湘南ベルマーレ
| 湘南ベルマーレ | |
|---|---|
| 原語表記 | 湘南ベルマーレ |
| 愛称 | ベルマーレ |
| クラブカラー | ライトグリーン ブルー ホワイト |
| 創設年 | 1968年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン2 |
| ホームタウン | 神奈川県厚木市、伊勢原市 小田原市、茅ヶ崎市、秦野市 平塚市、藤沢市、寒川町 大磯町、二宮町 |
| ホームスタジアム | Shonan BMW スタジアム平塚 |
| 収容人数 | 18,500 |
| 運営法人 | 株式会社湘南ベルマーレ |
| 代表者 | 眞壁潔 |
| 監督 | |
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
湘南ベルマーレ(しょうなんベルマーレ、Shonan Bellmare)は、日本の厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、平塚市、藤沢市、高座郡寒川町、中郡大磯町および二宮町の神奈川県の7市3町にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] 概要
1994年にJリーグへ加盟。ホームタウンは、神奈川県の7市3町(厚木市、伊勢原市、小田原市、茅ヶ崎市、秦野市、平塚市、藤沢市、高座郡寒川町、中郡大磯町および二宮町)である。ホームスタジアムはShonan BMW スタジアム平塚で、練習場は平塚市の馬入ふれあい公園内にある馬入サッカー場、産業能率大学サッカーグランドなどを使用している。チーム名はラテン語のベルス(Bellus、美しい)とマーレ(Mare、海)の2つの単語を合わせた造語。
[編集] 運営会社
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 | 〒254-0026 神奈川県平塚市中堂12-25 |
| 設立 | 1999年12月8日 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブの運営他 |
| 代表者 | 眞壁潔 |
| 資本金 | 5億7,480万円 |
| 売上高 | 12億8,800万円(2011年1月期) |
| 営業利益 | ▲5,400万円(2011年1月期) |
| 純利益 | ▲5,300万円(2011年1月期) |
| 純資産 | 4,700万円(2011年1月期) |
| 総資産 | 3億5,400万円(2011年1月期) |
| 決算期 | 1月期 |
| 外部リンク | http://www.bellmare.co.jp |
湘南ベルマーレは株式会社法人「湘南ベルマーレ」(社会人=プロとユースのサッカーチームを運営する側)とNPO法人「湘南ベルマーレスポーツクラブ」(異競技交流・並びにサッカーのジュニアユース、ジュニアチームを運営する側)に分かれる。
元々、運営法人は株式会社フジタスポーツクラブの商号でフジタが全額出資し、1994年のJリーグ加盟を機にフジタを筆頭スポンサーとして地元企業・団体などに出資を呼びかけ株式会社ベルマーレ平塚、更に1996年からは株式会社湘南ベルマーレ平塚へ名称を変更した。
その後、フジタの経営不振から資金提供が縮小され、資金捻出のためにクラブは中田英寿ら主力クラスを他チームに放出したこともあり、1999年シーズンに最下位となりJリーグ ディビジョン2(J2)へ降格。
その年のシーズン終了後、旧法人だった「湘南ベルマーレ平塚」と新法人である「湘南ベルマーレ」の株式等価交換が行われた。これは一度フジタが全額出資して新法人を設立した上で、その株式を平塚市などホームタウンの自治体や企業・団体・市民などで構成する株主に譲渡し、その代わり旧社の株式をフジタが買い取った上で会社を清算(解散)させるというものだった。旧社は清算後フジタの会社再建の資金に充ててベルマーレの経営から完全に撤退。そして市民参加型の総合スポーツクラブ作りを目指す新生湘南ベルマーレが誕生した。
Jリーグは1999年度からホームタウンをそれまでの原則1市区町村から複数の市区町村にまたぐ「広域ホームタウン制度」が認められ、新法人の設立をきっかけとして平塚市を含む湘南地区10市町村に拡大し、それに伴い登録チーム名称も1993年以来7年ぶりに地域名である「湘南」が復活した。
