トレイ・ヒルマン

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トレイ・ヒルマン
Trey Hillman
ニューヨーク・ヤンキース コーチ
Trey Hillman 2013.jpg
2013年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 テキサス州
生年月日 1963年1月4日(51歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1985年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

トーマス・ブラッド・“トレイ”・ヒルマン(Thomas Brad "Trey" Hillman, 1963年1月4日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州出身のプロ野球監督・コーチ。現在はMLBニューヨーク・ヤンキースのスペシャルアシスタントを務めている。

経歴[編集]

現役時代はメジャーリーグでの選手経験は無かったが、マイナーリーグで11年間監督経験を積む。その後テキサス・レンジャーズ育成部ディレクター兼フィールドコーディネーターを経て2003年より5年間にわたり北海道日本ハムファイターズ2008年から2010年シーズン途中までカンザスシティ・ロイヤルズの監督を務めた。

日本ハム監督時代[編集]

就任1年目の2003年は5位と低迷するものの、球団の北海道移転元年の2004年は様々なファンサービス[1]を考案し、地元密着に大きく貢献。新庄剛志、小笠原道大ら人気選手の活躍もあり、フランチャイズの札幌ドーム最終戦の対福岡ダイエーホークス戦には1年目ながら球場いっぱいのファンを集めた。レギュラーシーズン3位の好成績でチームをプレーオフへ導いた。2005年は7月に実母死去に伴い一時帰国。帰国中の間、白井一幸ヘッドコーチが監督代行を務めた。チームは5位と低迷したが、フロントはファンサービスならびに前年の3位を評価し、留任。

2006年はチームをレギュラーシーズン1位に導き、10月12日にプレーオフを制し、25年ぶりにパシフィック・リーグ制覇。10月26日に中日ドラゴンズとの日本シリーズを制し、遂に44年ぶりの日本一を達成。日本ハムファイターズとしては初の日本一となった[2]。パシフィック・リーグフラッグに引き続き、日本チャンピオンフラッグが初めて津軽海峡を越えた。第2回KONAMI CUP・アジアシリーズ2006で、見事に2年連続で日本勢によるアジアチャンピオンになる。

プレーオフへ向けてのリーグ1位通過・プレーオフを制してのリーグ優勝・日本シリーズ優勝のそれぞれで毎回「シンジラレナ〜イ」を発し、この年の流行語大賞トップ10に入った。他にも「マチガイナイ」「モンダイナイ」などの日本語を使用している。また2007年には、前年の「シンジラレナ〜イ」から一転、「シンジテマシタ〜」と言っている。

2007年は5月19日から6月8日にかけてチーム新記録となる14連勝を達成した。これは、外国人監督としての最高連勝記録であり、この間の交流戦12連勝もプロ野球記録となっている。広島のナックルボーラー、フェルナンデスの先発が予想されたときは、自ら打撃投手となってバッターに指導した。また、スイッチヒッターフェルナンド・セギノールには「ナックルボーラーは右打席で打て」(普通は右投手には左打席で打つ)とアドバイスし、この作戦が的中して見事にホームランを放ち、4-1で勝利(フェルナンデスは7回1/3イニングを4安打4四球4失点で途中降板)し、6月19日の広島市民球場での対戦でも2本塁打を放ち、完全にカモにしている。1本塁打を含む4打数2安打2打点と活躍した稲葉篤紀は、試合終了後のコメントで「監督のナックルの方が凄かった」と語った。

9月8日、「子供が多感な時期で、父親としての責任を全うしたい」という理由から、シーズン中に退任を表明。9月29日、球団史上初のリーグV2を達成(千葉マリンスタジアムにて)。10月18日、クライマックスシリーズ優勝(札幌ドームにて)。翌10月19日、カンザスシティ・ロイヤルズの監督として複数年契約が成立。日本ハム監督としては同年の日本シリーズまで指揮を執るも、中日ドラゴンズに1勝4敗で敗れる。

米球界復帰[編集]

アメリカンリーグ中地区のロイヤルズは、2007年まで4年連続最下位と低迷を続けており、ヒルマンにはチームの再建が託されていた。就任一年目の2008年、ロイヤルズは4位になり、5年ぶりに最下位から脱出した。しかし2009年クリーブランド・インディアンスと同率最下位(4位)に終わった。

2010年スコット・ポドセドニックの加入で背番号22を彼に譲り、日本ハムの監督時代に付けていた88番に変更した。レギュラーシーズンが始まるとチームは最下位に沈み、5月13日、ヒルマンは成績不振のため監督を解任された(解任時点での成績は12勝23敗)。後任には元ミルウォーキー・ブルワーズ監督のネッド・ヨストが就任した[3]

