横浜フリューゲルス
| 横浜フリューゲルス | |
|---|---|
| 原語表記 | 全日空佐藤工業サッカークラブ |
| 呼称 | 横浜フリューゲルス |
| 愛称 | フリエ |
| クラブカラー | 白、 青 |
| 創設年 | 1964年 |
| 解散年 | 1998年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| ホームタウン | 神奈川県横浜市 1992-1995年のみ「特別活動地域」として長崎県・熊本県・鹿児島県も指定(本文参照) |
| ホームスタジアム | 横浜市三ツ沢公園球技場 横浜国際総合競技場(1998年のみ併用) ※特別活動地域のスタジアムは本文参照 |
| 収容人数 | 15,046(三ツ沢球)、70,000(横浜国際) |
| 運営法人 | 全日空スポーツ株式会社 |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
横浜フリューゲルス(よこはまフリューゲルス、Yokohama Flügels)は、かつて1993年から1998年まで日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟していたプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] 歴史・概要
[編集] 成り立ち
詳細は「全日空横浜サッカークラブ」を参照
前身は横浜市にあった中区スポーツ少年団(後にFCゴールを経て横浜サッカークラブと改称)。その後、全日本空輸が援助を行い、横浜トライスターサッカークラブ、1984年にチームの運営会社「全日空スポーツ株式会社」を設立後は全日空横浜サッカークラブ(全日空スポーツ)となった。ちなみに「トライスター」とは当時の全日空の主力機ロッキードL-1011の愛称であり、ユニフォームにも同様のロゴが使用されていた。
[編集] Jリーグ加盟
1991年にJリーグに加盟。Jリーグ開幕時の加盟チームのひとつ。 ホームタウンは神奈川県横浜市、ホームスタジアムは横浜市三ツ沢公園球技場(後に横浜国際総合競技場も追加)であり、横浜マリノスと同一のため両チームの対戦は「横浜ダービー」と呼ばれた。
練習会場は当初神奈川区にある全日空菅田総合グラウンドを使用していたが、1994年からは戸塚区保土ヶ谷大洋球場(大洋ホエールズの練習場)跡に建設されたフリューゲルス・東戸塚トレーニングセンターを使用するようになった。チームの合併後は横浜F・マリノスが練習場として使用したが、横浜みなとみらい21のマリノスタウンへの移転後は横浜FCが使用するようになった。
「フリューゲル(Flügel))」はドイツ語で「翼」という意味だが、サッカー用語としては英語と同様にウイング(翼)と呼ばれるポジションも意味する。なおチーム名の「Flügels)」は、ドイツ語の名詞に英語やフランス語で名詞複数形のsをつけて作成された(Flügel)は単複同形)造語とされているのだが、結果としてドイツ語男性名詞あるいは中性名詞の2格(所有格)と同じ形になってしまったため、これに対する異議は多くある。また「Flügels」の下に「Yokohama」がデザインされたロゴがプリントされたTシャツなどが作成されたが、この順序では「翼の横浜」という意味になってしまうことが指摘される。
スタート当初は全日空(ANA)のAと、Jリーグ参戦にあたり共同出資したゼネコン・佐藤工業のSを取って「(横浜)AS(エイ・エス)フリューゲルス」と名乗っていた時期もあった。ちなみに読売新聞とフジテレビ「プロ野球ニュース」(当時全日空が全国ネットスポンサーだった関係もあるとされている)では1992年と1993年はチーム名表記を「AS(フリューゲルス)」、スポーツ報知と日本テレビも「AS横浜フリューゲルス」と紹介していたが、1994年から「横浜F(横浜フリューゲルス)」に統一された。
1992 - 1995年までは九州地方にJクラブがなかったこともあり、長崎県、熊本県、鹿児島県を「特別活動地域」というカテゴリーとして活動していたが、アビスパ福岡のJ昇格に伴い1996年以降は本拠地を横浜市に一本化した(後述)。
