水沼貴史
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| 水沼 貴史 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | タカシ | |
| カタカナ | ミズヌマ タカシ | |
| ラテン文字 | MIZUNUMA Takashi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1960年5月28日(49歳) | |
| 出身地 | 埼玉県浦和市 (現・さいたま市浦和区) |
|
| 身長 | 176cm | |
| 体重 | 54kg | |
| 血液型 | A型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | FW/MF | |
| 利き足 | 右足 | |
| 代表歴 | ||
| 1984-1989 | 32 (7) | |
| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
水沼 貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW、MF。埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身。
長男の水沼宏太もプロサッカー選手。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 選手として
本太少年団で全国少年団サッカー大会を優勝し、浦和市立本太中学校(現・さいたま市立本太中学校)では3年生の時に全国制覇。その後進学した浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)では名将松本暁司監督の指導の下、1年生の時からレギュラーに定着。全国高校サッカー選手権決勝では、静岡学園との死闘を制して優勝。16歳にして、小中高と全てのカテゴリーで日本一を経験した。
卒業後、当時の大学サッカーの強豪法政大学に進学。総理大臣杯を2度制した。同サッカー部はその後、関東大学サッカーリーグ2部へ降格するが、4年生の時に自らのゴールで1部復帰を果たすという重責を成し遂げた。
1979年には日本ユース代表として、日本で開催されたFIFAワールドユース選手権に出場。1次リーグ最終戦となったメキシコ戦でチーム唯一の得点を記録している。
1983年に日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)へ入部。テクニック溢れるドリブラーとしてウィングや攻撃的MFとして活躍し、1983年、1985年の天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝を始め、1988-89、1989-90シーズンの2年連続三冠に貢献する等、金田喜稔、木村和司らと共に日産の黄金期を築いた。なお、水沼は、Jリーグ以外の各カテゴリー(小中高大、社会人)の大会で優勝を経験した数少ない選手である。
また日本代表でも活躍。1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦で、高さを誇る中国DFを翻弄した、原博実の決勝ヘディングゴール(1-0で勝利)を演出したピンポイントCK。1989年のワールドカップ・イタリア大会予選・ホーム北朝鮮戦の同点ゴールは語り草となっている。Jリーグ発足前の人気低迷時代の日本サッカー界を支えた人物の1人でもある。
1995年、鹿島スタジアムでの1stステージ開幕戦での途中出場を最後に現役を退く。奇しくも、この年の横浜マリノスは早野宏史監督のもと、1stステージで初のステージ優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップで宿敵ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ)と争い、Jリーグ発足後初めて年間チャンピオンになった。引退時は、血尿が出るほど体調が悪く、到底プレーに耐えうる状態ではなかったと引退後に回想している。
[編集] 引退後
1996年から2006年1月までTBS「スーパーサッカー」(現役選手だった第2回放送でゲスト出演歴がある)のご意見番役として出演。「ニュースの森」毎週月曜日に、ワールドサッカーパラダイスのコーナーも担当した。テレビ神奈川、ニッポン放送サッカー解説者で、2006年1月までテレビ神奈川ではキックオフ!!F・マリノスのパーソナリティーも務めていた。また2002年10月から2003年3月にはTBSラジオ「水沼貴史のスポーツボンバー!」等も担当した。2003年から2005年までは、母校の法政大学コーチとして後輩を指導した。また2004年にS級ライセンスを取得した。
2006年2月1日から2007年1月31日の1年契約で、横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。それに伴い、スーパーサッカー、キックオフ!!F・マリノスの両番組は降板(卒業)となった。さらに2006年8月24日には成績不振で辞任した岡田武史の後を受け、監督に就任。しかし具体的な戦略がない状態での就任という事もあって不振は続き、天皇杯終了後に辞任する事が決定した。2007年は再び横浜F・マリノスのコーチに就任したが1年で退任となった。なお、マリノス出身の元選手が横浜F・マリノスの監督になったのは、水沼が初めてであった。
2008年2月、法政大学体育会サッカー部のコーチに再び就任する事が発表された。
[編集] プレースタイル
現役時代はボレーシュートの巧さに定評があった。1979年FIFAワールドユース選手権のゴール、1989年イタリア大会予選北朝鮮戦のゴールは、いずれも左からのクロスを豪快にボレーで叩き込んだファインゴールである。また、切れ味鋭いフェイントを交えたドリブル、創造性溢れるパスセンス、トラップから素早いシュートなどテクニックにおいて多彩な才能を発揮。特に日産、マリノスにおいてチームメイトの木村和司とのコンビネーションは圧巻であった。後の日本における技巧派MFの先駆け的存在である。また、持ち前の冷静な判断力とサッカーへの情熱は選手引退後も解説者、指導者として生かされている。
[編集] 所属クラブ
[編集] 現役時代
