ベガルタ仙台

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ベガルタ仙台
愛称 ベガルタ
クラブカラー     ゴールド[1]
    ブルー[1]
    レッド[1]
創設年 1988年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1
ホームタウン 宮城県仙台市[1]
ホームスタジアム
Sendaistadium2.JPG
ユアテックスタジアム仙台[1]
収容人数 19,694
運営法人 株式会社ベガルタ仙台[1]
代表者 白幡洋一[1]
監督 日本の旗手倉森誠
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ベガルタ仙台(ベガルタせんだい)は、日本宮城県仙台市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブである。

目次

[編集] 概要

ホームタウン宮城県仙台市[1]地図)。ホームスタジアムはユアテックスタジアム仙台[1]命名権導入により2006年に「仙台スタジアム」から改称。地図)、準ホームスタジアムは宮城スタジアム利府町地図 ただし年度により開催がない場合もある[2])。練習場は泉サッカー場[1]地図)および泉パークタウンスポーツガーデン・サッカー場(地図)。

名称の由来となった仙台七夕まつりで飾られているベガルタ仙台応援七夕飾り(2009年8月6日)

チーム名の「ベガルタ」は、仙台七夕に因んで七夕の「織り姫」と「彦星」とされるの名前、「ベガ (Vega) 」と「アルタイル (Altair) 」を合わせた造語[1]マスコットは「ベガッ太[1]

前身は1988年に創設された東北電力サッカー部であり[1]1994年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)参入を目指すため、運営法人「株式会社東北ハンドレッド」を設立し、東北電力サッカー部をクラブチーム化。クラブ名を「ブランメル仙台」(後述)に改めた[1]

なお、東北電力サッカー部と、クラブチーム・ブランメル仙台に移行した初期のアマチュア選手が中心となって「電力ノスタルジア」という同好会チームを結成している。

[編集] 歴史

[編集] 1995年 - 1998年(JFL)

[編集] 1995年

1月に全国地域サッカーリーグ決勝大会で優勝。同年からジャパンフットボールリーグ(JFL)へ昇格。JFL昇格当初は特にV川崎の選手を補強しチーム編成したが、16チームによる2回戦総当たり形式のリーグ戦で仙台は勝点27の15位。 また、当時のホームスタジアムだった宮城県サッカー場(利府町。地図)および宮城野原公園総合運動場宮城陸上競技場(仙台市。2009年に「仙台市陸上競技場」に改称。地図)にはナイター設備がなく、平日でもデーゲームで開催せざるを得なかった。そのため、ファン確保の面でも苦戦を強いられた。

[編集] 1996年

Jリーグ準会員として承認。リーグ戦は勝点56の6位。

[編集] 1997年

6月泉区七北田公園内に新たなホームスタジアムとなる仙台スタジアムが開設。リーグ戦は勝点40の8位。また、ナビスコ杯に初参加。Jリーグ勢3チームとグループリーグ戦を戦うも、1分5敗の最下位。

[編集] 1998年

Jリーグ2部制開始を翌年に控える関係で、JFLはこの年をもって終了。JFLリーグは勝点43の7位に終わり、J1参入決定戦への出場は成らなかった。ナビスコ杯はグループリーグ4戦全敗で敗退。

なお、健康食品メーカー「ジャパンヘルスサミット」とユニフォーム(胸部分)スポンサー契約を締結。同社の商品名「カニトップ」がユニフォームの胸部分に付くようになった。

[編集] 1999年 - 2001年(J2)

[編集] 1999年

この年よりJリーグ ディビジョン2(J2)へ加盟したが、「ブランメル」が他社の登録商標での商標権侵害の恐れがあったため、チーム名をブランメル仙台から「ベガルタ仙台」に改称[1]。チームカラーも「ベガルタゴールド」と呼ばれる黄色に変更。

10チームによる4回戦総当たり形式で行われたリーグ戦は、前期(第2クール)終了時点で最下位。成績不振の責任を取り、前期終了を以って壱岐洋治が総監督を、鈴木武一が監督を揃って辞任。後任として清水秀彦が監督に就任した。清水は就任時、「3年計画でJ1昇格」を目指すことを明言。後期は多少巻き返したものの最終的には9位。

J1・J2全チームによるトーナメント方式(準決勝までホームアンドアウェー、決勝戦のみ1試合)で行われたナビスコ杯では、1回戦で広島に連敗して敗退。

[編集] 2000年

チームスローガン:あなたとJ1

1チーム増の11チームで争われたリーグ戦は、開幕から5連敗を喫したがその後巻き返し、最終順位は5位。ナビスコ杯は1回戦でC大阪と対戦し、2試合とも完封負けを喫し敗退。

[編集] 2001年

チームスローガン:あなたとJ1

FWマルコス、元日本代表MF岩本輝雄等が新加入。 J2開始3年目は1チーム増の12チームで争われ、開幕ダッシュに成功。第1クールを8勝1分2敗で終えると、以降の3クールで6勝ずつ勝利を挙げ、勝点80の3位で最終節(第44節)を迎える。

最終節(11月18日)では、前節に優勝とJ1昇格を決めた京都とアウェーで対戦。一方、仙台と勝点同点ながら得失点差で2位の山形はホームで川崎と対戦。仙台が1-0で京都を破った一方、山形はVゴール負け(0-1)を喫したため、リーグ2位となった仙台は東北地方のクラブとして史上初のJ1昇格が決定した。

ナビスコ杯は1回戦で福岡と対戦。ホームでの第1戦で敗北、アウェーでの第2戦は引き分けとなり、1分1敗で敗退。

[編集] 2002年 - 2003年(J1)

[編集] 2002年

この年のチームスローガンはなし。

初のJ1となったこの年はFW山下芳輝、MFシルビーニョ、MF森保一、DF小村徳男らが新加入。

第1ステージは2年連続J1年間王者の鹿島をアウェーで降す等、開幕からいきなり5連勝。特に、山下は7試合で5得点を挙げ、J1得点ランキング2位タイという活躍で日本代表候補にも選出された。しかし、2002 FIFAワールドカップ開催によるリーグ戦中断から再開後、第1ステージ残り8試合を1勝7敗。それでも序盤の貯金でこのステージは8位で終わるも、続く第2ステージではわずか4勝(1分10敗)で15位に終わった(年間総合順位は全16チーム中13位)。

J1参加チームのみによるグループリーグ戦→決勝トーナメント方式に切り替えられたナビスコ杯は、1勝3分2敗の3位でグループリーグ敗退となった。

[編集] 2003年

チームスローガン:もっと、高く・強く

GK高桑大二朗、FW佐藤寿人、DF根本裕一らが新加入。

開幕から4戦無敗(3勝1分)と好調なスタートを切ったが、その後はマルコスの怪我もあり一気に失速。第1ステージは3勝3分9敗の15位。第2ステージも低迷し、9月に清水秀彦を監督から解任し、市原名古屋で監督を歴任したスロベニア出身のズデンコ・ベルデニックを後任監督に迎える。しかし、その後も低迷は続き、9月27日(第2ステージ・第8節)の浦和戦(宮城)で当時のJリーグ記録となる19試合連続未勝利を喫する。10月4日(同ステージ・第9節)のG大阪戦で20試合ぶりのリーグ戦勝利を挙げたが、最終節(11月29日)の大分戦に引分け、年間総合15位(全16チーム中)。これによりJ2降格が決定した。

