トレイ・ヒルマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

トレイ・ヒルマン
Trey Hillman
カンザスシティ・ロイヤルズ 監督 #22
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州
生年月日 1963年1月4日(46歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 外野手
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督歴

トレイ・ヒルマンThomas Brad "Trey" Hillman1963年1月4日 - )は、アメリカテキサス州出身のプロ野球監督。

目次

[編集] 略歴

現役時代はメジャーリーグでの選手経験は無かったが、マイナーリーグで11年間監督経験を積む。その後テキサス・レンジャーズ育成部ディレクター兼フィールドコーディネーターを経て2003年より5年間に渡り北海道日本ハムファイターズの監督を務めた。背番号882008年カンザスシティ・ロイヤルズの監督に就任。新背番号は22

2003年
  • 5位と低迷。
2004年
  • 北海道移転元年。球団の北海道移転の際、様々なファンサービスを考案し、地元密着に大きく貢献。新庄剛志小笠原道大ら人気選手の活躍もあり、フランチャイズ札幌ドームの最終戦の対ホークス戦には1年目ながら球場いっぱいのファンを集めた。その地元の熱い応援を受けレギュラーシーズン3位の好成績でチームをプレーオフへ導いた。
2005年
  • チームが5位と低迷したが、フロントはファンサービスの評価と前年の3位を評価し続投。
2006年
  • 北海道日本ハムファイターズをレギュラーシーズン1位に導く。
  • 10月12日プレーオフを制し、25年ぶりにパシフィック・リーグ制覇。
  • 10月26日中日ドラゴンズとの日本シリーズを制し、遂に44年ぶりの日本一を達成。パシフィック・リーグフラッグに引き続き、日本チャンピオンフラッグが初めて津軽海峡を越えた。
  • 第2回KONAMI CUP・アジアシリーズ2006で、見事に2年連続で日本勢によるアジアチャンピオンになる。
    • プレイオフへ向けてのリーグ1位通過・プレイオフを制してのリーグ優勝・日本シリーズ優勝のそれぞれで毎回「シンジラレナ~イ」を発し、この年の流行語大賞トップ10に入った。他にも「マチガイナイ」「モンダイナイ」などの日本語を使用している。また2007年には、前年の「シンジラレナ~イ」から一転、「シンジテマシタ~」と言ってファンを喜ばせた。
2007年
  • 5月19日から6月8日にかけてチーム新記録となる14連勝を達成し、外国人監督としては最高の14連勝を記録した。この間の交流戦12連勝もプロ野球記録となっている。
  • 6月6日交流戦広島戦(札幌ドーム)において、交流戦では通常行われないことであるが、後述の様にブラウン広島監督とは親友の間柄であり、試合前の予告先発メジャーリーグでは慣例のため、試合前日の雑談の中でお互いの先発予定投手を木下達生ジャレッド・フェルナンデスと教えあう[要出典]。広島のナックルボーラー、ジャレッド・フェルナンデスが予告先発されたときは、自ら打撃投手となってバッターに指導した。また、スイッチヒッターフェルナンド・セギノールには「ナックルボーラーは右打席で打て」(普通は右投手には左打席で打つ)とアドバイスし、この作戦が的中して見事にホームランを放ち、4-1で勝利(フェルナンデスは7回1/3イニングを4安打4四球4失点で途中降板)、6月19日広島市民球場での対戦でも2本塁打を放ち、完全にカモにしている。1本塁打を含む4打数2安打2打点と活躍した稲葉篤紀は、試合終了後のコメントで「監督のナックルの方が凄かった」と語った。
  • 9月8日、「子供が多感な時期で、父親としての責任を全うしたい」という理由から、シーズン中に退任を表明。
  • 9月29日、球団史上初のリーグV2を達成(パシフィック・リーグ2年連続制覇、千葉マリンスタジアムにて)。
  • 10月18日、パリーグ・クライマックスシリーズを連覇(札幌ドームにて)。
  • 10月19日、カンザスシティ・ロイヤルズの監督として複数年契約が成立。
2008年
  • ロイヤルズはアメリカンリーグ中地区で4位。5年ぶりに最下位から脱出した。

[編集] 監督としての手腕

[編集] 采配

就任当初の2003年~2005年の3年間は、「相手に余計なアウトを与えない」という考えのもと、犠牲バントを極力避けて連打・長打で得点を狙う、攻撃的な野球を目指していた。

2004年は小笠原道大新庄剛志、この年本塁打王フェルナンド・セギノールなどの好調もあって3位となったものの、翌2005年はチーム全体で1151もの三振を喫し(プロ野球ワースト記録)、粗さと脆さが表面化し5位に沈む要因となった。