[編集] 1993年 - 1998年
Jリーグ発足前から監督を務めていた加茂周の下でゾーンプレスを採用し注目を集めた同年、チームはサントリー、ニコスシリーズとも7位に終わった。 天皇杯では躍進し、決勝ではサントリーシリーズの王者鹿島アントラーズに6-2で大勝し、見事に優勝した。
天皇杯の勢いそのままに、1stステージの第4節から第11節にかけ8連勝し、一時は2位になるなど5位と健闘した。 しかし、攻撃の要として活躍していたアマリージャがこのステージ限りで退団・引退するとチームは低迷。 2ndステージでは失速し、8位に終わった。 この年限りで、エドゥー、モネール、バウベルらもチームを去っている。
加茂が日本代表の監督に就任するため退任、ヘッドコーチであった木村文治が監督に就任した。 しかし、選手の入れ替わりが激しくチームは低迷、1stステージでは14チーム中13位に終わる。 木村は1stステージ第14節で監督を辞任、後任のアントニオ・カルロス・シルバもチームを上位に押し上げることが出来なかった。 大量失点しまうことが多く、両ステージを合わせた失点数がリーグワーストであった。 しかし、シルバの若手起用の下、三浦淳宏、楢崎正剛、吉田孝行、波戸康広といったこの年入団した選手が台頭し、翌年以降の躍進につなげてゆくことになる。
オタシリオが監督に就任。 前年度チームに加入したブラジルトリオ(ジーニョ、セザール・サンパイオ、エバイール)がチームにフィットし、三浦淳、前園、山口素などの活躍もあり、開幕8連勝(うち開幕6試合無失点記録を樹立)するなど、リーグ前半を首位で折り返す。 しかし、アトランタ五輪後のリーグ後半では失速してしまい、最終的に3位でシーズンを終える。 ちなみに、この年は1シーズン制であり、従来の2シーズン制ならば1stステージで優勝していた事になる。
前年度活躍したエバイールが退団し、得点力ダウンが懸念されたものの、1994年以来再入団したバウベルと服部浩紀が見事穴埋めし、1stステージでは最終節まで優勝争いを繰り広げる(勝ち点差2で2位)。 しかし、1stステージ限りでチームの躍進を支えたジーニョが退団すると、得点力が低下し、2ndステージは11位と低迷した。 この年限りで、オタシリオ監督が退任。
カルロス・レシャックが監督に就任、3-4-3スタイルを取ったチームは1stステージは序盤低迷したものの後半盛り返し、10勝7敗とまずますの成績を残した。 しかし、2ndステージに入ると守備が破綻して敗戦を重ね、J1参入決定戦がちらつく事態となり、レシャックは2ndステージ第8節をもって不振の責任を取って辞任した。
[編集] 突然のチーム合併消滅劇と天皇杯優勝
1998年10月29日、記者発表前にマスコミから出し抜かれる形で横浜Mと横浜Fの合併が突然発覚。出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振(後に経営破綻)のためチーム運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社の全日空も赤字に陥っており、単独でチームを支える余力がなかったことが原因であった。その為、横浜Mの親会社日産自動車との協議の結果、横浜Mに吸収合併されることになり、チームは事実上消滅することになったのである。そして、両チームの合併はその日のJリーグ理事会で正式に承認された。
だが、「事前に何の説明もなく決定された事」や「合併相手がよりによって同じ横浜市に本拠地を置くライバルチームだった事」などから多くのサポーターの反感を買い、合併反対署名運動等が全国で起こり50万を超える署名が集まったが、同年12月2日に電撃的な形で両チーム合併の調印式が行われた。当初全日空側は調印式を行う場合は事前に発表するとしていたが、その約束を破棄し突然日産側と調印してしまったため、更なるサポーターの反感を買った。
