セレッソ大阪

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セレッソ大阪
原語表記 セレッソ大阪
愛称 セレッソ
クラブカラー      ピンク
     ネイビー
創設年 1957年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン J2
ホームタウン 大阪府大阪市
ホームスタジアム
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長居スタジアム
長居第2陸上競技場
収容人数 50,000(長居スタジアム)
15,000(長居第2)
運営法人 大阪フットボールクラブ株式会社
代表者 藤田信良
監督 レヴィー・クルピ
公式サイト 公式サイト
   サッカークラブPJ

セレッソ大阪(セレッソおおさか、Cerezo Osaka)は、日本大阪府大阪市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ

目次

[編集] クラブの概要

長居スタジアム内部
長居スタジアム(奥)と長居第2陸上競技場

ホームタウン大阪府大阪市。ホームスタジアムは大阪市長居陸上競技場(長居スタジアム)と隣接する長居第2陸上競技場。練習は南津守さくら公園スポーツ広場と舞洲スポーツアイランドのセレッソ大阪グラウンド、尼崎市ヤンマーグラウンドが使用される。普段は南津守さくら公園スポーツ広場が練習やサテライトリーグで使用される。チーム名の「セレッソ(Cerezo)」はスペイン語の意味。桜は大阪市の花でもある。マスコットの「ノブレ・バリエンテ・アッチェ・ロビート・デ・セレッソ」、愛称ロビー。長い本名は、"高貴で勇敢な、由緒あるセレッソ家のオオカミの息子"という意味。2008年より、ロビーの母親として、「大阪のオカン」をモチーフにした「マダム・ロビーナ」が新たに加わっている。

[編集] クラブの歴史

[編集] 前身

前身はヤンマーディーゼルサッカー部1957年に創部し、JSLの創設とともに関西代表として参加した名門。JSL時代には、釜本邦茂ネルソン吉村らを擁しリーグ4回、JSLカップ2回、天皇杯3回を獲得し関西の雄として輝いた。

[編集] セレッソ大阪立ち上げからJリーグ参戦まで

  • 1993年 - ヤンマーディーゼルサッカー部を母体としてセレッソ大阪を立ち上げる。
  • 1994年 - 早期のJリーグ昇格を見据え、選手の大幅補強とブラジルからパウロ・エミリオを初代監督として迎える。JFLで優勝を果たし、天皇杯ではJFL所属ながらも当時のJリーグ王者であったヴェルディ川崎を破る大金星を挙げたほか、浦和レッズ横浜マリノスらJリーグ勢を次々と破り決勝戦まで進出。決勝ではベルマーレ平塚に 0-2 で敗れたが、Jリーグ開幕後、Jリーグのトップリーグに所属していないチームの天皇杯決勝進出は現時点でセレッソのみである。1995年からJリーグ昇格。
    • 当時のメインスタジアムは長居陸上競技場に隣接した長居第2競技場だった。これは長居競技場が1997年国民体育大会(なみはや国体)開催に伴う長期に渡る全面改修工事を行なったための措置であった。しかし第2競技場ではJリーグの開催基準に施設が適合しないため、1994年夏季から改修工事を施し、この年の後半戦にバックスタンドを座席に変更。1995年の開幕時にナイター照明塔と電光掲示板を設置し改修を完了させている
    • 3月8日 - 神戸市立中央球技場(現・御崎公園球技場)にウルグアイの名門ペニャロールを迎えてセレッソ大阪としての旗揚げ戦を行う。結果は 0-0 の引き分け。
    • 10月20日 - 最終節前、台風の影響で延期になっていた藤枝ブルックス(現・アビスパ福岡)との試合を尼崎市記念公園陸上競技場にて戦う。セレッソはこの試合前時点で単独首位。勝てばJリーグ昇格圏の2位以内はほぼ確定だったが、同時に負ければ自力昇格を失う試合でもあった。試合は90分をスコアレスドローで終える緊張感高まる展開になったが延長後半12分、見崎充洋による決勝ゴールで事実上のJリーグ昇格が決まった。
    • 10月23日 - JFLの最終節、コスモ石油四日市戦を勝利し柏レイソルを抑えてJFL優勝。Jリーグ昇格に花を添える。