ナビスコ杯はグループリーグで、2勝1分3敗の3位に終わり、グループリーグ敗退。

シーズン終了を以ってジャパンヘルスサミットがスポンサーから撤退。ユニフォームから「カニトップ」の名が消える。

[編集] 2004年 - 2009年(J2)

[編集] 2004年

チームスローガン:Be Creative & Run 考えよ、疾走せよ

J2降格1年目。ベルデニックが監督を続投。1年でのJ1復帰を目標に掲げたが、開幕から3連敗。4戦目でようやく初勝利を挙げるも、その後また3連敗とつまづく。しかし、その後はチームを修正しつつ、若手選手の台頭で盛り返し、J1昇格争いに絡んだ。しかし、第4クールで再び失速し、早い段階で昇格争いから脱落。結局、全12チーム中6位に終わった。シーズン終了後、ベルデニックが監督を解任され、FW佐藤寿人広島へ移籍した。

アイリスオーヤマ」とユニフォーム(胸部分)スポンサー契約を締結(2000年に背中部分のスポンサーとして契約し、前年まで背番号上部にロゴを入れていたが、「ジャパンヘルスサミット」のスポンサー撤退に伴い、胸部分のスポンサーに"昇格"する形となった)。また、「アイリスオーヤマ」に替わる背中部分の新スポンサーとして大手出版社「廣済堂」と契約。

[編集] 2005年

チームスローガン:熱く 楽しく そしてひとつに

2005年は、2003年サッカー指導者S級ライセンスを取得し、初めてJリーグのトップチームを指揮する都並敏史を監督に迎えた。一時は全12チーム中11位にまで後退したが、第2クール以降は持ち直し、第4クールでは8戦負けなし(6勝2分)と調子を挙げ、一時は入れ替え戦出場となる3位にまで浮上。しかし、第43節(11月26日/仙台)で京都に敗れると、続く最終・第44節(12月3日/博多の森)の福岡戦は引き分け。最後は甲府に勝ち点で追い抜かれ、4位。入れ替え戦出場を逃した。

シーズン終了後、常務・小長谷喜久男(のちにシニアディレクターに就任)の判断により田中孝司(GM)、都並を解任(田中は小長谷が湘南社長の時に田中が湘南の監督しており、このときも湘南の監督を解任しており二度目の解任になる)。また、チームの攻撃の要だった財前宣之をはじめ7選手が戦力外となり、ゲームメーカーのシルビーニョ新潟へ移籍した。

[編集] 2006年

チームスローガン:勝利or勝利 〜絆を力に変えて〜

ブラジルからジョエル・サンタナを監督に招聘した。この年、仙台スタジアム命名権導入に伴い、「ユアテックスタジアム仙台(略称:ユアスタ仙台)」に改称。序盤は4バック3ボランチの日本人8人で守って、新加入のブラジル人トリオ(ロペスチアゴ・ネーヴィスボルジェス)の3人でカウンター、という戦術が当たり、第1クール終了時は自動昇格圏の2位につけ、第2クールも好調を維持。入れ替え戦出場となる3位でリーグ戦前半を折り返す。

ところが、DF白井博幸が怪我で長期離脱。さらに8人で守り3人で攻める攻守完全分断戦術は組織的な崩しがなく、攻撃手段が極端に偏っていたため前線3人の徹底マークといった対策を取られると攻撃が手詰まりになり、リーグ戦後半となる第3クールでは下位チームには勝てても上位チームには勝てなくなった。同クール終了時には3位との勝ち点差7の4位に後退。その後、MFチアゴ・ネーヴィスの負傷による戦線離脱も重なり、最終・第4クールでも浮上のきっかけを掴めず、昇格争いから脱落。5位に終わった。

サンタナはシーズン終了を以って解任。選手もこの年の前半まで正GKを務めていた高桑、ベテランFW大柴克友等4選手が戦力外となった。戦力外4選手の他、リーグ戦26ゴールを挙げ、J2得点王となったFWボルジェスは本人の希望もあり、母国ブラジルのサンパウロFC期限付き移籍(その後、2008年に完全移籍)。期限付き移籍でプレーしていたチアゴ・ネーヴィスは移籍期間を延長せず。その一方で、MFロペスは期限付き移籍期間を延長した。

シーズン終了後、廣済堂がスポンサーから撤退。

[編集] 2007年

チームスローガン:新仙走破 〜そして進化。〜

2007年シーズンは、前年ヘッドコーチを務めた望月達也が監督に昇格。望月はヘッドコーチの傍ら、サテライトチームの監督も務め、好成績を残した。また、サンタナが体調不良で欠場した際、1試合のみだがトップチームの監督代行を務め、勝利を収めていた。

選手補強では山形からベテランMF永井篤志鳥栖からGKシュナイダー潤之介等を獲得。中盤と前線の連動による細かいショートパスで相手を翻弄するスタイルが効力を発揮。第1クールでは開幕から11戦無敗(6勝5分)の好スタート。続く第2クールでは一時は負けが込んだが、3位でリーグ戦前半を折り返す。

チームは当初シーズン途中の補強をしない方針を表明していたが、開幕からセットプレーが振るわず、さらに第3クールに入って失点が増えたことなどから補強を実行。7月に元新潟のMFファビーニョを、続く8月にはからDF岡山一成をいずれも期限付き移籍で獲得。

第3クール終盤で戦術を若干修正。攻撃の手駒を減らし、SBの攻撃参加を限定的にすることでカウンターへの対処と守備の安定化を図った。これが功を奏し、第3クール終盤以降は失点が減少。また岡山をはじめ補強選手の活躍でセットプレーが向上。勢いを取り戻し、昇格争いに加わっていった。しかし、この頃から得点力が急激に減少、1試合平均で1得点しか取れない時期があった。第4クール序盤〜中盤では昇格を争うライバルチームとの直接対決に勝利したが、11月に入りまた失速。10日(第49節)の東京V戦で引き分けると、続く18日(第50節)の湘南戦と25日(第51節)の京都戦を連敗し、最終順位は4位。

GK小針清允、DF白井博幸等7選手がシーズン終了を以って退団。また、ジョニウソンロペス、ファビーニョのブラジル人3選手全員もチームを退団。さらに、チーム最多得点を挙げたFW萬代宏樹磐田へ完全移籍。望月もJ1昇格を逃した責任を取り監督を辞任。