そんな合併消滅劇の中、同年開催の天皇杯。同大会においては出場機会に恵まれず翌年の所属先が決まっていなかった選手たちを出場させて他チームへのアピールの場にしようとも考えられていたが、当時ベンチ入りの機会すら少なかった桜井孝司らの「強いフリューゲルスを見せよう」という一言でチームがさらに一丸となった。負ければその時点でチーム消滅という状況下で、準々決勝でジュビロ磐田、準決勝で鹿島アントラーズと当時のJリーグで突出した強さを持っていた2チームを破り決勝まで勝ち進んだ。
1999年1月1日の決勝では、清水エスパルスを逆転で破って優勝(2-1、得点者:久保山由清、吉田孝行)。合併発表後、リーグ戦・カップ戦を通じて1度も負けることがなかった。
[編集] 合併発表前後の試合結果
| 開催年 | 月日 | 時期 | 会場 | 勝敗 | 得点 | 相手 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | 10月24日 | Jリーグ 2ndステージ |
第13節 | 鹿児島鴨池 | ● | 2 - 3 | 京都 | 合併発表直前 |
| 10月31日 | 第14節 | 横浜国際 | ○ | 7 - 0 | C大阪 | 合併発表直後 | ||
| 11月3日 | 第15節 | 広島ビ | ○ | 2 - 1 | 広島 | |||
| 11月7日 | 第16節 | 三ツ沢 | ○ | 2 - 1 | 福岡 | 本拠地最後の試合 | ||
| 11月14日 | 第17節 | 札幌厚別 | ○ | 4 - 1 | 札幌 | リーグ戦最後の試合 | ||
| 12月13日 | 天皇杯 | 3回戦 | 博多の森 | ○ | 4 - 2 | 大塚FC | ||
| 12月20日 | 4回戦 | 鳥取 | ○ | 3 - 0 | 甲府 | |||
| 12月23日 | 準々決勝 | 神戸ユニバー | ○ | 2 - 1 | 磐田 | |||
| 12月27日 | 準決勝 | 長居 | ○ | 1 - 0 | 鹿島 | |||
| 1999 | 1月1日 | 決勝 | 国立 | ○ | 2 - 1 | 清水 | クラブ最後の試合 | |
[編集] その後
1999年2月、横浜Mと正式合併。同年、横浜F存続を願うサポーターにより横浜FCが設立された。
横浜Fが消滅した際、横浜サッカー&カルチャークラブ(Y.S.C.C.、現横浜スポーツ&カルチャークラブ)を横浜Fの後継チームにしてJリーグ入りを目指すという案が出たが、Y.S.C.C.の当時の理事長の吉野はアマチュアとしての姿勢を堅持し、この案は白紙となった。また、横浜FCとY.S.C.C.を統合するという案も出たが、この案も白紙となり、Y.S.C.C.は横浜FCとは一線を画することとなった。
また横浜Fの前身となった横浜サッカークラブ(FCゴール)の当時のメンバーであった半谷真一などが中心となり2004年にFCゴールの活動を再開している。
現在、「フリューゲルス」の名称を含む諸権利は横浜F・マリノスの運営会社が保有している。ただ、合併当時に横浜マリノスの幹部が「いずれ横浜Fを継承するチームが出てきたら、フリューゲルスの名称を含む諸権利は譲渡する」という趣旨の発言をしている為、現在でも一部の横浜FCサポーター等からは今でも横浜FCに対して「横浜FC」から「横浜フリューゲルス」への名称変更を望む声があるが、噂等も含めて横浜FCの経営陣はその事について一切否定している(詳しくは横浜FCの「チーム名称変更問題」を参照)。
2004年2月、横浜F関連グッズが日本サッカー協会ビル(JFAハウス)内の「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。
[編集] 追記
なお、合併先の横浜FMと、その後横浜F応援団有志で結成された横浜FCのチーム史において、横浜Fは傍系扱いとなるため、現在のそれぞれのチーム史における創設年度、優勝回数、個人賞などは加算されない。
元日本代表で横浜Fに在籍した山口素弘は、引退試合の準備をしていたが「横浜フリューゲルス」の名称が使用できないため開催を断念した。
[編集] 成績
詳細は「横浜フリューゲルスの年度別成績一覧」を参照
[編集] チームのマスコットキャラクター
- とび丸
-
- 当時、ホームゲーム等で試合を盛り上げていた横浜Fのマスコットキャラクター。
