大久保嘉人
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 愛称 | ヨシト、よっくん | |||||
| カタカナ | オオクボ ヨシト | |||||
| ラテン文字 | ŌKUBO Yoshito | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1982年6月9日(30歳) | |||||
| 出身地 | 福岡県京都郡苅田町 | |||||
| 身長 | 170cm | |||||
| 体重 | 73kg | |||||
| 選手情報 | ||||||
| 在籍チーム | ||||||
| ポジション | FW / MF | |||||
| 背番号 | 13 | |||||
| 利き足 | 右足 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 2001-2006 2005-2006 2007-2009 2009 2009-2012 2013- |
→ |
116 (57) 39 (5) 62 (25) 9 (0) 92 (25) 0 (0) |
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| 代表歴2 | ||||||
| 2003- | 54 (5) | |||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年1月16日現在。 2. 2012年2月24日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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大久保 嘉人(おおくぼ よしと、1982年6月9日 - )は、福岡県京都郡苅田町出身のプロサッカー選手。Jリーグ・川崎フロンターレ所属。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
目次 |
来歴 [編集]
プロ入り前 [編集]
幼少時は父親が購入したペレやディエゴ・マラドーナのビデオを繰り返し見たり、父親と一緒に釣りに行ったり野球に親しんでいた[1]。小学校3年次に苅田サッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める。当初はストッパーの位置でプレーしていたが、小学校6年次よりフォワードの位置でプレーするようになった[2]。1994年にはU-12福岡県選抜チームに選出された一方で陸上競技にも取り組み、全国小学生陸上競技交流大会に出場した他[1]、鹿島アントラーズと横浜マリノスとの試合の前座で、北九州市選抜チームの一員として福岡県の別のチームと対戦した際に5得点を挙げ、鹿島サポーターから「大久保」コールを受けるという経験もした[1]。小学校卒業後は長崎県に渡り国見町立国見中学校に入学[2]。長崎県立国見高等学校サッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカーの指導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入る[1]。国見中学校では2、3年とも全国大会ベスト8に入り、U-15長崎県選抜チームに選出された。
1998年に国見高等学校に進学。2年生でレギュラーを獲得し、3年次の2000年、松橋章太らとともにインターハイ、国民体育大会、全国高等学校サッカー選手権大会でいずれも優勝し、高校三冠を達成した[3]。インターハイでは10得点、高校選手権では8得点を挙げてそれぞれ大会得点王を獲得した[4]。天皇杯全日本サッカー選手権大会には、長崎県代表として2年次 (1999年度) ・3年次 (2000年度) の2度出場した他、U-19日本代表に選出されてAFCユース選手権2000にも出場した[4]。
セレッソ大阪時代 [編集]
複数のJクラブが争奪戦を展開した末[2]、2001年1月9日、セレッソ大阪への入団が発表された[5]。同年3月17日に駒場スタジアムで開催された2001年度Jリーグファーストステージ第2節 (対戦相手: 浦和レッドダイヤモンズ) で、79分から途中出場しJリーグデビューを果たす[6]。 初得点はジュビロ磐田を相手にヤマザキナビスコカップ1回戦ファーストレグで先制点[7]を記録したもの。リーグ戦初ゴールも同様に磐田相手のJ1リーグ第5節で決めている。ルーキーイヤーである2001年には主にスーパーサブとしての出場がメインで、20試合出場2得点という成績で終えた。しかし、全日程終了時点でセレッソ大阪は総合成績で16位となり、J2 へ降格。移籍するという選択肢もあったようであるが、国見高校時代の恩師である小嶺忠敏やサッカー部時代の先輩に相談を仰いだ上でセレッソ大阪でプレーし続けることを選択したという[2]。
J2を戦場とした2002年には29試合[8]に出場して18得点を挙げ、当時アルビレックス新潟所属のマルクスに次ぐ得点ランキング2位の成績を修めた[9]。この大久保の活躍もありセレッソ大阪はリーグ戦最終順位2位となり、1年でJ1へと復帰した。
