山田直輝

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山田 直輝 Football pictogram.svg
名前
愛称 ナオキ
カタカナ ヤマダ ナオキ
ラテン文字 YAMADA Naoki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1990年7月4日(21歳)
出身地 埼玉県さいたま市
広島県広島市生まれ)
身長 166cm
体重 65kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ
ポジション MF
背番号 34
利き足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
2008- 日本の旗 浦和 36 (2)
代表歴 2
2005-2007
2009
2009-
日本の旗 日本U-17
日本の旗 日本U-20
日本の旗 日本
8 (1)

2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2012年2月18日現在。
2. 2010年1月7日現在。
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山田 直輝(やまだ なおき、1990年(平成2年)7月4日 - )は、広島県広島市生まれ[1]埼玉県さいたま市育ちのサッカー選手[1]ポジションミッドフィールダーJリーグ浦和レッドダイヤモンズ所属。

目次

[編集] 来歴

小学生の頃は北浦和サッカー少年団に在籍。小学校6年時に選抜チームであるFC浦和全日本少年サッカー大会で優勝した。中高生年代では、ジュニアユース、ユースと浦和レッドダイヤモンズの下部組織に所属。ジュニアユース時の2005年には、高円宮杯U-15で優勝。

2006年から浦和レッドダイヤモンズサテライトボランチとしてたびたび出場(2007年のサテライトでは6試合出場、1得点。2008年のサテライトでは5試合出場)。また、2007年8月に行なわれたU-17ワールドカップでは、U-17日本代表に選出。10番を背負い[注 1]、3試合に出場した。

2008年4月に、2種登録選手としてトップチーム登録[3]4月26日、対京都サンガF.C.戦で後半35分から途中出場。17歳9ヶ月22日でJリーグデビューを果たした。2008年中の公式戦出場は、6月8日ナビスコカップ名古屋グランパス戦とあわせ、2試合。ユースでも、10月13日高円宮杯決勝の対名古屋グランパスU-18戦にてハットトリックを達成し、悲願の優勝に大きく貢献(試合は9-1で浦和が勝利)。自身も同大会で8ゴールを決め、得点王となった。

2009年高橋峻希濱田水輝永田拓也とともにトップ昇格[4]。第2節の3月14日、対FC東京戦にて後半33分から途中出場し、ポンテのゴールをアシスト。これがプロ入り初アシストである[注 2]4月29日、対清水エスパルス戦にて後半29分、プロ初ゴールをあげた。また、4月にはチームメイトである原口元気とともに、U-20代表候補に選ばれたが、右太腿裏を痛めたため代表合宿への参加を辞退した(原口は参加)[5]

2009年5月21日、トップ昇格1年目にして日本代表に初選出され、5月27日キリンカップチリ戦の前半39分から途中出場。後半47分には、この試合4点目となる、本田圭佑のA代表初ゴールをアシスト。その後、右臀部を痛めて代表から離脱、FIFAワールドカップ最終予選には帯同しなかった。その後、中学時代からの腰椎分離症の影響で戦線離脱。日韓オールスター戦のJOMO CUPでJリーグ選抜に選出されるも、これを辞退した。その後は度重なる故障に悩まされ、復帰しては再発して欠場するという流れを繰り返す事となった。そしてチームにとっても中盤の要として活躍していた山田の欠場は大きく影響していく事となり、欠場する試合が多くなっていくのに比例してチームも調子を落として行くという悪循環に陥っていく事となった。12月19日に行われたU-20代表の国際親善試合、対韓国戦では、途中出場ながら2ゴールをあげてチームを逆転へと導き、同年代ではAFC U-19選手権2008の準々決勝に韓国に3-0で敗れて以来の雪辱を果たした。

