ドミンゴ・グスマン

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ドミンゴ・グスマン
Domingo Guzman
高知ファイティングドッグス #50
基本情報
国籍 ドミニカ共和国
生年月日 1975年4月5日(34歳)
身長
体重
188cm
102kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
初出場 MLB / 1999年9月9日
NPB / 2002年3月31日
経歴(括弧内は在籍年)

ドミンゴ・グスマンDomingo Guzmán , 1975年4月5日 - )は、ドミニカ共和国出身の四国・九州アイランドリーグ高知ファイティングドッグスに所属する野球選手投手)。

目次

[編集] 来歴

サンディエゴ・パドレスメジャー入りを果たしたが定着には至らず、その後台湾に渡り、中信ホエールズで「多明哥」の登録名でプレーする。

[編集] 横浜時代

2002年横浜ベイスターズに登録名「グスマン」でテスト入団。最初にスタートした中継ぎではなかなか結果を残せなかったが、先発転向後は安定するようになり5勝を挙げた。

2003年は登録名を「ドミンゴ」に変えて、1年間先発ローテーションを守ったが、チームが勝率3割台で最下位に沈んだチームだったことやムラッ気の多い性格が災いし、8勝12敗と負け越したことを理由に解雇される。まもなく中日ドラゴンズが興味を示し、中日に入団する。

[編集] 中日時代

2004年は自身初の2桁勝利(10勝5敗)を果たし優勝に貢献したが、翌2005年の故障でほとんど投げられなかった。

2006年シーズンも2勝2敗と振るわず5月に二軍落ち、8月にウエーバー公示され、8月21日に自由契約選手になった。

[編集] 楽天時代

2007年6月、相次ぐ主力投手陣の離脱により投手の補強が急務となった東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表。同年はリハビリに専念していたため、何処の球団にも所属していなかった。その故障の影響が懸念されたため、2度の投球テストとメディカルチェックを経て、6月22日に契約の締結が発表された。登録名は引き続き「ドミンゴ」。背番号は空いていた若い背番号が皆無だったことと、「99マイルの速球を投げてほしい」という意味を込め、99が与えられた。7月17日、日本球界復帰後初登板初先発し、復帰後初勝利を挙げた。これは外国人投手の3球団での勝利としては西田亨ジェレミー・パウエルケビン・バーンに次ぐ史上4人目の快挙となった。

9月1日西武ライオンズ戦では4度のボークを記録(プロ野球初)。このうち3度は同一イニングでの記録(プロ野球タイ記録)。さらに、降板時には3塁塁審に駆け寄り、中指を突き立てるという侮辱行為を働き、退場処分を受けた。

2008年、背番号を50に変更。福盛和男の移籍や小山伸一郎の出遅れなどから抑えに転向。オープン戦ではまずまずの成績を残すが、3月20日の開幕戦(対ソフトバンク戦)にて、楽天リード(3-1)で迎えた9回裏に、柴原洋にパ・リーグでは14年ぶりとなる開幕戦でのサヨナラ本塁打を打たれる。1日置いた22日の第2戦でも、楽天リード(4-3)で迎えた9回2死で登板したが同点打を打たれる。

立て続けに救援失敗が続いたことから先発に回り、4月11日の対オリックス戦で好投を見せ(登板後に本人も救援より先発の方がしっくりくると発言している)、4月26日の対日本ハム戦は2安打完封を記録。ところが、今度は抑えのときとは逆に、抑えても抑えても全く打線の援護がない状態に陥り、僅差での敗戦を繰り返してしまう。結局、先発では終始安定した投球を見せて100イニング以上を投げ、防御率も3点台にまとめながら、わずか2勝(7敗)というやや不運な成績に終わった。シーズン終了後、去就が注目されたが、12月1日に同年限りでの退団が発表された。

[編集] 独立リーグ時代

2009年4月6日四国・九州アイランドリーグ所属の高知ファイティングドッグスに入団することが発表された。4月8日よりチームに合流した。前期は4試合に登板し、1勝1敗の成績であったが、故障のため一時帰国したことが7月10日に明らかにされた。