2003年度はファースト・セカンド両ステージで合計24試合に出場し、得点ランキング日本人トップとなる16得点を挙げた[10]他、12月10日には、同年度AFCより、アジア年間最優秀ユース選手賞を受賞した[11]。またアテネオリンピック予選に臨むU-22代表として活躍する傍ら、5月31日に行われた韓国代表との国際親善試合に、65分から鈴木隆行と交代して出場し[12]、A代表デビューを飾った。
2004年は22試合に出場し、15得点を挙げた。また、同年3月まで開催されていたアテネオリンピックアジア地区予選での激闘を経て、7月にU-23日本代表としてアテネオリンピック本大会に出場した[13][14]この大会で日本は1勝2敗となり、グループステージを突破することはできなかったものの個人としてはグループリーグ全3試合に出場し[15][16][17]、パラグアイ戦では81分に[15]、ガーナ戦では37分に[17]決勝点となるゴールをそれぞれ挙げた。
RCDマジョルカ時代 [編集]
アテネオリンピックでの活躍がきっかけとなり2004年11月、リーガ・エスパニョーラ所属のRCDマジョルカへの期限付き移籍が発表された[18]。デビュー戦となった2005年1月9日のデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦で1得点1アシストのデビューを飾り、高い注目を浴びた[19][20]。その後出場機会を失う時期があったが、チームが降格危機に瀕していたラスト4試合で復帰し、アスレティック・ビルバオ戦、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げる他、2アシストとPK獲得を為しとげる活躍で[21][22]、マジョルカの奇跡的とも言える残留に貢献した。シーズン終了後UEFA選出スペインリーグ・若手ベストイレブンを受賞[23]。2005-06シーズンもレンタル延長という形で参戦[24]し、シーズン序盤にレギュラーポジションを手にするなどしたが、最終的に完全移籍を勝ち取るまでには至らなかった。スペインでの総合成績は39試合5ゴールと6アシスト。
セレッソ大阪時代(第2期)・ヴィッセル神戸時代 [編集]
マジョルカでの契約が終了した2006年6月、セレッソ大阪への復帰が発表された[25]。このシーズンのセレッソは大久保加入までの13試合で勝ち点わずか6と、前年の好調が嘘のように低迷しており、大久保は低迷脱出のカンフル剤として期待されたが復帰当初はあまり活躍できなかった。後半戦に入りセレッソは大久保の復調、監督交代や名波浩などの加入を経て若干巻き返すも、降格圏脱出にまでは至らず最終順位17位となりセレッソ大阪はJ2へ降格してしまう(なお個人記録は21試合出場6得点)。2007年年明けに急遽ヴィッセル神戸からのオファーが報じられ、詳細な経緯は不明なもののこの移籍が成立。大久保はセレッソに3億とされる移籍金を残し、活動の舞台をヴィッセル神戸へと移すこととなった[26][27][28]。
2007年シーズン中に当時の松田浩監督に自ら進言して左MFとしてもプレーするようになる。このことはのちに「チームのことを考えてプレーできるようになった」と語っている[29]。
また、同年8月にはカメルーン代表との国際親善試合で約1年10カ月ぶりに日本代表に復帰[30]10月に行われたエジプト代表との親善試合で1試合2得点を挙げ[31]。2003年の東アジア選手権以降、代表から遠ざかっていたこともあり、初選出から4年越しでの初ゴールとなった。以後南アフリカワールドカップを目指す日本代表のレギュラークラスのメンバーとして定着。
VfLヴォルフスブルク時代 [編集]
2009年1月3日、ブンデスリーガ・VfLヴォルフスブルクへの完全移籍が発表された[32]。当初、ヴォルフスブルクとは金銭面で折り合いがつかなかったが、移籍を望んだ本人の意向に添える形で、神戸側が最終的に譲歩し、推定2億5000万円[33]の移籍金をヴォルフスブルクが支払った。
オーバーヘッドシュートを放った事が理由でマガトの怒りを買ってベンチ入りメンバーから外されるという経験もした[34]が、ドイツのサッカーに慣れるに従い、相手選手に体をぶつけられても倒れることなくドリブルで進めるまでになった[34]。この経験について大久保自身は取材に対し、「試合に出れなくて、まぁ、いいや、って思ったら、もう終わりよ。(中略)サッカー選手をやっている以上は、出たい、出たい、って感じで練習もするやん[35]」というコメントを残している。
2008-09年度シーズンにおいて、長谷部誠と共にヴォルフスブルク史上初となるドイツ国内主要サッカー大会初優勝達成[36]を経験するが、大久保自身は、グラフィッチやエディン・ジェコが好調であった[37]こともあり、あまり出場機会を得ることができなかった。
ヴィッセル神戸時代(第2期) [編集]
前述のとおり、ヴォルフスブルクでは出番を与えられず、ワールドカップ出場を見越してより多くの出場機会を得るため、2009年6月16日、神戸への復帰が決定した[38]。
