松木安太郎

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松木 安太郎 Football pictogram.svg
名前
カタカナ マツキ ヤスタロウ
ラテン文字 MATSUKI Yasutaro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1957年11月28日(54歳)
出身地 東京都中央区
身長 168cm
体重 68kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1976-1990 読売クラブ
代表歴
1984-1987 日本の旗 日本 12 (0)
監督歴
1993-1994
1998
2001
ヴェルディ川崎
セレッソ大阪
東京ヴェルディ1969
1. 国内リーグ戦に限る。現在。
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松木 安太郎(まつき やすたろう、1957年11月28日 - )は、日本の元サッカー選手、指導者、解説者。祖父は元十両力士の葵竜。日本体育大学中退[1]

目次

[編集] 来歴

[編集] 少年時代

実家は東京都中央区日本橋にある明治2年創業の老舗のうなぎ屋「近三」。幼稚園時代から小学校2-3年の間、藤城清治主宰の人形劇団「木馬座」で、ケロヨンの相棒「もぐらのモグちゃん」の着ぐるみに入って演じていた。

暁星小学校時代からサッカーに打ち込み、小柄な体躯ながらゴールキーパーを務めていた。学校の代表チームである暁星アストラの選手に選ばれると小学6年生の時には全国サッカー少年団大会(全日本少年サッカー大会の前身)に出場した[2]

[編集] 選手時代

1970年、暁星中学校に進学と同時に読売サッカークラブへ加入。小学校時代から一貫してキーパーを務めていたが、高校1年の時にフランス・ファン・バルコムによりDFへコンバート。翌年にはトップチームへ昇格を果たした。読売クラブでの練習が多忙になると暁星高校から堀越高等学校に転校。芸能コース(現・総合TRAITコース)を選択し芸能人と一緒に勉強しながらクラブの練習に参加していた。これはユースでの練習の時間帯が普通高校の授業時間帯に当たることが多いため、時間的に(普通高校へ)通うことが難しかったからであった[3]

高校卒業後は、暁星高校時代の恩師から体育の指導者になるなら、日体大の勧めもあって日本体育大学体育学部体育学科へ進学したが3年の途中で中退し[4]読売クラブでの活動へ専念するようになった。

バルコム監督の抜擢もあって1976年に日本サッカーリーグデビュー。デビュー当初の松木は技術的には難があり「なぜあいつを起用するんだ?」との批判もあったが、練習量と持ち前の闘争心で出場機会を掴んでいった。先輩である与那城ジョージ千葉進らの支えもあって選手として成長を遂げると1983年からは主将としてチームを牽引し、日本サッカーリーグ優勝3回(1983年、1984年、1986年)、天皇杯優勝3回(1984年、1986年、1987年)、JSLカップ優勝1回(1985年)に貢献した。また明るい性格から読売クラブの宴会部長とも言われた。

日本代表としては、1984年5月のジャパンカップ(キリンカップサッカーの前身)で代表に初選出され、同月31日の中国戦で国際Aマッチデビュー。これ以降、右サイドバックのポジションを掴むと翌1985年の1986 FIFAワールドカップ予選では最終予選進出に貢献するなど国際Aマッチ12試合に出場した。

[編集] 監督時代

現役引退後は読売クラブのコーチに就任。1993年、Jリーグ開幕年に前任のペペ監督から引き継ぐ形で、ヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)監督に就任した。

監督就任時には、選手時代に指導を受けたバルコムをコーチに迎え、イェーネ・ハンセンヘニー・マイヤーといったオランダ人を起用し、ヨーロッパスタイルの組織的サッカーへの転換を計った。これに対し、伝統を重んじる古参の選手(加藤久都並敏史戸塚哲也ら)からは反発を招き、現役時代からの親友ラモス瑠偉も松木とバルコムの体制を批判した[5]。開幕前には優勝候補の最右翼と目されたが、加藤久の退団やラモスの欠場(ストライキ)もあって、開幕ダッシュに失敗、松木と選手間の対立は新聞や週刊誌で「内乱」として報じられ、松木は批判の矢面に立たされた[6]。サントリーシリーズ(1stステージ)後半には6連勝と立て直したものの、鹿島アントラーズに優勝を譲ることになった。

