宮本恒靖
|
||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 愛称 | ツネ、ツネ様 | |||||
| カタカナ | ミヤモト ツネヤス | |||||
| ラテン文字 | MIYAMOTO Tsuneyasu | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1977年2月7日(36歳) | |||||
| 出身地 | 大阪府富田林市[1] | |||||
| 身長 | 176cm[1] | |||||
| 体重 | 72kg[1] | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 1995-2006 2006-2009 2009-2011 |
295 (7) 21 (0) 42 (1) |
|||||
| 代表歴 | ||||||
| 2000-2006 | 71 (3) | |||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||||||
宮本 恒靖(みやもと つねやす、1977年2月7日 - )は、大阪府富田林市出身の元プロサッカー選手(元日本代表)。ポジションはディフェンダー(センターバック)。
目次 |
来歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
大阪府富田林市出身。サッカーを始めたのは富田林市立伏山台小学校5年生(10歳)。ポジションはフォワードだった。地元の富田林市立金剛中学校に進学、同校にてサッカーの指導を受けて技術を向上、サッカーを始めてから約3年後の中学2年生時「第14回全日本選抜中学生大会」(現・14歳以下ナショナルトレセン)、日本ジュニアユース代表候補(現・U-15代表候補)合宿に招集。中学校2年生時「大阪府英語暗唱大会」で優勝。
大阪府立生野高等学校時代はガンバ大阪ユースに所属し、上級生がいなかったため初代キャプテンに就任[2]、ユースチーム卒業までの3年間務めた。ユースでは1994年12月にJユースカップで優勝し初めてのタイトルを得た[2]。1993年にはU-17日本代表に選ばれ、日本で開催された1993 FIFA U-17世界選手権に出場しベスト8の成績を修めた[3]。U18ジュニアユース(監督・山本昌邦)招集。
ガンバ大阪時代 [編集]
1995年6月24日、ガンバ大阪のトップチームにクラブでは初めて昇格[2](同期入団は實好礼忠、森下仁志、中口雅史、高木健旨、松山明男)スイーパーとして活躍。プロ契約後、数年間中々出場機会に恵まれず、ポジションも頻繁に変わりプロ選手として苦悩する事になる。同時期に同志社大学経済学部に進学。労働経済学のゼミに所属し、2001年に卒業した。
1996年から1998年頃、当時のクゼ、アントネッティ両監督にはボランチで起用されたこともあった。初ゴールは1997年10月4日、同年オールスター戦にも初選出されキャプテンを務める[2]。2000年にトップチームの主将に就任、オールスター戦にJ-EASTとJ-WESTの両チーム合わせての得票1位で選出(2002年も1位選出さる)[2]。出場回数:8回【1997・1999・2000・2001・2002・2004・2005・2006】(2003年は怪我で辞退)。2001年1月にイングランドサッカーのトップリーグであるプレミアリーグに所属していたウェストハム・ユナイテッドFC[4]への移籍を試みたが、イギリス政府から労働ビザが発給されずに断念した。このゴタゴタで、背番号が5から35になった[2][5]2003年からは再び5番に戻った。2002年に就任した西野朗監督にはセンターバックで起用され、山口智・シジクレイと3バックを形成した。2004年度には再び主将に就任。2005年12月3日、リーグ最終節の川崎フロンターレ(等々力)戦ではヘディングシュートを決め、クラブ初、自身にとっても初となるJリーグ優勝のタイトルを得て、ピッチ上で号泣した[2]。
レッドブル・ザルツブルク時代 [編集]
2006年シーズン終了後、オーストリア・ブンデスリーガのレッドブル・ザルツブルクに1年間の契約で完全移籍し[6][7]、初年度にリーグ優勝を果たした。
レッドブル・ザルツブルクでは、4バックの左右どちらのセンターバックもこなし、2007-08年シーズンからはSKラピード・ウィーン戦(12月7日)、SKシュトゥルム・グラーツ戦(12月15日)などで左サイドバックとしてもスタメン出場した。宮本本人は自らのブログで10年ぶりにこのポジションでプレーしたと振り返っている[8]。
2007年12月には、2009年6月までの1年半の契約延長に合意した。