当初は元ジュビロ磐田の小長谷喜久男が社長、会長に衆議院議員の河野太郎が就任。サッカーの全てのカテゴリーの運営のみでスタートしたが、2002年からJリーグ百年構想に沿った総合的なスポーツクラブ作り定着を目指して、法人を株式会社とNPO法人の2つにし、そのうちの株式会社法人はJリーグを戦うプロ(社会人)サッカーチーム(トップ&サテライト)と、それに付随する高校生世代を対象としたユースチームの運営に専念するようになった。
[編集] 歴史
[編集] 前身
詳細は「藤和不動産サッカー部」を参照
前身は栃木県で発足した藤和不動産サッカー部(フジタSC)で、1975年にフジタ工業サッカー部に改称した。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)1部へ昇格、1977年JSLに初優勝。以後、リーグ優勝3回、天皇杯優勝2回を果たす。
1993年に湘南ベルマーレとしてJリーグ準会員申請を行い、柏、磐田とともに適用第1号となった。また、この年のジャパンフットボールリーグ(JFL)1部で優勝した。
なお、ベルマーレ平塚へチーム名を改称したが、当時はホームタウンを1つの市区町村とすることを原則としていたため、地域名である湘南のチーム名採用が却下され、本拠地の平塚市の名前を採用した経緯がある(参考として地域密着を参照されたい)。また、チームのホームスタジアムである平塚競技場も当時はJリーグホームスタジアムとしての基準(スタンドで1万5000人以上収容、芝生部分はカウントしないなど。当時メインスタンド以外はすべて芝生スタンドであった)を満たしておらず、その改修工事がネックとなって一時はJリーグ昇格が凍結される恐れがあったが、急遽平塚市が競技場のJリーグ規格への改修の予算を取り付けて昇格へとこぎつけた。
[編集] 1994年 - 1999年(J1)
1994年、サントリーシリーズは名良橋晃、岩本輝雄の両サイドバックが常に攻撃参加していたが、守備が破綻、大量失点に苦しみ、12チーム中11位に終わった。ニコスシリーズでは左サイドバックに公文裕明を起用、エジソンと田坂和昭の両ボランチがサイドバックのカバーにまわる守備体系を整備、特に公文の守備面での活躍は目覚しかった。湘南の暴れん坊、ベルマーレ旋風と呼ばれ、V川崎と1勝差の2位に躍進。天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した。田坂が新人王、ベッチーニョおよび名塚善寛がベストイレブンを受賞した。
1995年、中田英寿が入団。シモン加入後のニカノールによる中盤の底に3人のMFを置く戦術スリーボランチを採用。この年はアジアカップウィナーズカップで優勝した。
1998年のフランスW杯に日本代表でGK小島伸幸、MF中田、FW呂比須ワグナー、大韓民国代表としてDF洪明甫の計4人の代表選手を輩出した。W杯終了後、中田がイタリア・ACペルージャへ移籍すると、時期を同じくして成績が低迷。1999年にメインスポンサーでもあったフジタが経営再建のためスポンサーから撤退したこともあり、1994年~1995年のスタメンであった選手全員がチームを離れるなどして(小島、野口幸司、名塚、田坂、渡辺卓、公文、岩元など。岩本、名良橋、ベッチーニョ、アウミールは1998年1stステージ以前にチームを離れている)メンバーが手薄となり、1999年にJ1年間成績最下位でJリーグ ディビジョン2(J2)へ降格した。また、姉妹クラブで日本女子サッカーリーグ(Lリーグ)のフジタサッカークラブ・マーキュリーが廃部となった。
[編集] 2000年 - 2009年(J2)
[編集] 2000年
チーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンも拡大し市民参加型のサッカークラブに体制一新して、新たなスタートを切った。
加藤久を監督に迎えて、名古屋からベテランGK伊藤裕二、清水からDF白井博幸、元東京Vの前園真聖や元清水の松原良香などを獲得したが2000年シーズンは8位に終わった。加藤をシーズン中に監督から解任する発表したフロントに不信感を持った前園、松原らの主力もチームを去った。
[編集] 2001年
元コロンビア代表パラシオスをはじめとしたコロンビア組を中心に補強。1998年以来の復帰となった栗原圭介とエースとして期待された若手FW高田保則がそれぞれ17得点するなど活躍したが、シーズン中盤に栗原が離脱すると同時に失速。前年と同じく8位に終わる。
[編集] 2002年
パラシオスを中心とした守備陣と、途中加入した熊林親吾、吉野智行らを中心にチームが奮起。前年度に在籍していたガビリアがコロンビアで練習中に落雷を受け死亡する悲報もあったが5位へ躍進。
[編集] 2003年