[編集] 人物

抜群の身体能力で、MAX155km/hの直球と140km/hの優れた高速チェンジアップを持つ。異常な強肩を活かした変則フォーム(上半身だけで投げる、いわゆる手投げ)が特徴だが、負担が大きかったのか、中日時代に右と右を痛めている。

高い潜在能力を持ちながら2003年シーズン終了後に負け越したこと、防御率が4点台後半だったことなどを理由に横浜を解雇されたが、最下位を独走するチームで8勝(12敗)はチームトップだった。ドミンゴとの契約に際し、その年就任した中日落合博満監督は「何で横浜が彼を出したのか理解できない。」とコメント。投手王国だった中日では防御率も1点ほど底上げされ、10勝(5敗)を挙げ優勝に貢献。中日での活躍は実質この1年のみだったが、川上憲伸山本昌に次ぐ3番手投手として2004年の優勝に貢献した1人となった。

なお、横浜時代に挙げた2年通算13勝は、横浜に加入した外国人投手では当時最多(2005年にセドリック・バワーズが更新。大洋ホエールズ時代を含める)。

横浜在籍時は打撃に非常に消極的だったことで知られ、18打席連続三振(世界記録)の珍記録を持つが、本人曰く「振っても振ってもバットに当たらないんだからしょうがない」。

中日入団後は、野球を始める以前にしていたバスケットボールで鍛えた俊足を生かして、たびたび積極的な走塁を見せた。チームメイトの荒木雅博から「間違いなく自分より足が速い」と評価されていたほどである。

バントは構えてからすると必ず空振りしていたが、普通のバッティングフォームから投球後ボールにバットを当てに行くようにすることは出来た。そのため、全てのバントが相手から見ると上記の俊足と相まって意表をついたセーフティーバントになった。2004年に記録した8安打のうち7本がバントヒットである。

中日時代には同じく俊足を活かしてサイン無しで盗塁を決行し、何度か成功させた。ヘッドスライディングしかできず(投手が手から滑り込むことは怪我をする危険性が高くタブー)、足からのスライディングを教えようとしたが拒否され、森繁和コーチに盗塁を禁止された。[1]

風貌が元読売ジャイアンツバルビーノ・ガルベスに似ていることから、最初に来日した時に「兄弟?」と周りを驚かせた。同じドミニカ出身であり、台湾からのテスト入団という経緯でも共通しているが、本人はガルベスとの関係を否定している。

中日退団後は右、右リハビリ以外にはほとんど趣味の釣りをして過ごしており、実戦は友人らに誘われて草野球に1試合登板したのみだったという。

楽天入団後は、15万円のピアスを付けるようになった。

日本食は大好きで、特に刺身寿司は昔からの好物である。[2]

試合中の投球前に股間などをいじる癖がある。[3]

[編集] 日本年度別投手成績








































W
H
I
P
2002 横浜 19 13 4 2 1 5 5 0 -- .500 391 96.2 85 3 31 4 66 1 0 33 30 2.79 1.25
2003 25 25 3 2 0 8 12 0 -- .400 662 153.2 171 14 35 7 123 7 2 90 80 4.69 1.39
2004 中日 23 23 0 0 0 10 5 0 -- .666 616 146.0 138 19 41 9 128 6 4 66 61 3.67 1.29
2005 3 3 0 0 0 1 2 0 0 .333 60 13.0 12 2 9 0 1 16 1 1 7 7 4.85 1.69
2006 4 4 0 0 0 2 2 0 0 .500 79 18.1 19 1 2 0 1 13 2 1 11 8 3.93 1.22
2007 楽天 11 10 0 0 0 2 4 0 0 .333 244 55.2 56 6 22 0 5 40 7 6 32 31 5.01 1.50
2008 23 16 1 1 0 2 7 0 0 .222 441 102.1 99 6 34 2 7 65 5 2 47 44 3.87 1.37
通算:7年 108 94 8 5 1 30 37 0 0 .448 2493 585.2 580 51 174 34 451 29 16 286 261 4.01 1.35
  • 2008年シーズン終了時
  • 表中の太字はリーグ最高

[編集] 背番号

  • 42 (2002年、2004年 - 2005年)
  • 50 (2003年、2008年 - )
  • 99 (2007年)

[編集] 脚注

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[編集] 外部リンク

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