坪井智哉

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坪井 智哉
横浜DeNAベイスターズ コーチ #77
OB-Tomochika-Tsuboi20110615.jpg
オリックス時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都江東区
生年月日 1974年2月19日(40歳)
身長
体重
177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1997年 ドラフト4位
初出場 1998年4月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

坪井 智哉(つぼい ともちか、1974年2月19日 - )は、東京都江東区[1]出身の元プロ野球選手外野手)。2015年からは横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチを務める。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

墨田シニアおよびPL学園高校では投手として活躍する。 PL学園では1年生の秋から外野手としてベンチ入りし、その後投手として活躍していたがPL学園在学中に甲子園へ出場することはできなかった。 当時のPL学園は上下関係がかなり厳しく、野球部に入部したとき「なんてところに来てしまったんだろう」と話している。 野球部の寮では1学年上の入来祐作と同室だった。(入来とはプロ入り後、北海道日本ハムファイターズでチームメイトになっている。)


高校卒業後は青山学院大学に進学する。 青山学院大学時代は、部員の中で1番最後まで個人練習している練習の虫だった。 この事について、「PL学園時代に比べれば練習が全体練習が少ないから楽すぎるくらいだったが、 その後の個人練習の時間でどれだけ野球をしてるかでこの先が決まる」と話している。

(因みにこの「全体練習を減らし、個人練習に重点を置く」スタイルは、青山学院大学の伝統。 きっかけは、「自分たちで練習する時間が欲しい」という小久保裕紀の提言による。)

坪井の2学年上に小久保裕紀・同級生に川越英隆城石憲之・1学年下に井口資仁高須洋介澤崎俊和などの選手がいた。 恵まれた環境もあり、練習の結果、1993年に小久保裕紀らを擁して春季1部リーグを制し、 全日本大学野球選手権大会を優勝して大学野球日本一を勝ち取っている。 東都大学リーグ通算86試合出場、286打数70安打、打率.245、7本塁打、47打点を記録。 大学時代に振り子打法に切り替えて手応えを感じ坪井は、1995年秋季のリーグでチームメイトの高須洋介に次ぐ打率.409(リーグ2位)を記録してベストナインに選出された。

ドラフト指名されなかった為、大学卒業後は社会人野球の強豪である東芝へ就職。

社会人野球の東芝時代は、主に1番打者として活躍し、第51回東京スポニチ大会で打率.476を記録して新人王を獲得。 第23回社会人野球日本選手権大会でチームは準決勝で敗退するが、坪井は14打数9安打、打率.634を記録して首位打者賞と大会優秀選手賞(外野手部門)に選出された。この年(1996年)の暮れに社会人ベストナインも獲得している。 翌1997年の第24回社会人野球日本選手権大会では準決勝で三菱重工神戸に敗れるが、2年連続で大会優秀選手賞(外野手部門)に選出される。同年、第19回アジア野球選手権大会に出場する日本代表に選ばれた(坪井以外に選ばれた選手に福留孝介二岡智宏らがいる)。

練習では金属バットを使用せず木製バットを使用していた。坪井は「金属バットはどこに当たっても打球がポンポン飛ぶ。それじゃ、今まで培ってきた技術が失われてしまうから試合以外では使わないようにした」と語っている。

1997年のプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから4位指名を受けて入団。

阪神時代[編集]

1998年、阪神の春季キャンプでルーキーは2軍に割り振られるのが通例なのだが、1月28日の1・2軍振り分けで新人選手の中で唯一の1軍に振り分けられる。キャンプ・オープン戦で結果を残して開幕1軍を勝ち取ったが、開幕の外野陣は左翼パウエル・中堅新庄剛志・右翼桧山進次郎だった。4・5月は主に代打で出場してスタメン出場は限られていたが、6月頃から外野陣(パウエル・新庄・桧山)が不振になり、1番ライト(もしくはレフト)でスタメン出場するようになる。7月4日の広島東洋カープ戦で、1回表に紀藤真琴から左中間へプロ初本塁打となる初回先頭打者ランニングホームランを放つ。プロ初本塁打がランニング本塁打というのは史上3人目だが、初回先頭打者ランニングホームランは史上5人目の記録で新人では初の快挙であった。オールスター前には1番ライトのポジションを獲得する。8月27日に規定打席に到達して打率.318で3位に食い込んだ。9月になると更に打率を上げ、坪井を含めた首位打者争いが熾烈になり、横浜の鈴木尚典、広島の前田智徳、阪神の坪井の3人が打率.330近くを記録する熾烈な争いになる。結局、首位打者は打率.337を記録した鈴木尚典で2年連続の首位打者となり、前田智徳は打率.335で2位、坪井は打率.327でセ・リーグ3位の打率を記録した。この年に記録した135安打は、1948年後藤次男が記録した129安打を更新する球団史上新人最多安打記録である。新人で打率.327という記録は1950年以降に始まったセ・パ両リーグの2リーグ制分立後の新人最高打率である。更にこの年、両リーグで規定打席到達者は71人いたが坪井のみ併殺打0であった。(1リーグ時代を含めると、新人最高打率は1946年に.341を記録したグレートリング田川豊であるが打率は2位で、新人で首位打者を獲得した選手は現在もいない)。この年は坪井以外にも川上憲伸中日ドラゴンズ)・高橋由伸読売ジャイアンツ)・小林幹英(現・広島東洋カープ二軍投手コーチ)と近年稀に見る新人豊作年だった。最優秀新人は川上憲伸に譲ったが、川上以外の3人は新人賞に値する活躍をしたと認められ、高橋由伸・小林幹英とともに連盟の特別表彰を受けた。