なお、廣済堂に替わるユニフォーム(背中部分)の新スポンサーが決まらず、"空白"のまま開幕を迎えるが、8月に「NECトーキン」とスポンサー契約を締結。9月から同社のロゴが背番号上部に入れられた。

[編集] 2008年

チームスローガン:感動一体 絆は次なるステージへ

2008年シーズンは、クラブスタッフとしてフロント入りした前監督・望月の指名を受けた手倉森誠が監督に就任。手倉森は前年、ヘッドコーチとして望月をサポート。また、手倉森の双子の弟・がヘッドコーチ就任。

前年、高給な外国籍選手が戦術に思うようにフィットしなかった事を踏まえ、日本人選手で経験豊富なベテランと若手の有望な選手を複数補強し、シーズン前の外国籍選手補強をしない“純国産”で臨む方針(しかし、チームの中心選手であるMF梁は、日本国籍ではないため、完全な純国産ではない。)を打ち出した。明治大学からGK関憲太郎筑波大学からMF三澤純一が新加入。神戸から元日本代表FW平瀬智行からMF佐藤由紀彦鹿島からFW田中康平川崎からMF飛弾暁をそれぞれ完全移籍、東京VからDF一柳夢吾大分から宮沢正史川崎から西山貴永をそれぞれ期限付き移籍で獲得。昨季まで期限付き移籍中の身であったFW中島裕希とDF岡山一成が完全移籍に移行。前年途中に札幌から期限付き移籍で加入したGK林卓人も移籍期間を延長し、チームに留まった。

宮崎県延岡市でのキャンプで始動。キャンプ開始から間もない2月6日、若手4選手(金子慎二富田晋伍一柳夢吾細川淳矢)が同市の飲食店で行われた選手会主催の食事会終了後に、会場近くの駐車場に止めてあった軽ワゴン車の屋根に乗り、損傷させる騒動を起こした。詳細は#不祥事参照。

3月にリーグ戦開幕(この年からJ2リーグ戦は3回戦総当たりに変更)。第1クール終了時で7勝5分け2敗の3位と、まずまずの滑り出しを見せる。第2クール以降は決定力不足が目立つようになり、韓国Kリーグで外国人初の年間MVPを獲得した経験を持つブラジル人FWナジソンを獲得。また千葉・永井の両ボランチが精彩を欠くことが多くなったため、京都からMF斉藤大介を期限付き移籍で獲得。

第3クールは、山形に敗れ、9年ぶりとなるみちのくダービーシーズン負け越し。その後、1試合引き分けた後4連勝するも、今度はこれまで無敗であった水戸に初黒星。その後は第2クールまでいずれも1分1敗と苦しめられた愛媛C大阪に連勝。しかし、11月に入り失速。9日広島戦、22日横浜FC戦を続けて引き分けた後、30日鳥栖戦で敗戦。ここで自動昇格(=2位以内)は消滅。

だが、12月6日の最終節では草津に勝利し、シーズン3位を確保。入れ替え戦出場を果たす。入れ替え戦ではJ1第16位の磐田と対戦したが、ホームでの第1戦を引き分けると、続くアウェーでの第2戦は敗戦。通算1分1敗に終わり、6シーズンぶりのJ1復帰はならなかった。

シーズン終了後、8選手がチームを去った。岡山、GKシュナイダー潤之介等6選手は戦力外。ナジソンは古巣でもある母国のクラブチームECヴィトーリア、大分から期限付き移籍中だった宮沢も元のチームへ戻った。クラブスタッフの望月も退団。その一方で、手倉森は翌年も引き続き指揮を執ることになった。仙台にとっては5年ぶりに監督交代のないシーズンオフとなった。

ファウル数は、2004年-2006年はリーグワースト1、2007年もワースト5と多かったが、本シーズンは第1クール終了時点でベスト2と少なかった。結局シーズン終了時、イエロー2枚および一発レッドによる退場者は一人もなく、仙台のファウル数はリーグベスト1の少なさとなった[3]

運営会社の「株式会社 東北ハンドレッド」が6月1日付で「株式会社 ベガルタ仙台」に改称。シーズン終了後、NECトーキンがスポンサーから撤退した。

[編集] 2009年

チームスローガン:闘志躍動 思いを胸に…

また、スローガンとは別に掲げられていた目標は優勝を意味する「完全昇格」。手倉森の監督就任2年目のこの年は、J1チームへの移籍が噂されていたMF梁勇基関口訓充、DF菅井直樹がいずれも契約を更新しチームに残留。札幌から期限付き移籍中のGK林卓人も本人の強い希望により移籍期間を再延長してチームに残留。前年まで期限付き移籍であったDF一柳夢吾、MF斉藤大介西山貴永は完全移籍。その他の主力選手も戦力外となった者を除いて、ほぼ全員が残留した。

前年の命題だった国産メンバーで挑むことは撤回し、この年はアジア枠、在日枠と合わせて最多5人の外国籍選手を揃える方針を固める。他クラブからの加入は、山形から前年まで2年間、甲府へ期限付き移籍していたGK桜井繁横浜FCからDFエリゼウ神戸からMF曽我部慶太韓国水原三星から元同国代表DF朴柱成をそれぞれ完全移籍で、ブラジルのポンチ・プレッタからマルセロ・ソアレスを期限付き移籍で獲得。

1月よりユアスタ仙台で芝・全面張り替え工事を行う関係で、6月までユアスタ仙台を使用できず。その間のホームゲームは宮城スタジアムで11試合、福島県営あづま陸上競技場で1試合(宮城県外でホームゲーム開催はJリーグ加盟後初めて。JFL時代に岩手県で開催経験有)。約2万人収容のユアスタ仙台に対して宮城スタジアムは約5万人収容であるが、アクセス問題があるため観客数は低迷し、3月25日(第4節)の甲府戦でホームゲームとして8年ぶりの1万人割れ(当日は平日のナイトゲームに加え、雪も降る悪天候だった)、その後も2度の1万人割れを記録した。なお、7月にユアスタ仙台での試合を再開してからは全て1万人を上回った。

リーグ戦は第2クール終了時点で20勝6分8敗(勝ち点66)の2位。最終・第3クールは第39節(9月13日)で福岡に敗れた以外は無敗をキープ。11月8日(第48節)の水戸戦で3位以内が確定し、先ずは7シーズンぶりのJ1復帰が決まる(この年から入れ替え戦は行われず、上位3チームが自動昇格)。

続く第49節(11月22日)では首位C大阪との直接対決に勝利し、入れ替わりで首位に浮上。首位で迎えた最終・第51節12月5日)では愛媛と引き分けたものの、勝ち点差1で後を追う2位C大阪が鳥栖に敗れたためJ2初優勝。シーズンの目標であった完全昇格を達成した。最終戦績は32勝10分9敗の勝ち点106。2004年川崎が記録した「105」を上回り、J2歴代最多勝ち点を記録[4]