この反省から、2006年以降は大幅に方針転換し、一番森本稀哲の出塁→二番田中賢介の送りバント(この年34犠打、2007年はパ・リーグ新記録の58犠打)に代表されるように、バント・盗塁を多用して着実に先取点を取り、それを守り抜く野球となった。

その結果、2006年のリーグ優勝・日本一および、続く2007年のリーグ優勝を成し遂げた。

特に2007年は、チーム打率.259、総得点526、73本塁打(いずれもリーグ最低)という打撃成績にもかかわらず連覇を果たし、いわゆる「試合巧者」ぶりが際立ったシーズンとなった。

[編集] 戦力補強と選手育成

2003年オフには新庄剛志フェルナンド・セギノール、2004年オフには東京ヤクルトからFA宣言していた稲葉篤紀、2006年開幕直前に、岡島秀樹(現・レッドソックス)、2007年には東北楽天で勝ち星こそ少なかったが、安定した投球が持ち味のライアン・グリンを獲得。

監督自身も積極的な若手起用で、ドラフト会議で獲得した選手が数年でチームの主力になることもあった。主にダルビッシュ有MICHEAL武田勝八木智哉など。

上記の選手の活躍は、ゼネラルマネージャーだった高田繁(現・東京ヤクルト監督)の眼力によるものが大きいとはいえ、それらの選手を期待以上に成長させた手腕はヒルマンを高く評価する要因ともなっている。 またそれまで活躍できなかった中堅では高橋信二武田久、若手では田中賢介森本稀哲工藤隆人小谷野栄一金森敬之らを球団の主力選手まで成長させる。

その一方でベテラン選手の犠牲も大きかった。井出竜也奈良原浩を金銭面含め野手陣の若返りのためトレードなどで放出。また長年チームの中軸として活躍してきた田中幸雄は主に代打の切り札として起用され出場機会は激減。その事を日本ハムファンであるタレントの伊集院光に「ずっと日本ハムファンだが、ヒルマンはベテランを大事にしないから近年情熱が冷めた」などとラジオ番組で批判される。

例外として他球団を転々としていた中嶋聡に関しては、若手捕手のリードに不安を抱えるファイターズで主にリリーフキャッチャーとしての出場試合が多くなり3年間で200試合以上出場した。

上記の中嶋を含め岡島、坪井智哉横山道哉など他球団で一時的に活躍できなかった選手を再生するなど、「再生工場」ともいえる手腕も持っている。

[編集] ファンサービス

ファンサービスの意識も高く、ファンサービスを積極的に行う選手に特別ボーナスを与える査定を考案したり、自身も様々な企画を考案した。新庄剛志の過激すぎるとも思われたファンサービスも、ファン第一に考えるヒルマンの理解があったからこそ実現した。