2011年よりロサンゼルス・ドジャースのコーチを務め、2013年シーズン終了後に解任された[4]

2013年12月20日、2014年シーズンからニューヨーク・ヤンキースのスペシャルアシスタントに就任することを球団が発表した[5]

監督としての手腕[編集]

采配[編集]

就任当初の2003年~2005年の3年間は、「相手に余計なアウトを与えない」という考えのもと、犠牲バントを極力避けて連打・長打で得点を狙う、攻撃的な野球を目指していた。

2004年は小笠原道大新庄剛志、この年本塁打王フェルナンド・セギノールなどの好調もあって3位となったものの、翌2005年はチーム全体で1151もの三振を喫し(プロ野球ワースト記録)、粗さと脆さが表面化し5位に沈む要因となった。この反省から、2006年以降は大幅に方針転換し、1番・森本稀哲の出塁→2番・田中賢介の送りバント(同年34犠打、2007年はパ・リーグ新記録の58犠打)に代表されるように、バント・盗塁を多用して着実に先取点を取り、それを守り抜く野球となった。その結果、2006年のリーグ優勝・日本一および、続く2007年のリーグ優勝を成し遂げた。

特に2007年は、チーム打率.259、総得点526、73本塁打(打率はリーグ5位、総得点・本塁打はリーグ最低)という打撃成績にもかかわらず連覇を果たし、いわゆる「試合巧者」ぶりが際立ったシーズンとなった。

一方で2007年の日本シリーズ開幕直前にロイヤルズで入団会見を行ったことについてはファンはもとより中心選手の森本稀哲や稲葉からも批判の声が挙がった他、ヒルマンを評価していた野村克也豊田泰光からも「敵前逃亡に等しい行為」と酷評された。一時の帰国がロイヤルズの監督就任の口実だったことが分かると、チーム内には白けた空気が漂ったという[6]。また、4番を打ち1・2戦で本塁打を打ったフェルナンド・セギノールは移動日の間、今年限りで解雇されるという話をヒルマンやコーチがしていたことを伝え聞き、以後の試合ではプレーに集中力が欠けてしまった[6]。第3戦では3番の稲葉、4番のセギノールを序盤で大差がついたため途中交代させたことも批判の要因になった。5試合の平均得点は1・4点と低打率に泣き、特に第5戦では山井大介岩瀬仁紀のリレーで完全試合を喫している。江夏豊からは「日ハムはまだ発展途上のチーム」と分析された。[7]

戦力補強と選手育成[編集]

2003年オフには新庄剛志、セギノール、2004年オフにはヤクルトからFA宣言していた稲葉篤紀、2006年開幕直前に、岡島秀樹、2007年には東北楽天ゴールデンイーグルスで勝ち星こそ少なかったが、安定した投球が持ち味のライアン・グリンを獲得。

監督自身も積極的な若手起用で、ドラフト会議で獲得した選手が数年でチームの主力になることもあった。主にダルビッシュ、MICHEAL武田勝八木智哉など。

上記の選手の活躍は、ゼネラルマネージャーだった高田繁(現・横浜DeNAベイスターズゼネラルマネージャー)の眼力によるものが大きいとはいえ、それらの選手を期待以上に成長させた手腕はヒルマンを高く評価する要因ともなっている。

またそれまで活躍できなかった中堅では高橋信二(巨人、オリックスに移籍)、武田久、若手では田中賢介、森本(横浜、西武に移籍)、工藤隆人(現:中日)、小谷野栄一金森敬之らを球団の主力選手まで成長させる。

その一方でベテラン選手の犠牲も大きかった。井出竜也奈良原浩を金銭面の確保および野手陣の若返りのためトレードなどで放出。また長年チームの中軸として活躍してきた田中幸雄は主に代打の切り札として起用され出場機会は激減。

例外として他球団を転々としていた中嶋聡に関しては、若手捕手のリードに不安を抱えるファイターズで主にリリーフキャッチャーとしての出場試合が多くなり3年間で200試合以上出場した。

人物[編集]