2008年1月、チームでの練習中に左太腿裏の腱断裂の怪我を負い、現地で手術、リハビリに務めることになった。6月に本格的に練習再開、8月17日には8か月ぶりに公式戦出場を果たす。同年10月28日のオーストリア協会カップ3回戦では海外移籍後初のキャプテンを任され、フル出場した。 前任者のジョバンニ・トラパットーニ監督時代と違い、コー・アドリアーンセ新監督が就任してからは試合出場機会が減少した。
2008-2009シーズンはアドリアーンセ監督が攻撃戦術を採用した影響もあり、リーグ戦は1試合も出場機会がなかった[9]。そのため、ザルツブルクとの契約は6月まで残っていたものの出場機会を求めて移籍を検討。クロアチアリーグやオーストリア国内のクラブからもオファーが届いていたが[10]、欧州での経験を日本で生かしたいという思いから、複数年契約や高額年俸を用意するなど熱心に誘いのあったヴィッセル神戸入りを決めた[2][9]。
ヴィッセル神戸時代 [編集]
2009年1月15日、ヴィッセル神戸が、ザルツブルクとの間で完全移籍に合意したと発表した。神戸入団後に主将に就任[11]。2009年の序盤戦はセンターバックで、2009年の後半はボランチの位置でプレーするようになった。同年7月18日のJ1リーグ第18節川崎戦では自身初となるバイシクルシュートを決め、これが宮本のプロ選手生活で最後の公式戦ゴールとなった。2010年および2011年は北本久仁衛と河本裕之をバックアップする控えのセンターバックとしてプレーし、出場機会は減った。2011年はJ1リーグ戦で4試合出場のみ、うち先発は第23節の福岡戦(レベスタ)と公式戦最終出場試合ともなった最終節の仙台戦(ユアスタ)の2試合だったが、残る30試合でも全てベンチ入りをしていた。
2011年のシーズン終了後、宮本は神戸側から出されていた契約延長の申し出を固辞。12月19日に現役引退を表明した[1][2][12]。また、引退後に国際サッカー連盟(FIFA)がスイスで運営する「FIFAマスター」(「スポーツに関する組織論、歴史・哲学、法律についての国際修士」の大学院コース)での指導者講習を通じて、コーチングライセンスの取得を目指す意向を示した[13]。
現役引退後 [編集]
現役引退後は、NHKやWOWOWのサッカー中継にゲスト解説者として登場。2012年ロンドンオリンピックの期間中には、ジャパンコンソーシアムの男女サッカー中継に解説者として出演するほか、「朝日新聞」で男女サッカーの解説を担当している。
2012年4月17日に自らの公式サイト内のブログで、FIFAマスター第13期生への合格を公表した。日本人の元プロサッカー選手では初めての合格で、2012年9月17日に入学した[14][15]。2013年7月中旬に卒業してからも、欧州で引き続き指導者資格の取得を目指す予定である[16]。
なお、ロンドンオリンピック開幕直前の2012年7月16日には、ホームズスタジアム神戸で引退試合を開催。ガンバ・ヴィッセル・日本代表時代のチームメートが多数参加したほか、中田英寿や宮本の長男もサプライズで登場した。この試合はスカチャン、BSスカパー!で生中継されたほか、同月22日の深夜には、この試合のダイジェストを中心に構成された特別番組『宮本恒靖引退試合スペシャル〜日本のキャプテン17年の歩み〜』が、MBSテレビで放送されている。
日本代表 [編集]
1997年にU-20に選出され、U-20ワールドカップでキャプテンとして5試合に出場[3]。
2000年6月18日のキリンチャレンジカップ・ボリビア戦で日本代表初出場[3]。シドニー五輪を経て、2001年末からは、トルシエJAPANにおいて日本代表キャプテンを務めていた森岡隆三の離脱時に代わってキャプテンを任された。
2002年日韓W杯では、開催直前の大学生との練習試合で競り合った際に相手の肘が顔に入り、鼻骨骨折した[3]。これにより、顔面を保護するために兵庫医大病院が用意した医療器具のフェイスガード(ノーズガード)を付けることになり、元々白いガードに自らの手で黒いマジックで色をつけて[17]出場した。そのプレーする姿を見た海外のメディアから、バットマンと渾名された[3][18]。代表初ゴールは2004年2月7日のマレーシア戦[3]。
トルシエ後のジーコJAPANでは、発足時よりキャプテンを務めた中田英寿が故障で離脱して以降、出場した試合全てのキャプテンを務めた。2004年のアジアカップ準々決勝のヨルダン戦のPK戦では、中村俊輔と三都主アレサンドロが外したことで、審判に「ピッチ状態がよいほうでやるべきだ」と通訳なしでPKの位置変更を申し入れる。PK戦の途中で審判への申し入れによってサイド位置が変わることはまず無いが、変更理由にフェアプレーを持ち出すことでこれを認めさせた[19]。この時主審を務めた人間が、マレーシア出身のスブヒディン・モハマド・サレー国際審判員だった。結果、川口能活のファインセーブもありこのPK戦を制すると、日本代表は2大会連続のアジア制覇を果たし、自身も大会ベストイレブンに選出された。