[編集] Jリーグ参戦

  • 1995年 - Jリーグ加盟。
  • 1996年 - 成績不振によりエミリオ監督が辞任。後任はコーチだった楚輪博が監督に昇格。
    • 7月3日 - ナビスコカップのアビスパ福岡戦で8得点。チーム最多得点記録
    • 7月27日 - 長居スタジアムが改修終了。それにともないセレッソ大阪のホームスタジアムも長居第2競技場から長居スタジアムへと変更。こけら落しとしてブラジルの名門ボタフォゴを招き国際親善試合を行う。結果は 1-3 でセレッソの敗戦。
    • 5月11日から10月2日 - リーグ戦で5ヶ月間10試合に及ぶ連敗を記録。チーム連敗最長記録
  • 1997年 - 監督に当時ブラジルの若手有望監督だったレヴィル・クルピを迎える。カプコンが出資から撤退。
  • 1998年 - 松木安太郎が監督に就任。リーグ戦では、34試合中13試合で3失点以上を喫した。韓国代表選手の黄善洪が入団。
    • 4月15日 - 長居でのジュビロ磐田戦で 1-9 の敗戦。Jリーグ最多失点・得点記録
    • 8月8日 - 長居での柏レイソル戦で 5-7 の敗戦。試合あたりのJリーグ最多得点記録
  • 1999年 - レネ・デザイェレが監督に就任。
    • 5月8日 - 長居スタジアム・長居第2陸上競技場ともに「国際グランプリ陸上・大阪大会」に使用するために使用できず、対名古屋グランパスエイト戦は、近鉄花園ラグビー場で開催された。これは当時、関西にJリーグの公式戦基準のサッカー専用グラウンドがなかった(神戸中央球技場が改修工事中だった)ことから、関西のファンに陸上トラックの無い球技専用グラウンドでサッカーを楽しんでもらいたいという趣旨があったとされる。
    • 黄善洪がJリーグの得点王ベストイレブンを獲得。
    • 12月 - 天皇杯を前にレネ監督が辞任。辞任の理由はレネ監督のプライベートなトラブルといわれている。後任は戦術面を担当していた副島コーチが監督代行としてチームを指揮。

[編集] 逃した栄光と初のJ2降格

  • 2001年 - 1stステージの成績不振から、強化部・監督が相次いで辞任し、その影響からシーズン途中に契約し1ヶ月も経過しない外国籍選手を次々と登録抹消し、新たな外国人選手と契約するなど大混乱をきたす。J1で終始最下位を脱出できず、年間最下位となりJ2降格が決定。天皇杯では2度目の決勝進出を果たすが、清水エスパルスに延長の末2-3で敗れ、またもや目前で優勝を逃した。
    • 7月27日 - 強化担当だった大西忠生副社長が成績不振を理由に辞任退職。
    • 8月20日 - 監督の副島博志が成績不振を理由に辞任。後任はジョアン・カルロスが就任。
    • 11月3日 - 対FC東京戦での敗戦によりJ2降格が決定。監督のジョアン・カルロスが引責辞任。後任にはコーチだった西村昭宏が監督に昇格。
    • しかし、J2降格が決定してから天皇杯の決勝に進出するまでは7連勝であった(この中には天皇杯の準々決勝でこの年のJリーグ王者であった鹿島アントラーズを破った試合も含まれる)。

[編集] 1年でJ1復帰

  • 2002年 - J2で2位となり1年でのJ1復帰を果たした。この年はワールドカップシーズンだったが J2では試合日程の編成に日本代表の強化試合や合宿に対する配慮はされておらず、森島寛晃・西澤明訓・尹晶煥ら各国の代表選手不在の期間も試合をこなす事となった。ただしこれによりFW大久保嘉人の出場機会が増え、大久保の大きな成長を促すシーズンともなった。
    • 2月25日 - 未明に大阪ミナミでFW眞中靖夫が暴漢に襲われ、頭蓋骨前頭部にひびの入る重症を負う。
    • 3月21日 - 日中に長居第2競技場でJ2のセレッソ大阪対川崎フロンターレ戦の開催日だったが、夜には隣接する長居スタジアムで日本代表ウクライナ代表の試合が控えていたため、セレッソとしては選手・ホームスタジアム・世間の関心などが全て日本代表に奪い取られる最悪の日程となった。
    • 11月16日 - 最終節の1つ手前の43節で、それまで一度も勝てなかったJ1昇格のライバル・アルビレックス新潟との直接対決に臨む。1994年Jリーグ昇格の藤枝戦と同じく勝てばJ1昇格が決定だが負ければ自力昇格が無くなる試合にセレッソが3-0と勝利、J1復帰が決定。