1999年、新たに就任した野村克也監督の下、巨人との開幕戦で1番センターのスタメンを勝ち取るも開幕から数試合連続でヒットが出ず、シーズン序盤は不振に苦しんだ。持ち前のバットコントロールでヒットを量産し、1シーズン6度の4安打を記録するなどの固め打ちを記録。シーズンが進むと共に徐々に調子と打率を上げ、最終的に新人から2年連続3割打者となる打率.304、得点圏打率も.343を記録し1番打者として阪神打線を牽引した。この年に自己最多となる161安打を記録している。守備でも奮闘し、セ・リーグトップとなる11補殺を記録している。また、新人から2年連続打率3割達成は史上4人目の記録である。坪井以外の達成者は長嶋茂雄・横田真之・高橋由伸が記録している。

2000年、前半戦は好調を維持し打率3割を記録していた。この年に監督推薦枠でのオールスター初出場を果たす(坪井は1999年にオールスター投票で惜しくも外野手部門で4位だったため出場出来なかった)。オールスター戦では石井貴から本塁打を放ち優秀選手に選ばれている。シーズンでは新人から3年連続の打率3割達成を期待されていた。しかし、相手投手から好打者ゆえの厳しい内角攻めに遭う。それが死球に繋がりオールスター以降に調子を落とす。結局、新人から3年連続打率3割達成はならず、打率.272を記録。この年に記録した12死球はセ・リーグの打者で最多死球だった。仮にこの年に打率3割以上を記録していたら、1960年の長嶋茂雄以来の快挙であった。(長嶋茂雄は新人の1958年~1961年まで4年連続で3割を記録しており、その4年間で3年連続首位打者にもなっている。)この年のオフに左肘の手術をしている[2]

2001年、開幕から新人の赤星憲広の抜擢・大活躍もあったが、前年に手術した左肘の悪化・本人の極度のスランプ・度重なる怪我により出場機会が激減した。この年から坪井は怪我に悩まされるシーズンが続くようになる。スランプの時期には打撃フォームを改造し極端なオープンスタンス振り子打法をやめノーマルなスタイルに変化するなど試行錯誤していたが結果を残せなかった。また、プロ入りして初めて規定打席に届かなかったシーズンだった。

2002年、外野手のレギュラー候補に名を連ね、新たに就任した星野仙一監督からも「今年は坪井の復活に期待してほしい」と監督からも復活を期待されていた。だが、5月に内野ゴロで一塁ベースを踏んだ際に足を捻挫してしまいそのまま登録抹消される(その後の再診断の結果、剥離骨折と判明)。その為、シーズンの殆どを2軍で過ごす。シーズン終了後、野口寿浩との交換トレードにより日本ハムファイターズに移籍。 球団は本人にトレード要員であることを伝えていなかった為、報道後に電話で「テレビで見たと思うけど…」と坪井にトレード通告をした。坪井は「(日本ハムへの)トレードの話は家にいるときにたまたまテレビで流れててビックリした」と日本ハムファイターズ移籍後に語っている。

日本ハム時代[編集]

2003年、開幕こそスタメンだったが、4月当初は森本稀哲エンジェル・エチェバリアの起用もありベンチスタートだった。森本が打撃不振で結果を残せずに代走・守備要員になるとすぐに右翼手のレギュラーを勝ち取る。 阪神時代の巧みなバッティングが復活し、序盤から絶好調でシーズン前半戦終了時点でパ・リーグ2位の打率.354を記録するほどの大活躍。 ファン投票外野手部門3位で2度目のオールスター出場を果たす。オールスター後も打撃が絶好調で8月中旬まで同僚の小笠原道大と激しい首位打者争いを演じる。 9月に入ると前年の骨折で痛めた足首痛が再発し9月の月間打率が1割台と調子を落としたが、最終的に新人時代に記録した打率.327を更新し、自己最高の打率.330を記録して復活を果たした。 阪神入団の1998年に打率.327・日本ハム入団の2003年に打率.330を打ち、これでプロ野球史上初の両リーグ1年目で打率3割を越える記録を作った。

2004年3月27日の対大阪近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)で1番打者としてスタメン出場し、岩隈久志から中越え二塁打を打ち、日本ハム北海道移転後のチーム公式戦初安打となる。 2番・新庄剛志が送りバントで進め、3番・小笠原道大の内野ゴロでホームに還り北海道移転後のチーム公式戦初得点も記録。 6月に入るまでは3割以上の打率をマークしていたが、結膜炎などの病気もありスタメンを外れると6月~7月で月間打率2割前後と落ち込み規定打席を割ってしまう。 後半に復帰して活躍したが2年連続打率3割を記録できなかった。病気に泣かされたが自己最多の11本塁打を記録している。

