宮本恒靖
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| 名前 | |||||||
| 愛称 | ツネ、ツネ様 | ||||||
| カタカナ | ミヤモト ツネヤス | ||||||
| ラテン文字 | MIYAMOTO Tsuneyasu | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1977年2月7日(35歳) | ||||||
| 出身地 | 大阪府富田林市 | ||||||
| 身長 | 176cm | ||||||
| 体重 | 72kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | DF | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。{{{クラブ成績更新日}}}現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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宮本 恒靖(みやもと つねやす、1977年2月7日 - )は、日本の元サッカー選手(元日本代表)。ポジションはディフェンダー(センターバック)。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] ユース時代
大阪府富田林市出身。サッカーを始めたのは富田林市立伏山台小学校5年生(10歳)。ポジションはフォワードだった。小学校6年生時、医者を目指していた宮本少年は中学受験のためサッカーから辞退したい旨を申し出るも国立大学大阪附属中学校の抽選から漏れ[要出典]、地元の富田林市立金剛中学校に進学、同校にてサッカーの指導を受けて技術を向上、サッカーを始めてから約3年後の中学2年生時「全国中学校選抜大会」(現・14歳以下ナショナルトレセン)、U15代表候補合宿に招集。中学校3年生時「大阪府英語弁論大会」で優勝。
大阪府立生野高等学校時代はガンバ大阪ユースに所属し、上級生がいなかったため初代キャプテンに就任[1]、ユースチーム卒業までの3年間務めた。ユースでは1994年12月にJユースカップで優勝し初めてのタイトルを得た[1]。1993年にはU-17日本代表に選ばれ、日本で開催された1993 FIFA U-17世界選手権に出場しベスト8の成績を修めた[2]。U18ジュニアユース(監督・山本昌邦)招集。
[編集] ガンバ大阪時代
1995年6月24日、ガンバ大阪のトップチームに昇格[1](同期入団は實好礼忠、森下仁志、中口雅史、高木健旨、松山明男)スイーパーとして活躍。プロ契約後、数年間中々出場機会に恵まれず、ポジションも頻繁に変わりプロ選手として苦悩する事になる。同時期に同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、2001年に卒業した。
1996年から1998年頃、当時のクゼ、アントネッティ両監督にはボランチで起用されたこともあった。初ゴールは1997年10月4日、同年オールスター戦にも初選出されキャプテンを務める[1]。2000年にトップチームの主将に就任、オールスター戦に得票1位で選出(2002年も1位選出さる)[1]。2001年にイングランドのウェストハム・ユナイテッドに移籍を試みたが、労働ビザが発給されずに断念した。このゴタゴタで、背番号が5から35になった[1]。2005年12月にJ初優勝のタイトルを得る[1]。
2004年度には再び主将に就任。翌2005年には、シーズン中にイタリアのトレヴィーゾからのオファーがあったが、ガンバ大阪が優勝争いの最中であったため断っていた[要出典]。
[編集] レッドブル・ザルツブルク時代
2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍し[3]、初年度にリーグ優勝を果たした。
レッドブル・ザルツブルクでは、4バックの左右どちらのセンターバックもこなし、2007-08年シーズンからはSKラピード・ウィーン戦(12月7日)、SKシュトゥルム・グラーツ戦(12月15日)などで左サイドバックとしてもスタメン出場した。宮本本人は自らのブログで10年ぶりにこのポジションでプレーしたと振り返っている[4]。
2007年12月には、2009年6月までの1年半の契約延長に合意した。
2008年1月、チームでの練習中に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、現地で手術、リハビリに務めることになった。6月に本格的に練習再開、8月17日には8か月ぶりに公式戦出場を果たす。同年10月28日のオーストリア協会カップ3回戦では海外移籍後初のキャプテンを任され、フル出場した。 前任者のジョバンニ・トラパットーニ監督時代と違い、コー・アドリアーンセ新監督が就任してからは試合出場機会が減少した。
2008-2009シーズンはアドリアーンセ監督が攻撃戦術を採用した影響もあり、リーグ戦は1試合も出場機会がなかった[5]。そのため、ザルツブルクとの契約は6月まで残っていたものの出場機会を求めて移籍を検討。クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届いていたが[6]、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心に誘いのあったヴィッセル神戸入りを決めた[1][5]。
[編集] ヴィッセル神戸時代
2009年1月15日、ヴィッセル神戸が、ザルツブルクとの間で完全移籍に合意したと発表した。神戸入団後に主将に就任[7]。序盤戦はセンターバックで、後ボランチの位置でプレーするようになった。
2011年12月19日に現役引退を表明した[1][8]。今後は欧州に渡り、国際サッカー連盟運営の大学院にて指導者講習を受けてコーチングライセンス取得を目指すことも表明している[9]。
[編集] 日本代表
1997年にU-20に選出され、U-20ワールドカップでキャプテンとして5試合に出場[2]。
2000年6月18日のキリンチャレンジカップ・ボリビア戦で日本代表初出場[2]。シドニー五輪を経て、2001年末からは、トルシエJAPANにおいて日本代表キャプテンを務めていた森岡隆三の離脱時に代わってキャプテンを任された。