2010年、若手選手を中心に構成された日本代表に選出され、1月6日に行われたアジアカップ最終予選イエメン代表にスタメン出場したが、前半17分に相手からの悪質なタックルで負傷退場した。帰国後に精密検査を受診し、右腓骨骨折で全治3ヶ月と診断された[6]。以降は長いリハビリ生活を送っていたが、6月上旬より全体練習に合流した後、6月9日に行われたヤマザキナビスコカップ予選リーグ第7節、対横浜F・マリノス戦の後半33分から途中出場し、約5ヶ月ぶりとなる公式戦出場を果たし、ワールドカップ中断後からはリーグ戦に3試合出場したものの、8月6日のトレーニング中に右すねを強打、当初は強度の打撲と診断されていたが、再検査の結果、再び右腓骨を骨折していることが判明、全治3ヶ月と診断され今シーズン中の復帰は厳しいと思われたが、再度の長いリハビリを経て12月初旬にトレーニングに完全復帰。12月25日に行われた天皇杯準々決勝、対ガンバ大阪戦で約5ヶ月振りに公式戦ベンチ入りを果たしたが、出場は無く浦和も敗れ、シーズンを終えることとなった。

2011年阿部勇樹の移籍によって欠番となった22番に背番号を変更、シーズン当初は前年の故障の影響もありシーズン開幕からベンチ入りすらままらならない状態が続き、6月5日ナビスコカップ1回戦第1節、対モンテディオ山形戦でようやくシーズン初の公式戦出場を記録、以降もゼリコ・ペトロビッチ監督に不慣れな右サイドでのプレーを命じられたり、戦術上の問題で得意とするピッチを縦横無尽に動く働きを封じられ、本領を発揮することが出来ずにいた。しかし、監督が堀孝史に交代後は柏木陽介と共にダブルトップ下のレギュラーに固定され、チームのJ1残留に大きく貢献した。

2012年、再び背番号を34番に変更。

[編集] 人物・エピソード

  • 父は、元アジアユース(U-20)代表、JSL1部マツダSC(現サンフレッチェ広島)でSBやMFとして活躍した山田隆。引退後マツダ本社で勤務していたときに自身が誕生している。
  • 練習中に闘莉王、名古屋グランパス戦でダヴィを吹き飛ばすなど、小柄だがフィジカルは強靭。
  • 本人曰く、目標は「頭の良い選手」。また、クロード・マケレレを尊敬しているという。
  • チームメイトである原口元気のプレーを初めて見たのは小学生の時、父親に「原口の試合を見に行くぞ」と言われて連れて行かれた試合だった。
  • FC浦和で全日本少年サッカー大会、レッズジュニアユースで高円宮杯U-15、レッズユースで高円宮杯U-18と、小学校、中学校、高校で全国制覇を成し遂げた。
  • 2009年6月、イギリスのスカイスポーツの世界の有望な若手選手を探す番組の中で山田を紹介。80点満点の採点では3位タイの64点をつけ、ポール・スコールズに似ている、と評した[7]
  • アジアカップ最終予選に招集された際、試合会場のある大阪へ移動するために乗った新幹線の車内で水道橋博士親子とたまたま遭遇、このことがきっかけで水道橋は浦和レッズに興味を持った[8]
  • 童顔で優しい顔つきをしており、お笑いコンビ・オードリー若林正恭に似ているとよく言われている。
  • 顔つきから大人しい性格だと思われがちだが、2010年1月24日に放送されたやべっちFCでのフットサル対決ではゴール後に槙野智章柏木陽介と共にダンスを披露したり、PK戦時にマイケル・ジャクソンのムーンウォークを披露したりするなど、ひょうきんな一面も見せることもある。
  • インターネット上では「直」の誤記が多い(漢字変換で第一候補として現れるため)。

[編集] 所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴
  • 2008年(平成20年)4月- 浦和レッドダイヤモンズ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2008 浦和 34 J1 1 0 1 0 0 0 2 0
2009 20 1 5 2 1 0 26 3
2010 3 0 1 0 0 0 4 0
2011 22 12 1 6 0 4 0 22 1
2012 34
通算 日本 J1 36 2 13 2 5 0 54 4
総通算 36 2 13 2 5 0 54 4
  • 2008年は、ユース所属

[編集] 経歴

クラブ
代表

[編集] 代表歴

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(2009 - )


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2009 1 0
2010 1 0
通算 2 0

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

注釈
  1. ^ 城福浩監督は「(特別な番号として扱われがちな)10番を与えることで、勘違いしてしまう選手や親もいる」ため、山田に10番を与えたとコメントしている[2]上述の通り、山田の父は元サッカー選手。
  2. ^ ただし、Jリーグ公式記録での「アシスト」は集計されていない。
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