武田勝

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武田 勝
北海道日本ハムファイターズ #38
F-TakedaMasaru.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県名古屋市西区
生年月日 1978年7月10日(33歳)
身長
体重
176cm
70kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2005年 大学生・社会人ドラフト4巡目
初出場 2006年3月26日
年俸 1億7,000万円(2012年)
経歴(括弧内は在籍年)

武田 勝(たけだ まさる、1978年7月10日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手投手)。愛称は「勝さん」。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

小学4年の頃から野球を始め、それ以来投手一筋である。中学卒業後に地元を離れて関東第一高等学校に進学し、1年夏に甲子園出場。この頃両親が離婚するなど不安定な時期にあったが、母の後押しを受けて活躍し[1]、プロのスカウトの目に留まる。東都大学野球立正大学を卒業後、2001年シダックスに入社した。

シダックス入社後にフォームを改造し、野間口貴彦と共にエースとして活躍。2003年都市対抗野球ではシダックスを準優勝に導いた。2003年のドラフト会議では読売ジャイアンツ(巨人)が野間口と共に獲得を目指していたが、当時シダックス野球部の監督を務めていた野村克也が「野間口と武田が同時に抜けるのはチームとして困る」と拒否(プロ野球ドラフト会議では社会人チームの投手を2人以上プロが指名する場合、事前にチーム側の許可が必要となる)。野村はこのとき武田に「退部してドラフトを受ける手もある」と裏技を教えたが、武田は逆に監督の気遣いを意気に感じて残留を決めた[1]

2005年2月に投げ込み過多が原因で左ヒジを故障し、6月まで復帰できなかった[1]。だが懸命なリハビリが功を奏し、第36回IBAFワールドカップ日本代表にも選出された。2005年のプロ野球ドラフト会議(大学生・社会人ほか対象)にて、同僚の小山桂司(現・中日ドラゴンズ)と共に北海道日本ハムファイターズに指名され(武田は4巡目、小山は5巡目)、日本ハムとの仮契約は東京都渋谷区カラオケボックス「渋谷シダックスビレッジクラブ」で行われた。

[編集] プロ入り後

2006年の開幕2戦目となる東北楽天ゴールデンイーグルス戦(札幌ドーム)で先発した江尻慎太郎の後を受け登板。同年より楽天の監督を務めた社会人時代の恩師・野村の目の前でプロ初登板初勝利を記録。7月1日の楽天戦で高須洋介の打球を左手に受け指を骨折し戦線離脱するが、8月に復帰し初セーブも記録。29試合に登板(先発7、救援22)し、5勝2敗1セーブ5ホールド防御率2.04の成績を残した。10月24日の日本シリーズ第3戦においてシリーズ初登板初先発、5回1失点に抑え勝利投手(史上4人目。後述)。

2007年はチーム事情から中継ぎ投手として開幕を迎えたが、5月から再び先発に回り、35試合に登板して9勝を挙げ、リーグ6位となる防御率2.54を記録した。与四死球率1.39と被安打113は規定投球回以上の投手としては両リーグ1位だった。しかし8月以降は防御率3点台後半と不調に陥り、クライマックスシリーズでは2試合(第2戦・第4戦)に登板し、2試合とも敗戦投手となっている。日本シリーズでは第3戦に先発するがプロ最短の1/3イニングで降板、後続のブライアン・スウィーニーと共に許した7打数連続安打は日本シリーズ新記録である。

2008年以降はほぼ先発専任となる。前年終盤に打ち込まれた反省からフォームを社会人時代のものに修正して臨んだ2008年は、開幕4戦目に先発してから3連勝という上々のスタートを切ったが、先発が予定されていた4月29日千葉ロッテマリーンズ戦の試合前練習中に、ベニー・アグバヤニの打球を左手親指に受け骨折。6月29日オリックス・バファローズ戦にて復帰し勝利投手となった。以後は被本塁打が多いなどやや安定感に欠ける部分はあったが、得意の福岡ソフトバンクホークス戦(3勝3敗)を中心に閉幕まで先発ローテーションの座を守り抜いた。