- ムササビがモチーフになっており、ゴーグルとマントを使って空を飛ぶ事が出来る。好物は霞。
- チーム消滅後、2004年2月に他の横浜F関連グッズと共に「日本サッカーミュージアム」に寄贈された。
[編集] オフィシャルテーマソング
THE ALFEE 「Victory」(1993年4月28日リリース)
- 作詞・作曲:高見沢俊彦 編曲:THE ALFEE
[編集] 応援ソング
シャンティ・スナイダー 「Flying So High」1998年に発表された。
[編集] 特別活動地域
[編集] 特別活動地域の選定基準とその経緯
前述したように、横浜FはJリーグ発足当初は九州地方をホームタウンとするJクラブがなかったこと、また全日本空輸がクラブのメインスポンサーとなっていることから、横浜市と沖縄県を含む九州各県のダブルホームタウンを実施する予定にし、ホームゲームの半数程度を九州で行う方針にしていた。これは「全日空が乗り入れている空港のある地域全てを本拠地にする」計画を持っていたことも絡んでいる。ところが、そうしてしまうと各県につき1試合ずつしか割り当てられず、興業的にも不利であることから一部横浜Fの主催ゲーム開催を拒絶した県もあったため、結局九州での準本拠地は長崎県、熊本県、鹿児島県の3県に絞った。
また、Jリーグではホームタウンを原則1チームにつき1市区町村となっている(現在は同一都道府県内の複数市区町村にまたぐ広域ホームタウンが認められている)とした関係もあり、正式なホームタウンは横浜市としながら、これら3県は「特別活動地域」というカテゴリーを設けてホームタウンとほぼ同じ権限を持ち、横浜Fの主催ゲーム(天皇杯は除く)を優先的に開催することができた。
Jリーグ発足時、同じ横浜にホームを置く横浜マリノスと同日に主催試合を行う事が珍しく無かったが、Jリーグが同一会場での複数試合開催をピッチコンディションや観客の入れ替え等の点で認めていない為、横浜Mが三ツ沢(球)、横浜Fが下記の九州3県か国立等の他会場を使うケースがあった。
逆に福岡県では横浜Fの主催試合は行われず、横浜Mが1993年・1994年に各2試合ずつ東平尾公園博多の森陸上競技場で主催試合を行った。この他、同競技場ではヴェルディ川崎や浦和レッドダイヤモンズなども主催試合を開催し、V川崎は福岡ブルックス(現在のアビスパ福岡)がJリーグ準会員となった1995年にも東平尾公園博多の森球技場で1試合を主催した。いずれの試合でも横浜Fはアウェーチームとして登場しなかった。
- 特別活動地域のスタジアム
- 長崎県立総合運動公園陸上競技場(15000人収容)
- 熊本市水前寺競技場(20000人→15000人収容)
- 鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場(16000人→20000人収容)
- これら3つのスタジアムもそれぞれJリーグ開催を念頭において、諸改修が行われた。
- 長崎 1993年にナイター設備(4基)、電光掲示板設置。1995年にバックスタンド芝生席を座席化
- 水前寺 1994年にバックスタンド・コーナースタンドの芝生席を座席化。1995年電光掲示板設置
- 鴨池 1994年ナイター設備(4基)設置。1995年にバックスタンド芝生席を座席化した上で増築。特別活動指定が解除された1996年に電光掲示板設置
特別活動地域で行われた試合数
| 全体 | 長崎 | 水前寺 | 鴨池 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 1992年 | 2試合 | 1試合 | 1試合 | 0試合 | ナビスコJリーグ杯のみ |
| 1993年 | 8試合 | 3試合 | 3試合 | 2試合 | 鴨池はナイター照明がなくデーゲームのみ開催 |
| 1994年 | 11試合 | 4試合 | 1試合 | 6試合 | 鴨池はナビスコJリーグ杯2試合含む 水前寺は第1ステージ改修中のため使用せず |
| 1995年 | 8試合 | 2試合 | 2試合 | 4試合 |
[編集] 過酷な試合日程