2010年5月10日、W杯南アフリカ大会に臨む代表メンバーに選出された。強化試合として行われた韓国戦[39]、イングランド戦[40]、コートジボワール戦[41]に出場し、本大会ではグループリーグ三試合と決勝トーナメント一回戦に左サイドハーフとして先発出場し、日本の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献した。ワールドカップでの活躍の反面、クラブでは怪我に怪我が重なったことや、チームの守備的な戦いも影響し、17試合で4得点に終わった。 2011年シーズンは細かい怪我はあったもののシーズン通して稼働。主に中盤でのプレーが多かったが、30試合9得点。2011年8月6日、J1第20節浦和戦でJリーグ通算100ゴールを決めた。2012年シーズンは自身の希望もあり、セレッソ時代に背負っていた「10」を背負う[42][43]。前年は中盤でプレーすることが多かったが、開幕からFWに固定されで2得点を挙げ上々の滑り出しを見せたが、その後新加入選手が多く、チーム戦術や共通意識が定まらないこともありFWながら中盤に下がらざるを得ない状態となりゴールから遠ざかると、7節の柏レイソル戦で負傷。当初長期離脱が予想されたが、2週間ほどで復帰。しかし、この負傷以降コンディションが上がらず、リーグ戦4ゴールと2010年シーズンに並ぶ低調なシーズンとなり、クラブも降格した。
川崎フロンターレ時代 [編集]
チームがJ2に降格したものの、本人はJ2へ降格させてしまったことに責任を感じており、契約が2013年末まで残っていたこともありクラブへの残留を希望していた。しかし、クラブ側から慰留する返事がなく、逆に契約交渉の席で移籍を勧められたことで移籍を検討。熱心なオファーのあった川崎フロンターレへ完全移籍が決定した。[44][45]
人物・エピソード [編集]
- 2004年12月に結婚[46]。2008年1月5日にホームズスタジアム神戸内の施設にて結婚式を挙げ[47]、その際スタジアム内にて夫人側のチームとセレモニーマッチを行った[48]。2005年に長男が、2010年に次男が誕生した[49]、2012年に三男が誕生した[50]。
- 川崎移籍後、古巣神戸との初対戦した試合(練習試合)では、神戸サポーターから「嘉人今までありがとう。またいつか神戸で!」というこれまでの貢献を労う横断幕を掲げられた[51]。
所属クラブ [編集]
- ユース経歴
- 1998年 - 2000年 長崎県立国見高等学校
- プロ経歴
- 2001年 - 2006年
セレッソ大阪
- 2005年 - 2006年7月
RCDマジョルカ (期限付き移籍)
- 2005年 - 2006年7月
- 2007年 - 2008年
ヴィッセル神戸 - 2009年 - 2009年6月
VfLヴォルフスブルク - 2009年6月 - 2012年
ヴィッセル神戸 - 2013年 - 現在
川崎フロンターレ
個人成績 [編集]
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1999 | 国見 | 13 | - | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
| 2000 | 10 | - | - | - | 2 | 1 | 2 | 1 | |||
| 2001 | C大阪 | 15 | J1 | 20 | 2 | 1 | 1 | 3 | 0 | 24 | 3 |
| 2002 | J2 | 29 | 18 | - | 2 | 1 | 31 | 19 | |||
| 2003 | 10 | J1 | 24 | 16 | 3 | 0 | 5 | 4 | 32 | 20 | |
| 2004 | 22 | 15 | 2 | 0 | 1 | 0 | 25 | 15 | |||
| スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2004-05 | マジョルカ | 17 | プリメーラ | 13 | 3 | - | - | 13 | 3 | ||
| 2005-06 | 26 | 2 | 1 | 1 | - | 27 | 3 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006 | C大阪 | 36 | J1 | 21 | 6 | - | 0 | 0 | 21 | 6 | |
| 2007 | 神戸 | 13 | 31 | 14 | 5 | 0 | 2 | 1 | 38 | 15 | |
| 2008 | 31 | 11 | 0 | 0 | 1 | 1 | 32 | 12 | |||
| ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | DFBポカール | 期間通算 | |||||||
| 2008-09 | ヴォルフスブルク | 8 | ブンデス1部 | 9 | 0 | - | 2 | 0 | 11 | 0 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2009 | 神戸 | 50 | J1 | 19 | 8 | - | 1 | 1 | 20 | 9 | |
| 2010 | 13 | 17 | 4 | 0 | 0 | 1 | 1 | 18 | 5 | ||