[編集] 迷走する監督人選とチーム作り

  • 2003年 - 1stステージは健闘。しかし、2ndステージに入ると白星が遠く、2001年にJ2降格が決まってから指揮を執っていた西村昭宏監督はシーズン途中で解任となった。そしてここから監督交替のオンパレードとなる(詳しくは「歴代監督」の項を参照のこと)。また天皇杯では三度目の決勝進出を果たすが、ジュビロ磐田に0-1で敗れ、またしても準優勝となった。
  • 2004年 -1stステージは相次ぐ監督交替もあって最下位に終わる。 2ndステージからは大分トリニータで監督を務めた小林伸二が監督に就任。小林は、西村から数えて9ヶ月ほどで6人目の監督であり、しかも最下位という混迷を極めていたチームを再生し、一丸となったチームは2ndステージを12位まで浮上。年間順位でも最終節で柏レイソルを逆転し15位となんとか残留に成功した。シーズン終了後、大久保嘉人がスペインのRCDマジョルカにレンタル移籍。

[編集] 再び逃した栄光と2度目のJ2降格

  • 2005年-前年度までの脆弱な守備力の強化と、大久保のスペイン移籍に伴う攻撃力の低下を補うべく即戦力主体の積極的な補強を実施、GKにG大阪から吉田宗弘を完全移籍で獲得、DFには2003年のユニバーシアード大邱大会優勝メンバーの江添建次郎を7クラブに及ぶ争奪戦の末に獲得に成功、テスト生出身の前田和哉も入団した。FWには京都のエース黒部光昭をレンタル移籍で獲得、MFに東京Vから廣山望をレンタル移籍で獲得した。外国人選手も数年続いた東欧路線から一変して、ブルーノ・クアドロスファビーニョゼ・カルロスのブラジル勢を獲得した。当初9位を目標に掲げ、開幕は例によって3連敗と出遅れたが、新加入の吉田、ブルーノ・クアドロス、江添が開幕からスタメンに定着、江添が第3節の大宮アルディージャ戦で右ひざじん帯断裂の重傷を負ったが、その穴を前田が埋め、ボランチのファビーニョや下村東美とともに守備の建て直しに成功、森島寛晃・西澤明訓・古橋達弥・黒部光昭といった当時のJ1屈指の攻撃陣と攻守の歯車がかみ合いだし、第4節の名古屋グランパスエイト戦で初勝利を挙げると第11節の清水エスパルス戦まで8試合負けなしと好調を維持、前半戦を6勝5分6敗で折り返した。後半戦は18節のG大阪戦に敗れたものの、その後は負けなしの快進撃を続けてG大阪や鹿島アントラーズ浦和レッズなどの上位チームがもたつく間に順位を上げ、第32節の大分トリニータ戦を幸運なドローで乗り切って勝ち点57で首位に並ぶと、第33節でG大阪を抜いて首位に立った。勝てば優勝決定、敗戦・ドローで自力優勝が消えるという状況で迎えた最終節・FC東京戦で1点リードしたまま試合終盤を迎え、ロスタイムを乗り越えれば優勝が決まるという状況で相手コーナーキックでの競り合いのこぼれ球を今野泰幸に決められ、またも目前にした優勝を逃してしまった。翌朝の朝日新聞には「長居の悲劇」との見出しが掲載された。最終順位は5位だったが、後半戦(第18節~最終節)に限れば10勝6分1敗、当時のJリーグ無敗最長記録となる16試合負け知らずという絶好調をキープし、天皇杯も含めれば準決勝で清水エスパルスに敗れるまで20試合負けなしだった。また、この年はチームの好調を状況を反映し、過去最高の1試合あたり17,648人の平均観客動員数を集めた。
    • シーズン終了後、ファビーニョが家庭の事情により退団。この他にもベテランの布部陽功久藤清一を放出(ともにアビスパ福岡に移籍)したほか、黒部光昭と廣山望のレンタル移籍契約を更新しない(黒部は浦和へ再度レンタル移籍、廣山は東京Vに復帰)など、チームの世代交代を図るためにベテラン選手に対して大なたを振るった。
    • 吉田と古橋がJリーグのベストイレブンに選ばれ、前田が優秀新人賞を獲得した。
  • 2006年-前年の快進撃を受け、優勝を目標にしてシーズンを迎えた。戦力補強の面では、J2降格した東京Vから山田卓也を完全移籍で、河村崇大ジュビロ磐田からレンタル移籍で獲得。新外国人選手ではピンゴが入団するなど、即戦力では中盤中心の補強を行い、新加入選手では強化指定選手となっていた森島康仁が入団したのをはじめ、大学選抜で活躍した小松塁や、高校生ながら素質を見込まれてプロ契約を結んだ香川真司が入団するなど、将来を見越した有望な若手の獲得を進めた。ところが、開幕からの4節をすべて3失点以上で負けるなどスタートでつまづき、8節終了時で1勝1分6敗と波に乗り切れない状況を見たクラブ側は小林監督を成績不振を理由に4月18日付で解任、後任に塚田雄二が就任し巻き返しを図った。
    • 4月22日サンフレッチェ広島戦(アウェイ)では、かつてセレッソに在籍していたFW佐藤寿人に、J新記録となる試合開始からわずか8秒でのゴールを決められる(Jリーグ最速得点・失点記録)など、改善のきざしを見ることは出来なかった。
    • 6月15日、RCDマヨルカにレンタル移籍していた大久保がチームに復帰するも勝ち星に恵まれず。
    • 8月13日、磐田で出場機会を失っていた元日本代表MF名波浩レンタル移籍で獲得。以後チーム状況が多少上向き、勝ち点を重ねるようになった。
    • 11月26日、大宮戦で期待の若手、柿谷曜一朗が16歳10ヵ月で公式戦デビュー。チーム最年少出場記録を更新し、久々に明るい話題を提供した。一時は入れ替え戦進出となる16位をキープしていたが、12月2日の最終節で川崎フロンターレに敗れ、自力での入れ替え戦進出はなくなった。アビスパ福岡と勝ち点は並んだものの、得失点差で年間17位となり5シーズンぶり2度目となるJ2降格が決定した。塚田監督は降格の責任を取り辞任。後任に東京Vヘッドコーチの都並敏史を招聘したが、チームのJ2降格を受け、大久保嘉人(神戸へ)、西澤明訓(清水へ)、名波浩(磐田復帰後、東京Vへ)、下村東美(千葉へ)、ブルーノ・クアドロス(退団後、コンサドーレ札幌へ)と、攻守の軸となっていたレギュラー選手達が次々と移籍し、戦力の大幅低下は否めない状態となった。