連敗は3月に2連敗が1度あったのみで、シーズンを通して安定した結果を残した。中でも守備が非常に安定し、総失点はリーグ最少の39、1試合あたりの平均失点は0.76点。3失点以上を喫した試合は一度もなかった。また前年に引き続きファウルの少なさも目立った。反則ポイントはフェアプレー賞の選考基準51ポイント以下に対して僅か17ポイントで、2位の湘南(86ポイント)を大きく引き離し、2年連続のJ2フェアプレー賞を獲得すると共に、チェアマン特別賞も受賞した。

天皇杯では大宮FC東京、川崎といったJ1勢を相次いで降し、チーム初のベスト4進出を果たした(準決勝でG大阪に敗戦)。

このシーズンはホームゲームで19勝5分2敗。春先に宮城スタジアムで2敗を喫したものの、その後は安定した戦いを見せ、ホーム23戦無敗というJ2新記録を打ち立てた。同じく記録したホーム12連勝もJ2新記録。天皇杯も含め、ユアスタ仙台で無敗のままシーズンを終えた。

上記のようにクラブ史上最高の成績を収めたのにも関わらず、運営面では苦戦を強いられた。シーズン前半にユアスタ仙台を使用できなかったことが影響し、ホームゲームの1試合平均観客動員数は前年より1,000人以上減少の12,951人と低迷。クラブの決算も9,800万円の赤字となった。

NECトーキンに替わる背中部分のスポンサーとして地元・仙台に本社を構える酒類量販店「やまや」と契約。さらに、前年は契約が無かったパンツ部分のスポンサーに阿部蒲鉾店が契約した。

シーズン終了後、7選手(DF木谷公亮、6月に完全移籍で加入したFWサーレス等)が契約期間満了、FWマルセロ・ソアレスは期限付き移籍期間満了のためそれぞれチームを去った。

[編集] 2010年 -(J1)

[編集] 2010年

チームスローガン:闘志躍動 より高みへの挑戦

札幌から期限付き移籍中だったGK林卓人が完全移籍に移行。からDF鎌田次郎鳥栖からMF高橋義希、前年7月まで磐田に在籍していた太田吉彰大分からフェルナンジーニョがそれぞれ完全移籍、ブラジルクルゼイロからはFWレイナルドが期限付き移籍で新加入した。

リーグ戦は開幕2連勝を皮切りに、第5節ではJ1リーグ3連覇中の鹿島を降すなど好調なスタートを切った。しかし、続く第6節で清水に1-5の大敗を喫すると、第7節ではホーム・ユアスタ仙台で神戸に0-1で敗戦(この敗戦でJ2時代から続いていたリーグ戦におけるホーム不敗記録が25でストップ)。その後攻撃陣に怪我人が続出した影響もあり、鹿島戦以降未勝利のまま南アフリカW杯開催に伴うリーグ戦中断期間を迎える。

中断期間中、FWレイナルドが母国ブラジルで水害に巻き込まれた家族と連絡が取れなくなったとして急遽退団。また、FW起用のフェルナンジーニョ以外、FWの得点がほとんどなかったことからKリーグ大田シチズンよりFW朴成鎬を期限付き移籍で獲得する。リーグ戦再開後、FW中原と中島が怪我で相次いで戦線離脱。移籍期限日の8月11日、FC東京からFW赤嶺真吾を期限付き移籍で獲得。第20節(対大宮)で15試合ぶりの勝利を挙げると、第30節までの11試合で7勝1分3敗という好成績で降格圏を脱出。最後は最終・第34節でJ1残留を決めた。最終成績は10勝9分15敗、勝点39の14位。

7年ぶりに参加したナビスコ杯は、グループリーグA組を3勝3分けの2位で通過。初の決勝トーナメント(準々決勝)進出を果たした。準々決勝では磐田と対戦したが、1分1敗で敗退。一方、前年ベスト4入りした天皇杯では初戦(2回戦)で宮城代表・JFL所属のソニー仙台FCに延長戦の末、0-1で敗退した。

代表関連では5月10日、MF梁勇基の南アフリカW杯・北朝鮮代表候補選出が発表される。しかし、最終登録メンバーには選出されず、仙台所属選手として初のW杯出場は果たせなかった。9月30日にはMF関口訓充日本代表メンバー選出が発表される。仙台所属選手の日本代表入りは2003年の山下芳輝以来3人目であるが、仙台でプロキャリアをスタートさせた生え抜き選手としては初の代表入りとなった。関口は10月8日アルゼンチン戦で代表デビューを果たした。

5月15日の浦和戦後、仙台の外国籍選手(選手名は非公表)が浦和サポーターから人種差別的な発言を浴びせられたとして、Jリーグが調査を開始。差別発言をしたとされる人物は確認できなかったが、仙台に200万円、浦和に500万円の制裁金が課せられた。

シーズン終了後、ブランメル時代から15年間仙台一筋でプレーしたMF千葉直樹と、2000年シドニー五輪日本代表メンバーだったFW平瀬智行がそれぞれ引退。また、GK萩原達郎、DF一柳夢吾、MF三澤純一永井篤志、FWフェルナンジーニョが契約期間満了、FW朴成鎬は期限付き移籍期間満了、DFエリゼウ徳島へ完全移籍のためそれぞれ退団した。

[編集] 2011年

チームスローガン:V Shift 杜が変わる、上がる、熱くなる。

J1復帰2年目のこの年は、前年引退した平瀬智行がチームの第2代アンバサダーに就任。初代アンバサダーの岩本輝雄は退任。

選手補強は京都から元日本代表FW柳沢敦とDF角田誠鹿島からFWマルキーニョスをそれぞれ完全移籍、FC東京からMF松下年宏、鹿島からGK川俣慎一郎をともに期限付き移籍、新外国人選手として韓国Kリーグ城南一和からDF曺秉局を完全移籍、ブラジル・イパチンガFCからMFマックスを期限付き移籍でそれぞれ獲得。ソニー仙台へ期限付き移籍していたFW大久保剛志が4シーズンぶりにチームへ復帰し、FC東京から期限付き移籍中だったFW赤嶺真吾が完全移籍に移行した。

3月5日の開幕戦は敵地で広島と対戦し、スコアレスドロー。

ホーム開幕を翌日に控えた同月11日、東北地方太平洋沖地震東日本大震災)および東京電力福島第一原子力発電所での事故が発生。これによりリーグ戦、ナビスコ杯が中断。チームも活動停止を余儀なくされ、それに伴い外国籍選手が一時帰国したほか、下部組織選手やMF関口訓充などが避難所生活を強いられることとなった。その間に行われた震災チャリティマッチ「日本代表vs.Jリーグ選抜(TEAM AS ONE)」に関口とMF梁勇基が出場。チームでは、練習時間外に監督・選手・スタッフでボランティア活動を行うなど、被災地のために動いた[5][6]