2005年、この年にヤクルトスワローズからFA宣言をして海外移籍を目指していた稲葉篤紀が移籍を断念して日本ハムファイターズに入団した為、坪井を含めた外野手争いが更に熾烈になった。坪井は相手チームの先発が左投手の時はスタメンを外されることが多くなり始めるが、結果として対左投手には3割以上を記録している。 交流戦で調子を落としてしまうが、7~9月に復調する。 特に9月は41打数18安打で打率.439を記録。 規定打席には届かなかったがチームで唯一の打率3割をマークする。 また、守備でもパ・リーグ2位となる11補殺を記録するなど攻守での活躍も光った。 株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約。

2006年オープン戦で故障。この年に坐骨神経痛を発症し、苦しいシーズンを迎えることになる。 シーズンを通してほとんど打席に立てない日が続き、4~5月は1打席も立てない状況になっていた。 そして8月6日の対西武ライオンズ戦の守備で、左中間に飛んだ打球をダイビングキャッチで捕球しようとしたが打球は取れず、坪井はそのまま地面に叩きつけられてしまう。 この時に右肩を負傷(骨折)し、登録抹消された。 シーズン終了後に球団からトレード要員通告を受けるが、坪井の年俸の高さ(当時の推定年俸9000万)や怪我の多さなどの理由でトレードがまとまらずに球団から戦力外通告を受けた。 坪井は現役続行を希望して12球団合同トライアウトを2度受けたが契約に至らず、12月27日に日本ハムと異例の再契約する[3]

2007年、開幕戦で7番レフトで出場し開幕スタメンの座を勝ち取る。前半戦は好調で打率3割以上を記録しており、主に左翼手としてスタメン出場をしていたが、交流戦以降に若手の工藤隆人が台頭・ブレイクしてきた為、シーズン終盤では工藤に押される形となってしまう。 スタメン出場は減少したが、代打で17打数7安打、打率.421と代打でも結果を残し最終的に100試合に出場。 2003年のような大活躍とまではいかなかったが、選手生命の危機からの復活を果たす。 規定打席に満たないものの、打率.283を記録。大事な場面での勝負強さを発揮し、この年はプロ入りして初のサヨナラヒットを記録している[3]

2008年は悩まされていた坐骨神経痛の影響で年間通してほとんど打席に立てない状況が続いていた。 ほとんど1軍に帯同出来ずに結局26試合の出場に終わるが、クライマックスシリーズ第1ステージの2戦目で稲葉篤紀の代わりにスタメン起用され、1試合4安打の大活躍をするなどの存在感を見せた。

2009年梨田昌孝監督の糸井嘉男の起用と糸井自身の急成長・球団の若手起用の方針もありベテランの坪井のスタメン起用は限られてしまう。 しかし、開幕から左の代打の切り札としての地位を確立しチームの勝利に大きく貢献する。 パ・リーグ最多の55回の代打起用、49打数15安打8打点でシーズン代打打率.306を記録するなど1打席での勝負強さを発揮した。

2010年は外野陣が稲葉・糸井・森本・陽岱鋼など起用選手がほぼ固定されてしまい、出場機会を求めて一塁手としての練習もしていた。 一塁手挑戦に坪井は「大学時代に1イニング守ったぐらいしか経験がない」と語っている。 試合では稲葉が一塁へコンバートされた事もあり1軍で一塁手としての起用はなかったが、練習では本職の外野と併用して続けていた。 シーズン序盤は代打として活躍し打率も3割をキープしていた。 そして3月22日の福岡ソフトバンクホークス戦に二岡智宏の代打として出場し、久米勇紀から右翼線へ2点適時二塁打を放ち史上434人目となるプロ入り通算1000試合出場を果たした。 しかしその後、肉離れ坐骨神経痛の再発などで出場試合数が激減。シーズン中盤に1軍登録を抹消される。 その後、2軍で打率.341と高打率を残すもなかなか1軍に呼ばれなかった。 2軍にいたときに数試合ほど一塁手としてスタメン出場している。 シーズン終盤にようやく1軍に昇格するも、昇格と同時に坪井は来季の構想から外れていることを球団から通告されていた。[4]。 坪井は翌年に日本ハムのユニホームを着てプレー出来ないことを知りながら試合に出場していたが、昇格してから1本もヒットが打てずに2010年シーズンを終了した。

