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| オズワルド・アルディレス |
 |
| 名前 |
| 本名 |
オスバルド・セサール・アルディレス |
| 愛称 |
オジー |
| ラテン文字 |
Osvaldo Cesar ARDILES |
| 基本情報 |
| 国籍 |
アルゼンチン |
| 生年月日 |
1952年8月3日(56歳) |
| 出身地 |
コルドバ州ベル・ビジェ |
| 身長 |
169cm |
| 体重 |
66kg |
| 選手情報 |
| ポジション |
MF |
| 代表歴 |
| 1973–1982 |
アルゼンチン |
63 (8) |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
オズワルド・アルディレス(Osvaldo Cesar ARDILES、1952年8月3日 - )は、アルゼンチン出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF)。愛称は「オジー」。弁護士資格を持つ事でも知られる。
[編集] 略歴
[編集] 選手時代
1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会でオランダを破って優勝を果たした。アルゼンチン代表の主力としてダニエル・パサレラ、マリオ・ケンペスらとともにチームを牽引し、地元開催のワールドカップで同国の初優勝に貢献、大会最優秀MFに選出された。続く1982年のワールドカップ・スペイン大会でも全5試合にフル出場した。また当時の代表は「エース以外の背番号はアルファベット順につける」という慣習があった為、『背番号1を付けたフィールドプレイヤー』としても有名であった。
1978年のワールドカップ後に、リカルド・ビジャとともに、ふたり合わせて75万ポンドの大金でイングランドのトッテナム・ホットスパーに移籍した。1981年にはFAカップを獲得し、1982年もFAカップの決勝に進んだ。同年、イングランドとアルゼンチンの間にフォークランド紛争が発生したため、混乱を避けるためにフランスのパリ・サンジェルマンにレンタル移籍した。トッテナムでは84年にUEFAカップを獲得した。その後クイーンズパーク・レンジャーズやアメリカで短期間プレーした後、現役を引退した。
[編集] 監督時代
1990年、イングランド2部のスウィンドン・タウンの監督に就任した。それまでのキック&ラッシュの攻撃スタイルを一新し、南米的なパスサッカーを試みた。1部昇格を決めたものの、クラブの不正経理の疑いで昇格は取り消された。ニューカッスル・ユナイテッドの監督は1年も経たずに解雇されたが、ウェスト・ブロムウィッチでは1部昇格を果たした。そして1993年、混乱が続いていた古巣トッテナム・ホットスパーの監督に就任した。ドイツ代表のユルゲン・クリンスマンやルーマニア代表のゲオルゲ・ポペスクらを獲得したが、チーム状態は良くならなかった。成績は残せなかったが、ファンに愛された監督だった。メキシコを経て、1996年には清水エスパルスの監督として来日。その年のナビスコカップでチーム初のタイトル獲得に貢献した。2000年には横浜F・マリノスの監督に就任。セレッソ大阪との熾烈な第1ステージ優勝争いを制したが、翌年の予想外の成績不振で解任される。
2003年には東京ヴェルディ1969の監督に就任。2004年度天皇杯で、ヴェルディに8年ぶり(東京移転後は初めて)のタイトルをもたらした。しかし2005年シーズンに大量失点試合が響き、7月成績不振の責任を取って解任された。
[編集] プレースタイル
ボールコントロールやパスの精度が極めて高く、中盤で攻撃を組み立てる役割を果たした。
[編集] 所属クラブ
- 1982 →
パリ・サンジェルマン(loan)
- 1988-1989 →
ブラックバーン・ローヴァーズ(loan)
[編集] 指導歴
[編集] 個人成績
| 年度 |
クラブ |
リーグ |
背番号 |
リーグ戦 |
リーグカップ |
カップ戦 |
| 出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
| 1970 |
コルドバ |
アルゼンチンリーグ |
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| 1971 |
コルドバ |
アルゼンチンリーグ |
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| 1972 |
コルドバ |
アルゼンチンリーグ |
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| 1973 |
コルドバ |
アルゼンチンリーグ |
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| 1974 |
ベルグラーノ |
アルゼンチンリーグ |
|
16 |
2 |
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| 1975 |
ウラカン |
アルゼンチンリーグ |
|
|
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| 1976 |
ウラカン |
アルゼンチンリーグ |
|
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|
|
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| 1977 |
ウラカン |
アルゼンチンリーグ |
|
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| 1978 |
ウラカン |
アルゼンチンリーグ |
|
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| 1978-79 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
38 |
3 |
|
|
|
|
| 1979-80 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
40 |
3 |
|
|
|
|
| 1980-81 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
36 |
5 |
|
|
|
|
| 1981-82 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
26 |
2 |
|
|
|
|
| 1982-83 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
2 |
0 |
|
|
|
|
| 1982-83 |
パリ |
リーグ・アン |
|
|
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|
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|
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| 1983-84 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
9 |
0 |
|
|
|
|
| 1984-85 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
11 |
2 |
|
|
|
|
| 1985-86 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
23 |
1 |
|
|
|
|
| 1986-87 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
25 |
0 |
|
|
|
|
| 1987-88 |
トットナム |
プレミアリーグ |
|
28 |
0 |
|
|
|
|
| 1987-88 |
ブラックバーン |
イングランド1部リーグ |
|
5 |
0 |
|
|
|
|
| 1988-89 |
クイーンズパーク |
プレミアリーグ |
|
8 |
0 |
|
|
|
|
| 1989-90 |
スウィンドンタウン |
プレミアリーグ |
|
2 |
0 |
|
|
|
|
| 1990-91 |
スウィンドンタウン |
プレミアリーグ |
|
0 |
0 |
|
|
|
|
| 通算 |
アルゼンチンリーグ |
|
|
|
|
|
|
| プレミアリーグ |
248 |
16 |
|
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|
| イングランド1部リーグ |
5 |
0 |
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|
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|
| リーグ・アン |
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[編集] エピソード
- トッテナム在籍中、イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が起こったが、この時トッテナムファンから「オジーが残ってくれるなら、フォークランドはアルゼンチンにくれてやる」といった意味の横断幕が出たこともあるほど、トッテナムのサポーターから愛された存在だった。