[編集] 2度目のJ2

  • 2007年-ヤンマーサッカー部発足から創設50周年という節目の年をJ2で過ごす事になる。前年の主力が抜けた穴を埋めるべく、東京Vから柳沢将之を、レンタル移籍で鹿島から羽田憲司、神戸から丹羽竜平を獲得。逆にセレッソからレンタル移籍でサガン鳥栖に出していた濱田武コンサドーレ札幌に出していた千葉貴仁九州サッカーリーグV・ファーレン長崎に出していた小松塁を復帰させ、新人では立命館大学から阪田章裕が加入し、外国人選手ではブラジルからアレー、韓国ユニバーシアード代表の金信泳を獲得して戦力の建て直しを図り、都並新監督のもと、1年でのJ1復帰を目指こととなった。しかし、開幕3連敗とまたもや出遅れる。第4節の京都戦でようやく初勝利を挙げ、第12節のザスパ草津戦では柿谷がJ2最年少記録となるゴール(17歳3ヶ月)を決めるが、森島寛晃が原因不明の首痛に悩まされるようになり戦列を離脱したことや、一気に若返った選手の適性を見極めるため、戦力を使い回して試行錯誤をしていたため勝ち点が延びず、第14節終了時点で4勝3分6敗でJ2の9位という成績であった。クラブは5月7日付で都並監督、藤川孝幸コーチ、西村昭宏GMを解任すると、後任として1997年にセレッソで指揮を執ったレヴィー・クルピを監督に復帰させた。クルピ就任当初は1勝3敗と負けが先行したが、第19節の試合なし期間を活用した淡路島ミニキャンプで戦術を浸透させ、メンバーも小松塁をFWのスタメンに抜擢、香川真司をサイドに、ゼ・カルロスと柳沢将之を左右のSBに固定するなど、それまでの使い回しから一変した選手起用を実施。これが功を奏して第20節からは4連勝、一時は絶望視されていたJ1昇格争いへの道が開けた。第2クール終了後には、比較的戦力に余裕のあったFW陣から金信泳を鳥栖へレンタル移籍させ、空きができた外国人枠を活用して、ボランチを強化するためにクルピ監督の肝いりでジェルマーノを獲得した。その後第3クールでは9勝3敗のリーグ1位の成績を残し、第4クールでも好調を維持したことからJ1復帰に近づいたように見えたが、第1クールでの出遅れと、京都(2勝2分)以外のJ1昇格争いを繰り広げた上位チームに大きく負け越した(札幌と仙台には1勝3敗、東京Vと湘南には1分3敗)ことが響き、J2リーグ5位でシーズンを終了した。
    • 昇格を逃したものの、FWに抜擢されて12ゴールを挙げた小松をはじめ、前田、江添、濱田が計算できる戦力に成長したほか、香川・森島康・柿谷が世代別代表に選出されて国際大会で活躍、実力の片鱗を現した。しかし、その森島康や柿谷でもセレッソではレギュラーではなく、彼らより先にU-23代表にも選出され、当初スタメンで出場していた苔口卓也に至っては、セレッソではクルピ就任以後ベンチ入りする機会すら限られるなど、チーム内競争は激しさを増し、戦力の底上げがなされた。
    • また、同シーズンは8月末から9月初めにかけて長居スタジアムで開催された世界陸上選手権大会開催とそれに伴う準備期間があり、(長居スタジアムで行われた6月の一部を除いて)7月末の第31節までは隣接する第2スタジアムを本拠地にしていたほか、世界陸上開催前後はその第2スタジアムすら使用できず、テクノポート福井スタジアム兵庫県立三木総合防災公園陸上競技場といった県外での開催を余儀なくされ、結局長居スタジアムは試合数全体の3分の1程度しか使用できなかった。そのうち平日の試合が4試合あったことから、平日専用の割引チケットの発売など集客に工夫を凝らしたが、J2降格の影響もあり、1試合あたりの観客動員数は過去最低の6,627人にとどまった。ちなみに1試合あたりの平均観客動員数で過去最高を記録したのは2005年の17,648人であったことから、2年間でおよそ4割に減少したことになる。