同年10月2日に球団は2度目の戦力外通告を行うと同時に2軍打撃コーチ就任を要請したが、坪井は残り26本に迫ったプロ入り通算1000本安打を達成したいことと、坐骨神経痛肉離れなどの今まで苦しんできた怪我が治ったからにはまだ現役でやれるという本人の強い気持ちもあり[5] 、球団は本人の意見を尊重し、坪井の退団が決まった[6]。 さらに退団が決定した時に球団は「2006年の時みたいに今回は再契約しない」と坪井に通告しているため、2011年にファイターズのユニフォームは着られない事が決まった。 その為、坪井が移籍当初から付けていた背番号7は2011年から糸井嘉男が着用することになった。 また、退団会見で親交のあるイチローに「(現役続行は)アホな選択だったかな?」とメールしたことも明かし、イチローから「怪我が治って自分の力を試したいと思うのは当然」と返信がきたのも現役続行への後押しになった事も話している[7]

オリックス時代[編集]

2011年1月17日にかねてから獲得の報道があったオリックス・バファローズが獲得を発表した。1年契約で、背番号は00に決定[8]。坪井獲得に岡田彰布監督は「(2軍監督時代に)阪神で一緒に戦った選手やし、数字以外の目に見えない力もプラスになる」と、若手選手の模範役としても期待している獲得だったと語っている[9]。坪井と岡田監督は阪神の2軍で監督と選手の間柄だった。当時、坪井はバッティングで悩んでおり振り子打法を変えたほうがいいのか岡田監督に相談している。岡田監督から「そのままでええ」と言われ、「あの一言で本当に助かった」と岡田監督に感謝していた。

オリックスの準本拠地であるほっともっとフィールド神戸で新入団を受けての取材で「岡田監督の目指す野球にできるだけ貢献できるように、自分のプレーをしたい」と話している[10]。 2011年開幕当初から調子が上がらず二軍生活が続いていたが、6月28日に一軍登録され、その日の試合である埼玉西武ライオンズ戦で代打として出場し、移籍後初打席・初安打・初打点となる中越え適時二塁打を記録する。だが 7月4日に一軍登録抹消されて以降、一度も昇格することなくシーズン終了。10月9日に球団から戦力外通告を受ける[11]。坪井は現役続行を希望してトレーニングを続けていた。

独立リーグ時代[編集]

2012年、アメリカ・アリゾナ州で行われているウィンターリーグに特別招待選手として参加[12]ノース・アメリカン・リーグに加盟しているチコ・アウトローズに所属し、リーグ打撃成績で打率.483(リーグ2位)の好成績を残す。公式戦終了後はアメリカでトレーニングを続け、3月7日に日本に帰国。自身の公式ブログでアメリカの独立リーグ数球団から獲得の誘いがあったことを明かした[13]。5月中旬、ノース・アメリカン・リーグのサンラファエル・パシフィックスでプレーするために渡米[14]。パシフィックスでは主に2番でスタメン出場していたが、7月4日の試合中に打球をダイビングチャッチした際に左肩を捻挫し、7月7日に解雇される。その後トライアウトを受けて8月7日に独立リーグ・アメリカン・アソシエーションゲーリー・サウスショア・レイルキャッツに入団が決定したことを発表したが[15]、チーム方針転換のため10日に解雇される。そのまま所属先未定のまま2012年シーズンは終了したが、2013年もアメリカで現役続行するためにリハビリを続けると公式ブログで表明する[16]

2013年6月からユナイテッドリーグ・ベースボールエディンバーグ・ロードランナーズでプレーすることが決まる[17]。だが同月27日、ハムストリングを痛めて解雇された[18]

2014年アトランティックリーグランカスター・バーンストーマーズでプレーすることで大筋合意した[19]。このリーグは米国・独立リーグの中で最もメジャーに近く、前ロッテ渡辺俊介や前オリックス梶本勇介も同リーグに所属していた。

坪井は開幕から1、2番打者としてスタメン出場して結果も残していたが、ある試合で一塁に出塁した際に偽装スタートを何度か切ったら「打者が集中できないから走る格好などするな」と怒りを買い、出場選手登録を抹消された。

またランカスターは球団が選手に対し、地元の人の家にホームステイする形で住居を供給していたが、坪井には当初からホームステイ先が与えられず、ホームステイ先が決まるまでは自費でホテル暮らしをしたり、同情したチームメイトのホームステイ先に転がり込むものの監督にバレて家を追い出されるといった苦労を経験した。

そして同年8月14日に現役引退を発表。引退理由については「他のチームでプレーすることも考えたが、このリーグが独立リーグの中で一番レベルが高く、ここよりレベルを落としたチームでプレーしても上(メジャー)へ上がれる可能性はない。その可能性がなくなって(試合にも)使われないなら、もう野球をやる意味がない。ここまで甘えさせてもらった家族の生活もある。(辞めることに)後悔はない。」と語っている。

2014年8月15日、自身のブログにて現役引退を発表した[20]。 坪井が現役引退を発表した時に和田豊監督や八木裕らが新聞にコメントを発表。現役時代の元同僚や後輩から労いのメールを貰い、栗山英樹や、谷繁元信中畑清らからも、『お疲れ様』『辛かっただろ』と暖かい言葉をかけてもらったこと。巨人の原辰徳監督からは現役時代は話したこともなかったのに、『坪井くん!キミは本当に野球が好きなんだね!そういう人材は野球界の宝だ、君の経験を還元していかなければいけないよ』と言ってもらってたことも話している[21]