上記の関係もあり、1ヶ月以上も三ツ沢(球)でのゲームが組まれず、事実上の長期ロードに出たことも珍しくなかった。特に1993年の第2ステージ(NICOSシリーズ)後半戦=11-12月の試合に至っては三ツ沢(球)の横浜F主催試合は1試合しか行われなかった。また前半戦=7-9月始めにも熊本と国立で1試合ずつ試合をしており、このステージのホームゲーム9試合で三ツ沢(球)で試合をしたのはわずか3分の1に当たる3試合だけだった。
- この期間中に開かれた試合と対戦相手
- 11月6日 ジェフユナイテッド市原(国立・アウェー扱い)
- 11月10日 名古屋グランパスエイト(長崎)
- 11月13日 清水エスパルス(静岡・草薙)
- 11月17日 鹿島アントラーズ(熊本・水前寺)
- 11月20日 浦和レッドダイヤモンズ(鹿児島・鴨池)
- 11月27日 ヴェルディ川崎(川崎・等々力)
- 12月1日 ガンバ大阪(長崎)
- 12月8日 横浜マリノス(三ツ沢球 アウェー扱い)
- 12月15日 サンフレッチェ広島(三ツ沢球=ホームとしては中断前9月3日のマリノス戦以来3ヶ月半ぶりの開催)
1994年、三ツ沢(球)の芝生の張替え工事を行った関係で第1ステージ(サントリーシリーズ)の後半・5月14日以後の主催試合も鹿児島・鴨池、長崎、国立、富山と転戦し(熊本・水前寺は当時改修工事中だったため第1ステージは行わず)、ワールドカップを挟んで8月20日に行った名古屋グランパスエイトとの対戦でようやく3ヶ月ぶり(改修前最後の試合は5月7日のガンバ大阪戦)に三ツ沢(球)に帰ってきたという事例もある。このように半ばダブルホームタウンのような形となってしまった上に当時は水曜日・土曜日開催が基本となっていたため横浜Fの移動距離は必然的に長くなり、「九州に行くのは嫌だ」と公言する選手も出た。
このため九州での試合では横浜Fのモチベーションやパフォーマンスは低くなってしまい、その結果横浜Fの九州でのホームゲームの結果はリーグ戦・カップ戦合計で5勝22敗、しかも1994年7月23日のヤマザキナビスコカップ1回戦(対セレッソ大阪、鹿児島)に1-0で勝利したのを最後に14連敗という成績であった。またスタジアム別では鹿児島で3勝7敗、長崎で2勝8敗、熊本は7戦全敗と完全な「鬼門」であった。
これは公式なホームタウンではないが、佐藤工業の創業の地が富山県にあるため、1994年から数年間は富山県総合運動公園陸上競技場でも毎年1試合程度の主催試合を開催していた。その他にも1993年のJリーグ開幕前に兵庫県神戸市や東京都町田市に本拠地を誘致しようと交渉した事があったが、条件面で折り合いが付かず見送られた事もある。この時の誘致活動から、町田市のサッカー関係者はFC町田ゼルビアでJリーグを目指す動きを開始した。
[編集] 特別活動地域の縮小
1996年、アビスパ福岡がJリーグに昇格したのに伴って横浜Fの特別活動地域のカテゴリーは消滅し、各チームが平等に主催できるようになったが、京都パープルサンガ等他チームの主催試合も行われていた鹿児島県についてはその後も横浜Fの主催ゲームを年1-2試合程度開催した。ダブルホームタウンの解消の理由としては他に、メインである横浜市での固定ファンを確保できなかったことも原因とされ、地元ファンの増大を狙う意味も込められていた。
2008年、かつての横浜F特別活動地域で初めて、熊本県からロアッソ熊本がJリーグ ディビジョン2に参入、長崎県ではV・ファーレン長崎がJリーグへ準加盟し、日本フットボールリーグで活動している(横浜F解散時のメンバーだった原田武男が2010年まで在籍していた)。一方、鹿児島県では未だJリーグ加盟、ないしは準加盟を申請したクラブは無い。なお、九州サッカーリーグに参加しているヴォルカ鹿児島で、横浜F最後の主将だった前田浩二が監督兼任選手としてかつて在籍していた。
[編集] タイトル
[編集] 国内タイトル
[編集] 国際タイトル
- アジアカップウィナーズカップ:1回
- アジアスーパーカップ:1回
- 1995
※アジアカップウィナーズカップは1999-2000シーズンにも本来なら天皇杯優勝により出場権が与えられるところだが、チーム解散、また合併先の横浜Mに対する振り替え参加も認められなかったため、代わって準優勝の清水エスパルスが出場した。