ユアスタ仙台は地震によって大きな被害を受け、被害の少なかった宮城スタジアムも救援拠点として使用されるようになった(これにより一般の使用が制限されている)。そのため、ホームゲーム会場確保が難しくなり、一時期アウェー変更などが検討される事態となる。後にユアスタ仙台の損傷が使用可能の範囲とされることで同問題は解決し、4月29日の浦和戦は当初予定された宮スタではなくユアスタ仙台に会場を変更して開催。

4月3日、仙台を離れ関東キャンプがスタート。これはクラブハウスの半壊などから練習場所の確保が困難となっていたためである。キャンプ初日から12日までは千葉県市原市、13日以降を埼玉県さいたま市のレッズランドでキャンプを行った。同グラウンドでの練習は、震災発生直後から練習場所提供の準備をしていた浦和側の厚意によって実現したものだった。

震災の影響で、FWマルキーニョスが本人の申し出により4月9日に退団したが、DF朴柱成、DF曺秉局、MFマックスはチームに留まった。

4月23日、リーグ戦再開。その初戦となった川崎戦で2-1と逆転で今シーズン初勝利を挙げる。続くホーム開幕戦では浦和を1-0で降し、公式戦での浦和戦初勝利を記録。以後も安定した戦いを見せ、6月26日のアウェイ清水戦に0-1で敗れるまで、開幕から12試合を6勝6分とし、1シーズン制となった2005年以降でJ1記録となる開幕12試合無敗を樹立した[7]

ところが、その清水戦で負けた後チームは前年同様リーグ戦連続未勝利に陥ってしまう。その打開策として京都からディエゴをレンタル移籍で獲得。その後、8月20日の名古屋戦に勝利。リーグ戦10試合ぶりの勝利を記録し、同時に公式戦での名古屋戦初勝利を記録した。この勝利を機に、再び上昇気流に乗ったチームは10月2日のC大阪戦での勝利でリーグ戦6試合を残しJ1残留が確定。終盤は4試合連続無得点と少し苦しんだが、最終節の神戸戦で勝利し横浜FMを得失点差でかわし過去最高の4位でリーグ戦を終了した。最終成績は14勝14分け6敗、勝点56の4位。失点数は2位の名古屋を11下回る25失点でリーグトップ、先制した試合では無敗と、J1でも屈指の堅守を誇るチームとして台頭した。

東日本大震災の影響でトーナメント方式(1・2回戦はホーム&アウェイ、準々決勝以降は一発勝負)に変更されたナビスコ杯は、1回戦で柏に連勝するも、2回戦では前回大会優勝の磐田に1分1敗で敗退した。また天皇杯は、2回戦でソニー仙台、3回戦で福岡に勝利も、4回戦でC大阪にPK戦の末敗れた。

シーズン終了後、DF細川淳矢が契約満了、GK川俣慎一郎、MFマックス、FWディエゴがレンタル移籍期間満了につき退団、DF曺秉局が磐田へ、FW大久保剛志がJFLのソニー仙台へ完全移籍、MF高橋義希鳥栖へ、DF島川俊郎東京Vへ、FW中島裕希山形へ期限付き移籍した。また、横浜FCへ期限付き移籍している関憲太郎の移籍期間も延長された。

また、10月14日、福島第一原発事故の影響により解散した東京電力女子サッカー部マリーゼの移管先最終候補に内定し、東京電力との二社間協議に入った。11月4日、仙台市内で臨時取締役会を開き、2012年からマリーゼの選手を受け入れて新規女子チームベガルタ仙台レディースを発足させ、日本女子サッカーリーグ(なでしこリーグ)下部のチャレンジリーグに加盟することを正式決定した。

[編集] 2012年

チームスローガン:V Shift 杜が進む、越える、輝く☆

J1復帰3年目。手倉森監督、就任5年目。

選手補強は、甲府から内山俊彦C大阪から上本大海中国スーパーリーグ陝西宝栄からFWウイルソン、ブラジル・パルメイラスからMFサッコーニを獲得、FC東京から期限付き移籍中だったMF松下年宏が完全移籍へ移行した。新人選手では盛岡商業からMF藤村慶太仙台大学からMF奥埜博亮が加入、仙台ユースからMF越後雄太が昇格した。

[編集] チーム名の略号表示について

  • ブランメル仙台時代の1998年、同じ宮城県多賀城市を本拠とする社会人チーム・ソニー仙台FCジャパンフットボールリーグに昇格し、事実上仙台を拠点とするチームが2チーム参加する形となった。その為新聞や雑誌などの記事で掲載するチーム略号を区別するため「B仙台」(Bはブランメルの略)としたものもあったが、ソニー仙台FCが実業団チームであることで「ソニー」と表記した新聞社もあり、その場合は従前の「仙台」の地名だけの表示もあった。

[編集] 成績

[編集] 年度別成績および歴代監督

[編集] タイトル

[編集] ベガルタ仙台

[編集] 前身時代

[編集] 表彰

[編集] リーグ戦の主な記録

[編集] チーム記録

[編集] 最多得点試合
H & A スコア 試合日 対戦相手
J1 ホーム 5-2 2002年1st第3節(3月16日) 柏レイソル
アウェー 3-0 2010年第20節(8月22日) 大宮アルディージャ
3-1 2011年第27節(9月24日) 横浜F・マリノス
3-0 2011年第29節(10月15日) アビスパ福岡
J2 ホーム 5-1 2006年第17節(5月20日) ザスパ草津
5-2 2006年第43節(9月30日)
5-2 2007年第9節(4月14日) サガン鳥栖
アウェー 5-1 2000年第30節(8月27日) 水戸ホーリーホック
5-0 2009年第18節(5月30日)
5-1 2006年第18節(5月28日) サガン鳥栖
JFL ホーム 6-1 1998年第15節(8月9日) ジャトコFC
アウェー 4-0 1995年第3節(5月18日) 福島FC
4-3 1996年第8節(6月2日) NTT関東
4-1 1996年第19節(9月1日) 西濃運輸
4-2 1998年第14節(8月2日) デンソー
[編集] 最多失点試合
H & A スコア 試合日 対戦相手
J1 ホーム 0-6 2002年2nd第8節(10月12日) ガンバ大阪
1-6 2003年2nd第8節(9月27日) 浦和レッドダイヤモンズ
アウェー 1-5 2003年1st第12節(7月12日) ジェフユナイテッド市原
1-5 2010年第6節(4月11日) 清水エスパルス
J2 ホーム 2-6 2000年第31節(9月3日) 湘南ベルマーレ
アウェー 1-5 1999年第17節(7月11日) 川崎フロンターレ
0-5 2000年第28節(8月12日) 大分トリニータ
1-5 2007年第22節(6月16日) 京都サンガF.C.
JFL ホーム 1-5 1995年第2節(5月14日) 福岡ブルックス
0-5 1995年第7節(6月11日) NEC山形
0-5 1995年第13節(7月13日) 東京ガス
1-5 1995年第15節(7月23日) 京都パープルサンガ
アウェー 1-7 1995年第27節(10月15日) 東京ガス
[編集] 最多連勝
連勝試合数 期間 備考
J1 6連勝 2011年第24節(8月27日)- 第29節(10月15日)
J2 7連勝 2009年第8節(4月15日)- 第14節(5月10日)
JFL 9連勝 1998年第22節(9月20日)- 第30節(11月8日) Vゴール勝ち2、PK勝ち2を含む
[編集] 最多連敗
連敗試合数 期間 備考
J1 6連敗 2003年1st第7節(5月5日)- 第12節(7月12日)
J2 12連敗 1999年第9節(5月2日)- 第20節(8月7日)
JFL 7連敗 1997年第5節(5月15日)- 第11節(6月21日)