引退後[編集]

公式戦のテレビ中継にゲスト解説として出演するなど、古巣である阪神タイガースや北海道日本ハムファイターズの試合を中心に野球解説者として活動していたが、10月31日に自身の公式ブログとツイッターで2015年から横浜DeNAベイスターズの一軍打撃コーチ補佐の就任を発表し、[22]、背番号は77番に決まった。[23]

選手としての特徴[編集]

左右に打ち分けるセンスを持ち[24]、バットコントロールが優れている[24][25][26]

人物[編集]

実父はかつて中日ドラゴンズなどに在籍していた元プロ野球選手の坪井新三郎。幼少期は愛知県名古屋市大阪府三島郡島本町で過ごした。父親がトレードなどで移籍することが多く、それに伴い転校も多かった。幼い頃から父親とキャッチボールをしていたが、ボールは硬球でしていたという。坪井は「捕れなかったり、捕っても痛がる顔を見せるとオヤジが怒る」と語っている。

高校進学時は東京に住んでいて、関東の強豪校(学校名は発言していない)からの野球推薦の話があったにも関わらず、大阪のPL学園に入学した。 PL学園に入るきっかけは、「1番は親父がPL出身だったことと、KKコンビ桑田真澄清原和博)が甲子園で活躍する姿やPLのユニフォームに憧れていたから。」と語っているが、坪井のPL進学決意に父の新三郎は「あとは自分で考えてやれ」とPL学園入学の後押しもしなかったという。 なお、坪井が在籍していた高校3年間は甲子園に出場することが出来なかった為、甲子園には縁がなかった。 坪井が卒業した後にPL学園は第64回選抜高等学校野球大会に出場している(当時PL学園に在籍していたのは坪井の1年後輩の今岡誠(元阪神タイガース千葉ロッテマリーンズ)・2年後輩の松井稼頭央(現東北楽天ゴールデンイーグルス)らがいる)。

墨田シニア・PL学園時代はエース投手だったが、青山学院大学時代に打撃を活かすために外野手に転向する。

阪神に入団して外野のライトのポジションを獲得するが、この時に坪井は「今までの野球人生でライトは経験したことはなかった」と語っている。 大学・社会人時代に本格的に外野手転向したが、大学時代はレフト・社会人時代はセンターを守っていたためで、ライトのポジションは阪神入団まで全く経験していなかった。

阪神ではPL学園時代の後輩である今岡がプロ野球選手としては先輩となったが、坪井は今岡を「マコ」と呼び、先輩として接していた。(プロ野球ではプロ入り年数ではなく、年齢が上の人に敬語を使う)

野球の対する姿勢はかなりストイックで考えも独特である。同い年のイチローや日本ハムで同僚だった稲葉篤紀も坪井の野球に対する姿勢を評価している。

アマチュア時代から練習の虫で、1番早くグラウンドに来て1番最後にグラウンドを後にする程、練習に一切妥協しなかった。阪神に入団してからもそれは続いた。移籍した日本ハムファイターズで当時同僚だった小笠原道大(現中日ドラゴンズ)の練習する姿を見て、「自分は彼(小笠原)に比べたら全然ダメですね」と語っているが、小笠原も「坪井がすごく練習しているの見ると、自分が先にやめてはいけない」と語っている。

オフには3~5日程度、ファスティング・ダイエットを行う。ファスティング・ダイエット用の乳酸菌等から作られた発酵飲料を飲んでいる。 よく言われている水のみの断食は行っていないことを、2007年のトークショーで語っている。本人曰く「シーズン中はカロリーの多い食事ばかり取るため、内臓を休ませる効果がある、断食をしないとシーズンに調子が出ない」。

阪神時代は「ぶっきらぼうでしかもストイック。何だか話しづらい雰囲気」を持っていた選手だったが、日本ハムファイターズに移籍してからその印象は次第に薄れていく。2004年以降、新庄剛志の加入と新庄のパフォーマンスに参加するようになってからかなり性格がオープンになっている。今ではシーズンオフにトークショーや野球教室を開いてファンとの交流を深めている。ただ、野球に対するストイックさは全く変わっていない。

大のコーヒー好きであり、札幌市に本社を置きラジオ番組(地域FM局にて、現在は放送終了)を放送していた財務コンサルタント事業を行っている株式会社グーゲンへの番組出演をきっかけに、石狩市の徳光珈琲とグーゲンの共同計画で「§坪井珈琲§」(2種)をネットやグーゲン本社にて販売している。[27]

2007年1月5日にTBSテレビで放映されたドキュメンタリー番組『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』にて、日本ハムを解雇されてから再雇用されるまでのいきさつが紹介された。同番組のラストは日本ハムとの再契約の際の記者会見で意気込みを語る姿で「もう這い上がるしかないですから」と語っている。