サミアを監督に迎え、フラット3を組み込んだ3-5-2システムを採用。開幕戦こそ機能したが、パラシオスのケガによる離脱、期待されていた元プレミアリーグミドルズブラのリカルドの不調など序盤で躓き、10位に終わった(サミアは途中退任、リカルドも「諸事情により」退団した)。
[編集] 2004年
FC東京よりアマラオを獲得したが、昨年に続き波に乗れず、監督山田松市に対する批判が集中。第4クールから上田栄治を後任監督に迎えて巻き返しを図ったが、前年と同じく10位で終わった。シーズン終了後、2003年より攻撃の中心として据えられていたキム・グンチョル、シーズン途中で柏へレンタル移籍していたパラシオスが退団した。
[編集] 2005年
シーズン序盤は快調だったが、シーズン中盤に苦戦を強いられ、結局リーグ戦7位でシーズンを終えた。シーズン終了後、ユースからの生え抜きのFW高田保則をはじめとした主力クラス(鈴木良和、佐野裕哉、吉野智行、バリシッチなど)を根こそぎ放出する大量解雇を行った(ちなみに、このシーズンに移籍していった主力クラスはその後他クラブの主力として活躍。サッカー誌のベスト11の常連になるなどの活躍を見せている)。なおこのシーズンの最終戦は湘南vs横浜FCの対戦となり、横浜FCにレンタル移籍中であった高田が試合後、横浜FCのユニフォームを脱ぎ、ベルマーレのユニフォーム姿で湘南サポーターに向けて疾走した。
[編集] 2006年
レンタル移籍のFW梅田直哉を浦和から完全移籍させ、山形からMF外池大亮らを補強。また、2000年に浦和で活躍した攻撃的MFのアジエルと、元山形のMFニヴァウド、FWファビオを補強した。しかし、シーズン前より明確であった戦力不足(中町公祐を主軸とした中盤の構成の失敗、現場が計算外だと嘆いたほどの守備陣のもろさ)が響き、シーズン中盤に8連敗を喫し、その間に上田は監督を辞任。さらに終盤にも6連敗するなど11位に終わった。シーズン後、佐藤悠介が本人の希望により東京Vへ移籍。さらに城定信次、小林弘記など昨年に引き続き7人を放出。2年連続での大量解雇となった。
[編集] 2007年
- クラブスローガン :「蹴志 Best mind」
シーズン前に浅野哲也がトップチームコーチに就任。FC東京からジャーン、山形から原竜太、清水から斉藤俊秀、ドイツ3部リーグなどを渡り歩いた鈴木伸貴を獲得。また、鹿島を戦力外となった名良橋晃が11年ぶりに湘南へ復帰した。また、J1にレンタルしていた選手を呼び戻すなど、積極的な補強を敢行した(2006年までの湘南のレンタル放出は、資金面などの理由もあり基本的には完全移籍をオプション事項に盛り込んでいた。そのため、レンタル先から復帰させたのは当時としては珍しい事例だった)。アジエルを攻撃の基点としたチーム作りで昇格争いに肉薄、終盤まで昇格の可能性を残したが6位でシーズンを終えた。なお、このシーズンをもって選手会長の外池大亮が引退。
[編集] 2008年
- クラブスローガン :「志闘 ~HEART&HARD~」
左サイドバックのレギュラーを務めていた尾亦弘友希をC大阪へ放出。一方で福岡よりリンコン、新潟から三田光、FC東京から阿部吉朗そして山形から湘南ユース出身で8年ぶりの古巣復帰となる臼井幸平を獲得。2007年シーズン戦力に即戦力を加入させ、本格的にJ1昇格を狙うチームを作り上げ、実際に最終節まで昇格争いに絡んだものの最終順位は5位となった。
[編集] 2009年
- クラブスローガン :「勇志湘南 Heart&Hard」
湘南OBの反町康治が監督に就任。また、新潟時代に反町が指導した寺川能人、野澤洋輔を獲得した。一方でDF斉藤俊秀、FW石原直樹など『主力級』を放出した。しかし、元京都のFW田原豊と開幕2日前に契約。DFもHonda FCから獲得した村松大輔が開幕スタメンで起用されると結果を残し、開幕5連勝を飾るなどスタートダッシュに成功した。シーズンを通して昇格レースに絡み、12月5日の最終節水戸戦で勝利し3位が確定。11年ぶりにJリーグ ディビジョン1 (J1)復帰が決定した(11シーズンぶりのJ1復帰はJリーグ最長記録)。 このシーズンはシーズン終盤の甲府戦(第49節。勝ち点91同士で並んでいた)を含むロスタイムでの得点が実に10得点を数え、最終戦である水戸戦も2点をビハインドを跳ね返すなど、劇的な場面を数多く作り出した(2009年J2最終節)。
[編集] 2010年(J1)
- クラブスローガン :「PLAY ON Heart & Hard 2010」
2010年、千葉から新居辰基、新潟から松尾直人、札幌から中山元気、水戸より小澤雄希、神戸より湘南ユース出身の馬場賢治を期限付き移籍で獲得した。その一方で、2007年に加入した原竜太と、2006年に加入した伊藤友彦が現役を引退。