- 1976年-1979年 浦和市立南高等学校
- 1979年-1983年 法政大学
- 1983年-1992年 日産自動車サッカー部
- 1993年-1995年 横浜マリノス
- 1995年引退
[編集] 指導者時代
- 2003年-2005年 法政大学サッカー部:コーチ
- 2006年-2007年 横浜F・マリノス
- 2006年2月-8月:コーチ
- 2006年8月-12月:監督
- 2007年:コーチ
- 2008年- 法政大学サッカー部:コーチ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1983 | 日産 | JSL1部 | 12 | 3 | |||||||
| 1984 | 日産 | JSL1部 | 17 | 8 | |||||||
| 1985 | 日産 | JSL1部 | 22 | 3 | |||||||
| 1986-87 | 日産 | JSL1部 | 22 | 3 | |||||||
| 1987-88 | 日産 | JSL1部 | 22 | 7 | |||||||
| 1988-89 | 日産 | JSL1部 | 20 | 4 | |||||||
| 1989-90 | 日産 | JSL1部 | 16 | 2 | |||||||
| 1990-91 | 日産 | JSL1部 | 10 | 1 | |||||||
| 1991-92 | 日産 | JSL1部 | 20 | 2 | |||||||
| 1992 | 横浜M | - | J | - | 3 | 0 | 4 | 3 | 7 | 3 | |
| 1993 | 横浜M | - | J | 26 | 3 | 3 | 0 | 4 | 3 | 33 | 6 |
| 1994 | 横浜M | - | J | 15 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 17 | 2 |
| 1995 | 横浜M | - | J | 1 | 0 | - | - | 1 | 0 | ||
| 通算 | 日本 | J | 42 | 5 | 7 | 0 | 9 | 6 | 58 | 11 | |
| 日本 | JSL1部 | 161 | 33 | ||||||||
| 総通算 | 203 | 38 | |||||||||
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 32試合 7得点(1984-1989)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| 1984 | 5 | 1 | 2 | 1 | 7 | 2 |
| 1985 | 8 | 3 | 5 | 1 | 13 | 4 |
| 1986 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
| 1987 | 8 | 2 | 9 | 3 | 17 | 5 |
| 1988 | 3 | 0 | 14 | 3 | 17 | 3 |
| 1989 | 8 | 1 | 5 | 1 | 13 | 2 |
| 通算 | 32 | 7 | 36 | 9 | 68 | 16 |
[編集] 得点数
| # | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1984年9月30日 | 大韓民国、ソウル | 2-1 | 勝利 | 日韓定期戦 | |
| 2 | 1985年5月18日 | 日本、東京 | 5-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 | |
| 3 | 1985年6月4日 | 日本、名古屋 | 3-0 | 勝利 | キリンカップ | |
| 4 | 1985年8月11日 | 日本、神戸 | 3-0 | 勝利 | 1986 FIFAワールドカップ予選 | |
| 5 | 1987年6月14日 | シンガポール | 1-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 | |
| 6 | 1987年9月26日 | 日本、東京 | 1-0 | 勝利 | ソウル五輪予選 | |
| 7 | 1989年6月4日 | 日本、東京 | 2-1 | 勝利 | 1990 FIFAワールドカップ予選 |
[編集] 獲得タイトル
[編集] 学生時代
- 全日本小学生サッカー大会優勝- 本太少年団
- 第6回全国中学校サッカー大会優勝(1975年) -浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)
- 第55回全国高等学校サッカー選手権大会優勝(1976年)- 浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)
- 第4回、第6回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝(1980年、1982年)- 法政大学
[編集] 日産自動車〜マリノス
- 天皇杯(1983年、1985年、1988年、1989年、1991年)
- 日本サッカーリーグ(1988‐99年、1989‐90年)
- JSLカップ(1988年、1989年、1990年)
- アジアカップウィナーズカップ(1991‐92年)
[編集] 個人タイトル
- アシスト王(1986-87年、17アシスト)
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 2006 | J1 | 横浜FM | 9位 | 15 | 22 (45) | 7 | 1 | 7 | ベスト4 | ベスト8 |
| J1通算 | - | 15 | - | 7 | 1 | 7 | ||||
*2006年は8月からの就任(カッコ内はシーズン通算の勝点、ナビスコ杯の指揮は準決勝のみ)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
| J1記念ゴール | ||
| 前回: 初ゴール マイヤー |
500ゴール 水沼貴史 1993.12.1 |
次回: 1000ゴール メディナベージョ |
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