同僚や後輩からの信頼は厚く、2006年に戦力外通告を受けた時はある後輩が「また坪井さんと一緒に野球ができると思っていたんです・・・」と泣きながら坪井に抱きついたエピソードがある。 また、田中幸雄(現・北海道日本ハムファイターズ二軍監督)や稲葉篤紀らが球団に坪井の野球に取り組む姿勢や、後輩達への指導などの坪井の行動を球団に伝え、坪井の残留を強く訴えたという話もある。

2010年10月に戦力外通告されて以降、3ヶ月経過した2011年1月にオリックスが正式に獲得を発表したが、それ以前にも戦力外通告された直後に「オリックスが坪井獲得を検討している。」との一部報道があった。 しかしその時坪井は「(オリックスから)全く連絡もないし、そういう報道は信じないことにしている」と発言している。 これは2006年に日本ハムから戦力外通告を受け、1度目のトライアウトを受けた翌日の新聞に、「楽天が戦力外の坪井と接触」との報道があったが、この時も本人に楽天から全く連絡がなかったためである。 当時の楽天フロントはチーム全体の戦力不足もあり、トライアウト参加者の中で1番実績のある坪井獲得を検討していたが、当時の監督である野村克也が「楽天は(戦力外通告された)選手の墓場ではない」と坪井獲得を否定したこともあり、フロントは坪井の獲得を断念した経緯がある。

2010年の退団会見の際に、「(温かいファンのいる)北海道が大好きですから」と話している。 2010年9月26日の札幌ドーム最終戦で代打を告げられたのがファイターズでの最後の打席になった(坪井は一軍再登録後、来季の構想外と通告されていた)。 「いつも(入場曲を)かけてもらっている音楽を消してもらって、ファンの大歓声を聞きながら打席に立った」とあえて曲を流さなかったことも明かした。 ブログで現役引退後に住むとしたら「神戸札幌」と書いている。

現役引退後に週刊ベースボールのインタビューで「今まで対戦したなかでNo.1の投手は?」と聞かれた際に、松坂大輔金子千尋など素晴らしい投手はたくさんいたが、特に斉藤和巳は負けない投手で、彼の背中から炎が見えるようだったと語っている。また自身のブロクでも「№1投手は斉藤和巳」と述べている。

交友[編集]

交友関係では、新庄剛志入来祐作、イチローとは特に仲が良い。阪神時代からの仲である新庄がメジャーリーグから北海道日本ハムファイターズに入団する決め手の1つに「(日本ハムには)全く知らない選手ばかりいる中で、阪神時代からの仲である坪井がいたことが大きかった」と語っている。坪井も「新庄さんとまた野球ができることは本当に嬉しいですよ」と話している。 2006年の日本シリーズでチームが日本一になった瞬間、選手たちがベンチからマウンドのマイケル中村の周りに行き喜ぶなか、坪井はマウンドを通り過ぎ、外野で森本稀哲(現・埼玉西武ライオンズ)と抱き合った後に、一人で泣きながらベンチにゆっくりと戻ってくる新庄のもとへ真っ先に向かい抱き合った。

入来祐作とはPL学園時代に寮で同室であった。PL学園野球部は先輩と相部屋で過ごすことになっていて、後輩は先輩の世話係(部屋の掃除やユニフォームの洗濯など)だった。坪井はプロ入り後、「(練習が厳しくて)もし、入来さんが同室じゃなかったらどうなっていたか分からない」と話している。また、坪井が2006年のシーズンオフに戦力外通告を受けて2回目のトライアウトに控えて黙々とトレーニングを行う中、坪井のバッティング練習に打撃投手として一役買ったように入来との親交は深い。入来は高校時代から「坪井は実の弟(入来博之)よりかわいい奴だよ」と知り合いに話していたように当時から坪井をかわいがっていた。

イチローとの関係[編集]

イチローとは同じバッティングフォームの振り子打法がきっかけで親交が深まった。初対面は1998年のオープン戦で、坪井の第一印象は「僕と同じように足上げて打ってて、『俺(坪井)の方が先だ』っていう話が出回って、『コイツふざけんな』って」と話しているように、会う前の印象は決していいものではなかったが、坪井と直接話して感じたのは「好奇心が大きな人」と会話をして坪井の印象が変わったことを話している[28]。そして親交が深まり、2001年のオフシーズンから毎年1月頃にはイチローの古巣・オリックススカイマークスタジアムで合同自主トレを行うほどの仲になっている。この合同自主トレは坪井が阪神・日本ハム・オリックスに移籍した後にも続けられている。イチローは、坪井が2006・2010年に日本ハムから、2011年にオリックスから戦力外通告を受け、現役にこだわってトレーニングを続けていた坪井をメールで励ましていた。2011年にオリックスに入団が決まり、ほっともっとフィールド神戸で新入団を受けての取材対応を予定した坪井に合わせ、イチローも自主トレを敢行している。この時にイチローは「背番号51をつけてほしかったね」と、坪井のオリックス入団を祝福。「アイツ(坪井)は野球が大好き。そういう選手が現役でプレーできる立場をつかんだわけだから、その事実がよかった」と話している。[29]