[編集] 個人記録

[編集] 通算最多試合出場
試合数 氏名 備考
J1 68試合 林卓人梁勇基 継続中
J2 337試合 千葉直樹
JFL 66試合 本明利樹
[編集] 通算最多得点
得点数 氏名 備考
J1 21得点 マルコス
J2 47得点 梁勇基 継続中
JFL 25得点 阿部良則
[編集] シーズン最多得点
得点数 氏名 達成年度
J1 18得点 マルコス 2002年
J2 34得点 2001年
JFL 14得点 エジマール 1995年
[編集] ハットトリック
得点数 氏名 達成日 対戦相手
J1
達成者なし

J2 3得点 マルコス 2001年4月28日(第8節) 京都パープルサンガ
ボルジェス 2006年5月20日(第17節) ザスパ草津
2006年9月30日(第43節)
萬代宏樹 2007年4月14日(第9節) サガン鳥栖
JFL 3得点 阿部良則 1995年5月18日(第3節) 福島FC
1998年8月9日(第15節) ジャトコ
オッツェ 1996年8月29日(第18節) デンソー
平聡 1998年11月1日(第30節) サガン鳥栖
[編集] 最多観客動員試合
H & A 観客動員 試合日 対戦相手 スタジアム
J1 ホーム 43,092人 2002年2nd第9節(10月20日) ジュビロ磐田 宮城スタジアム
19,491人 2002年1st第12節(8月3日) サンフレッチェ広島 仙台スタジアム
アウェー 32,983人 2002年2nd第2節(9月8日) 浦和レッドダイヤモンズ 埼玉スタジアム2002
J2 ホーム 19,412人 2001年第43節(11月11日) サガン鳥栖 仙台スタジアム
23,745人 2008年第42節(11月9日) サンフレッチェ広島 宮城スタジアム
アウェー 25,807人 2001年第27節(8月18日) アルビレックス新潟 新潟スタジアム
JFL ホーム 14,145人 1997年第8節(6月1日) 本田技研 仙台スタジアム
アウェー 15,318人 1997年第19節(8月31日) コンサドーレ札幌 札幌厚別公園競技場
[編集] 最少観客動員試合
H & A 観客動員 試合日 対戦相手 スタジアム
J1 ホーム 23,214人 2010年第5節(4月4日) 鹿島アントラーズ 宮城スタジアム
11,356人 2011年第17節(6月22日) ヴァンフォーレ甲府 ユアテックスタジアム仙台
アウェー 3,287人 2002年2nd第4節(9月18日) ジェフユナイテッド市原 市原臨海競技場
J2 ホーム 2,568人 1999年第7節(4月25日) 大分トリニータ 仙台スタジアム
7,154人 2009年第4節(3月25日) ヴァンフォーレ甲府 宮城スタジアム
アウェー 951人 2000年第4節(3月30日) ヴァンフォーレ甲府 山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場
JFL ホーム 1,293人 1995年第28節(10月19日) 大塚FCヴォルティス徳島 宮城陸上競技場
2,845人 1998年第27節(10月15日) 大宮アルディージャ 仙台スタジアム
アウェー 270人 1998年第26節(10月12日) 国士舘大学 駒沢陸上競技場

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) [1]ゴールド ゴールド
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) 水色 水色
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

[編集] デザイン・配色

  • チームカラーは    ゴールド[1]
  • シャツの首下(2011年モデルでは裾)とソックス(2011年モデルでは廃止)ならびにパンツの後ろには、織姫と彦星を意味する緑と黄色の星がアクセントとして刺繍されている(これは1999年-2001年使用のベガルタ初代モデルから続いている)。
  • 2007年から2010年までのフィールドプレーヤー用2ndユニフォームは、シャツ、パンツ、ストッキング共にシルバーを使用。
  • 2009年10月のリーグ戦ホームゲームでは、クラブ創設15周年を記念して黒をベースに右袖などにはベージュに近い金色を配した特別ユニフォームを着用(GKは、10月7日のみフィールドプレーヤー用1stユニフォームを着用)。
  • 2011年モデルではフィールドプレーヤー用1stユニフォームのストッキングが、青からゴールドに変更。なお対戦相手のユニフォームに合わせて青のストッキングも引き続き用意されている。

[編集] ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
アイリスオーヤマ IRIS OHYAMA 2004年- 2000年-2003年までは背中
背中 やまや やまや 2009年-
七十七銀行 七十七銀行 1998年-
パンツ 阿部蒲鉾店 阿部かま 2009年-

[編集] ユニフォームサプライの遍歴

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1998 カニトップ 七十七銀行 TOPPER
1999 asics
2000 アイリスオーヤマ
2001
2002 PIZZA
STRAWBERRYCONES
2003
2004 IRIS
OHYAMA
Workin 仙台進学プラザ
2005
2006
2007 –/NEC/TOKIN
(2007年9月-)
2008 NEC/TOKIN
2009 やまや –/阿部かま(4月-)
2010 阿部かま
2011

[編集] クラブ情報

[編集] 運営会社

[編集] チーム名変遷

  • 1988年 - 1994年10月 東北電力サッカー部
  • 1994年11月 - 1998年 ブランメル仙台
  • 1999年 - 現在 ベガルタ仙台

[編集] マスコット

[編集] スタジアムDJ

[編集] 過去のスタジアムDJ

[編集] 応援スタイル

ユアテックスタジアム仙台で行われるリーグ戦では、(メインスタンドから見て)左側のゴール裏スタンドからバックスタンドの一部に渡る部分が「サポーター自由席」と称されており、ここをメインに応援が行われている。特に、ゲート入り口から最前列までのスタンド部分に、熱心なサポーターが集まっている。なお、この席ではチームカラーである黄色(「ベガルタゴールド」と呼ばれる)の服(ユニフォームのレプリカ、パーカー、Tシャツ等)を着用するのが「暗黙のルール」とされている。

コールリーダーは、サポーター自由席のバックスタンド側に位置し、戦況によって的確な応援指示を行う。

コールリーダーのいる位置には、サポーター有志によって設置されたマイクがあり、ゴール裏スタンド中央部に設置されているスピーカーに音声が出るようになっている。これによって音声のずれが生じることなくサポーター自由席での一体感のある応援を行うことが可能となる。