| 2011 | 30 | 9 | 1 | 0 | 1 | 0 | 32 | 9 | |||
| 2012 | 10 | 26 | 4 | 3 | 2 | 1 | 0 | 30 | 6 | ||
| 2013 | 川崎 | 13 | |||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 241 | 89 | 15 | 3 | 16 | 8 | 272 | 100 | |
| 日本 | J2 | 29 | 18 | - | 2 | 1 | 31 | 19 | |||
| 日本 | 他 | - | - | 3 | 1 | 3 | 1 | ||||
| スペイン | プリメーラ | 39 | 5 | 1 | 1 | - | 40 | 6 | |||
| ドイツ | ブンデス1部 | 9 | 0 | - | 2 | 0 | 11 | 0 | |||
| 総通算 | 318 | 112 | 16 | 4 | 23 | 10 | 357 | 126 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| UEFA | UEFA EL | |||
| 2008-09 | ヴォルフスブルク | 8 | 2 | 0 |
| 通算 | UEFA | 2 | 0 | |
- 2000年度は強化指定選手としての試合出場はなし
チームタイトル [編集]
- ドイツ・ブンデスリーガ優勝 : 2008-2009年
個人タイトル [編集]
- 2003年 - アジア年間最優秀ユース選手賞
代表歴 [編集]
出場大会など [編集]
- 年代別代表
- 2000年 AFCユース選手権2000
- 2004年 アテネオリンピック
- A代表
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
- 2003年 東アジアサッカー選手権2003
- 2010年 2010 FIFAワールドカップ
試合数 [編集]
- 国際Aマッチ 54試合 5得点(2003 - )
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2003 | 14 | 0 |
| 2004 | 3 | 0 |
| 2005 | 2 | 0 |
| 2007 | 2 | 2 |
| 2008 | 12 | 3 |
| 2009 | 9 | 0 |
| 2010 | 11 | 0 |
| 2012 | 1 | 0 |
| 通算 | 54 | 5 |
ゴール [編集]
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2007年10月17日 | 日本、大阪市 | ○ 4-1 | アフロアジア選手権 | |
| 2. | |||||
| 3. | 2008年2月6日 | 日本、さいたま市 | ○ 4-1 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 4. | 2008年6月2日 | 日本、横浜市 | ○ 3-0 | ||
| 5. | 2008年11月13日 | 日本、神戸市 | ○ 3-1 | キリンチャレンジカップ2008 |
出版 [編集]
関連書籍 [編集]
- 大久保嘉人の挑戦 - Desafio (2005年9月発売、角川書店、小宮良之著) ISBN 4048839365
脚注 [編集]
- ^ a b c d 『日本代表戦士 23人の少年時代』 日本スポーツ企画出版社、東京都、2010年、44-49頁。ISBN 978-4-930942-95-1。本文中では「陸上の全国大会」(p. 47) とのみ記されており、大会の正式名称は登場しない。
- ^ a b c d “FOOTALK 大久保嘉人 目覚めたスタイル”. WEBサッカーマガジン (2002年4月18日). 2010年6月26日閲覧。
- ^ この時の少年男子長崎県選抜チームの選手は全員が国見高校サッカー部から選出されていた。『2000年とやま国体 サッカー競技 公式プログラム』 p.75参照。
- ^ a b “第79回全国高校サッカー選手権 国見 3冠達成 8年ぶり4度目のV”. 長崎新聞社 (2001年1月9日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “新加入選手についてのお知らせ”. セレッソ大阪公式サイト 2001.1.9付ニュースリリース (2001年1月19日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “2001 Jリーグ ディビジョン1 1st ステージ 第2節第1日 浦和レッズ対セレッソ大阪”. セレッソ大阪公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “2001 Jリーグ ヤマザキナビスコカップ 1回戦第1戦 ジュビロ磐田対セレッソ大阪”. セレッソ大阪公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ この年度のJ2は全44節。