  • 2008年-主力では吉田宗弘がアビスパ福岡に完全移籍、苔口卓也がジェフユナイテッド千葉・市原にレンタル移籍したものの、香川・森島康・柿谷らの若手をはじめ、去就が注目されていた古橋達弥も残留した。補強の面ではGKに川崎フロンターレから相澤貴志をレンタル移籍で獲得、退団したゼ・カルロスの後任となる左SBに湘南ベルマーレから尾亦弘友希を完全移籍で獲得、FWにカレカをレンタル移籍で獲得。新キャプテンに前田和哉を任命、若手の香川・小松らがさらに成長し、中堅・主力とともに巻き返しを図る。開幕は水戸ホーリーホックに勝利し、久々の開幕戦勝利を納める(ただしこの後2連敗を喫している)。最初のうちは波に乗り切れずにいた
    • 5月は前月末の愛媛FC戦から数えて、負けなしの7連勝を飾り2位に浮上。
    • 6月の初戦にあたる水戸戦で敗れると、怪我人と出場停止選手が続出。結果、この月は1勝1分4敗と不調に陥る苦しい月となった。
    • 7月も1勝1分2敗と勝ち点を伸ばせないまま終わる。
    • 8月は2勝1分2敗と浮上の兆しが見えてきたに思われたが、本間勇輔がスタジアムマスターに就任し、新たなアンセムを作曲した9月も低迷のまま終わり、10月、優勝争いをした3位のベガルタ仙台との直接対決に敗れた時点では勝ち点8差がつけられていた。
    • 11月に入ると息を吹き返したセレッソは3連勝、一方、仙台は2分1敗と不振に陥ったため、勝ち点差を1にまで縮めて最終節を迎えた。セレッソは愛媛FCに勝利を挙げたが、仙台も勝利したために逆転はならず、J2の4位でシーズン終了。
    • 香川真司が3月の日本五輪代表に選ばれたアンゴラA代表との試合において、芸術的なプレーでアンゴラゴールを脅かしたことが、日本代表監督である岡田武史監督の目に留まり、香川は平成生まれとして初の日本代表に招集された。セレッソからは大久保嘉人以来4年ぶりの代表選出である。香川はキリンカップコートジボワール代表戦でデビューを果たし、ワールドカップ3次予選の2試合に出場。香川は8月に行われる北京オリンピック日本代表にも選ばれるなど多忙なスケジュールとなった。セレッソがJ1昇格を逃したのは主力である香川が代表に各カテゴリーで代表に招集され、セレッソへの合流日数が削られた影響を指摘する見方もある。
    • シーズン中には、名古屋から青山隼横浜FMから乾貴士、新人の白谷建人を含めて世代別の日本代表の経験がある選手を多く獲得。これはクルピ監督の方針で『セレッソに移籍して、さらに成長する可能性のある選手』を獲得する傾向にある。一方でチームにフィットしなかったカレカを解雇したり、出場機会が激減した森島康をレンタル(シーズン終了後に完全)移籍で大分トリニータに放出した。
    • この年を最後に、前身のヤンマー時代から一貫してチームの中心選手として活躍してきた森島寛晃が現役を引退した。


