小林正人

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小林 正人
中日ドラゴンズ #69
CD-Masato-Kobayashi.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 群馬県吾妻郡嬬恋村
生年月日 1980年8月21日(33歳)
身長
体重
181 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2002年 ドラフト6巡目
初出場 2005年9月1日
年俸 4,800万円(2014年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

小林 正人(こばやし まさと、1980年8月21日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手投手)。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

桐生第一高等学校では、3年時に第80回全国高等学校野球選手権大会に群馬県代表で出場。一回戦で高知の明徳義塾に5―6でサヨナラ負けした。その後、東海大学に進学する。首都大学リーグ通算11試合登板し4勝1敗。久保裕也読売ジャイアンツ)の控えだったが、大学4年の秋季リーグで4勝を挙げて一躍ドラフト候補となり、2002年のドラフト中日ドラゴンズから6巡目指名を受けて入団した。

プロ入り後[編集]

ルーキーイヤーの2003年2004年は一軍登板なしに終わった。

2005年は、9月1日阪神タイガース戦で3年目にしてプロ初登板を果たす。しかしこの試合でいきなり桧山進次郎に頭部死球を与え危険球退場、ほろ苦いデビューとなった。4試合に投げたうち3試合で失点してしまい、防御率は7点台に終わった。

2006年からは、サイドスローに転向し、左打者へのワンポイント登板で起用されるようになった。序盤、一軍に上がるものの不調から登録抹消。優勝争いの山場の夏に再び昇格すると、9月9日の対広島東洋カープ戦でわずか5球でプロ初勝利を飾るなど一軍定着を果たし、チームの優勝に貢献した。しかし、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第3戦では小笠原道大に対してワンポイントで登板したものの初球を死球にしてしまい1球で降板、登録も抹消されるという苦い内容だった。

2007年は、角度のあるサイドスローにさらに磨きをかけ、ルール改定で「ピッチャーズプレートに足の一部が触れていれば良い」という条項を上手く利用し、中継ぎとして積極的に使われ、シーズン前半で18試合に登板したものの結果を出せず球宴直前に二軍落ちし、その後は一軍への再浮上は叶わず、クライマックスシリーズ・セ日本シリーズでも、ベンチ入り、登板の機会は与えられなかった。シーズン終了後は久本祐一吉見一起らと共にドミニカ・ウィンターリーグに派遣され、日本一パレードには参加できなかった。

2008年は、開幕一軍を勝ち取り、開幕当初から左のワンポイントリリーフとして無失点を続け、安定感のある投球を披露していた。しかし、その後課題の制球難から調子を落とし、登録抹消を繰り返す日々が続いた。再び一軍登録された8月下旬からシーズン終了時まで一軍に定着したが、やはり制球力は今ひとつで、自ら四球で出したランナーを、その後ヒットで返されるといった悪循環を繰り返し、最終的に防御率は4点台にまで悪化した。このことから、やはりこの年も制球に苦しんだ年といえるだろう(28.1/3回を投げ、与四死球は15個)。また、この年の小林は左打者に対しては.221と押さえ込んだが、右打者に対しては.410と打ち込まれた。この対右打者の被打率の悪さもこの年の小林が苦しんだ原因の一つである。

2009年は、左のワンポイントリリーフとして期待されるも、オープン戦で結果を残せず開幕二軍スタートとなった。しかしネルソン・パヤノが右肩を故障した影響で昇格した4月24日の巨人戦に早速登板し、プロ27人目の珍記録となる一球勝利を納めた。32試合に登板してわずかシーズン2失点、防御率0.84と好投し課題の制球難を克服。左打者には被打率.192、右打者にも.238と安定した投球を見せた。育成枠で同姓の小林高也が入団した為、表記は「小林」から「小林正」になった。

2011年高橋聡文の離脱もあり一年間一軍に帯同し、キャリアハイとなる58試合に登板し防御率0.87、5勝無敗と前年に続き安定した成績を記録。左のワンポイントリリーフとして文句なしの成績を残した(当初の開幕28人枠は逃したもののエンジェルベルト・ソトが体調不良を起こしたことから鳴尾浜で行われた4月12日のウエスタン阪神戦後に1軍帯同先の横浜スタジアムに招集がかかる)。 2012年より、同姓の小林高也が巨人に移籍した為、小林姓が1人になって区別する必要はなくなったが、登録名を「小林正」(山本昌と同じく姓と名の区別無し)に変更。理由について本人は「画数の関係で」と答えている[1]。この年は昨年より登板数を減らしたものの、41試合に登板し防御率1.31と存在感を見せた。