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- 白、 青
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1992 | ANA SATO | - | - | - | Mizuno/PUMA |
| 1993 | 出光 | BANDAI | - | ||
| 1994 | - | ||||
| 1995 | サンミッシェル南青山 | - | |||
| 1996 | - | ||||
| 1997 | ANA | - | PUMA | ||
| 1998 | - |
[編集] ユニフォームに関しての特記項目
横浜Fのチームカラーは白と青であるが、第1ユニフォーム(主にホーム用)は白をベースに製作、第2ユニフォーム(主にアウェー用)は青ベースをベースに製作された。
- 他チームは第1ユニはそれぞれのチームカラーを使用し、第2ユニで白をベースのユニフォームが使用されたため、特に白、またはそれに類似した銀色などのユニフォームがこの当時は無かった。プーマ製の第2ユニフォームは1995年まで殆ど使用されず、実際に使用されたのは天皇杯での試合や海外のクラブとの試合など、数試合にとどまっていた。「ユニフォーム使用パターン表」でも同様の理由によりホーム用しか描かれていなかった。このため、ミズノ製の初代デザインの第2ユニフォームは市販用のレプリカしか存在しなかった。
- 1995年4月1日のサンフレッチェ広島戦(熊本・水前寺)で、対戦相手の広島は第1ユニフォーム(紫)を用意すべきであったが、アウェーチームということもあってか間違えて第2ユニフォーム(白)を持参。そのためサポーターから紫色のレプリカユニフォームを借り、選手によっては背番号をガムテープで貼りあわせて急ごしらえした。これに対し日本サッカー協会は、広島に制裁金を課した。一方で選手にユニフォームを貸したサポーターには、後日チームからオフィシャルのユニフォームを贈られた。
- その後、1996年にアビスパ福岡、1997年にヴィッセル神戸が昇格し、それぞれ銀色、白・黒のストライプが第1ユニフォームで使用されることとなったため(ともに当時の配色)、それ以後は第2ユニフォームの登場機会が増えた。
- またジュビロ磐田など第1ユニフォームが蒼(薄い水色)ベースのチームとのホームゲームでも、横浜Fが第2ユニフォーム(青)を着用したことがあった。この場合、アウェーチームも第2ユニフォーム(白)を着ることになり、両チームとも第2ユニフォームという珍しい光景が見られた(柏レイソルホームのジェフユナイテッド市原戦でも、柏が濃紺、市原が白と第2ユニフォーム同士での対戦が実現している)。
- 白(シャツ)をベースとした第一ユニフォームについては横浜F消滅後は横浜FCがチームを結成した初期の頃(1999年~2002年シーズン)に採用していたがその後、上下を水色に変更した。また、福岡・神戸の両チームも第1ユニフォームの配色を変更した。このため、現在ではJリーグで第1ユニフォームに白ベースを採用しているチームは全く無い。
[編集] 主な記録
- 1試合最多入場者
- 1試合最少入場者
- 1試合最多得点
- 1試合最多失点
- ハットトリック
- ベストイレブン
[編集] 主な所属選手
| 第78回天皇杯決勝 vs清水エスパルス戦(1999年1月1日、国立霞ヶ丘競技場)の布陣。数字は背番号、(C)はキャプテン。 後半途中からFW吉田に替えてFWアンデルソン(背番号29)が出場。DFのレギュラーメンバー・薩川了洋(背番号3)は累積警告のため出場停止。 |
[編集] FW
- 前田治 1988 - 1996
- 上村崇士 1992 - 1994
- 桂秀樹 1992 - 1996
- 前園真聖 1992 - 1996
- 久保山由清 1995 - 1999.1
- 光岡眞矢 1995 - 1997
- 吉田孝行 1995 - 1999.1
- 服部浩紀 1994 - 1998
- 大島秀夫 1998 - 1999.1
[編集] MF