  • 広島楽天で監督を務めたマーティ・ブラウンとは、マイナーリーグでの監督時代からの親友の間柄である。2006年のセ・パ交流戦では再会を喜び合った。
  • 温厚な性格で、わりとポーカーフェイスでもあり、試合中はほとんど感情を表に出さない。しかしお茶目な面もあるようで、新庄剛志らが『秘密戦隊ゴレンジャー』の被り物でベンチに座っていた時は、思わず笑いをもらしていた。また、自チームの投手(武田勝)が打席に立った際に、三球三振ではなく1球余分なボール球を相手投手に投げさせたときには手をたたいて大喜びしていた。
  • リーダーシップに関しては厳格である。2006年9月24日の試合で監督批判の一件を起こした金村曉に対し、「この件で使いづらくなった」とコメントし、即座にスタッフに命じてロッカールームから金村の所持品を撤去させている。ただ、ヒルマン自身は形式的以上に金村を責める事はせず、その後球団から出場停止への処分を受けた金村に対し、リーグ戦が終了した翌日の9月28日に球団事務所から電話をかけ「あなたの9勝が無ければ、我々はこの位置[8]にいられなかった」と話した上で、日本シリーズへ進出した場合、金村のリベンジ登板を与えてほしいと球団にも直訴するなど、選手への配慮や気配りの一面もある。
  • テキサス州出身らしく、趣味はカントリーソングのギター弾き語り。毎年ファン感謝デーにはギターと自慢の歌声をファンに披露している。稲田直人内野手も歌がうまいことで有名で、二人で地元のイベントに呼ばれ歌声を披露することもある。2004年のファン感謝デーには球団マスコットのB・Bのキーボード演奏で歌を披露した。また、クリスマスソングCDを自主制作し、ファン感謝デーの特設ブースで発売した。このCDの収益はすべてチャリティーに回された。
  • 好きな食べ物も地元テキサスの定番料理であるテクス・メクス料理。特にブリートが好きで、日本ではセブン-イレブンのブリートをよく購入していた。2007年10月にはヒルマンがプロデュースするレストランでこれらの料理が振舞われた。その反面、日本食はほとんど口にしない。
  • また、地元企業のCMにも積極的に出演し、北海道ローカルの国民健康保険の保険料納入促進CMでは大泉洋と共演した。
  • 学生時代に体操部に所属していた経験があり、2004年9月21日のホーム最終戦やファン感謝デーにはB・Bと一緒にバック転を披露する。このとき靭帯を損傷するも、ファンにそれを気付かれることなく振る舞った。
  • 初来日の際、日本のプロ野球を勉強するために野球漫画『ドカベン』を読んでいた。来日してから、この漫画に出て来る一部の選手がフィクションだという事に気付く。来日後は日本人の気質の勉強のため新渡戸稲造の『武士道』を読んでいたという。
  • 日本ハムの監督になって初めて行なったことは、キャンプ地のロッカールームとブルペンの掃除。本人曰く「監督の仕事は、選手達に快適に野球をしてもらう事」とのこと。
  • ベンチでは、いつも片手にストップウォッチを持っている。
  • 熱心なプロテスタントのクリスチャンであり、宣教師でもある(キリスト教根本主義者)。2007年にはキリスト教系の財団が展開しているパワー・フォー・リビングの日本版テレビコマーシャルおよび雑誌・新聞広告に出演した。
  • 2007年シーズンにはヒルマンの強い要望で同じ大学出身のデーブ・オーウェンを一軍コーチ補佐に招聘。ヒルマンのMLBカンザスシティ・ロイヤルズへの移籍に際しても、オーウェンは共に移籍して同チームのベンチコーチに就任した。
  • 2003年から2005年までは、日本プロ野球12球団で最年少監督だった。2006年に古田敦也が当時40歳で東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督として監督に就任した事から2007年でその座を譲った。なお、両者とも2007年シーズンをもって退団した。
  • 2008年4月-5月は、ロイヤルズは2位だった。そのときに取り入れたのが円陣であり、日本で学んだ野球の習慣だった。
  • 2010年12月、再来日し、札幌グランドホテルでディナーショーし、ゲストの、稲葉篤紀金子誠など選手と旧交を温めたほか、北海道内で講演会を催した。

詳細情報[編集]

NPB監督としてのチーム成績[編集]