  • 2009年-発足から長年チームを支えた森島寛晃が引退し、ジェルマーノ、古橋達弥山本浩正、柳沢将之などが完全移籍で去り、相澤貴志、丹羽竜平、青山隼がレンタル終了、レンタル移籍中の森島康仁や宮本卓也も完全移籍する。しかし、レンタル移籍で加入していた乾貴士、羽田憲司、平島崇が完全移籍し、小松塁、香川真司などの主力が残留した。外国人選手では昨季途中加入し、チームにフィットしていたカイオが残留、パルメイラスからマルチネスクルゼイロからチアゴとクラブの主力だった2選手と2007年U-20W杯韓国代表のキム・ジンヒョンを「アジア枠」で獲得。レンタルで石神直哉を獲得し、西澤明訓も清水から復帰するなど、J1でも十分通用する戦力を武器にJ1復帰を目指す。
    • 3月から4月は、4月19日のコンサドーレ札幌に敗れるまで5連勝するなど無敗であった。
    • その後も勝ち点を積み重ねるが、6月にカターレ富山サガン鳥栖に連敗する。
    • 8月中旬から3戦連続で勝ちなしと不振に陥る。
    • 8月30日のロアッソ熊本戦からは10勝3分と勝ち点を積み重ね、11月8日にザスパ草津に5-0で勝利をおさめ、J1昇格が決定。同時に勝ち点100越えを達成した。J2で勝ち点100以上を達成したチームは川崎、広島に次いで3チーム目(ただし川崎は44試合、広島は45試合)。シーズンを通じて昇格圏外に落ちることはなかった。
    • 11月8日の試合後、日本を代表するストライカーとしてチームを牽引してきた西澤明訓の引退が発表された。

[編集] 成績表

年度 所属 試合 勝点 勝利 敗戦 引分 順位 監督
1994年 旧JFL 30 26 4 優勝 パウロ・エミリオ
1995年 J・サントリー 26 41 13 13 9位
J・ニコス 26 37 12 14 10位
1996年 J 30 30 10 20 13位 パウロ・エミリオ/楚輪博
1997年 J・1st 16 19 7 9 11位 レヴィル・クルピ
J・2nd 16 24 9 7 8位
1998年 J・1st 17 23 8 9 9位 松木安太郎
J・2nd 17 21 7 10 13位
1999年 J1・1st 15 29 10 5 0 5位 レネ・デザイェレ
J1・2nd 15 24 9 6 0 5位
2000年 J1・1st 15 29 10 5 0 2位 副島博志
J1・2nd 15 19 7 8 0 9位
2001年 J1・1st 15 11 3 10 2 14位
J1・2nd 15 12 5 10 0 16位 副島博志/ジョアン・カルロス西村昭宏
2002年 J2 44 87 25 7 12 2位 西村昭宏
2003年 J1・1st 15 25 8 6 1 5位
J1・2nd 15 15 4 8 3 12位 西村昭宏/塚田雄二
2004年 J1・1st 15 10 2 9 4 16位 ナドベザ・ペーター※/フアド・ムズロビッチアルベルト・ポボル
J1・2nd 15 16 4 7 4 12位 小林伸二
2005年 J1 34 59 16 7 11 5位
2006年 34 27 6 19 9 17位 小林伸二/塚田雄二
2007年 J2 48 80 24 8 16 5位 都並敏史/レヴィー・クルピ
2008年 45 69 21 15 6 4位 レヴィー・クルピ

※ナドベザ・ペーターは心臓病で来日せず。

[編集] チームの傾向

Jリーグ加入当時は守備に重点をおいたチーム作りで中位に位置することができた。しかし、1996年以降に攻撃的なチーム作りへとシフトした結果、守備に不安のあるチームとなってしまい、一時、下位のシーズンが続いた。1999年に年間総合6位になってからは、Jリーグ屈指の攻撃力、得点力を誇った。しかし、その分守備力の難は変わらず、大量得点・大量失点の試合が多かった。2005年には小林伸二監督により、守備を重視し、1点を守りきる堅守速攻の戦術に変化した。また何故かトーナメント戦には強く、天皇杯で3度ファイナルまで進み、2度のリーグ優勝のチャンスをつかむ等、一旦流れに乗ると、勝ち続けるチームではある。しかし、2001年、2006年と優勝争いの翌年に必ず低迷し、J2降格を喫するなど、浮き沈みが激しく、しばしばジェットコースターと形容される。ちなみに、リーグ優勝を逃した時の年間順位は共に5位である。またタイトル12冠の鹿島アントラーズが通算成績で勝ち越していない(対戦成績10勝10敗4分)数少ないチームでもある。鹿島が他に勝ち越していないのは清水エスパルス(16勝18敗2分)のみである(鹿島との対戦が少ないチームは除く)。ここ数年は開幕でつまづく傾向にあり、2004年から2007年まで4年連続開幕3連敗を喫しており、2003年から2007年までは開幕戦で勝利を挙げられずにいたが、2008年の水戸ホーリーホックとの開幕戦で久しぶりの勝利をおさめた。(但し、この後2連敗を喫している。)