2002年日韓W杯では、開催直前の大学生との練習試合で競り合った際に相手の肘が顔に入り、鼻骨骨折した[2]。これにより、顔面を保護するために兵庫医大病院が用意した医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付けることになり、元々白いガードに自らの手で黒いマジックで色をつけて[10]出場した。そのプレーする姿を見た海外のメディアから、バットマンと渾名された[2][11]。代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦[2]。
トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった[2]。
日本代表ではU-17からA代表に至るまで、全カテゴリでキャプテンを務めた[12]。
[編集] 家族
父、宮本恒明は関西電力の元常務で独立行政法人造幣局監事[13]。母、宮本弘子は元堺市市民人権局理事・教育委員会学校教育部長[10]。3歳年長の姉がひとりいる[14]。妻は生野高校で宮本の2年先輩にあたり[15]、2001年に結婚した。夫妻の間には長男と長女の1男1女がある。
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 1987年 - 1988年 伏山台FC
- 1989年 - 1991年 金剛中学校
- 1992年 - 1994年 ガンバ大阪ユース(大阪府立生野高等学校)
プロ経歴
- 1995年 - 2006年
ガンバ大阪 - 2006年 - 2009年
レッドブル・ザルツブルク - 2009年 - 2011年
ヴィッセル神戸
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | G大阪 | - | J | 11 | 0 | - | 4 | 0 | 15 | 0 | |
| 1996 | 13 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 22 | 0 | |||
| 1997 | 20 | 26 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 33 | 1 | ||
| 1998 | 32 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 37 | 0 | |||
| 1999 | J1 | 30 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | ||
| 2000 | 5 | 29 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 | ||
| 2001 | 35 | 24 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 29 | 0 | ||
| 2002 | 20 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 24 | 1 | |||
| 2003 | 5 | 26 | 1 | 5 | 1 | 2 | 0 | 33 | 2 | ||
| 2004 | 24 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 25 | 0 | |||
| 2005 | 30 | 3 | 4 | 0 | 2 | 0 | 36 | 3 | |||
| 2006 | 30 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 35 | 1 | |||
| オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | ザルツブルク | 17 | ブンデス | 9 | 0 | - | 1 | 0 | 10 | 0 | |
| 2007-08 | 12 | 0 | - | 0 | 0 | 12 | 0 | ||||
| 2008-09 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | 2 | 0 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2009 | 神戸 | 14 | J1 | 32 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 39 | 1 |
| 2010 | 6 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 12 | 0 | |||
| 2011 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | |||
| 通算 | 日本 | J1 | 337 | 8 | 43 | 1 | 32 | 0 | 412 | 9 | |
| オーストリア | ブンデス | 21 | 0 | - | 3 | 0 | 24 | 0 | |||
| 総通算 | 358 | 8 | 43 | 1 | 35 | 0 | 436 | 9 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2006 | G大阪 | 5 | 5 | 1 |
| 通算 | AFC | 5 | 1 | |
その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選2回戦 1試合0得点
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選3回戦 2試合0得点
[編集] 経歴
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- U-17日本代表
- 1993年 FIFA U-17世界選手権(ベスト8)
- U-20日本代表
- 1997年 FIFAワールドユース(U-20)選手権(ベスト8)
- U-23日本代表
- 2000年 シドニーオリンピック(ベスト8)