2013年からは登録名を本名に戻した為、表記は「小林」となっている。この年は岡田俊哉ワーナー・マドリガルなどの新戦力の活躍もあり、登板数は昨年より減少、防御率も4点台と安定さを欠いたシーズンとなった。

プレースタイル[編集]

サイドスローから投げる平均球速約129km/h[2]の動く速球スライダーシュートを武器とし、稀にカーブも投げる。

対左打者のワンポイントリリーフとして活躍しているが、特に巨人阿部慎之助と相性が良い。2012年シーズンは24打数の対戦で1安打に抑えている。

人物[編集]

高校時代、正田樹は1年後輩で、一場靖弘大廣翔治は2年後輩であった。また、東海大では、小田嶋正邦平野恵一が1年先輩であり、同期は、久保裕也鞘師智也。また、大松尚逸は2年後輩である。

飛躍の要因は何といっても、2005年のオフにサイドスローに挑戦し、左殺しのワンポイントリリーフという役割に働き場所を求めたことである。プロで生き残るために、高津臣吾潮崎哲也といったサイドスロー投手の映像を取り寄せて参考にした。1980年代西武ライオンズで活躍した永射保がベース。鋭いスライダー阪神タイガースジェフ・ウィリアムス、大きく曲がるスライダーは北海道日本ハムファイターズマイケル中村を理想として、人気野球ゲームファミスタナムコスターズの左サイド投げの投手であるきゃらはちのように息の長い投手になりたいと雑誌のインタビューで答えていた。

上記のようにかなりの努力家。横手投げの前にも岩隈久志のフォームを真似て「左版岩隈」を試すなど入団以来試行錯誤を繰り返してきている。入団当初はむしろ同期で指名が上位の植大輔の方が期待されていたのだが、植が2年で退団したのに対し、小林はその努力が認められてか、層の厚い中日投手陣にあって貴重な戦力となりつつある。内角を鋭く突く強気のピッチングが持ち味で、制球にやや難があるがここ数年は改善しつつあり、左のワンポイントの切り札として定着してきている。

2006年に挙げたプロ初勝利はわずか5球であり、2009年のプロ2勝目は1球、同年のプロ3勝目は2球であった。 1球で勝ち投手と2球で勝ち投手の両方を同じ年に達成したのは、小林が初である。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
2005 中日 4 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- 21 4.2 5 1 1 0 1 6 0 0 4 4 7.71 1.29
2006 23 0 0 0 0 1 0 0 3 1.000 56 12.0 10 0 5 0 3 12 0 0 8 7 5.25 1.25
2007 18 0 0 0 0 0 1 0 3 .000 49 11.1 9 1 6 2 1 9 0 0 5 3 2.38 1.32
2008 46 0 0 0 0 0 2 1 10 .000 133 28.2 33 4 12 3 3 21 1 0 18 14 4.40 1.57
2009 32 0 0 0 0 3 1 0 1 .750 82 21.1 15 1 7 0 1 19 1 0 2 2 0.84 1.03
2010 36 0 0 0 0 0 0 0 6 ---- 82 21.0 17 1 2 0 2 16 0 0 5 5 2.14 0.90
2011 58 0 0 0 0 5 0 0 18 1.000 106 31.0 10 0 7 1 2 26 0 0 4 3 0.87 0.55
2012 41 0 0 0 0 2 0 0 14 1.000 89 20.2 16 1 5 1 3 17 0 0 3 3 1.31 1.02
2013 33 0 0 0 0 0 0 0 6 ---- 67 15.1 18 0 3 0 1 7 0 0 7 7 4.11 1.37
通算:9年 291 0 0 0 0 11 4 1 61 .733 685 166.0 133 9 48 7 17 133 2 0 56 48 2.60 1.09
  • 2013年度シーズン終了時

記録[編集]

登場曲[編集]

背番号[編集]

  • 30 (2003年 - 2004年)
  • 69 (2005年 - )

登録名[編集]

  • 小林 正人(こばやし まさと)(2003年 - 2011年、2013年 - )
  • 小林正(こばやしまさ)(2012年)

脚注[編集]

  1. ^ 中日スポーツ 2012年1月16日
  2. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』 日本スポーツ企画出版社、2012年、97頁。ISBN 978-4-905411-04-8

関連項目[編集]