レギュラーシーズン
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2003年 日本ハム 5位 140 62 74 4 .456 19.5 149 .269 4.88 40歳
2004年 3位 133 66 65 2 .504 12.0 178 .281 4.72 41歳
2005年 5位 136 62 71 3 .466 26.5 165 .254 3.98 42歳
2006年 1位 136 82 54 0 .603 - 135 .269 3.05 43歳
2007年 1位 144 79 60 5 .568 - 73 .259 3.22 44歳
通算:5年 683 349 320 14 .522 Aクラス3回、Bクラス2回
※1 順位の太字は日本シリーズ優勝。
※2 2003年は140試合制。
※3 2004年は135試合制(ストライキにより2試合削減)。
※4 2005年、2006年は136試合制。
※5 2007年は144試合制。
※6 2006年、プレーオフでも優勝。リーグ制覇を果たす。
※7 2007年、クライマックスシリーズでも優勝。
※8 2005年、実母死去に伴い帰国したため欠場した7月18日から28日までの6試合(2勝4敗)は通算成績に含まない。監督代行は白井一幸
ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2004年 日本ハム パ・リーグプレーオフ1stステージ(※2) 西武ライオンズ 1勝2敗
2006年 パ・リーグプレーオフ2ndステージ(※3) 福岡ソフトバンクホークス 3勝0敗(※4)
日本シリーズ 中日ドラゴンズ 4勝1敗
2007年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ(※5)
千葉ロッテマリーンズ 3勝2敗
日本シリーズ 中日ドラゴンズ 1勝4敗
※1 勝敗の太字は勝利。
※2 2004年~2006年のプレーオフ1stステージは3試合制で先に2勝したチームの勝利。
※3 2006年のプレーオフ2ndステージは4試合制で先に3勝したチームの勝利。
※4 レギュラーシーズン1位チームに1勝のアドバンテージ。3勝の中に日本ハムに与えられたアドバンテージ1勝を含む。
※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは5試合制で先に3勝したチームの勝利。

MLB監督としてのチーム成績[編集]

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 勝率 年齢
2008年 KC 4位 162 75 87 .463 45歳
2009年 4位 162 65 97 .401 46歳
2010年 6位 35 12 23 .343 47歳
通算:3年 359 152 207 .423
※ 2010年は解任時の数字。

表彰[編集]

NPB
  • パ・リーグ優勝監督賞:2回 (2006年、2007年)
  • パ・リーグ功労賞 (2007年)
  • 札幌ドームMVP功労賞 (2007年)

背番号[編集]

  • 88 (2003年 - 2007年、2010年)
  • 22 (2008年 - 2009年)

球歴[編集]

  • 1985年、クリーブランド・インディアンス傘下のマイナーチームで選手契約(3年間)。
  • 1988年、インディアンスでスカウトに就任。
  • 1989年、ニューヨーク・ヤンキースとマイナーコーチ契約。
  • 1990年、オネオンタ・ヤンキース(1A)監督就任。52勝26敗で1位。
  • 1991年~1992年、グリーンズボロ・ホーネッツ(1A)監督。
  • 1993年、プリンスウイリアムズ・キャノンズ(1A)監督。
  • 1994年~1995年、グリーンズボロ・バッツ(1A)監督。
  • 1996年、タンパ・ヤンキース(1A)監督。
  • 1997年~1998年、ノーウィッチ・ナビゲーターズ(2A)監督。
  • 1999年~2001年、 コロンバス・クリッパーズ(ヤンキース傘下3A)監督。1999年には83勝58敗で1位となり、ベースボール・アメリカ誌から最有望監督賞に選ばれる。
  • 2002年、テキサス・レンジャーズ育成部ディレクター兼フィールドコーディネーター就任。
  • 2003年~2007年、日本ハムファイターズ監督。
  • 2006年、日本ハムをパシフィック・リーグ優勝、日本一、アジア一に導く。
  • 2008年~2010年5月、カンザスシティ・ロイヤルズ監督。

出演CM[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ ファンサービスの意識も高く、ファンサービスを積極的に行う選手に特別ボーナスを与える査定を考案したり、自身も様々な企画を考案した。新庄剛志のファンサービスも、ファン第一に考えるヒルマンの理解があったからこそ実現した。
  2. ^ その44年前に当たる1962年の球団名は「東映フライヤーズ」で優勝監督は水原茂以来となった。
  3. ^ “ヒルマン監督解任…元・日ハム、米では再建ならず”. 読売新聞. (2010年5月14日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/mlb/news/20100514-OYT1T00251.htm 2010年5月14日閲覧。 
  4. ^ ヒルマンコーチド軍首脳でただ1人解任”. 日刊スポーツ (2013年10月24日). 2013年10月24日閲覧。
  5. ^ Yankees announce coaching and player development additions MLB.com
  6. ^ a b Sports Graphic Number691号 29項
  7. ^ Sports Graphic Number 691号 51項
  8. ^ リーグ戦を1位で通過したこと。

外部リンク[編集]