- 反町康治 1988 - 1993
- 山口素弘 1990 - 1999.1
- 原田武男 1994 - 1999.1
- 波戸康広 1995 - 1999.1
- 三浦淳宏 1995 - 1999.1
- 瀬戸春樹 1996 - 1999.1
- 氏家英行 1997 - 1999.1
- 佐藤一樹 1997 - 1999.1
- 永井秀樹 1998 - 1999.1
- 遠藤保仁 1998 - 1999.1
[編集] DF
- 岩井厚裕 1989 - 1995
- 大嶽直人 1991 - 1997
- 薩川了洋 1991 - 1999.1
- 高田昌明 1992 - 1996
- 渡辺一平 1992 - 1995
- 奥野誠一郎 1993 - 1998
- 中田一三 1993 - 1995
- 小泉淳嗣 1995 - 1996
- 井上雄幾 1996 - 1999.1
- 前田浩二 1996 - 1999.1
- 埜下荘司 1996 - 1998
- 森山佳郎 1996 - 1997
- 佐藤尽 1997 - 1999.1
- 辻本茂輝 1998 - 1999.1
- 手島和希 1998 - 1999.1
[編集] GK
[編集] 外国人
FW
- アンジェロ(
ブラジル) 1993 - アウドロ(
ブラジル) 1993 - 1994 - アマリージャ(
パラグアイ) 1993.9 - 1994.7 - エトー(
ブラジル) 1995 - 1996 - エバイール(
ブラジル)1995 - 1996 - ロドリゴ(
ブラジル) 1995 - フェルナンド(
ブラジル) 1997.7 - .12 - アンデルソン(
ブラジル) 1997.7 - 1999.1 - レディアコフ(
ロシア) 1998.4 - .12
MF
- エドゥー(
ブラジル) 1993 - 1994 - バウベル(
ブラジル) 1994, 1997 - ジーニョ(
ブラジル) 1995 - 1997 - サンパイオ(
ブラジル) 1995 - 1999.1 - デニウソン(
ブラジル) 1996.7 - .12 - フットレ(
ポルトガル) 1998
DF
横浜フリューゲルスの選手一覧も参照のこと。
[編集] 歴代監督
- 加茂周(
日本) 1991 - 1994 - 木村文治(
日本) 1995 - アントニオ・カルロス・シルバ(
ブラジル) 1995 - オタシリオ(
ブラジル) 1996 - 1997 - カルロス・レシャック(
スペイン) 1998.1 - .9 - ゲルト・エンゲルス(
ドイツ) 1998.10 - 1999.1
[編集] 余談
- ペナルティのヒデが市立船橋高校・専修大学時代に、それぞれ獲得の申し入れをしたことで知られる(厳密には、市船時代は前身の全日空横浜サッカー部が獲得を申し入れている)。
- キャプテン翼において、若島津健(後に名古屋グランパスエイトに移籍)が高校卒業後に入団したクラブとなっており、加茂周、石末龍治、森敦彦が作中に登場している。
- 高校時代の中田英寿をスカウトしたJリーグ10クラブの中の一つ。
- 西紀寛は市立船橋高校時代の1998年、強化指定選手でサテライトの試合にも出場し、翌年からの入団も内定していたが、クラブが消滅したため、オファーのあった磐田に入団した。
[編集] チーム名変遷
- 1964年〜 横浜中区スポーツ少年団(後に横浜サッカークラブに変更)
- 1979年〜 横浜トライスターサッカークラブ
- 1984年〜 全日空横浜サッカークラブ
- 1988年〜 全日空サッカークラブ
- 1992年〜 横浜(AS)フリューゲルス
- 1999年〜 横浜F・マリノス(合併・事実上のチーム消滅)
[編集] 関連項目
- 横浜ダービー
- 全日本空輸(メインスポンサー、左側胸広告スポンサー)
- 佐藤工業(メインスポンサー、右側胸広告スポンサー)
- バンダイ(ユニフォームの背中広告スポンサー)
- 横浜ASフリューゲルスアワー
- 全日空スポーツ
- 横浜FC
- 横浜F・マリノス
[編集] 外部リンク
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