- ^ “得点順位表 2002Jリーグ ディビジョン2 【第44節】”. Jリーグ公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “得点順位表 2003Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 【第15節】”. Jリーグ公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保嘉人選手AFCヤングプレイヤーオブザイヤー受賞”. セレッソ大阪公式サイト 2003.12.10付ニュースリリース (2003年12月10日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ 財団法人日本サッカー協会. “公式記録 国際親善試合 日本代表対韓国代表 (PDF)”. JFA公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保 嘉人選手U-23日本代表に選出”. セレッソ大阪公式サイト 2004.7.16付ニュースリリース (2004年7月16日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “第28回オリンピック競技大会 日本代表選手団:サッカー 大久保嘉人”. JOC公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ a b “Olympic Football Tournaments Athens 2004 - Men Match Report: Paraguay - Japan” (英語). FIFA (2004年8月12日). 2010-06-26T07:40Z閲覧。
- ^ Olympic Football Tournaments Athens 2004 - Men Match Report: Japan - Italy (英語) FIFA公式サイト 2004.8.15付リリース
- ^ a b “Olympic Football Tournaments Athens 2004 - Men Match Report: Japan - Ghana” (英語). FIFA公式サイト (2004年8月18日). 2010-06-26T07:40Z閲覧。
- ^ “大久保 嘉人選手 スペイン1部リーグ・マジョルカ 期限付き移籍合意について”. セレッソ大阪公式サイト 2004.11.8付ニュースリリース (2004年11月8日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ ESPN Soccernet. “Mallorca 2 - 2 Deportivo La Coruña” (英語). 2011年2月5日閲覧。
- ^ 鈴井智彦 (2005年2月4日). “大久保の2ゴール目はきっと近い。”. Number web. 2011年2月5日閲覧。
- ^ ESPN Soccernet. “Mallorca 4 - 3 Athletic Bilbao” (英語). 2011年2月5日閲覧。
- ^ ESPN Soccernet. “Deportivo La Coruña 0 - 3 Mallorca” (英語). 2011年2月5日閲覧。
- ^ DIVINANET.COM (2005年6月3日). “大久保、若手ベスト11に選出”. 2008年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年5月3日閲覧。
- ^ “大久保嘉人選手 マジョルカ移籍期間延長決定”. セレッソ大阪公式サイト 2005.6.14付ニュースリリース (2005年6月14日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保 嘉人選手復帰のお知らせ”. セレッソ大阪公式サイト 2006.6.15付ニュースリリース (2006年6月15日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保 嘉人選手 ヴィッセル神戸へ完全移籍のお知らせ”. セレッソ大阪公式サイト 2007.1.15付ニュースリリース (2007年1月15日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ この時大久保は移籍の理由について、J1で引き続きプレーする事で日本代表へ復帰するためだとのコメントを残している。大久保 嘉人選手 ヴィッセル神戸へ完全移籍のお知らせ セレッソ大阪公式サイト 2007.1.15付ニュースリリース参照。
- ^ “セレッソ大阪よりFW大久保嘉人選手完全移籍加入決定”. ヴィッセル神戸公式サイト 2007.1.15付ニュースリリース (2007年1月15日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “Jリーガーの素顔「大久保嘉人選手編」”. スカパー!サッカーページ Jリーグコラム Jリーガーの素顔 (2011年7月19日). 2011年8月16日閲覧。