2009年はWBC選考メンバーに入るも、日本代表のメンバー入りはできなかった。シーズンを通じて先発ローテーションの一角を任され、安定した投球を続けた。2009年は夏場になかなか勝ち星が伸びなかったが、チームのシーズン最終戦で自身初となる10勝目を挙げた。そのうち5勝(1敗)が楽天戦で、防御率2.00とカモにした。ダルビッシュ有の指の負傷もあって日本シリーズ第1戦と第6戦の先発を任され、チーム内の「左のエース」としての信頼感、存在感を示した。

2010年は6月22日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でプロ初完封勝利。この年に記録した3完投は全て無四球で、勝利投手防御率奪三振投球回先発回数はいずれも自己最高、勝利14はチーム最多だった。そして、課題だった被本塁打は主に中継ぎで起用された2006年を除いて最少の12に抑えた。また、ソフトバンクには2009年からの2シーズンに亘って6連勝していた(2011年の初対戦で敗れた)。

2011年は4月27日から5月23日にかけて、日本プロ野球新記録となる先発登板した5試合全てにおいて味方打線が0点に封じられ、不運な5連敗を喫した[2]。しかしその後は勝ち星を重ね、オールスターゲームに選出される。しかし登板した7月22日のオールスターゲーム第1戦5回裏に荒木雅博畠山和洋ウラディミール・バレンティン長野久義に本塁打を浴び1イニング4被本塁打というオールスターゲーム新記録を作ってしまった。前半戦は防御率が1位の時期もあるほど、防御率がよかったが、後半戦は8月にウィルス性の胃腸炎にかかり、発熱と吐き気に襲われたこともあり[3]、後半の防御率が4点台と調子を崩し、10月11日には左肘の張りを訴え登録抹消された[4]。シーズン全体では11勝12敗でリーグワーストの敗戦数となったが、防御率は2.46、WHIPは1を切り、被本塁打は主に中継ぎで起用された2006年を除いて最少の7になった。ダルビッシュ、ボビー・ケッペルとの「先発三本柱」を形成した[5]

[編集] 選手としての特徴

左腕を上に挙げた時にボールを一瞬持ち変える様な仕草を見せる変則的なスリークォーターから平均球速約129km/h[6]、最速142km/hの速球スライダーチェンジアップシュートを投げる。この変則投法は、シダックス野球部1年目(2001年)の冬のキャンプで臨時コーチを務めた高橋一三日本ハムファイターズOB)が上手投げでの欠点を指摘し、指導のもと改造したものである[1]2002年に同野球部監督に就任した野村克也は、武田のピッチングを見て「今のままでは使えない、何かひとつ武器を身につけろ」とアドバイスをし、この時チェンジアップとシュートを習得した[要出典]

制球が良く与四死球が非常に少ない。通算与四球率は現役の先発投手中最高の1.23を誇り、プロ入り以来5年連続して2.00未満、特に2010年は1.07、2011年は0.98を記録している。2009年及び2010年の与四球は規定投球回到達者の中では最少であり、暴投の数はプロ通算2、2009年から2011年の3シーズンは1つも記録していない。2011年以前は被本塁打が多く、2007年から2010年にかけて65本打たれている。2011年は上記のオールスター4本塁打もあったが、統一球の影響もあり、レギュラーシーズンの被本塁打は規定投球回数を達成した選手の中では和田毅と並び、6番目に少ない、7本と大きな改善が見られた。

また、好調の時でもピンチの時でも、果ては打球を手首に受けて骨折しても表情がほとんど変わらないポーカーフェイスである。野村や野球解説者岩本勉から「何を考えているのか全く読めない」と評されている[要出典]

前述の通り、2007年以降は先発ローテーションの一角を任されているが完投することは少ない。100球前後で降板して中継ぎ(勝利の方程式)に後を託すことが多いものの回復が早く、中5日での登板も多い。

[編集] 人物

自身の公式ホームページに「簡易onちゃん」を着けた写真を載せる程の『水曜どうでしょう』ファンであり、同番組のスタイリスト・小松江里子から被り物などの衣装を提供され、「タコ星人」の姿で『水曜どうでしょう』の制作局・北海道テレビ放送の番組に出演したところ、番組を見ていた鈴井貴之からは「タコ兄弟」[7]と呼ばれた。また、試合の登場曲にはそのエンディングテーマである、樋口了一1/6の夢旅人2002」を使用している。

