ジーコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ジーコ | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 本名 | アルトゥール・アントゥネス・コインブラ | |
| 愛称 | ジーコ | |
| ラテン文字 | ZICO | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1953年3月3日(56歳) | |
| 出身地 | リオデジャネイロ市キンチーノ・ボカイウーヴァ | |
| 身長 | 172cm | |
| 体重 | 72kg | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | MF | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1971-83 1983-85 1985-89 1991-92 1992-94 |
469 (308) 40 (22) 61 (19) 22 (21) 23 (14) |
|
| 代表歴 | ||
| 1976-89 | 88 (66) | |
| 監督歴 | ||
| 1999 2002-06 2006-08 2008 2009- |
||
| 1. 国内リーグ戦に限る。現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||
ジーコ(Zico、本名:アルトゥール・アントゥネス・コインブラ、Arthur Antunes Coimbra、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。
「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィッコとなる。
目次 |
[編集] 人物
- プレースタイル
ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の代表的な10番。右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高峰で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングで正確無比なパスを飛ばす。むろんプレースキックも大きな武器だった。得点能力という点ではFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MF。また計画的なフィジカル強化によって、強靭な肉体も併せ持っていた(詳しくは後述)。
ジェフ市原(現・ジェフ千葉)のDFとして対戦経験もある宮澤ミシェル曰く「ボールの捨て方もうまかった選手」。エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングが襲いかかり、結果ボールを回さざるを得なくなること(これを「捨てる」と表現)も多々あったのだが、ジーコはボールをそのまま下げるよりむしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、結果走り込んだFWやサイドMFへのアシストにつながることが多かったという。
上のように、サッカー史でも最高レベルのテクニックを持っているものの「テクニックはロナウジーニョのほうが上だ。しかし勝利に結びつくプレーは自分の方が上だ」と自己評価するように、ロナウドやマラドーナのような個人技が主の選手ではなく、味方を活かすプレー選択の確かさと敵の弱点を瞬時に見抜く卓越した戦術眼や、得点に結びつく動きの質の高さに最大の特徴がある。
- 愛称
ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。 幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から「キンチーノのガリーニョ」[1]と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。 飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。ただしジーコ自身はカトリック教徒であるため、日本の宗教観念を理解してはいるものの、この呼称を好ましくは思っていない(キリスト教圏で、「○○の神様」に該当する表現は「○○の守護聖人 (Patron Saint)」)。
- 家族
1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。
- 海外での評価
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。また、主に攻撃的MFとしてプレーしながらロマーリオに次ぐブラジル歴代代表4位の66得点(88試合)の記録を持つ。 サッカー日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で訪問したり、ブラジル代表のアドリアーノがパルマFCでのチームメイトだった中田英寿に「ジーコのサインが欲しい」と交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。
- 「King Arthur」
フェネルバフチェの監督として、就任1年目にしてトルコリーグを制覇し、また翌年には歴史上初めてUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントに同クラブを導くなど、選手としてだけでなく指導者としても大きな成功を収めた。そのためフェネルバフチェのサポーターからは、本名のアルトゥールとつづりの同じ伝説の王にちなんで「King Arthur」(アーサー王)の愛称でも呼ばれている。
- ジーコレーベルとサンバ
ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。
[編集] 来歴
[編集] 幼少期
洋服仕立て屋を営んでいた父・アントゥネス、母マチウデの第6子として生まれる。 母親の意向で息子アルトゥールをミュージシャンにさせるべく幼少時からピアノを習わせるものの彼の兄弟アンツネスとエドゥの影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる。
[編集] フラメンゴ
1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロの名門フラメンゴのユースチームのテストに合格し入団。入団当初はテクニックは通用するが身長1m50cm、体重30kgの「やせっぽち」な体躯であることが致命的になり、ジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった結果、計画は成功して競り合いに負けない強靱な体を手に入れた(サイボーグと比喩されたことも。)。その後、ユースチームで116試合81得点の驚異的な記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。
フラメンゴには10年以上に渡って在籍し中心選手として君臨。1981年のコパ・リベルタドーレス、トヨタカップと4度のブラジル全国選手権(1980年、1982年、1983年、1987年)で勝利に導く等、ジーコはクラブ史上で最も素晴らしい選手と考えられている。 ピッチではジュニオールやヌネスらのサポートもあり、考えられるあらゆる方法で得点を生み出し、正確なパスでフィールド全体を統率した。
