記録となる3度の最高殊勲選手に輝くなどエースとして活躍した。リーグ通算53試合に登板し23勝10敗、防御率1.66、258奪三振。最優秀投手に2度、ベストナインに2度選ばれた。また、2年次の第21回日米大学野球から3年連続で日本代表に選出され、全日本大学野球選手権大会を制した4年次には全日本アマチュア野球王座決定戦で社会人王者の日本通運を破って最高殊勲選手に選ばれ、日米大学野球でも最優秀投手となった。
1994年のドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。福岡ダイエーホークスとの大争奪戦の末の入団だった。
[編集] 巨人時代
1995年は、6月3日の対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)の初登板初先発で1回表に駒大野球部の先輩野村謙二郎に初回表先頭打者本塁打を打たれた。右肘側副靱帯断裂で離脱した桑田真澄をカバーする形で先発陣に入り、ルーキーながら8勝、そのうち阪神から3試合連続完封を含む6勝をあげる。
しかしその後は中々一軍で活躍できない時期が続く。1998年にはヒジを手術し、翌年までリハビリが続く事となる。
2000年はシーズン途中から先発入りし、リーグ1位タイとなる3試合完封勝利するなど[1]の成績を挙げていたが、私生活のトラブルに加え度重なる故障などで期待された成績を残せなかった。
2002年に原辰徳が監督に就任するとストッパーに抜擢され、7月は9試合に登板して1勝7セーブ 防御率0.00を記録するなど[2]、28セーブを記録。巨人のリーグ優勝・日本一に大きく貢献。オールスターゲームにファン投票で選出され、日本シリーズ第4戦では胴上げ投手になった。当時の投球フォームが2段モーションであったためか、ランナーを出したときのフォームが極端に安定しない弱点が2002年シーズン後半から徐々に見え隠れしており、翌年以降は救援失敗を繰り返す。
2005年、開幕直前の3月27日に、後藤光貴との交換トレードで西武ライオンズへ移籍。
[編集] 西武・浪人時代
移籍直後の4月9日の対ソフトバンク戦(福岡ドーム)で移籍後初先発初勝利を挙げると、6月11日のセ・パ交流戦(東京ドーム)で古巣巨人相手に勝利投手となった。同年は好投しても援護に恵まれないケースが多く、後半に調子を崩して大きく負け越したが、計算できるローテーションの一角としてチームに貢献した。しかし、シーズン終了直前の福岡ソフトバンクホークス戦で右ひざ靭帯を損傷し、オフに手術を受ける。
2006年は手術の影響により一軍登板はなかった。翌2007年は、2度先発登板したものの0勝2敗、防御率12.19と不振でオフに球団から戦力外通告を受けた。
その後11月17日に第1回12球団合同トライアウトに参加するも獲得球団は現れず、12月に浪人を決意し、母校駒澤大学で翌年のトライアウトに向けてトレーニングを行なった。この間にヒザの故障を完治させている。2008年、駒大の先輩である森繁和と連絡をとり、10月に中日ドラゴンズの入団テストを受け合格。1年ぶりの現役復帰を果たした。
[編集] 中日時代
2009年5月15日に2年ぶりに1軍に昇格。5月24日の日本ハム戦に2番手として登板し1回を0点に抑え、初ホールドを記録。以降は中継ぎとしてチームを支え、7月10日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤドーム)で、2005年6月11日以来となる勝利を挙げた。このシーズンは15ホールド・防御率1点台と「復活」と呼ぶに相応しい結果を残した。
2010年シーズンは調整の遅れなどから、7月にようやく一軍入りを果たし落合博満監督からも「アイツをずっと待っていたんだ」とコメントを残すなど期待されたが怪我で再び二軍落ち。終盤に再昇格するがこのシーズンはわずか4試合の登板にとどまった。なおこの年の1敗はリーグ優勝決定後に行なわれた公式戦最終戦でのものである。ポストシーズン(巨人とのクライマックスシリーズ、ロッテとの日本シリーズ)ではレギュラーシーズンを上回る計5試合にリリーフ登板している。
2011年は30試合に登板。1勝4敗、防御率2.65の成績だったが、10月19日に球団から戦力外通告を受けていたことが明らかになり[3]、10月29日に球団から正式に発表された。しかし、その後も日本シリーズ終了までチームに帯同し、ヤクルトとのクライマックスシリーズと福岡ソフトバンクとの日本シリーズ、計3試合でリリーフ登板した。その後、12球団合同トライアウトに参加。
[編集] 愛媛マンダリンパイレーツ時代
2012年2月22日、独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツとの入団交渉で合意に達する[4]。
[編集] プレースタイル
キレのあるストレートを主体に、多彩な変化球が持ち味。巨人時代は、140km/h中盤を超える伸びのあるストレートが武器であったが、現在は130km/h台後半から140km/h台前半のストレートと、スライダー・フォークを中心に時折緩いカーブを交え、丁寧にコースを突くスタイルになっている。
[編集] 人物
マウンド上ではめったに表情を崩さないポーカーフェイスであるが、高校時代の監督の教えによるものである。
巨人時代の2002年には、抑えというプレッシャーのかかるポジションを務めながらもポーカーフェイスを貫いていることについて、「日本一になる瞬間までとっておいているんです」と答えた。その言葉通り、日本一になった瞬間は満面の笑みで両手を上げた。
1996年6月16日には遠征先でホテルの門限を破ることが続いたためチームから罰金を科されているが、後に原監督が「こっちが心配になるくらい外出をしない」と著書の中で述べている。
プロ入り以来巨人・西武時代を通じて河原自身の希望で合宿所住まいをしていた。中日と正式契約前も、合宿所「昇竜館」に入っていたが、正式契約後、他所に引っ越した。
フジテレビ系・プロ野球珍プレー・好プレー大賞の2011年度大賞を受賞した。この時は捕手の谷繁元信がゲスト出演していて、彼の指示を無視し三塁へフォースアウトを狙うもカバーが間に合わず無人の三塁へ悪送球・サヨナラ負けという内容(4月20日、ヤクルト戦)に対し、谷繁は番組中で指示の無視等、相当なダメ出しをしていた。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | 巨人 | 19 | 14 | 4 | 3 | 1 | 8 | 6 | 0 | -- | .571 | 452 | 106.0 | 96 | 6 | 50 | 3 | 1 | 94 | 6 | 0 | 43 | 39 | 3.31 | 1.38 |