坪井はイチローのことを「野球生活の中で一番影響を受けた人物」と話し、引退を決断した時に家族以外で一番最初に報告したのはイチローで、「3、4時間ずっとしゃべっていた」と引退会見で明かした。[30]

坪井が現役引退することを本人から直接聞いたイチローは、「技術を突き詰めていく、自分の能力の行けるところまで、っていうのは(坪井から)常に感じていた。それはいくつになってもそう、今年もそうだった。野球が好き、と言っても、子供の、リトルリーグのそういう感覚じゃない。ストレスがないものではない」[31]と坪井の野球に対する姿勢に共感していたと同時に、「(坪井は)好きで野球をやっている。それ(引退)を決めるのが大変なタイプ」[32]「けがで(十分に)やれなかったのは残念」[33]と坪井の現役引退を残念がっていた。

振り子打法に変更[編集]

青山学院時代に、バッティングフォームを阪神入団時のような振り子打法に切り替えた。 当時の監督である河原井正雄は、「坪井はインコースの球に差し込まれるケースが多かった。 本人は否定していたが、それを克服しようと試行錯誤してたどり着いたのが、 少し体を開いた状態で打つようになったフォーム(振り子打法)だった」と語っている。

坪井が振り子打法に切り替えたのは大学3年時で、当時は佐々木誠のように足を大きく上げてタイミングを取るスタイルだったが、変化球に弱く三振が多いことに悩んでいた。 打撃で悩んでいた同時期にイチロー振り子打法で大ブレイクするのを見て、「変化球に対応するには、あの打法がええんちゃうの?」と振り子打法を真似したのが始まりだった。 しかし「ただ単にイチローの振り子打法を真似しても試合で打てないから、自分なりにアレンジして少しずつ試合で打てるようになった」と現役引退後に述べている。[34]

応援歌[編集]

日本ハム時代の応援歌は、阪神時代に使われたファンファーレ部分(PL~青学~東芝~)に、「阪神!」と合いの手が入れられたものが使われ、それ以降の歌詞については日本ハムオリジナルであった。 これは阪神応援団が片岡篤史(元日本ハム)のファンファーレに、日本ハム時代に使っていたものをそのまま使ったことから、日本ハム応援団が当選手のファンファーレに阪神時代のものを使用するようになったためである。 交流戦が始まってからは、阪神戦で阪神ファンから「阪神!」と一緒に合いの手を入れる様子を見ることができる。

オリックス移籍決定後、このファンファーレについて引継ぎ使用していくかを同選手へ質問する人が多いが、もともと私設応援団が作成したものであり、選手自身は応援歌には一切関与していないため、この質問には答えようがない。しかし、阪神時代から愛されているファンファーレのために引き続きの使用を熱望するファンは多く、2011年シーズンの6月28日に一軍の試合に初出場した際に、これまでのファンファーレが応援歌の前に演奏された。合いの手は「阪神!」と「日本ハム!」をほぼ同時に叫ぶファンが存在している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1998 阪神 123 455 413 63 135 26 2 2 171 21 7 5 3 1 32 0 6 80 0 .327 .383 .414 .797
1999 134 583 530 75 161 30 1 5 208 43 6 10 1 2 43 1 7 90 5 .304 .363 .392 .755
2000 128 546 489 49 133 14 4 4 167 32 6 6 4 3 38 1 12 83 3 .272 .338 .342 .679
2001 43 142 128 12 28 7 2 2 45 11 1 1 2 1 10 1 1 30 1 .219 .279 .352 .630
2002 24 76 68 8 17 3 0 1 23 6 1 0 3 0 4 2 1 19 2 .250 .301 .338 .640
2003 日本ハム 123 500 443 70 146 26 3 5 193 40 13 5 5 0 46 2 6 79 10 .330 .400 .436 .836
2004 89 409 359 53 102 23 2 11 162 43 4 6 4 3 35 0 8 64 8 .284 .358 .451 .809
2005 98 349 314 39 97 10 1 2 115 19 5 3 3 1 26 3 5 54 0 .309 .370 .366 .736
2006 25 50 47 4 9 2 0 0 11 1 0 0 1 0 2 0 0 10 1 .191 .224 .234 .459
2007 100 309 276 26 78 7 2 0 89 23 6 2 10 1 17 0 5 53 3 .283 .334 .322 .657
2008 26 53 50 2 11 2 0 0 13 1 0 0 1 0 1 0 1 7 0 .220 .250 .260 .510
2009 84 156 146 13 39 8 0 0 47 15 0 0 2 2 5 1 1 23 4 .267 .292 .322 .614
2010 36 86 77 7 18 3 1 0 23 9 1 0 2 0 4 0 3 19 0 .234 .298 .299 .597
2011 オリックス 3 8 8 0 2 1 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .375 .625
通算:14年 1036 3722 3348 421 976 162 18 32 1270 265 50 38 41 14 263 11 56 613 37 .292 .352 .379 .731
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰[編集]

  • セントラル・リーグ会長特別表彰(1998年)
  • JA全農Go・Go賞(最多二・三塁打賞:1998年8月)