2006年、自身2大会連続2度目のワールドカップ出場となった2006年ドイツW杯では、第1戦(オーストラリア戦)と第2戦(クロアチア戦)はフル出場したが、第3戦(ブラジル戦)は累積警告により出場出来なかった[3]。
日本代表ではU-17からA代表に至るまでの全カテゴリでキャプテンを務めた[20]。
家族 [編集]
父、宮本恒明は関西電力の元常務で独立行政法人造幣局監事[21]を経て、現在は一般財団法人関西電気保安協会理事長。母、宮本弘子は元堺市市民人権局理事・教育委員会学校教育部長[17]。3歳年長の姉がひとりいる[22]。妻は生野高校で宮本の2年先輩にあたり[23]、2001年に結婚した。夫妻の間には長男と長女の1男1女がある。
所属クラブ [編集]
- ユース経歴
- 1987年 - 1988年 伏山台FC
- 1989年 - 1991年 金剛中学校
- 1992年 - 1994年 ガンバ大阪ユース (大阪府立生野高等学校)
- プロ経歴
- 1995年 - 2006年
ガンバ大阪 - 2006年 - 2009年
レッドブル・ザルツブルク - 2009年 - 2011年
ヴィッセル神戸
個人成績 [編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1995 | G大阪 | - | J | 11 | 0 | - | 4 | 0 | 15 | 0 | |
| 1996 | 13 | 0 | 7 | 0 | 2 | 0 | 22 | 0 | |||
| 1997 | 20 | 26 | 1 | 4 | 0 | 3 | 0 | 33 | 1 | ||
| 1998 | 32 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 37 | 0 | |||
| 1999 | J1 | 30 | 0 | 2 | 0 | 2 | 0 | 34 | 0 | ||
| 2000 | 5 | 29 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 33 | 0 | ||
| 2001 | 35 | 24 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 29 | 0 | ||
| 2002 | 20 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 24 | 1 | |||
| 2003 | 5 | 26 | 1 | 5 | 1 | 2 | 0 | 33 | 2 | ||
| 2004 | 24 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 25 | 0 | |||
| 2005 | 30 | 3 | 4 | 0 | 2 | 0 | 36 | 3 | |||
| 2006 | 30 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 35 | 1 | |||
| オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | オーストリア杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006-07 | ザルツブルク | 17 | ブンデス | 9 | 0 | - | 1 | 0 | 10 | 0 | |
| 2007-08 | 12 | 0 | - | 0 | 0 | 12 | 0 | ||||
| 2008-09 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | 2 | 0 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2009 | 神戸 | 14 | J1 | 32 | 1 | 5 | 0 | 2 | 0 | 39 | 1 |
| 2010 | 6 | 0 | 4 | 0 | 2 | 0 | 12 | 0 | |||
| 2011 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 | |||
| 通算 | 日本 | J1 | 337 | 8 | 43 | 1 | 32 | 0 | 412 | 9 | |
| オーストリア | ブンデス | 21 | 0 | - | 3 | 0 | 24 | 0 | |||
| 総通算 | 358 | 8 | 43 | 1 | 35 | 0 | 436 | 9 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2006 | G大阪 | 5 | 5 | 1 |
| 通算 | AFC | 5 | 1 | |
その他の国際公式戦
- 2006年
- A3チャンピオンズカップ 2試合0得点
- 2007年
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選2回戦 1試合0得点
- UEFAチャンピオンズリーグ予備予選3回戦 2試合0得点
経歴 [編集]
代表歴 [編集]
出場大会など [編集]
- U-17日本代表
- 1993年 FIFA U-17世界選手権 (ベスト8)
- U-20日本代表
- 1997年 FIFAワールドユース(U-20)選手権 (ベスト8)
- U-23日本代表
- 2000年 シドニーオリンピック (ベスト8)
- 日本代表
- 2002年 FIFAワールドカップ (ベスト16)
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
- 2004年 AFCアジアカップ (優勝)
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ (グループリーグ敗退)
- 2006年 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
試合数 [編集]
- 国際Aマッチ 71試合 3得点 (2000-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2000 | 2 | 0 |
| 2001 | 3 | 0 |
| 2002 | 11 | 0 |
| 2003 | 10 | 0 |
| 2004 | 19 | 2 |
| 2005 | 15 | 1 |
| 2006 | 11 | 0 |
| 通算 | 71 | 3 |
注:2002年5月7日、国際親善試合として、レアル・マドリード対日本代表戦が行なわれた。したがって、日本代表としての出場試合数は72となる。
ゴール [編集]
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2004年2月7日 | 日本、鹿嶋 | ○ 4-0 | キリンチャレンジカップ2004 | |
| 2. | 2004年9月8日 | インド、コルカタ | ○ 4-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 3. | 2005年2月2日 | 日本、埼玉 | ○ 3-0 | キリンチャレンジカップ2005 |
タイトル [編集]
クラブ [編集]
ガンバ大阪ユース
- Jユースカップ:1回 (1994年)
ガンバ大阪
- Jリーグ ディビジョン1:1回 (2005年)
ザルツブルク
- オーストリア・ブンデスリーガ:1回 (2007年)
個人 [編集]
- AFCアジアカップ ベストイレブン:1回 (2004年)
関連情報 [編集]
出演 [編集]
CM [編集]
- 明治乳業 明治アイス「明治エッセル スーパーカップ」 - 小島宏美・中澤佑二との共演
- WOWOW 「EURO 2000」 (2000年) - 吉原宏太との共演
- adidas
- サッカー狂症候群 DF 篇 (2002年) - 30秒バージョンは松田直樹との共演
- 「adi-NEO」 (2006年)
- 「adi-WARM」
- 日本赤十字社 平成15年献血キャンペーン (2003年)
- ECC 「ECCジュニア」 (2003年) - 秋田豊との共演
- ノーベル製菓 「はちみつきんかんのど飴」 (2005年 - 2006年)
- からぶり 篇
- しっぱい 篇
- Panasonic 「Strada」 (2005年 - 2006年)
- ナムコ 「Love FOOTBALL」 (2006年)
- 花王 「メンズビオレ」 (2006年)
- 講談社 (2006年)
- 「講談社文庫」 (2006年)
- 「講談社文庫の100冊『感動をくれた一冊』」 (2006年)
- レッドブル 「エナジードリンク」 (2007年)
- パイロン 篇
- トレーニング・バッグ 篇
- ソロ・トレーニング 篇
- 宮本恒靖&三都主 篇 - 三都主アレサンドロとの共演
脚注 [編集]
- ^ a b c d DF宮本恒靖選手、今シーズン限りで現役引退のお知らせ - ヴィッセル神戸(2011年12月19日)
- ^ a b c d e f g h i 偉大なキャプテン宮本恒靖の軌跡part.2クラブ編『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 014-015頁。
- ^ a b c d e f g 偉大なキャプテン宮本恒靖の軌跡part.1代表編『サッカーマガジン』2012年1月10.17日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-1/10.17, 012-013頁。
- ^ ウェストハムは2011-12から同国2部であるフットボールリーグに降格。
- ^ 2001年と2002年はジェフユナイテッド市原から移籍してきた山口智が背番号5(市原時代と同番号)となった。2003年に宮本に背番号5を譲って自らは6番になり、宮本退団後の2007年はシジクレイが付けていた背番号5に2008年から再び戻った(2011年にガンバを退団し、ジェフユナイテッド市原・千葉へ復帰)。
- ^ “宮本恒靖選手オーストリア1部リーグ「レッドブル・ザルツブルグ」への移籍基本合意”. ガンバ大阪オフィシャルサイト (2006年12月20日). 2012年3月30日閲覧。
- ^ G大阪宮本ザルツブルク移籍決定的! - ウェイバックマシン (2007年1月3日アーカイブ分) - 日刊スポーツ(2006年12月17日)
- ^ “交換”. 宮本恒靖公式サイト (2007年11月15日). 2013年3月14日閲覧。
- ^ a b 日刊スポーツ (2009年1月16日). “宮本が神戸に電撃移籍!J復帰即主将だ”. 2013年3月14日閲覧。
- ^ “神戸入り決定!宮本2年ぶりJ復帰”. 2009年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月14日閲覧。 - 日刊スポーツ(2009年1月16日)
- ^ J's GOAL (2009年1月30日). “ヴィッセル神戸 2009シーズン主将決定のお知らせ”. 2013年3月14日閲覧。
- ^ “日韓W杯主将の元日本代表DF宮本恒靖が引退「別れを告げる時が来た”. サッカーキング. 2013年3月14日閲覧。
- ^ 宮本引退「役割は多くないと思った」欧州で指導者資格の取得目指す - スポーツニッポン 2011年12月19日閲覧
- ^ Former Japan captain Miyamoto takes up FIFA Master duties - FIFA公式サイト(2012年9月18日)
- ^ 宮本恒靖氏がFIFAの大学院“FIFAマスター”に入学「日本サッカーに価値ある貢献を」 - サッカーキング(2012年9月19日)
- ^ 元日本代表DF宮本氏がFIFA大学院へ入学決定…日本人の元プロ選手としては初 - サッカーキング(2012年4月17日)
- ^ a b “PTA講演会 親と子を考える 平成20年12月22日号 (p. 2)”. 大阪府立富田林高等学校PTA (2008年12月22日). 2010-08-26T08:39Z閲覧。 [リンク切れ]
- ^ 英では「バットマン」宮本が人気! - ウェイバックマシン (2002年6月21日アーカイブ分) - 日刊スポーツ(2002年6月16日)
- ^ “アジア杯・ヨルダン戦 奇跡には理由がある。”. Nunber Web (2010年5月24日). 2012年3月30日閲覧。
- ^ “IBM SPECIAL LEADER'S INSIGHT インタビュー 宮本恒靖氏”. 日経ビジネス. 2010-08-26T08:59Z閲覧。
- ^ FDC | 2007年度 イエローリボン賞(ベスト・ファーザーin関西):宮本 恒明
- ^ “信号”. 宮本恒靖公式サイト (2003年3月3日). 2013年3月14日閲覧。 そのほか『週刊少年マガジン』32号・33号(2008年)掲載の『宮本恒靖 「Fire & Ice」』にも登場している
- ^ “素のツネ様 ヴィッセル神戸男前レポート特別篇: 宮本恒靖選手3”. れしぴねっと. 2010-08-26T09:05Z閲覧。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- 宮本恒靖 - FIFA主催大会成績(英語)
- 「宮本恒靖公式サイト」
- 「MIYAMOTO FUTSAL PARK」 - 宮本プロデュースによるフットサル施設
- 「宮本恒靖オフィシャル」 - 公式モバイルサイト
- from FIFAマスター(宮本恒靖) - 日経新聞電子版連載コラム
|
|||||
|
|||||