| 1996 | 9 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 216 | 50.0 | 53 | 6 | 19 | 0 | 2 | 45 | 1 | 0 | 25 | 25 | 4.50 | 1.44 | |
| 1997 | 25 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | -- | .667 | 197 | 45.0 | 37 | 1 | 25 | 4 | 2 | 35 | 7 | 0 | 14 | 13 | 2.60 | 1.38 | |
| 1999 | 8 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 0 | -- | .500 | 129 | 29.2 | 36 | 6 | 5 | 0 | 1 | 25 | 1 | 0 | 17 | 16 | 4.85 | 1.38 | |
| 2000 | 7 | 6 | 3 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 166 | 44.1 | 29 | 4 | 9 | 0 | 1 | 30 | 1 | 0 | 7 | 7 | 1.42 | 0.86 | |
| 2001 | 21 | 12 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2 | -- | .500 | 334 | 72.2 | 91 | 19 | 28 | 1 | 4 | 39 | 0 | 0 | 52 | 48 | 5.94 | 1.64 | |
| 2002 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 28 | -- | .625 | 196 | 50.0 | 44 | 8 | 6 | 2 | 0 | 61 | 1 | 0 | 16 | 15 | 2.70 | 1.00 | |
| 2003 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 7 | -- | .000 | 113 | 22.0 | 37 | 4 | 7 | 1 | 2 | 23 | 2 | 0 | 26 | 23 | 9.41 | 2.00 | |
| 2004 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | .000 | 68 | 15.1 | 20 | 5 | 5 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 11 | 11 | 6.46 | 1.63 | |
| 2005 | 西武 | 20 | 19 | 0 | 0 | 0 | 2 | 11 | 0 | 0 | .154 | 428 | 97.0 | 106 | 15 | 34 | 1 | 5 | 54 | 4 | 0 | 66 | 58 | 5.38 | 1.44 |
| 2007 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 50 | 10.1 | 16 | 4 | 5 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 14 | 14 | 12.19 | 2.03 | |
| 2009 | 中日 | 44 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 15 | 1.000 | 136 | 34.0 | 24 | 2 | 10 | 2 | 2 | 18 | 0 | 0 | 7 | 7 | 1.85 | 1.00 |
| 2010 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | .000 | 16 | 3.2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 2 | 4.91 | 1.39 | |
| 2011 | 30 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | 10 | .200 | 87 | 20.1 | 19 | 1 | 8 | 1 | 0 | 12 | 0 | 0 | 8 | 6 | 2.66 | 1.33 | |
| 通算:14年 | 275 | 70 | 8 | 6 | 1 | 31 | 42 | 40 | 27 | .425 | 2588 | 600.1 | 613 | 81 | 211 | 15 | 21 | 452 | 23 | 0 | 308 | 286 | 4.26 | 1.37 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
[編集] 記録
- 初登板・初先発:1995年6月3日、対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)、7回4失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に小早川毅彦から
- 初勝利・初完投・初完封:1995年7月9日、対阪神タイガース14回戦(東京ドーム)
- 初セーブ:1997年6月11日、対横浜ベイスターズ10回戦(横浜スタジアム)
- 初ホールド:2009年5月24日、対北海道日本ハムファイターズ1回戦(ナゴヤドーム)
- オールスターゲーム出場:1回 (2002年)
[編集] 背番号
- 15 (1995年 - 2005年途中)
- 12 (2005年途中 - 2007年)
- 60 (2009年 - 2011年)
[編集] 脚注
- ^ 2001 ベースボール・レコード・ブック 95頁 2000年度主要記録集「3勝すべて完封の河原」より。河原の3完封は、6月16日の阪神戦、7月9日と30日の中日戦である。同年の3完封は他に小宮山悟が記録している。
- ^ 週刊ベースボール2002年12/16号 58頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース統括 1位 読売ジャイアンツ」より。
- ^ 中日スポーツ2011年10月20日号より
- ^ “前中日・河原純一投手がMP入団へ”. 愛媛新聞社ONLINE. (2012年2月22日) 2012年2月22日閲覧。
[編集] 関連項目
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