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他記録
  • オールスターゲーム出場:2回 (2000年、2003年)
  • プロ初本塁打がランニング本塁打:達成日等は上記「初本塁打」の項を参照 ※2リーグ制以後3人目(過去の達成者は武上四郎緒方耕一、後に水田圭介内村賢介などがいる)
  • 初回先頭打者ランニング本塁打:達成日等は上記「初本塁打」の項を参照 ※史上5人目(新人では史上初)
  • 規定打席以上で併殺打0:1998年達成 ※史上9人目(1997年の武藤孝司以来の記録。阪神の選手としては1953年の金田正泰、1969年の藤田平に次ぎ3人目。新人で規定打席に到達しながら併殺打0というのは史上初)
  • セ・パ両リーグ1年目で規定打席に到達し打率3割以上:セで1998年、パで2003年に達成 ※史上初
  • 新人から2年連続で打率3割以上:1999年達成 ※史上4人目(過去の達成者は長嶋茂雄横田真之高橋由伸
  • セ・リーグ最多補殺数:11(1999年)
  • セ・パ両リーグの2リーグ制(1950年より始まる)分立後の新人最高打率.327:1998年達成。(1リーグ制だった1949年以前を含めると、新人最高打率は1946年に打率.341を記録したグレートリング田川豊である)

年度別守備成績[編集]

年度 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1998 105 213 6 4 1 .982
1999 133 226 11 5 2 .979
2000 122 181 7 3 2 .984
2001 32 42 2 1 0 .978
2002 17 21 0 0 0 1.000
2003 108 199 6 4 1 .981
2004 87 145 5 1 1 .993
2005 91 149 11 2 0 .988
2006 13 17 0 0 0 1.000
2007 80 126 4 0 2 1.000
2008 9 6 0 0 0 1.000
2009 36 47 4 1 0 .981
2010 4 0 0 0 0 ----
通算 837 1372 56 21 9 .986
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号[編集]

  • 32 (1998年 - 2002年)
  • 7 (2003年 - 2010年)
  • 00 (2011年)
  • 77 (2015年)

登場曲[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 株式会社スーパーエージェント
  2. ^ 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」しゃーけど(--;)
  3. ^ a b 【12月27日】2006年(平18) 坪井智哉、日本ハム解雇から一転再契約”. スポーツニッポン (2007年12月27日). 2013年9月21日閲覧。
  4. ^ 坪井智哉、2度目の旅立ち
  5. ^ 坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」残念ながら残念ながら(+_+)
  6. ^ 北海道日本ハムファイターズ公式サイト ニュース 坪井選手退団のお知らせ
  7. ^ 日本ハム退団の坪井にイチローからの激励
  8. ^ “日ハム戦力外の坪井、オリックスが獲得 背番号は00”. 朝日新聞. (2011年1月17日). http://www.asahi.com/sports/baseball/npb/news/OSK201101170130.html 2012年2月19日閲覧。 
  9. ^ オリ坪井獲得!岡田監督が“花道”用意
  10. ^ オリックス移籍の坪井がイチローと対面
  11. ^ 戦力外通告のお知らせ
  12. ^ “オリ戦力外の坪井 ウインターリーグに特例参戦”. スポーツニッポン. (2012年2月15日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/02/15/kiji/K20120215002634280.html 2012年2月19日閲覧。 
  13. ^ 最大の坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  14. ^ 五月中旬に(*^o^*)坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  15. ^ リリースされてから(^^;;坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」2012年8月10日。
  16. ^ 毎年恒例の(*^◯^*)坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  17. ^ やっと( >??< )坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  18. ^ なんかさぁ(~_~;)坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  19. ^ 坪井、独立リーグのチームと契約合意
  20. ^ 今から12年前の坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  21. ^ 坪井智哉「帰国後、友人が教えてくれた阪神ファンの優しさ」
  22. ^ 私事でございますが、、、坪井智哉オフィシャルブログ「TSUBOCHIKA SPIRITS」
  23. ^ 2015年度 横浜DeNAベイスターズコーチングスタッフ決定 横浜DeNAベイスターズ 公式サイト
  24. ^ a b 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、40頁。ISBN 4-86191-015-3
  25. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』 白夜書房、2006年、60頁。ISBN 4-86191-134-6
  26. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2008』 白夜書房、2008年、86頁。ISBN 978-4-86191-374-7
  27. ^ 日本ハム坪井が監修の「珈琲」が話題に” (日本語). 日刊スポーツ新聞社. 2009年10月4日閲覧。
  28. ^ ヤンキースのイチロー、坪井智哉の引退に本音「さびしくなる」
  29. ^ イチローと入団祝いの合同トレ
  30. ^ 坪井氏が引退会見 住む家もなかった
  31. ^ イチロー、坪井の引退に「寂しくなる」
  32. ^ イチロー 同学年の坪井の引退「寂しくなる」
  33. ^ イチロー、坪井引退に「残念」=米大リーグ
  34. ^ イチローの振り子打法の元祖論争に決着!

関連項目[編集]

外部リンク[編集]