ユアテックスタジアム仙台は観客席全てに屋根がかかっている構造になっており、声が屋根に反響する効果がある。メガホンなどの鳴り物グッズを使ってしまうと屋根によって声援がかき消されてしまうため、応援時のメガホン使用が禁止されている。また、ベガルタ仙台のグッズのラインナップにもメガホンが用意されていない。J2初期の頃は、メガホンも販売されていたが上記の理由からサポーターが運営会社に販売中止を申し入れている。

フェアプレーフラッグ&選手入場時はカントリーロードを歌う。

試合中は、戦況に応じて応援歌を使い分ける。これによって、選手とサポーターが一体となって戦っているという効果を生み出している。

試合に勝利したときは、最後に「AURA」を歌う。

[編集] サポーターソング

チームに対してのものと現役選手に対してのものに関しては、河北新報社が運営する「ベガルタ☆モバイル」にて着信メロディとして用意されている。ダウンロードは月に3曲のみ可能。ただし、一部の曲は含まれない。

[編集] 選手入場曲

[編集] チームに対してのもの

  • カントリーロード(原曲はジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads」。フェアプレーフラッグ&選手入場時に歌われる。タオルマフラーを使う)[8]
  • C'mon(原曲はLAUGHIN' NOSEの「C'mon Everybody C'mon」。サポーター側に向かって攻めている時に歌われる。尚、LAUGHIN' NOSEのVo.CHARMYは宮城県気仙沼出身である)
  • COBRA(原曲はCOBRAの「やっちまえ!POPSTAR」)
  • FORZA(振り付けあり)
  • KISS(原曲はKISSの「ラヴィン・ユー・ベイビー」)
  • シャンゼリゼ(原曲は越路吹雪の「オー・シャンゼリゼ」。得点した時と勝利して試合が終了した直後に歌われる。タオルマフラーを使う。ただし、個人応援歌を持つ選手が得点した場合はそれぞれの個人応援歌が優先される)
  • AURA(原曲はAURAの「愛・オーランド」。勝利した時のみ試合後に歌われる)
  • ベガルタオーレ(主に試合前のアップ時に行われる。左右への激しい揺れを伴うため非常に危険。慣れていない人は負傷の恐れあり。また、眼鏡をかけている人は破損・紛失の恐れあり)
  • TWISTED(原曲はTwisted Sisterの「We're Not Gonna Take It」。TBCテレビウォッチン!みやぎ」のスポーツコーナーで、ベガルタの話題を伝える時のBGMとしても使用されている。2008年11月22日に行われたJ2第43節・アウェイの横浜FC戦で同曲をサポーターが歌うYouTUBE動画は世界中で多く見られており、Twisted Sisterの公式サイトにも貼られているほどである)
  • 電光石火(原曲はTHE BLUE HEARTSの「電光石火」)
  • Flash Dance(原曲はアイリーン・キャラの「Flashdance... What a Feeling」。振り付けあり。2パターン存在する)
  • 仙台レッツゴー!(原曲はラモーンズの「BLITZKRIEG BOP」。攻め込んでいる時にコールされる。相手にボールが渡った時点でコールが終了される)
  • スィンギン仙台(原曲は氣志團の「スウィンギン・ニッポン」。熊林親吾のものを転用。2010年現在は「AURA」の前にプレ祝勝歌として歌われる。氣志團が「スタンディング仙台」として逆カバーし、2011年5月19日より無料配信された。2011年7月2日の名古屋戦では氣志團の強い希望により、ハーフタイムに生で氣志團により「スタンディング仙台」が披露された。[9]
  • SA(原曲はSAの「NAUGHTY BOYS」)

この他にも、太鼓のリズムのみのものもある。

[編集] 選手に対してのもの

[編集] 現役選手

[編集] 退団選手

  • 平聡野猿・叫び
  • 越後和男・瀬川誠:蒲田行進曲
  • 阿部良則・藤吉信次・大柴克友・フェルナンジーニョ:恋のメキシカンロック
  • 小林康剛・財前宣之・佐藤由紀彦:ビューティフル・ネーム
  • 山田隆裕:Dreamin'
  • マルコス・萬代宏樹:Saturday Night
  • 岩本輝雄:Shy Boy
  • 中村伸:Livin'On A Prayer
  • 福永泰:ゴーゴーヘドロマン
  • 山下芳輝:PRISONER(野獣を野に放て)
  • 阿部敏之・永井篤志:ゆかいな牧場
  • ボルジェス:1000のバイオリン
  • チアゴ・ネーヴィス:たらこ・たらこ・たらこ
  • 熊林親吾:スウィンギン・ニッポン
  • ロペス:アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士(振り付けあり)
    • 入団当初の応援歌は爆風スランプの涙2〜ラブ・バージョンだった。
  • ジョニウソン:ジョニウソン本人の応援歌(以前所属していたクラブで実際に使われていたもの)
  • 岡山一成:360°モンキーズ(元阪神バース選手の応援歌、おもちゃのバットを使う)
  • マルセロ・ソアレス:えびの「保険人生おくれ」
  • 平瀬智行:SAの「GET UP! WARRIORS」