しかしビスマルク等ブラジル人体制に戻したNICOSシリーズ(2ndステージ)では、チームを優勝に導いた。その鹿島アントラーズとのチャンピオンシップ、1勝1分で初代王者となった。

1994年も前年同様に前期戦は不調に終わったが、後期戦から招聘したネルシーニョヘッドコーチとの二頭体制によってNICOSシリーズを制し、チャンピオンシップではサンフレッチェ広島を退け2年連続の王者となった。その後ネルシーニョに監督の座を譲り、シーズン限りで退任する事になった。

1995年、JFA 公認S級コーチ資格取得。

1998年セレッソ大阪監督に就任。チームの再建を期待されたが思うような成績が上げられず1年で退任した。

2001年、東京に移転した東京ヴェルディ1969監督に再度就任した。ところがここでも思うような成績が上げられず、わずか半年で解任された。

[編集] その後

現在はテレビ朝日などでサッカー解説者を務めている。

テレビ朝日における日本チームに関連するサッカーの試合の中継(サッカー日本代表AFCチャンピオンズリーグ他)ではアナウンサー以上に日本のチームに対する応援やゲキを飛ばし、興奮しながら解説する事が多い。日本に対する情熱が度を過ぎて、「応援しているだけで解説者としての役割を果たしていない」という視聴者からの意見、抗議も少なくないが、「日本を応援する代表的存在として好感が持てる」などの好意的意見も見られ、賛否両論ある。

解説時選手を君付けをする。

バラエティ番組にも出演し、特に着信御礼!ケータイ大喜利(NHK総合テレビジョン)の2008年3月15日の放送では松木が読んだ回答の評価はすべてアンテナ3本、つまりパーフェクトを達成する。同番組司会の今田耕司は、松木と阿藤快槇原寛己の3人のナレーションを高く評価し、「回答読み上げ三本柱」と呼称している。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1973 読売 JSL2部
1974 読売 JSL2部
1975 読売 JSL2部
1976 読売 JSL2部
1977 読売 JSL2部
1978 読売 JSL1部 18 0
1979 読売 JSL1部 18 0
1980 読売 JSL1部 17 1
1981 読売 JSL1部 18 1
1982 読売 JSL1部 17 0
1983 読売 JSL1部 18 2
1984 読売 JSL1部 18 2
1985 読売 JSL1部 22 1
1986-87 読売 JSL1部 22 0
1987-88 読売 JSL1部 19 0
1988-89 読売 JSL1部 21 0
1989-90 読売 3 JSL1部 0 0 3 0
通算 日本 JSL1部 208 7
日本 JSL2部
総通算

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 12試合 0得点(1984-1987)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1984 3 0 3 0 6 0
1985 6 0 5 0 11 0
1986 2 0 2 0 4 0
1987 1 0 9 0 10 0
通算 12 0 19 0 31 0

[編集] 指導歴

  • 1990年 - 1992年 - 読売サッカークラブ:コーチ
  • 1993年 - 1994年 - ヴェルディ川崎:監督
  • 1998年 - セレッソ大阪:監督
  • 2001年 -同7月 東京ヴェルディ1969:監督

[編集] 監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1993 J V川崎 優勝 36 - 28 - 8 優勝 準々決勝
1994 J V川崎 優勝 44 - 31 - 13 優勝 2回戦
1998 J C大阪 9位 34 44 15 - 19 予選リーグ 3回戦
2001 J1 東京V - 14 4 0 10 1回戦 -
  • 2001年は7月まで。

[編集] 脚注

  1. ^ 『サッカーダイジェスト』1983年5月号100頁
  2. ^ 『サッカーダイジェスト』1983年5月号98頁
  3. ^ 『サッカーダイジェスト』1983年5月号99頁
  4. ^ 『サッカーダイジェスト』1983年5月号100頁
  5. ^ 『トップライターが描いたJリーグ興奮本』134-135頁
  6. ^ 『トップライターが描いたJリーグ興奮本』134頁

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目


en:Yasutaro Matsuki

simple:Yasutaro Matsuki

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