[編集] ウディネーゼ
1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍すると、ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)。これらの活躍によってサポーターの人気を集めたが、クラブとの間で契約問題で揉め、1984-85シーズンを最後にイタリアを去る事となった。
[編集] ブラジル代表
1976年にブラジル代表に初選出され、FIFAワールドカップへは1978年、1982年、1986年の3大会に出場している。 初のワールドカップ出場となった1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消される不運(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)や監督との確執もあって不本意な大会となった。
1982年のワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンターナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「クワトロ・オーメンズ・デ・オーロ(黄金の4人)」を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目されたが、2次リーグ最終戦でイタリアのカウンターアタックの前に敗れ去り、2次リーグ敗退(現在の規定でベスト8相当)。志半ばで大会を去った。しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられ、現在もサッカーファンの間で語り継がれている。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金の4人」はこのチームが語源である。
1986年のワールドカップ・メキシコ大会では膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングーAC戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断していた事もあって控えに回った。最後のワールドカップは準々決勝のフランス戦で交代出場直後にみせたスルーパスとそれによって獲得したPK失敗が最後の見せ場となり、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げる事は出来なかった。
[編集] 短い引退
1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。
翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間この政治的な任務を務めたが、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)のオファーを受けると大臣を辞任し、再び現役選手としてピッチに立つ事になった。[2]
[編集] 鹿島アントラーズ
鹿島アントラーズでは選手としてプレーするだけでなく、現場での全体への指導や試合中の采配も兼任し、カシマスタジアムの芝の長さも自ら決定していた。結果、旧2部リーグの弱小チームを名実ともに日本を代表するサッカークラブに成長させることになる。
1993年にJリーグが開幕した当初、この小さな町のクラブは横浜マリノスやヴェルディ川崎といった大都市の名門クラブに対し圧倒的な不利が予想された。しかし開幕戦の名古屋グランパス戦でリーグ初のハットトリックを決め5-0で圧勝すると勢いに乗り、大方の予想を覆し1stステージ制覇。チャンピオンシップ準優勝の結果を残し日本のサッカー界を積極的に盛り上げ、鹿島町(現・鹿嶋市)からも表彰を受けた。
彼は世界トップクラスの選手として戦術や組織はもちろん、プライド、規律、プロ意識をチームにもたらし、この短期間の成功の大きな支援となった。これによりマスコミやファンは「サッカーの神様」と賞賛した。 1994年第1ステージで現役を退きブラジルへ帰国したが、1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。また、プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いている。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、ワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。
[編集] ジーコジャパン
ワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日にサッカー日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の強い意向でもあった。
ジーコは2004年のAFCアジアカップ2004優勝や2005年のFIFAコンフェデレーションズカップ2005での健闘、ワールドカップ予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破するなどの結果を残したが、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。成績等については下の諸項目を参照のこと。
- 2002年
- 2003年
- 4月16日、ソウルワールドカップ競技場での韓国戦で初勝利を挙げる。 後半終了間際に韓国DFがクリアしたボールがFW永井雄一郎 の足にあたり、直接ゴールしたものであった。
- 6月8日、キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を全員入れ替えた。
- 6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003の予選グループ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
- 8月20日のナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
- 2004年
- 2月7日、ジーコの慣れ親しんだ鹿島にて、親善試合マレーシア戦を行う。このドイツW杯予選を控えた日本代表の鹿島合宿中に市内のキャバレークラブに久保竜彦、奥大介、小笠原満男、山田卓也、都築龍太、茂庭照幸、大久保嘉人、山田暢久(但し山田入店せず)が無断外出し問題起こしてしまったことがスキャンダルとして取り上げられてしまい「信頼関係を失った」と言い(「裏切り行為と感じた」とも)代表チームへの一時招集を見送られることになった。
- 2月18日、ドイツW杯アジア1次予選初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。続くシンガポール戦も藤田俊哉の決勝点で勝利した。この内容を「苦戦」であるとした一部のサポーターが解任デモを行った。
- 4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
- 7月、中国で行われたアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。
- 9月、インド コルカタでW杯大会アジア1次予選第4戦でインドに4-0で勝利、ハーフタイム中にスタジアムの照明が停電するトラブルがあった。 この時、ベンチにいたジーコは、多数の現地記者・カメラマンからサイン攻めに合う光景をテレビカメラがとらえ、インドでも、現役時代の名声が轟いていることを証明した。