[編集] 人物

  • マイナーリーグでの監督時代から、現・広島東洋カープマーティ・ブラウン監督とは親友の間柄であり、2006年のセ・パ交流戦では再会を喜び合った。
  • 温厚な性格で、わりとポーカーフェイスでもあり、試合中はほとんど感情を表に出さない。しかしお茶目な面もあるようで、新庄剛志らが『秘密戦隊ゴレンジャー』の被り物でベンチに座っていた時は、思わず笑いをもらしていた。また、自チームの投手(武田勝)が打席に立った際に、三球三振ではなく1球余分なボール球を相手投手に投げさせたときには手をたたいて大喜びしていた。
  • リーダーシップに関しては厳格であり、前述の金村の監督批判の際は、即座にスタッフに命じてロッカールームから金村の所持品を撤去させている。
  • テキサス州出身らしく、趣味はカントリーソングのギター弾き語り。毎年ファン感謝デーにはギターと自慢の歌声でファンを魅了している。稲田直人内野手も歌がうまいことで有名で、二人で地元のイベントに呼ばれ歌声を披露することもある。2004年のファン感謝デーには球団マスコットのB・Bのキーボード演奏で歌を披露した。また、クリスマスソングCDを自主制作し、ファン感謝デーの特設ブースで発売した。このCDの収益はすべてチャリティーに回された。
  • 好きな食べ物も地元テキサスの定番料理であるテクス・メクス料理。特にブリートが好きで、日本ではセブン-イレブンのブリトーをよく購入していた。2007年10月にはヒルマンがプロデュースするレストランでこれらの料理が振舞われた。その反面、日本食はほとんど口にしない。
  • また、地元企業のCMにも積極的に出演し、北海道ローカルの国民健康保険の保険料納入促進CMでは大泉洋と共演した。
  • 学生時代に体操部に所属していた経験があり、2004年9月21日のホーム最終戦やファン感謝デーにはB・Bと一緒にバック転を披露する。このとき靭帯を損傷するも、ファンにそれを気付かれることなく振る舞った。
  • 初来日の際、日本のプロ野球を勉強するために野球漫画『ドカベン』を読んでいた。来日してから、この漫画に出て来る一部の選手がフィクションだという事に気付く。来日後は日本人の気質の勉強のため新渡戸稲造の『武士道』を読んでいたという。
  • 日本ハムの監督になって初めて行ったことは、キャンプ地のロッカールームとブルペンの掃除。本人曰く「監督の仕事は、選手達に快適に野球をしてもらう事」とのこと。
  • ベンチでは、いつも片手にストップウォッチを持っている。
  • 熱心なプロテスタントのクリスチャンであり、宣教師でもある(キリスト教根本主義者)。2007年にはキリスト教系の財団が展開しているパワー・フォー・リビングの日本版テレビコマーシャルおよび雑誌・新聞広告に出演した。
  • 2007年シーズンにはヒルマンの強い要望で同じ大学出身のデーブ・オーウェンを一軍コーチ補佐に招聘。ヒルマンのMLBカンザスシティ・ロイヤルズへの移籍に際しても、オーウェンは共に移籍して同チームのベンチコーチに就任した。
  • 2003年から2005年までは、日本プロ野球12球団で最年少監督だった。2006年に古田敦也が当時40歳で東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督として監督に就任した事から2007年でその座を譲った。なお、両者とも2007年シーズンをもって退団した。
  • 2008年4月-5月は、ロイヤルズは2位だった。そのときに取り入れたのが円陣であり、日本で学んだ野球の習慣だった。

[編集] 監督としてのチーム成績

[編集] 日本

年度 チーム 背番号 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 年齢
2003年 平成15年 日本ハム 88 5位 140 62 74 4 .456 40歳
2004年 平成16年 北海道
日本ハム
3位 133 66 65 2 .504 41歳
2005年 平成17年 5位 136 62 71 3 .466 42歳
2006年 平成18年 1位 136 82 54 0 .603 43歳
2007年 平成19年 1位 144 79 59 5 .568 44歳
通算成績 689 351 323 14 .521
※1 2003年は140試合制
※2 2004年は135試合制(ストライキにより2試合削減)
※3 2005年から136試合制
※4 2006年、プレーオフでも優勝。リーグ制覇を果たす。
※4 2007年は144試合制
  • 優勝監督賞 - 2006年、2007年
  • 功労賞 - 2007年

[編集] メジャー

年度 チーム 背番号 順位 試合数 勝利 敗戦 勝率 年齢
2008年 KC 22 4位 162 75 87 .463 45歳
通算 162 75 87 .463

[編集] 球歴

  • 1985年、クリーブランド・インディアンス傘下のマイナーチームで選手契約(3年間)。
  • 1988年、インディアンスでスカウトに就任。
  • 1989年、ニューヨーク・ヤンキースとマイナーコーチ契約。
  • 1990年、オネオンタ・ヤンキース(1A)監督就任。52勝26敗で1位。
    • 1Aフロリダ・ステートリーグ最優秀監督。
    • ベースボール・アメリカ誌年、1A最優秀監督賞受賞。
  • 1991年~1992年、グリーンズボロ・ホーネッツ(1A)監督。
  • 1993年、プリンスウイリアムズ・キャノンズ(1A)監督。
  • 1994年~1995年、グリーンズボロ・バッツ(1A)監督。
  • 1996年、タンパ・ヤンキース(1A)監督。
  • 1997年~1998年、ノーウィッチ・ナビゲーターズ(2A)監督。
  • 1999年~2001 コロンバス・クリッパーズ(ヤンキース傘下3A)監督就任。99年には83勝58敗で1位となり、ベースボール・アメリカ誌から最有望監督賞に選ばれる。
  • 2002年、テキサス・レンジャーズ育成部ディレクター兼フィールドコーディネーター就任。
  • 2003年~2007年、日本ハムファイターズ監督。
  • 2006年、日本ハムをパシフィック・リーグ優勝、日本一、アジア一に導く。
  • 2008年~、カンザスシティ・ロイヤルズ監督。

[編集] 出演CM

[編集] 関連項目

先代:
大島康徳2000年 - 2002年
日本ハムファイターズ、北海道日本ハムファイターズ監督
2003年 - 2007年
次代:
梨田昌孝2008年 - )
カッコ内は監督在任期間。
他の言語