福岡ソフトバンクホークス応援歌「いざゆけ若鷹軍団」を愛聴しており、携帯電話の「着うた」にも設定されている。本人曰く、「ソフトバンク戦ではこの歌が流れる7回まで頑張って投げよう」という気持ちで投球しているとの事である[要出典]

愛猫家でもあり、藤井秀悟と共に出かけたペットショップで購入したネコの写真を自らのブログに頻繁に掲載している。

2011年に発生した東日本大震災東北地方太平洋沖地震)の被災地への義捐金として、日本赤十字社を通じて100万円を寄付した。[8]

将来の目標として「自分の背番号(38)と同じ年齢までプレーする」ことを挙げている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績





















































W
H
I
P
2006 日本ハム 29 7 0 0 0 5 2 1 5 .714 326 84.0 68 5 15 1 3 54 1 0 20 19 2.04 0.99
2007 35 18 1 0 1 9 4 0 8 .692 569 149.0 113 18 17 1 6 101 0 0 42 42 2.54 0.87
2008 20 19 1 0 0 8 7 0 0 .533 493 121.2 110 18 19 0 5 68 1 0 44 40 2.96 1.06
2009 24 23 2 0 1 10 9 0 0 .526 592 144.1 150 17 20 3 4 99 0 1 58 57 3.55 1.18
2010 26 26 3 1 3 14 7 0 0 .667 661 168.1 161 12 19 1 1 106 0 0 47 45 2.41 1.07
2011 25 25 3 0 2 11 12 0 0 .478 647 164.2 143 7 18 0 3 87 0 0 51 45 2.46 0.98
通算:6年 159 118 10 1 7 57 41 1 13 .582 3288 832.0 745 77 108 6 22 515 2 1 262 248 2.68 1.03
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 記録

投手記録
打撃記録
  • 初安打:2007年5月27日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤドーム) - 3回表無死、山本昌から
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:1回 (2011年)
  • 新人投手の日本シリーズ初登板初先発初勝利:2006年10月24日日本シリーズ第3戦。史上4人目。史上3人目は、同シリーズ第2戦(同年10月22日)で先発した同チームで同じく新人の八木智哉。日本シリーズで同一球団の新人投手が2試合連続で先発したのは史上初であり、2人連続で勝利投手となったのも史上初。
  • 登板5試合で連続完封負け:2011年4月27日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦から同年5月23日、対横浜ベイスターズ1回戦で記録。1943年内藤幸三朝日軍)と並びプロ野球史上最多タイ。2リーグ制導入以降は1956年杉下茂(中日ドラゴンズ)の4試合連続が最多。なお、5試合における失点はそれぞれ5、1、1、2、2だった。[2]

[編集] 背番号

  • 38 (2006年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d 「男の野球道 一途な想いと感謝を胸に 武田勝」 『週刊ベースボール』2009年6月1日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20441-6/1、35-39頁。
  2. ^ a b “登板5試合連続で零敗…武田勝、また援護なし”. スポーツニッポン. (2011年5月23日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/23/kiji/K20110523000880080.html 2011年5月23日閲覧。 
  3. ^ 石川洋 (2011年9月15日). “日本ハム・武田勝、久々勝利!3年連続2けた”. SANSUPO.COM 野球. http://www.sanspo.com/baseball/news/110915/bsj1109150505002-n1.htm 2011年11月13日閲覧。 
  4. ^ “左肘の張り訴え 武田勝登録抹消”. 北海道新聞. (2011年10月12日). http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fighters/324511.html 2011年10月22日閲覧。 
  5. ^ 実松充洋 (2011年10月22日). “最終ステージに照準 斎藤、「戦力の一員」と前向き”. 北海道新聞. http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fighters/326907.html 2011年10月22日閲覧。 
  6. ^ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2011年、183頁。ISBN 978-4-930942-98-2
  7. ^ [1]
  8. ^ “日本ハムの武田勝が被災地に100万円寄付”. デイリースポーツ. (2011年3月25日). http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/03/25/0003894482.shtml 2011年3月26日閲覧。 

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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