開幕前に反町は自らのチームを「J1では最下位のチーム」とし、シーズン目標をJ1残留とした。 しかし、開幕前にポジションを問わずケガ人が続出し、引退しユースチームのコーチを務めていた伊藤が現役復帰を余儀なくされ、練習試合が組めなくなるほどに深刻なものとなった。そのため、開幕戦メンバーは昨年の主力メンバーとは大きく異なった。開幕戦の山形戦は引き分け、第4節の新潟戦で初勝利を収めた。以降は昨年までの堅守が崩壊、大量失点に苦しむ。中でも、昨年の昇格の功労者であるアジエルが両脛のケガから立ち直れず選手登録抹消(退団はせず)、効果的な攻め手を欠き、昨年までの人数をかけた鋭いカウンターを中心とした攻撃は影を潜めた。
後半戦を前に、選手登録されているGK4人中、3人が負傷離脱中という状況を打開するために、浦和から都築龍太を期限付き移籍で獲得(これと同時に金永基を登録抹消、退団はせず)。さらに中国の北京国安に所属していた長身FWのヴァウドと、2008年にFC東京でプレーしていたエメルソンを獲得した。椎間板ヘルニアのため戦列を離れていた野澤洋輔や開幕前に大ケガを負った松尾直人が戦列に復帰したが、7月18日の京都戦以降勝ちが全くないまま、11月14日(第30節)の清水戦に敗れ、4試合を残してJ2降格が決定した。その後も名古屋の優勝を目の前で決められてしまうなど最終節まで連敗を続け、結局リーグ戦21試合連続未勝利となった。これはJ1のワースト記録である(J全体では北九州の35試合連続未勝利がワースト)。また、シーズン3勝もJ1ワースト記録である。
[編集] 2011年- (J2)
[編集] 2011年
- クラブスローガン :「蹴燃 HEART&HARD」
反町監督が続投。清水から西部洋平、FC東京から阿部伸行、C大阪から石神直哉を完全移籍で獲得。また、磐田から大井健太郎、名古屋から巻佑樹と平木良樹、鹿島から佐々木竜太も期限付き移籍で獲得し、多くのJ1リーグ経験者を補強した。その一方で、エメルソン、寺川能人、中山元気らが退団した。開幕戦こそ岡山に5-0と圧勝発進するも、昨年同様にケガ人による離脱者が多数出てしまい、シーズンを通しほぼ中位に停滞。またシーズン途中にフィジカルコーチが交代すると言う異例の事態に陥った。
天皇杯は4回戦で川崎を撃破した。なお、シーズン終了後反町が契約満了により監督を退任した。
[編集] 2012年
- クラブスローガン :「蹴激」
新監督に曺貴裁が就任。
6年間在籍していたアジエル、ルーカス、小澤雄希が退団、西部洋平が川崎に、田原豊が横浜FCに、臼井幸平が栃木SCに、松尾直人が関西サッカーリーグ・FC大阪に(当初は札幌に移籍したが、1月25日、本人の事情により契約解除、2月5日、FC大阪へ移籍)、野澤洋輔が松本に、昨シーズン甲府にレンタル移籍していた阿部吉朗が磐田に、JFL・金沢にレンタル移籍していた菅野哲也が関東サッカーリーグ1部・S.C.相模原に完全移籍、石神直哉が大分に、松浦勇武がJFL・FC琉球にレンタル移籍、大井健太郎(磐田に復帰⇒新潟へ完全移籍)、巻佑樹(名古屋へ復帰)、佐々木竜太(鹿島へ復帰)がレンタル移籍期間満了につき退団したが、神戸から馬場賢治、山形から下村東美、古橋達弥、パウリスタFCからマセナを完全移籍で、大宮から宮崎泰右、新潟から昨シーズン愛媛にレンタル移籍していた大野和成をレンタル移籍で獲得、 松本拓也、古林将太、島村毅がレンタル移籍先から復帰、植村慶、三平和司のレンタル移籍期間が延長、大槻周平、三原向平が新加入した。
2月、一部のスポーツ新聞により1億円を超える債務超過に転落し、最悪の場合はクラブ自体の解散の可能性もあると報じられた。
[編集] ベルマーレクイーン
2010年シーズン開幕前に、ラ・パルレの協賛で4名のベルマーレクイーン、1名のベルマーレマーメイドが選出された。5名はホームゲーム・ホームタウン内のイベントに登場しチームのマスコットとして精力的に活動。個人的にアウェーに出向くメンバーも存在する。ラ・パルレが倒産したが、引き続き2011年もメンバーを入れ替えて活動を続けており、週刊サッカーマガジン2011年6月発売の足立梨花(女優・Jリーグ広報女子マネジャー)によるインタビュー企画にも登場した。
[編集] ベルマーレクイーン
[編集] ベルマーレマーメイド
[編集] ベルマーレクイーン2011
[編集] 欧州式のスポーツクラブの誕生