- 日本代表
- 2002年 FIFAワールドカップ(ベスト16)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
- 2004年 AFCアジアカップ(優勝)
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
- 2006年 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 71試合 3得点(2000-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2000 | 2 | 0 |
| 2001 | 3 | 0 |
| 2002 | 11 | 0 |
| 2003 | 10 | 0 |
| 2004 | 19 | 2 |
| 2005 | 15 | 1 |
| 2006 | 11 | 0 |
| 通算 | 71 | 3 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2004年2月7日 | 日本、鹿嶋 | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2004 | |
| 2. | 2004年9月8日 | インド、コルカタ | ○ 4-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 3. | 2005年2月2日 | 日本、埼玉 | ○ 3-0 | キリンチャレンジカップ2005 |
[編集] タイトル
[編集] クラブ
ガンバ大阪ユース
- Jユースカップ:1回(1994年)
ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回(2005年)
ザルツブルク
- オーストリア・ブンデスリーガ:1回(2007年)
[編集] 個人
- AFCアジアカップ ベストイレブン:1回(2004年)
[編集] 関連項目
[編集] CM
- 明治乳業 明治アイス「明治エッセル スーパーカップ」 - 小島宏美・中澤佑二との共演
- WOWOW 「EURO 2000」(2000年) - 吉原宏太との共演
- adidas
- サッカー狂症候群 DF 篇(2002年) - 30秒バージョンは松田直樹との共演
- 「adi-NEO」(2006年)
- 「adi-WARM」
- 日本赤十字社 平成15年献血キャンペーン(2003年)
- ECC 「ECCジュニア」(2003年) - 秋田豊との共演
- ノーベル製菓 「はちみつきんかんのど飴」(2005年 - 2006年)
- からぶり 篇
- しっぱい 篇
- Panasonic 「Strada」(2005年 - 2006年)
- ナムコ 「Love FOOTBALL」(2006年)
- 花王 「メンズビオレ」(2006年)
- 講談社(2006年)
- 「講談社文庫」(2006年)
- 「講談社文庫の100冊『感動をくれた一冊』」(2006年)
- レッドブル 「エナジードリンク」(2007年)
- パイロン 篇
- トレーニング・バッグ 篇
- ソロ・トレーニング 篇
- 宮本恒靖&三都主 篇 - 三都主アレサンドロとの共演
[編集] 脚注
- ^ a b c d e f g h i 偉大なキャプテン宮本恒靖の軌跡part.2クラブ編『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 014-015頁。
- ^ a b c d e f g 偉大なキャプテン宮本恒靖の軌跡part.1代表編『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 012-013頁。
- ^ “G大阪宮本ザルツブルク移籍決定的!”. nikkansports.com (2006年12月17日). 2007年9月30日閲覧。
- ^ “交換”. 宮本恒靖公式サイト (2007年11月15日). 2010年8月26日 08:16 (UTC)閲覧。
- ^ a b nikkansports.com (2009年1月16日). “宮本が神戸に電撃移籍!J復帰即主将だ”. 2009年1月16日閲覧。
- ^ スポーツニッポン (2009年1月16日). “神戸入り決定!宮本2年ぶりJ復帰”. 2009年1月16日閲覧。
- ^ ヴィッセル神戸公式サイト (2009年1月30日). “2009シーズン主将決定のお知らせ”. 2009年1月30日閲覧。
- ^ “日韓W杯主将の元日本代表DF宮本恒靖が引退「別れを告げる時が来た”. SOCCER KING. 2011年12月19日閲覧。
- ^ 宮本引退「役割は多くないと思った」欧州で指導者資格の取得目指す スポーツニッポン 2011年12月19日閲覧
- ^ a b “PTA講演会 親と子を考える”. 大阪府立富田林高等学校PTA (平成20年12月22日号 (p. 2)). 2010年8月26日 08:39 (UTC)閲覧。
- ^ “英では「バットマン」宮本が人気!”. nikkansports.com (2002年6月16日). 2007年9月30日閲覧。
- ^ “IBM SPECIAL LEADER'S INSIGHT インタビュー 宮本恒靖氏”. 日経ビジネス. 2010年8月26日 08:59 (UTC)閲覧。
- ^ FDC | 2007年度 イエローリボン賞(ベスト・ファーザーin関西):宮本 恒明
- ^ “信号”. 宮本恒靖公式サイト (2003年3月3日). 2009年2月5日閲覧。 そのほか『週刊少年マガジン』32号・33号(2008年)掲載の『宮本恒靖 「Fire & Ice」』にも登場している
- ^ “素のツネ様 ヴィッセル神戸男前レポート特別篇: 宮本恒靖選手3”. れしぴねっと. 2010年8月26日 09:05 (UTC)閲覧。
[編集] 外部リンク
- 公式サイト「Tsune's Street since 1977」
- 「MIYAMOTO FUTSAL PARK」宮本プロデュースによるフットサル施設
- 「宮本恒靖」公式コミュニティSports@niftySNS
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