[編集] エピソード

[編集] FM NAGAI

2008年の5月18日の湘南ベルマーレ戦から、「超セレッソ寄りのラジオ局」をキャッチコピーとした、FM NAGAI(エフエムナガイ)がセレッソ大阪の試合限定で開局した。内容は試合に出場していないセレッソ大阪の選手、またはセレッソ大阪のスクールコーチが、スタジアムDJの西川大介とともに、試合内容、現役時代のエピソードなどを語っていくものである。ファンクラブ限定サイトでは、過去の放送内容を聞くことも可能である。また、スタジアムにゲストが訪れた時は、そのゲストが出演することもあり、元阪神タイガース亀山つとむや、大阪プロレスの選手が出演したことがある。

周波数は放送開始当初は77.3MHzであったが、78.5MHzとなっている。

[編集] スタジアムマスター本間勇輔の招聘

2008年の夏に、古畑任三郎などの楽曲を作曲した本間勇輔がスタジアムマスターに就任した。最初に手がけたのはセレッソ大阪の入場アンセム及び、練習開始の時に流れる音楽を、作詞作曲し、セレッソ大阪のサポーター200人以上が歌ったものが、アンセムとなっている。2009年の開幕戦では古畑任三郎風に選手を紹介するムービーがスタジアムで流れている。

本間の話によると、セレッソを含めた数チームから、スタジアムマスター就任のオファーがあったとのことである。

[編集] 芝かぶり席

2008年の10月のベガルタ仙台戦から、バックスタンドの陸上トラックの上に仮設スタンドを作り、グラウンドレベルで選手のプレーが見ることができる大相撲の「砂かぶり席」ならぬ、「芝かぶり席」が登場した。芝かぶり席に座るには、事前に申し込みをし、当選すれば座ることができるが、初回だけで、200席の定員に対し、6000人以上の応募者がいたという。以降も年数回芝かぶり席を設けている。

芝かぶり席では、Jリーグ統一規定により、撮影、飲食が禁止されている他、グラウンドレベルであるためトイレがないというデメリットもある。

サンフレッチェ広島でも、芝かぶり席とよく似た「ピッチサイド芝かぶりシート」があり、事前申し込みで当選(チケット代が別に必要である)すれば、座ることができる。

[編集] 長居球技場の本拠地化

2009年11月、クラブが長居スタジアムに隣接する大阪市長居球技場を改修し、2010年8月から本拠地として利用する計画を発表した。計画によると、人工芝のピッチを天然芝に変更し、ゴール裏に新たなスタンドを増設。収容人員は20,500人となる[1]

[編集] 他競技との連携

セレッソ大阪は2006年から、Jリーグ100年構想に基づいた他競技との連携を行っている。

2006年から行われている「エンジョイスポーツアカデミー」は、大阪を本拠地とするバレーボール堺ブレイザーズバスケットボール大阪エヴェッサと合同でクリニックを行っている。2007年からはフットサルシュライカー大阪が、2009年からバドミントン三洋電機を加えた5チームで毎年開催している。

2009年からは「フットボールアカデミー」も開催する予定で、ラグビー近鉄ライナーズと合同でクリニックを行っている。

[編集] 獲得タイトル

[編集] 国内タイトル

  • 1994年 旧JFL優勝
    • 1995年までにJリーグ参入したチームで、公式3大タイトル(Jリーグ(ステージ優勝も含む)、ナビスコ杯天皇杯)を獲得してないのはセレッソのみとなった(1996年参入まで含めるとアビスパ福岡も加わる)。JSL優勝経験のある前身チームを持つクラブとしては唯一である。セレッソは天皇杯では3度決勝まで進出、リーグ戦では前述の通り2度最終節前まで首位でありながら優勝を逃すなど、5回にわたりあと1歩のところでタイトルが獲得出来ずにいる。頂点一歩手前まで行きながら低迷も多いので「無冠の帝王」とも言い難い。タイトルを懸けたその試合の内、3回の対戦相手はタイトル獲得を経験したチームだった。2000年1stステージの横浜F・マリノス、2001年天皇杯の清水エスパルス、2003年天皇杯のジュビロ磐田がそれらに該当する。