2002年には総合スポーツクラブとして特定非営利活動法人(NPO法人)湘南ベルマーレスポーツクラブが設立され、ジュニア、及びジュニアユース部門を移管(ユースチームは第1種チーム(トップ&サテライト)とともに株式会社側が引き続き管理運営)した。また、ビーチバレーボールとトライアスロンのチームも併設している。2005年からはソフトボールチームも編成されることが決まった。(詳細後述)さらに、地元の大学である産業能率大学に共同講座を設けたり、リーガ・エスパニョーラのオサスナと提携するなど、従来のJクラブの枠にとらわれない活動に意欲的に取り組んでいる。
[編集] クラブハウス問題
かつての親会社であったフジタから大神グラウンドを借り受けて練習場、並びにクラブハウスを運営していたが、2004年に松蔭大学が買い取り、同大学湘南キャンパスのグラウンドとして利用されている。ただし2006年までの2年間は暫定処理として湘南の練習にも使用されていた。
しかしその期限も2006年9月で終了となり、大神グラウンドのクラブハウスも利用できなくなった。10月から馬入(ばにゅう)ふれあい公園内の馬入サッカー場を練習場とし、事務所やクラブハウスも隣接地に仮設のクラブハウスを建設し移転した。
[編集] 日系ベルマーレ
2006年、日系ベルマーレ(CLUB NIKKEI BELLMARE)と言うチームを設立。強化プログラムの一環として、外国籍枠のないパラグアイリーグで若手選手の派遣・育成・強化を図る計画であり、同リーグの地域2部(実質4部に相当)に所属。チーム顧問として、南米サッカー連盟会長のニコラス・レオスも名を連ねる。
設立時にはあくまでも『湘南ベルマーレの強化』を目的とする事を強調されていたが、国内のサポーターからはJ2の中位から下位にいる現在の状況打破を優先するべきとの声や、本来「湘南ベルマーレ」として掲げていた「身の丈にあったクラブ経営」の枠を超えているのではと、否定的な意見が多かった。
また、国内ではアルビレックス新潟・シンガポールと同じような組織と思われがちだが、実際にはかなり異なった組織となっている(ブルーとライトグリーンのチームカラーは同じだが、ユニフォーム、チームエンブレムも異なる)。2007年開幕時点での所属選手は全員パラグアイ国籍選手と、どちらかと言えば、プロ野球広島東洋カープのカープアカデミーの組織に近い。クラブの運営主体は現地法人のサクラグループ社と日本のSEA Global社が出資して設立した「社団法人 日系ベルマーレ」である為、湘南ベルマーレは出資はしていない。両クラブの関係は提携・協力という形となる。
将来的にはこのクラブで育てた選手を湘南ベルマーレに補強することを想定しているが、2007年時点ではJのレベルには及ぶ選手は出て来ていないと現地スタッフが語っている。
[編集] 中田英寿との関係
日本を代表するサッカー選手として知られた中田英寿(1995〜1998年途中まで在籍)は、このクラブでプロ生活をスタートさせた。
獲得時、彼の希望であった海外留学を許可し、1998年ワールドカップ終了時に快く彼を送り出したクラブの姿勢に彼は心から感激し、プロをスタートしたクラブとは言えわずか約3年半所属したのみの元所属チームへ支援を惜しまない。
- 1999年、大神グランドが台風の影響で水没。その後グランドは整備されたものの、J2降格危機の迫っていたチームにとって、暗い話題がまた1つ増えた事による不安がサポーターも含む関係者に蔓延する中、U-22日本代表の一員としてU-22韓国代表との親善試合前に帰国した彼は、ベルマーレに「大神で練習させて欲しい」と名乗り出た。偶然その場に居合わせたサポーターはもちろん、その日に契約内容が更新された西本竜洋が、新しく用意された自分のロッカーの隣で着替えをしている人物が中田と気づき、大混乱してその場に立ちつくしたと言う逸話もある。
- 2000年-2001年の2年間は年間5,000万円をポケットマネーから投資し、自らのHP nakata.netをユニフォームスポンサーとして提出。現役選手のクラブチームスポンサードは世界でも初であり、この2シーズンのレプリカユニフォームは海外でも人気を呼んだ。2001年以降も、サポーターへのホームゲームチケット提供や、スタジアム広告に出資するなどしている。
- 2006年には中田がデザインした特別なユニフォームを、ジュニアユースチームが着用(全国大会など特別な試合でのみ)することになっている。詳細は後述の#特殊ユニフォーム参照。
- 2008年5月、6月に自身の主催するTAKE ACTION! 2008 『+1 FOOTBALL MATCH』に向けての身体作りの為、湘南の練習に参加。当初の予定は1週間だったが、予定の日数を超えて練習に参加。練習後にはファンサービスも行うなど、スポーツ新聞誌等にも「ベルマーレは特別」との意思を示すコメントを残している。なお、ミニゲームの最中、負傷明けであった田村雄三に思わず本気でチェイシングを行い再び負傷させてしまうなどアクシデントもあったが、現役時代と変わらぬ精度の高いパスでサポーター、スタッフ、なおかつ現役の選手達まで魅了、練習後の選手達も思わず中田との写真を頼み込む程であった。