- ^ “FW大久保嘉人選手、日本代表(8/22vs.カメルーン)選出!”. ヴィッセル神戸公式サイト 2007.8.18付ニュースリリース (2007年8月18日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “公式記録 AFCアジア/アフリカチャレンジカップ2007 日本代表 対 エジプト代表 (PDF)”. JFA公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “FW大久保嘉人選手の海外移籍について”. ヴィッセル神戸公式サイト (2009年1月3日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保がドイツで会見”. Live!VISSEL(神戸新聞ヴィッセル神戸応援ページ) (2009年1月6日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ a b ミムラコウスケ (2009年7月10日). “ブンデスリーガ蹴球白書 大久保嘉人は通用しなかったのか。~日本代表FWがドイツを去った理由~ 1”. Number web. 2011年2月5日閲覧。
- ^ ミムラコウスケ (2009年7月10日). “ブンデスリーガ蹴球白書 大久保嘉人は通用しなかったのか。~日本代表FWがドイツを去った理由~ 2”. Number web. 2011年2月5日閲覧。
- ^ ブンデスリーガ1部、ドイツカップなどを通して
- ^ グラフィッチは28得点、ジェコは26得点を挙げ、2008-09年度ブンデスリーガの得点ランキング1位2位を独占した。Bundesliga Comment: Grafite And Dzeko - A Match Made In Heaven (英語) Goal.com 2009.5.23付記事参照。
- ^ “ヴォルフスブルク(ドイツ1部)より大久保嘉人選手移籍加入決定”. ヴィッセル神戸公式サイト 2009.6.16付ニュースリリース (2009年6月16日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “国際親善試合 日本代表対韓国代表”. JFA公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “国際親善試合 日本代表対イングランド代表”. JFA公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “国際親善試合 日本代表対コートジボワール代表”. JFA公式サイト. 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保 念願の背番号「10」をついにゲット!” (日本語). スポニチ Sponichi Annex (2012年1月20日). 2012年3月5日閲覧。
- ^ “神戸が始動 大久保「得点王狙う」” (日本語). MSN産経west (2012年1月23日). 2012年3月5日閲覧。
- ^ “FW大久保嘉人選手 川崎フロンターレへ完全移籍のお知らせ”. ヴィッセル神戸公式サイト. 2013年1月9日閲覧。
- ^ “【川崎F】大久保「出ざるを得なかった」”. nikkansports. 2013年1月10日閲覧。
- ^ “大久保嘉人選手入籍のお知らせ”. セレッソ大阪公式サイト 2002.12.2付ニュースリリース (2002年12月2日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “サッカー日本代表選手のスタジアムウエディング”. スタジアムレストランの物語(ウルティモ公式ブログ) (2008年1月7日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “宝物です②”. スタジアムレストランの物語 (2008年1月11日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “ヒデのブログのANSWER”. YOSHITO OKUBO Official Blog (2010年3月4日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ “大久保、第3子誕生に通算100ゴール誓う”. デイリースポーツ (2010年3月4日). 2011年2月5日閲覧。
- ^ {{cite web|url=http://www.daily.co.jp/soccer/vissel-kobe/2013/02/11/0005733658.shtml%7Ctitle= 神戸屈辱…移籍の大久保に2発食らう |date=2013-02-11|accessdate=2013-2-17}}
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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