[編集] 地上波テレビ中継

宮城の地上波5局の中継スタイル

NHK仙台放送局
仙台でのホーム戦を中継しているが、2007年アウェーの対湘南戦と対東京V戦、2008年6月(アウェー)のみちのくダービーを中継した。
東北放送
解説はブランメル時代から2007年シーズンまでは松原悟(東北学院大サッカー部監督)が務めており他には鈴木正治岩本輝雄も担当、2008年と2009年のリーグ最終戦はTBSが主な活動の場としている金田喜稔が務めた。2009年6月にベガルタ初代監督の鈴木武一が登場、実況は佐藤修石黒新平圭三プロニッポン放送RFラジオ日本契約アナ→広島ホームテレビ)・小林徹夫(現KBC)・大井健郎(現・報道記者)。2007年からは守屋周が2008年途中から飯野雅人松尾武が担当、また2007年からはスカパー!においてホームゲーム中継を制作しており2007年は元仙台放送の下田恒幸が実況。2008年は前述の守屋・飯野・松尾が2009年は主に松尾、2010年からは松尾と守屋が交互で担当している。※2008年3月の草津戦は下田が担当した(この日はプロ野球・楽天イーグルスのホーム開幕戦をテレビ・ラジオで中継したための人員不足と思われる)、第1期J1時代に仙台で行われた鹿島戦を全国ネットした経験がある(TBS主導)横浜で行われた横浜FM戦はTBSが製作する映像を見ながら応援実況の形式で放送されたこともある。2008年は4月に放送された鳥栖戦が編成の関係上、深夜の放送となりスカパー!と同じスタッフで放送されたため解説の鈴木武一とリポーター担当でフリーの村林いづみが同局テレビ中継初登場となった、中継スタイルとしてはハーフタイムにCMを多くいれるケースが目立ち放送席の顔出しが全くない。なお2010年以降、地上波での中継は行っていない。
仙台放送
解説は単発契約なのか固定されていない、実況はブランメル時代に1試合だけ浅見博幸が担当。以降2005年まで下田恒幸(現フリー)が務めていたのは有名、試合開始前には必ず「下田恒幸が心を込めてお伝えします」のフレーズがあった。下田退社後は金澤聡が担当している、そのためか金澤がキャスターを務める番組名を冠して「スポルたん!LIVE Special」のタイトルで放送されており試合直後のユアスタ内で「スポルたん!LIVE」の中継をしたこともある。下田退社後の中継では在仙局としては珍しくダブル解説で行うことが多い、ベガルタがJ1に復帰した2010年シーズンはフジテレビワンツーネクストで放送されるヤマザキナビスコカップにて仙台放送中継の全国進出(2003年シーズンに経験あり)が期待されたが予選リーグ唯一のホームゲーム中継だったFC東京戦では技術協力に留まった。が、10月の決勝トーナメント磐田戦は解説:清水秀彦・実況:金澤聡・リポーター:広瀬修一の体制でフジテレビワンツーネクストと仙台放送に中継された。2007年シーズンのSKY PerfecTV!山形ホームゲーム中継を制作していた(2008年からは山形テレビが担当)。
ミヤギテレビ
2000年ごろからセルジオ越後が解説を務めていたが、仙台放送と同じく単発契約で固定されていない。実況はブランメルのジャパンフットボールリーグ(JFL)昇格決定試合(愛知県刈谷市で行われ系列の中京テレビが技術協力した)を竹鼻純が、ブランメル時代から2006年まで三雲茂晴が担当していた。2007年は柳瀬洋平が実況を務めていたが、2008年より夕方のニュースキャスター就任に伴い再び三雲が担当。しかし2009年は外賀幸一が担当した。(2010年シーズンからは中継なし)2001年J1昇格を決めた京都戦(西京極)は同局で放送され岩瀬裕子がリポーターで乗り込みKBS京都の製作で放送された、なおテロップはミヤギテレビ独自のものを使用。2002年はアウェーの東京V戦を日本テレビの製作で生中継、(日テレは深夜録画放送)こちらも岩瀬がリポーターとして登場した。2008年途中から字幕テロップが日テレとほぼ同形となった(当局初お目見えは9月の仙台カップ国際ユース大会)。因みにリポーターは相手地域に放送されるされないに関わらず相手チームにも配するケースが多い。
東日本放送
解説はかつて宮本征勝原博実清水秀彦が務め、2010年より高桑大二朗が担当。実況はブランメル1年目のみ熊谷博之が務めた後、現在まで加川潤が実況を担当している。

[編集] ラジオ中継

  • 主にラジオ3がアウェイ戦全試合の中継を宮城県内のコミュニティ放送局(FMいずみBAY WAVE塩竈市)、FMいわぬまラジオ石巻)にネット配信している(なお、FMたいはくH@!FMは参加していない。)。実況解説はスポーツライターの佐々木聡が担当している。かつてはラジオ3のアナウンサーだったロジャー大葉が実況していた。2010年シーズンよりホーム戦も実況中継をすることになった(ただし放送はラジオ3とFMいずみの2局ネット)。ラジオ3ホームページからのインターネット上でも中継を聞くことができる。
  • その他、東北放送(TBC)は年1回ほど、2007年までホームゲームの中継をしていた(最近はみちのくダービーの中継のみ)2008年以降のリーグ戦は全く中継しなかったが2008年12月10日のホームで行なわれた磐田との入れ替え戦を中継した。2010年は7月にホームで行われたプレシーズンマッチ浦項戦とアウェーで行われた山形戦を実況中継した(山形戦はYBCラジオが製作したものを放送、TBCからは松尾武アナウンサーがリポーターとして派遣された)原則的にプロ野球シーズン中は楽天戦中継(TBCパワフルベースボール)が優先されるため、ベガルタ戦のTBCラジオ製作での中継は不可能と思われる。
  • またNHK仙台放送局も不定期に中継を行っている。

[編集] 不祥事

2008年2月6日夜、キャンプ地延岡市内にて、酒に酔った選手が車を傷つける事件を起こした。

草津との練習試合を終えた夜、同市の飲食店で行われた選手会主催の食事会に参加したMF金子慎二、MF富田晋伍、DF細川淳矢、DF一柳夢吾の4選手が別の飲食店で食事を続けた。この際、気分が悪くなり外の駐車場で嘔吐していた金子を他の3選手がふざけて近くに止めてあった軽自動車の屋根に押し上げた。さらに3人も屋根に上って騒ぎ、車の屋根をへこませた。車は4人が訪れたのとは別の店の主人が所有するもので、4人は直後に謝罪し連絡を受けた監督・手倉森も謝罪。その場で示談が成立したため被害届は提出されず、刑事事件にはならなかった。発覚したのは6日後の12日、2ちゃんねるへの書き込みが発端だった。

13日、謝罪会見が行われ、問題を現場だけで処理しようとした手倉森と10日に現地入りして事情を知らされながら放置した強化部長・丹治には50万円の制裁金、関与した4選手には3ヶ月の減俸20%、社長に管理責任として50万円の制裁金、全選手のキャンプ中の外出禁止という処分を発表した[10][11]

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q クラブガイド:ベガルタ仙台 Jリーグ公式サイト
  2. ^ 2011年2012年等。2011年は元々は1試合だけ予定されていたが、東日本大震災の救援・復旧作業を優先するために一般開放に制限がかかったためユアスタに変更され1試合も行わなかった
  3. ^ ただし、岩本はこのことについて、仙台放送スポルたん!LIVE』にて「カードをもらわないのはいいことだが、逆に言えば厳しいプレスに行っていないからだ」とコメントしている。
  4. ^ ただし、2004年は1チーム44試合で2009年より7試合少なかった。4回戦総当り制であったが、参加クラブ数が少なかったためである(12チーム)。
  5. ^ 仙台が再始動 FW柳沢敦ら避難所でバケツリレー手伝う スポニチ 2011.03.28
  6. ^ 練習の後はボランティア J1仙台・選手ら後片付けに汗 河北新報 2011.03.30
  7. ^ 「負けない」ベガルタ仙台の戦いぶりは、サッカーには戦力を補う“何か”があることを教えてくれる -ダイヤモンド・オンライン: 2011年6月21日
  8. ^ カラオケで歌われるサポーターソングのランキングで1位を記録した。(2010年2月28日放送のTBS S1 SuperSoccerより)
  9. ^ 【J1第2節 名古屋】「スタンディング・センダイ」氣志團LIVE in ユアテックスタジアム仙台開催のお知らせ
  10. ^ キャンプ地宮崎県延岡市における一部選手の不祥事について ベガルタ仙台ニュースリリース 2008年2月13日
  11. ^ サポーターの皆さまへ【お詫び】 ベガルタ仙台ニュースリリース 2008年2月14日

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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