- 2010年2月、『湘南ベルマーレJ1昇格記念試合』として、湘南OBチームの「We're back F.C.」と「TAKE ACTION F.C.」とが対戦。中田にとっては海外移籍以来となる平塚競技場での試合となり、前半は「TAKE ACTION F.C.」、後半は「We're back F.C.」のメンバーとして出場した。
[編集] チーム成績・歴代監督
詳細は「湘南ベルマーレの年度別成績一覧」を参照
[編集] 通算得点ランキング
| 順位 | 選手名 | 得点数 |
|---|---|---|
| 1 | ベッチーニョ | 56 |
| 2 | 野口幸司 | 53 |
| 3 | 坂本紘司 | 51 |
| 4 | アジエル | 44 |
| 5 | 高田保則 | 43 |
| 6 | 石原直樹 | 41 |
| 7 | 呂比須ワグナー | 36 |
| 8 | 加藤望 | 30 |
| 9 | 栗原圭介 | 29 |
| 10 | 柿本倫明 | 28 |
| 11 | 阿部吉朗 | 25 |
| 12 | アウミール | 17 |
| 12 | 原竜太 | 17 |
| 12 | 中村祐也 | 17 |
| 15 | 中田英寿 | 16 |
| 16 | 岩本輝雄 | 15 |
※2010年シーズン終了時 太字は2011シーズンに在籍する選手
(Jリーグ/J1/J2のみ。アジアカップウィナーズカップ、天皇杯、ナビスコカップ,ゼロックススーパーカップ等は含まない)
[編集] タイトル
[編集] 国内大会
[編集] 国際大会
[編集] 個人別
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- ライトグリーン、 ブルー、 ホワイト
[編集] ユニフォームデザイン
- 1997年にJリーグクラブで初めて、背番号の下に背ネームを採用。2000年、2001年は背スポンサーがnakata.netで「選手名と個人名で紛らわしくなるのでは」と言う理由(クラブが中田に敬意を表したと言う説もある)[要出典]で見送られた。2002年に復活したが2005年には再び取り止めた。
- 2000年まではメインカラーがライトグリーンだったが、2001年からブルーへ変更(Jリーグ昇格前はブルーがメインカラーであり、実質的には復活)。2010年にJ1昇格と同時にライトグリーンに再変更。
- ライトグリーンは親会社であったフジタのイメージカラーであり、94年昇格時にJリーグ側の要望により青のユニフォームからの変更依頼を受諾したためにライトグリーンを全面に押し出した。詳しくは後述のユニフォームカラーの問題参照。
[編集] ユニフォームスポンサー
| 掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | なし | |||
| 背中 | 産業能率大学 | 産業能率大学 | 2010年- | 2004年途中-2009年までは胸 |
| 袖 | ウイルプラスホールディングス | チェッカーモータース | 2012年- | |
| パンツ | なし |
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 - 1993年 (Jリーグ準会員) アシックス 93年天皇杯のみベーシック (フェニックス)
- 1994年 - 1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はベーシック (フェニックス)
- 1997年 - 1998年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はカッパ・スポーツ (フェニックス)
- 1999年 - 2002年 カッパ・スポーツ (フェニックス)
- 2003年 - 2004年 プーマ
- 2005年 PIKO (製作:エレア・ジャポネスポーツ)
- 2006年 PIKO (製作:エーライン・ジャポネスポーツ)
- 2007年 - 2011年 A-LINE (エーライン・ジャポネスポーツ/カレッジリーグ)
- 2012年 - PENALTY
[編集] 歴代スポンサー年表
| 年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
| 1994 | DDI | Tohato | HOYA | – | Mizuno/Basic |
| 1995 | |||||
| 1996 | FUjiTA | ||||
| 1997 | Mizuno/Kappa | ||||
| 1998 | |||||
| 1999 | -/DDI POCKET | -/cdmaOne | Kappa | ||
| 2000 | DDI/KDDI | -/Bloomberg | nakata.net | ||
| 2001 | Bloomberg | Rhythmedia | |||
| 2002 | Rhythmedia Tribe | avex group | - | ||
| 2003 | -/Regain | PUMA | |||
| 2004 | Rhythmedia Tribe/ 産業能率大学 |
avex group /APT HOME |
Regain/ SANKYO |
SANKYO | |
| 2005 | 産業能率大学 | APT HOME | SANKYO | PIKO | |
| 2006 | -/グッドウィル | Daiichi Sankyo |
|||
| 2007 | SANNO | グッドウィル | A-LINE | ||
| 2008 | APT HOME/- | - | |||
| 2009 | - | -/クリック証券 | |||
| 2010 | La PARLER/I Net Rely | ジーコムNOVA | 産業能率 大学 |
シノケン | |
| 2011 | - | - | - | ||
| 2012 | チェッカーモータース | PENALTY | |||
[編集] 特殊ユニフォーム
- アジアカップ戦用ユニフォーム
- アジアでのカップ戦では、胸がHOYAの物、リーグ戦と同様にDDIの物などいくつか種類がある。基本はベーシック製のカップ戦ユニフォームと同じデザイン(ただし袖にスポンサーはなく、背も個人名が入っている)。また1995年の中国遠征時のみ、胸スポンサーがFujitaになっている物も存在する。アジアスーパーカップでは、胸にDDI、袖に日の丸がついたユニフォームを着用した。
- レジェンド・オブ・ベルマーレ
- 2003年、ベルマーレの誕生10周年を境に、100試合以上(9,000分以上)出場し、クラブの発展に貢献した選手を「レジェンド・オブ・ベルマーレ」と称し表彰。受賞者には在籍当時に付けていた背番号と名前をゴールドでプリントした、表彰したシーズンのホームモデルユニフォームが贈られる。
- しかし、正式な受賞者は2003年のベッチーニョのみ。同じく2003年に呂比須ワグナーが規定出場時間には届かないが、フランスワールドカップ出場に貢献したなどの特例を受けて受賞した。チーム誕生10周年である2003年の内に、他に田坂和昭、名塚善寛、岩元洋成、岩本輝雄、野口幸司などが表彰の候補にあげられていたが、スケジュールの関係で、いつの間にか賞自体がフェイドアウトしていってしまった。
- 2006年シーズンに高田保則をレジェンドオブベルマーレとして表彰すべきだと、一部サポーターが声をあげた[要出典]が実現にはいたらなかった。
- ジュニアユース全国大会用ユニフォーム
- 2006年よりジュニアユースチームが公式戦の決勝トーナメントなど、特別な試合でのみ着用するユニフォームが存在する。ベルマーレOBの中田英寿が2004年にベルマーレから依頼された物で、デザインを中田が監修、ウェア自体も彼がチームにプレゼントしている。
- これは、ジュニアユースの子供達に物を大切にして欲しい、そうした気持ちも育てていかなければならないと感じたジュニアユースコーチ達が、大学ラグビーの正選手のみに渡されるユニフォームにヒントを得て、"憧れの選手のデザインした物ならば、愛着が生まれ、大切に使うのでは"と思い立ち、中田にオファーした物。
- 七夕記念ユニフォーム
- 2007年7月7日の七夕にホームゲーム(対福岡戦)を開催する際、その当日のみ着用する「七夕記念ユニフォーム」を発表。
- 同時期に開催される湘南ひらつか七夕まつりの更なる盛り上げとホームタウンの結びつきをより強固なものとする意図がある。
- 1試合のみ着用されるユニフォームと言うのはジュビロ磐田の10周年記念ユニフォームに続き2例目で、登録上は両方ともサードシャツ扱いとなっている。
- 2007年に着用の物はベルマーレのチームカラーと笹の色であるライトグリーンと、夜空の黒を配色。デザインは2007年ホームモデルと同様だが、ホームモデルとはライトグリーン配色が反転している。
