宮本恒靖
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| 宮本 恒靖 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ツネ、ツネ様 | |
| カタカナ | ミヤモト ツネヤス | |
| ラテン文字 | MIYAMOTO Tsuneyasu | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1977年2月7日(32歳) | |
| 出身地 | 大阪府富田林市 | |
| 身長 | 176cm | |
| 体重 | 72kg | |
| 血液型 | A型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | ヴィッセル神戸 | |
| ポジション | DF | |
| 背番号 | 14 | |
| 利き足 | 右足 | |
| 代表歴 | ||
| 2000-2006 | 71 (3) | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
宮本 恒靖(みやもと つねやす、1977年2月7日 - )は、大阪府富田林市出身の元日本代表のサッカー選手。2009年現在、ヴィッセル神戸所属(主将[1])。ポジションはディフェンダー(センターバック)。
目次 |
[編集] プレースタイル
危機察知能力に優れ、判断の早さとカバーリングに秀でる。特にフィードの正確性やそれを生かしたゲームメイクには定評がある。特に3バックの中央でのプレー経験が長く、ライン統率力に優れる。これはCBとしては身長が低く、対人に弱いといわれる弱点を補強するため、ストロングポイントをのばした結果とされる。
若い頃からキャプテンシーを認められ、ガンバ大阪ユースでは初代キャプテンを3年務めた。ユースからトップチーム昇格後、ガンバ大阪(2000年と2004年)をはじめ、レッドブル・ザルツブルク(2008年10月28日)、ヴィッセル神戸(2009年)といずれの所属チームでもキャプテンを務めている。日本代表ではU-17からA代表に至るまで、全カテゴリでキャプテンを務めた。
レッドブル・ザルツブルクでは、4バックの左右どちらのセンターバックもこなし、2007-08年シーズンからはSKラピード・ウィーン戦(12月7日)、SKシュトゥルム・グラーツ戦(12月15日)などで左サイドバックとしてもスタメン出場を果たし、プレーの幅を広げた[2]。
2009シーズンからは、ヴィッセル神戸でキャプテンとしてプレーをし、3バックと4バックの両方をこなしている。
[編集] 来歴
本格的にサッカーを始めたのは10歳。ポジションはフォワードだった。高校時代はガンバ大阪ユースに所属。大阪府立生野高等学校卒業後、ガンバ大阪入団と同時に指定校推薦枠で同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、プロスポーツと学業の両立を果たした。
[編集] クラブチーム
1995年、ガンバ大阪では入団(同期入団に實好礼忠、森下仁志、中口雅史、高木健旨、松山明男)。当時からスイーパーとして活躍。
1996年から1998年頃、当時のクゼ、アントネッティ両監督にはボランチで起用されたこともあった。 2001年にイングランドのウェストハム・ユナイテッドに移籍を試みたが、労働ビザが発給されずに断念した。
ガンバ大阪が初のリーグ優勝を果たした2005年には、シーズン中にイタリアのトレヴィーゾからのオファーがあったが、ガンバ大阪が優勝争いの最中であったため断っていた。
2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍し[3]、初年度にリーグ優勝を果たした。 2007年12月には、2009年6月までの1年半の契約延長に合意した。 2008年1月、チームでの練習中に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、現地で手術、リハビリに務めることになった。6月に本格的に練習再開、8月17日には8か月ぶりに公式戦出場を果たす。 同年10月28日のオーストリア協会カップ3回戦では海外移籍後初のキャプテンを任され、フル出場している。 前任者のトラパットーニ監督時代と違い、アドリアーンセ新監督が就任してからは試合出場の機会が目に見えて減った。
2008-2009シーズンはアドリアーンセ監督が攻撃戦術を採用した影響もあり、リーグ戦は1試合も出場機会がなかった[4]。そのため、ザルツブルクとの契約は6月まで残っていたものの出場機会を求めて移籍を検討。クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届いていたが[5]、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心に誘いのあったヴィッセル神戸入りを決めた[4]。
2009年1月15日、ヴィッセル神戸が、ザルツブルグとの間で完全移籍に合意したと発表した。
[編集] 日本代表
2000年6月18日のキリンチャレンジカップ2000・ボリビア戦で日本代表初出場。シドニー五輪を経て、2001年末からは、トルシエJAPANにおいて日本代表キャプテンを務めていた森岡隆三の離脱時に代わってキャプテンを任された。2002年日韓W杯では、開催直前の大学生との練習試合で怪我を負ってしまう。競り合った際に相手の肘が顔に入り、鼻骨骨折した。これにより、顔面を保護するために医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付ける事になり、自らの手で黒く染めて出場した。そのプレーする姿を見た海外のメディアから、バットマンと渾名された[6](因みに、命名の由来であるこの型のマスクを付けていたのは、バットマンではなくその相方であるロビン)。
トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった。
[編集] 備考
- 兄弟姉妹は姉が一人いる[9]。現在の家族については本人公式ブログでもしばしばとりあげられる。
- 大阪教育大学附属小学校を受験、筆記・面接試験ともに合格するものの抽選により不合格となった。中学校では生徒会長を務め、あだなは「校長先生」であった。
- サインを頼まれたとき、「何か、言葉を書いてください」と言われると、いつも『Seize the day』と書く。意味は【いまを生きろ】。これは宮本が中学時代に観た、『いまを生きる』という映画に感動し、気持ちを込めて、この言葉を書いていると語っている。『Seize the day』は自身の座右の銘である。
- 2002年日韓W杯で着用したフェイスガードは兵庫医大病院で作られたもの。元々白かったのだが、相手に威圧感を与えるため本人が黒く塗ったものである。ちなみに最初はマジックで塗った為、試合後はフェイスガードを着けていた部分が、真っ黒になっていたらしい。この大会が終了した後もフェイスガードの反響は大きく、Jリーグ再開後の最初のホームゲームではサポーターにフェイスガードを模したお面がプレゼントされた。
- 2002年日韓W杯のロシア戦の後、MFのヴァレリー・カルピンにユニフォーム交換を申し込んだが、断られた。
- PK戦の途中で審判への申し入れによってサイド位置が変わることはまず無いが、2004年アジアカップ準々決勝のヨルダン戦では審判に「ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしで史上初めてPKの位置変更を申し入れ、これを認めさせた。ちなみに宮本はこれについて「中村俊輔と三都主アレサンドロがPKを外していたため、嫌なムードを変えたかったから」と話している。
- 長年アディダスの契約選手であり、同社のプレデターシリーズを愛用している。
- 語学の習得に長けており、中学からの公立教育のみで英語を、大学の第二外国語でフランス語をマスターした。(仏語に関しては本人は「そんなに喋れない」と過剰なまでの語学力の評判を否定している)ガンバ大阪でのチームメイト、フェルナンジーニョとは共に日本語とポルトガル語を教え合った。ザルツブルク移籍後は週2回のドイツ語のレッスンを受け、現地メディアの取材は本人がドイツ語で応じていた。
- 得意の英語やフランス語でガンバ大阪の外国籍選手とのコミュニケーションをとり、彼らの日本での生活を助けたり、面倒をみることが多かった為、エムボマをはじめ多くの選手はガンバ時代の思い出として「宮本がよくしてくれた」と謝辞を述べている。クロアチア人のスクリーニャにいたっては、当時まだ二十歳にも満たない宮本の温情に感謝し、生まれた愛娘の名前をミアと名付けた。
- 2006年に発足したガンバ大阪ユースOB会の会長である。
- Jリーグオールスターサッカーで、2000年、2002年はJ-EASTとJ-WESTの両チーム合わせて最高得票を獲得。2005年、2006年と2年続けてJ-WESTの2年連続最多得票者であるとともに、J-WESTのキャプテンを務めた。出場回数:8回【1997・1999・2000・2001・2002・2004・2005・2006】(2003年は怪我で辞退)
[編集] 所属クラブ
ユース経歴
- 1987年 - 1988年 伏山台FC
- 1989年 - 1991年 金剛中学校
- 1992年 - 1994年 ガンバ大阪ユース
プロ経歴
- 1995年 - 2006年
ガンバ大阪 - 2007年 - 2008年
レッドブル・ザルツブルク - 2009年 -
ヴィッセル神戸
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | G大阪 | - | J | 11 | 0 | - | 4 | 0 | 15 | 0 | |
| 1996 | G大阪 | - | J | 13 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 22 | 0 |
| 1997 | G大阪 | 20 | J | 26 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 33 | 1 |
| 1998 | G大阪 | 20 | J | 32 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 37 | 0 |
| 1999 | G大阪 | 20 | J1 | 30 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 |
| 2000 | G大阪 | 5 | J1 | 29 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 |
| 2001 | G大阪 | 35 | J1 | 24 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 29 | 0 |
| 2002 | G大阪 | 35 | J1 | 20 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 25 | 1 |
| 2003 | G大阪 | 5 | J1 | 26 | 1 | 5 | 1 | 2 | 0 | 33 | 2 |
| 2004 | G大阪 | 5 | J1 | 24 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 25 | 0 |