[編集] 個人別タイトル

ベストイレブン
Jリーグ得点王

[編集] 歴代監督

[編集] ユニフォーム

[編集] チームカラー

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) ピンク×紺
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd) オレンジ オレンジ オレンジ
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 2nd
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 2nd
  • チームカラーは、桜をイメージしたピンク色と水都大阪の川をイメージした紺色

[編集] アラカルト

  • フィールドプレーヤーのファーストユニフォームは、2005年までは図柄のようにピンク×紺の縦縞であったが、2006年以降は右胸がピンク、左胸が紺の2ブロックとなっている。

[編集] ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ヤンマー YANMAR 2006年〜 1995年〜1996年までは袖、1997年〜2005年までは背中
背中 日本ハム NIPPON HAM 1994年後半・2006年〜 1994年前半・1995年〜2005年までは胸
なし
パンツ アルペン SPORTS DEPO 2004年〜

[編集] ユニフォームサプライの遍歴

  • 1994年~ (Jリーグ準会員時代) リーグ戦・カップ戦ともミズノ

但し1996年度はリーグ戦とカップ戦で別々のデザインのユニフォームを着用した。

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1994年 CAPCOM/Nippon Ham ヤンマー Nippon Ham/CAPCOM Mizuno
1995年 Nippon Ham ヤンマー CAPCOM Mizuno
1996年 NIPPON HAM ヤンマー CAPCOM Mizuno
1997年 NIPPON HAM 2008大阪オリンピック招致委員会 Yanmar Mizuno
1998年 NIPPON HAM 2008大阪オリンピック招致委員会 Yanmar Mizuno
1999年 NIPPON HAM - Yanmar Mizuno
2000年 NIPPON HAM タマノイ酢 Yanmar Mizuno
2001年 NIPPON HAM タマノイ酢 Yanmar Mizuno
2002年 NIPPON HAM タマノイ酢 Yanmar 大装ハウス MIzuno
2003年 NIPPON HAM タマノイ酢 Yanmar 大装 Mizuno
2004年 NIPPON HAM タマノイ酢 Yanmar SPORTS DEPO Mizuno
2005年 NIPPON HAM タマノイ酢 Yanmar SPORTS DEPO Mizuno
2006年 YANMAR SUPER H2O NIPPON HAM SPORTS DEPO Mizuno
2007年 YANMAR OSAKA PiTaPa NIPPON HAM SPORTS DEPO Mizuno
2008年 YANMAR OSAKA PiTaPa NIPPON HAM SPORTS DEPO Mizuno
2009年 YANMAR NIPPON HAM SPORTS DEPO Mizuno

[編集] 歴代スローガン

年度 スローガン
1994年 Jump To J!
1995年 To Be Professional 真のプロフェッショナルをめざして
2002年 Passion to the Top
2003年 PASSION SOUL 情熱魂
2004年 Be ONE!
2005年 日々進化
2006年 さらなる挑戦
2007年 猛進
2008年 YOU ARE MY HEART
2009年 ユアマイハート

[編集] 歴代選手紹介BGM

年度 曲名 アーティスト名 DJ
1994年 - -
1995年 - -
1996年 - -
1997年 - -
1998年 - -
1999年 - -
2000年 - -
2001年 - -
2002年 - -
2003年 - -
2004年 - -
2005年 - -
2006年 Dark Chest of Wonders ナイトウィッシュ 西川大介
2007年 Dark Chest of Wonders ナイトウィッシュ 西川大介
2008年 Dark Chest of Wonders ナイトウィッシュ 西川大介

[編集] 歴代選手入場BGM

年度 曲名 アーティスト名
1994年 -
1995年 -
1996年 -
1997年 -
1998年 -
1999年 -
2000年 -
2001年 -
2002年 -
2003年 -
2004年 -
2005年 -
2006年 -
2007年 -
2008年 saturate ケミカル・ブラザーズ
2009年 セレッソ大阪アンセム 本間勇輔

[編集] 協賛企業(※2009年7月現在)

各スポンサーの詳細は公式サイトのセレッソ大阪スポンサー一覧ならびにセレッソ大阪サポーティングカンパニーからのリンク先を参照の事。

[編集] パートナーカンパニー


[編集] オフィシャルスポンサー


[編集] オフィシャルサプライヤー


[編集] メディカルアシストパートナー

[編集] サッカースクールスポンサー/サポーティングカンパニー

[編集] 脚注

  1. ^ 「長居球技場のホームスタジアム化について」、セレッソ大阪公式サイト、2009年11月6日。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク