大木武
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| 大木武 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| カタカナ | オオキ タケシ | |
| ラテン文字 | OHKI Takeshi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1961年7月16日(47歳) | |
| 出身地 | 静岡県静岡市清水区 | |
| 身長 | 169cm | |
| 体重 | 67kg | |
| 血液型 | B型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1984-1991 | 富士通サッカー部 | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月16日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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大木 武(おおき たけし、1961年7月16日 - )は、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の元サッカー選手でサッカー指導者。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 選手時代
出身校は清水市立辻小学校・清水市立第一中学校・静岡県立清水東高等学校(高校の同級生に望月一頼)・東京農業大学。現役時代は株式会社富士通サッカー部(後の川崎フロンターレ)でMFとしてプレー。1991年に現役引退した。
[編集] 富士通・清水コーチ時代
母校である東京農業大学からコーチの依頼を受け、次の可能性にトライしてみようと現役を引退し、富士通に勤めながら指導者としての道を歩み始めた。1993年には富士通を退社し清水エスパルスのユース監督兼ジュニアユースコーチに就任。その後サテライトコーチを経て、1999年にはスティーブ・ペリマン監督が一時帰国した際には代行監督としてナビスコ杯2回戦で指揮を執った。
[編集] 第一期甲府監督時代
2002年にJ2・ヴァンフォーレ甲府の監督に就任。当時の甲府は3年連続最下位の状態であり、ようやく経営危機から脱出したばかりで予算も限られた状態であったが、藤田健、倉貫一毅、石原克哉、水越潤といったメンバーが台頭し、また鶴見智美や影山由高によって得点力が向上した。守備についても清水からアライールをレンタル移籍させるなどして安定化に努めた結果、12チーム中7位にまで引き上げる事に成功した。これ以降甲府は上位にも顔を出すようになり、その後の昇格に繋がっている。
[編集] 清水監督時代
2003年に甲府での実績を買われて清水エスパルスの監督に就任。前年の2ndステージ(当時のJ1は2ステージ制)12位からの巻き返しを図ったが、1stステージは5勝7敗3分と負け越して11位に終わる。当時の清水は安貞桓や三都主アレサンドロなどといったスター選手がいたものの世代交代の真っ只中であり、年齢による衰えが顕著になってきた澤登正朗や怪我から復帰したばかりの森岡隆三は本調子といえず、甲府から連れてきた鶴見もJ1の壁に苦しむなど甲府時代に魅せた攻撃的サッカーが影を潜めてしまう。また守備陣もW杯日本代表経験のある斉藤俊秀や市川大祐が相次いで怪我をしたことも影響して大量失点をするケースもあり、2ndステージに突入後もこれらの問題が改善されることがなく降格こそ逃れたものの負け越したため、シーズン終了後に解任された。
[編集] 第二期甲府監督時代
川崎フロンターレのユース監督を経て、2005年よりヴァンフォーレ甲府の監督に復帰。
この年甲府は大宮アルディージャからFWバレーの獲得に成功し、同時に長谷川太郎が成長したことにより藤田とともに得点を量産。一時は2位につけるもその後得点力が落ち、前半戦は6位で折り返す。後半戦開始まで期日があったためミニキャンプを張ると同時に石原をFWにコンバートする3トップを画策し、30節のコンサドーレ札幌戦より実践。当初は戸惑いやバレーの怪我もあり勝ちきれない状態が続いたが37節の徳島ヴォルティス戦で5-0、39節の湘南ベルマーレ戦で5-2と次第に効果が現れ始め、天皇杯4回戦のジェフ千葉戦で敗れはしたものの2得点を挙げると確信に変わり、42節のコンサドーレ札幌戦で後半ロスタイム3得点を挙げて逆転勝利。そして最終節の京都パープルサンガ戦で2-1に勝利し3位でシーズン終了。入れ替え戦でもバレーのダブルハットトリックなどの活躍もあり柏レイソルに2戦2勝。チームをJ1昇格へ導くとともに大木の求めていた攻撃的サッカーが完成した形となった。
2006年もこのスタイルを継続。調子を落とした長谷川に代わりこの年より加入した宇留野純、そして途中加入の茂原岳人を起用し、横浜F・マリノスや鹿島アントラーズなどの強豪チーム、さらには前年度王者のガンバ大阪に勝利しJ1残留を果たした。
しかしこの年を最後にバレーが退団すると翌2007年は開幕4連敗を喫するなど低迷。バレーの代わりとして連れてきたアルベルトは穴を埋めるに至らず、元々不安定であった守備陣はアライールが抜けたことにより瓦解。中盤も精神的支柱でもあった倉貫が移籍したことによりチーム全体がバラバラになってしまう。それでも攻撃的サッカーにこだわる大木はアルベルトの再教育を実施すると同時にラドンチッチや羽地登志晃を獲得して立て直しを図ろうとするも改善されず、J1チームの厚い壁の前にFWまでパスが通らない状態のため得点力不足は改善されなかった。10月にアルベルトが復調するも時すでに遅く、33節の柏レイソル戦で1-2で敗れたためJ2降格決定。同時に大木は責任を取り今季限りでの退任を発表した。
[編集] 日本代表コーチ時代
2007年12月、サッカー日本代表A代表の監督に就任した岡田武史に誘われコーチに就任。2009年6月11日のFIFAワールドカップ・アジア最終予選対オマーン戦において前の試合で退席処分となり、1試合の出場停止処分となった岡田監督に代わり指揮をとった。
[編集] 指導者としての特徴
サッカー監督としての信条は「見てくれたお客さんがもう1回見たいと思うサッカーをする」事。「サッカーはエンターテインメント」という哲学の下、4-3-3システムを採用した攻撃的サッカーを得意としている。
その方向性を特徴付けたものとして、まず東京農業大学コーチ時代に教材として取り上げた、ACミランのビデオが挙げられる。猛烈な運動量でボールを奪い、時にはオフサイドトラップをする、システマティックなプレッシングサッカーを見てカルチャーショックを受けたという。また1995年には、北海道キロロリゾートでキャンプを行っていたラツィオの合宿に押しかけ同然で帯同した。その際に憧れであったズデネク・ゼーマン監督と話した経験が現在の指導者としての基礎形成に深く関わっている。
特にパス&ムーヴを繰り返すショートパススタイル、流動的なポジションチェンジ、チャンスの時は4,5人が一斉に前線へ駆け上がる高速カウンターなどに、ゼーマンの影響が見てとれよう。
彼の戦術として印象的なのが、「クローズ」である。ドリブルやサイドチェンジは極力排除し、片方のサイドだけでパスを回していくものである。 この戦術のメリットは奪われてもすぐに取り返せるところであるが、逆に個人個人の技術も必要である。そのため技術的に乏しい選手が多い甲府ではガラ空きの逆サイドに回されて失点することが多かった。
[編集] 所属クラブ
[編集] 現役時代
- 1970年-1973年 - 清水市立辻小
- 1974年-1976年 - 清水市立第一中
- 1977年-1979年 - 清水東高
- 1980年-1983年 - 東京農業大
- 1984年-1991年 - 富士通サッカー部
- 1991年8月現役引退
[編集] 指導者時代
1991年8月-1992年 - 東京農業大サッカー部 コーチ
1993年-2001年 - 清水エスパルス
2002年 - ヴァンフォーレ甲府 監督
2003年 - 清水エスパルス 監督
2004年 - 川崎フロンターレ ユース監督
2005年-2007年 ヴァンフォーレ甲府 監督
2008年- サッカー日本代表 コーチ
[編集] 監督成績
| 年度 | リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝ち点 | 順位 | チーム |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2002 | J2 | - | 44 | 16 | 18 | 10 | 58 | 7位 | ヴァンフォーレ甲府 |
| 2003 | J1 | 1st | 15 | 5 | 7 | 3 | 18 | 11位 | 清水エスパルス |
| 2nd | 15 | 6 | 6 | 3 | 21 | 10位 | |||
| 年間 | 30 | 11 | 13 | 6 | 39 | 11位 | |||
| 2005 | J2 | - | 44 | 19 | 13 | 12 | 69 | 3位 | ヴァンフォーレ甲府 |
| 2006 | J1 | - | 34 | 12 | 15 | 6 | 42 | 15位 | |
| 2007 | - | 34 | 7 | 21 | 6 | 27 | 17位 |
[編集] 関連項目
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