| 2005 | G大阪 | 5 | J1 | 30 | 3 | 4 | 0 | 2 | 0 | 36 | 3 |
| 2006 | G大阪 | 5 | J1 | 30 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 35 | 1 |
| オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | ザルツブルク | 17 | ブンデス | 9 | 0 | - | 0 | 0 | 9 | 0 | |
| 2007-08 | ザルツブルク | 17 | ブンデス | 15 | 0 | - | |||||
| 2008-09 | ザルツブルク | 17 | ブンデス | 0 | 0 | - | |||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2009 | 神戸 | 14 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 295 | 7 | 34 | 1 | 28 | 0 | 377 | 8 | |
| オーストリア | ブンデス | 24 | 0 | - | |||||||
| 総通算 | 319 | 7 | 34 | 1 | |||||||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2006 | G大阪 | 5 | 5 | 1 |
| 通算 | AFC | 5 | 1 | |
[編集] 経歴
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- U-17日本代表
- 1993年 FIFA U-17世界選手権(ベスト8)
- U-20日本代表
- 1997年 FIFAワールドユース(U-20)選手権(ベスト8)
- U-23日本代表
- 2000年 シドニーオリンピック(ベスト8)
- 日本代表
- 2002年 FIFAワールドカップ(ベスト16)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
- 2004年 AFCアジアカップ(優勝)
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
- 2006年 FIFAワールドカップ(グループリーグ敗退)
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 71試合 3得点(2000-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2000 | 2 | 0 |
| 2001 | 3 | 0 |
| 2002 | 11 | 0 |
| 2003 | 10 | 0 |
| 2004 | 19 | 2 |
| 2005 | 15 | 1 |
| 2006 | 11 | 0 |
| 通算 | 71 | 3 |
[編集] 個人タイトル
[編集] 関連項目
[編集] CM
- サッカー狂症候群 DF 篇(2002年) - 30秒バージョンは松田直樹との共演
- 「adi-NEO」(2006年)
- 「adi-WARM」
- からぶり 篇
- しっぱい 篇
- Panasonic 「Strada」(2005年 - 2006年)
- 「講談社文庫」(2006年)
- 「講談社文庫の100冊『感動をくれた一冊』」(2006年)
- レッドブル 「エナジードリンク」(2007年)
- パイロン 篇
- トレーニング・バッグ 篇
- ソロ・トレーニング 篇
- 宮本恒靖&三都主 篇 - 三都主アレサンドロとの共演
[編集] 脚注
- ^ ヴィッセル神戸公式サイト (2009-01-30). "2009シーズン主将決定のお知らせ". 同日 閲覧。
- ^ "交換". 宮本恒靖公式サイト (2007-11-15). 2008年3月1日 閲覧。
- ^ "G大阪宮本ザルツブルク移籍決定的!". nikkansports.com (2006-12-17). 2007年9月30日 閲覧。
- ^ a b nikkansports.com (2009-01-16). "宮本が神戸に電撃移籍!J復帰即主将だ". 同日 閲覧。
- ^ スポーツニッポン (2009-01-16). "神戸入り決定!宮本2年ぶりJ復帰". 同日 閲覧。
- ^ "英では「バットマン」宮本が人気!". nikkansports.com (2002-06-16). 2007年9月30日 閲覧。
- ^ FDC | 2007年度 イエローリボン賞(ベスト・ファーザーin関西):宮本 恒明
- ^ [www.osaka-c.ed.jp/tondabayashi/pta/osiraseP/2008/koenkai.pdf 「親と子を考える」]大阪府立富田林高等学校
- ^ "信号". 宮本恒靖公式サイト (2003-03-03). 2009年2月5日 閲覧。 そのほか『週刊少年マガジン』32号・33号掲載の『宮本恒靖 「Fire & Ice」』にも登場している
[編集] 外部リンク
- 公式サイト「Tsune's Street since 1977」
- 「宮本恒靖」公式コミュニティSports@niftySNS
- footalk(サッカーマガジン インタビュー)(2001年6月28日)
- 止める蹴るしゃべる(サッカーマガジン インタビュー)(2003年12月25日)
- ヴィッセル神戸公式サイト
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