- 2008年も、七夕まつり開催中の7月5日の水戸戦に、この七夕ユニフォームが披露されることになった。前年と同様に、夜空の黒を配色、ホームモデルとライトグリーンが反転。今回は笹のライトグリーンを前面に押し出すモデルとなった(パンツ、ソックスともにライトグリーンがメインとなっており、ベルマーレ史上初めて全身がライトグリーン配色となった)。
- 3年目となった2009年は七夕まつり開催期間から外れていたが、エーライン側が七夕マンスリーと言う企画をでっち上げ、7月のホームゲーム2試合(8日・26節甲府戦、19日・28節福岡戦)で着用した(七夕ユニフォームを着用しなかった試合でも、7月中のスタジアムは七夕マンスリー専用の演出がなされた)。フィールドプレーヤー用は夜空をイメージした黒をメインにステッチに星を表す金色を配色したモデル。ゴールキーパー用は七夕の笹を表したライトグリーンをメインにステッチに星を表す金色を配色したモデル。第26節の甲府戦において、七夕記念ユニフォーム着用試合での初勝利を飾った。
- しかし続く7月19日の28節福岡戦で残り5分で2-0からの逆転負けを喫すると、チームは4連敗。一般販売用は追加販売や、その後に受注生産もかかるなど過去最高の売上を記録したが、後味の悪い結果に終わっている。
- 2010年はチームがJ1に復帰したこともあり、1994年、Jリーグ昇格当時のユニフォームデザインを復刻させたものを使用。2009年に引き続きフィールドプレーヤー用のメインカラーは黒。ライトグリーンが首と袖周りに配色されている。ゴールキーパー用は変わらずライトグリーンを使用。フィールドプレーヤー用のそれと配色が対となっているのが特徴。
- 2007年 7月 7日 J2 第26節 アビスパ福岡戦 (0-2●)
- 2008年 7月 5日 J2 第24節 水戸ホーリーホック戦 (0-1●)
- 2009年 7月 9日 J2 第26節 ヴァンフォーレ甲府戦 (2-1○)
- 2009年 7月19日 J2 第28節 アビスパ福岡戦 (2-3●)
- 2010年 8月 1日 J1 第16節 清水エスパルス戦 (3-6●)
- 2010年 8月18日 J1 第19節 京都サンガF.C.戦 (2-2△)
- 2010年 8月21日 J1 第20節 浦和レッズ戦 (1-4●)
- SHONAN10thユニフォーム
- 「ベルマーレ平塚」から市民クラブの「湘南ベルマーレ」に生まれ変わって10周年を迎えた2009年に作成されたユニフォーム。
- 10年間の感謝と、これから先も共に歩んでいただきたいという願いを込めて天皇杯で着用された。
- デザインは人気のある97-98年のリーグ戦モデルと2009年リーグ戦モデルを融合させた物。
- しかし2年連続初戦敗退し、わずか1試合でお役御免となった。
[編集] チーム名変遷
- 1968年 藤和不動産サッカー部
- 1975年 フジタ工業クラブサッカー部
- 1990年 フジタサッカークラブ
- 1993年 湘南ベルマーレ
- 1994年 ベルマーレ平塚
- 2000年 湘南ベルマーレ
[編集] 異競技交流
2002年からJリーグ百年構想に則り、地域密着型の総合スポーツクラブ文化の確立を目指して特定非営利活動法人(NPO法人)の「湘南ベルマーレスポーツクラブ」を設立し、サッカー(ジュニアユース、ジュニア)を株式会社側からNPO法人側に移譲して活動している他、ビーチバレー、トライアスロンのチームを編成。日本を代表するその競技のスペシャリストが選手として登録している。2005年からはソフトボールチームも編成することになった。
神奈川県下の強豪チームP.S.T.C LONDRINAのトップチームを傘下とし、2007年9月にスタートした日本フットサルリーグに参戦した(詳細は「湘南ベルマーレスポーツクラブ」を参照)。
2010年からは自転車ロードレースのチーム「コムレイド」と提携を結び、「湘南ベルマーレロードレーシングチーム」として活動する。
また、2010年まで横浜ベイスターズのファーム(2軍)チームであった「湘南シーレックス」と連携していた。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 湘南ベルマーレ公式サイト
- 湘南ベルマーレ (bellmare_staff) - Twitter
- キングベルⅠ世 (kingbell_shonan) - Twitter
- 湘南ベルマーレ 【公式】 - Facebook
- 湘南ベルマーレスポーツクラブ - NPO法人
- 神奈川新聞(カナロコ)
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