- 10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。
- 2005年
- W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランでイランに敗れた試合以外は全勝。1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
- 2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
- 7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。
- 2006年
- 親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
- 5月15日、ドイツW杯23人のメンバーを発表。
- 6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で連続3失点を喫し1-3の逆転負け。続くクロアチア戦には0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転され1-4の惨敗。2敗1分のグループリーグ最下位で敗退と結果を残せずに終わった。その後日本代表監督を予定通り退任。最後の会見で日本が取り組むべき課題として「技術の高さを支えるための計画的なフィジカルの強化」「安定した判断力の涵養」を挙げた[3]。
[編集] 2006年以降
ワールドカップ・ドイツ大会終了後に日本代表監督を退任。2006年7月4日にトルコ・シュペルリガの名門フェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。
2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャFCをPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。
2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームFCブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドFCに敗退(1勝1敗・合計スコア 3-1)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのPFC CSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。
2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16でこの大会を制覇したシャフタール・ドネツクに敗れたが、ロシア国内では3月7日のロシア・スーパーカップでFCルビン・カザンを下し優勝。5月31日のロシア・カップ決勝では同じくFCルビン・カザンを1-0で下し二冠を獲得している。
[編集] 統計
| 所属クラブ | ゴール数 | 試合数 | ゴール確率 |
|---|---|---|---|
| フラメンゴ | 508 | 731 | 0.69 |
| ウディネーゼ | 56 | 79 | 0.69 |
| 住友金属、鹿島アントラーズ | 54 | 88 | 0.61 |
| セレソン | 66 | 88 | 0.75 |
| オリンピック | 1 | 8 | 0.12 |
| マスターエイジ | 10 | 18 | 0.55 |
| ティーンエイジ | 81 | 116 | 0.69 |
| その他 | 50 | 52 | 0.90 |
| 総合計 | 826 | 1180 | 0.70 |
[編集] 個人タイトル
- ブラジル最優秀選手 1974年、1982年
- 南米年間最優秀選手 1977年、1981年、1982年
- カンピオナート・ブラジレイロセリエA得点王 1980年、1982年
- コパ・リベルタドーレス得点王 1981年
- トヨタカップ最優秀選手 1981年
- FIFAワールドカップベストイレブン 1982年
- 英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 1983年
- 英誌ワールドサッカー選出20世紀の偉大なサッカー選手100人 1999年
- ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ得点王 1995年
- ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ最優秀選手 1995年
- フラメンゴ クラブ歴代最多得点記録(508得点)
- マラカナンスタジアム歴代最多得点記録(333得点)
- FIFA 100 2004年
- ゴールデンフット賞 (all time legend) 2006年
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1971 | フラメンゴ | 全国1部 | 15 | 2 | |||||||
| 1972 | フラメンゴ | 全国1部 | 6 | 0 | |||||||
| 1973 | フラメンゴ | 全国1部 | 35 | 8 | |||||||
| 1974 | フラメンゴ | 全国1部 | 50 | 32 | |||||||
| 1975 | フラメンゴ | 全国1部 | 55 | 41 | |||||||
| 1976 | フラメンゴ | 全国1部 | 47 | 32 | |||||||
| 1977 | フラメンゴ | 全国1部 | 47 | 36 | |||||||
| 1978 | フラメンゴ | 全国1部 | 22 | 19 | |||||||
| 1979 | フラメンゴ | 全国1部 | 22 | 27 | |||||||
| 1980 | フラメンゴ | 全国1部 | 45 | 21 | |||||||
| 1981 | フラメンゴ | 全国1部 | 41 | 28 | |||||||
| 1982 | フラメンゴ | 全国1部 | 36 | 20 | |||||||
| 1983 | フラメンゴ | 全国1部 | 48 | 42 | |||||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1983-84 | ウディネーゼ | セリエA | 24 | 19 | |||||||
| 1984-85 | ウディネーゼ | セリエA | 16 | 3 | |||||||
| ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 1985 | フラメンゴ | 全国1部 | 3 | 2 | |||||||
| 1986 | フラメンゴ | 全国1部 | 4 | 3 | |||||||
| 1987 | フラメンゴ | 全国1部 | 17 | 6 | |||||||
| 1988 | フラメンゴ | 全国1部 | 18 | 4 | |||||||
| 1989 | フラメンゴ | 全国1部 | 19 | 4 | |||||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1991-92 | 住友 | JSL2部 | 22 | 21 | - | ||||||
| 1992 | 鹿島 | - | J | - | 10 | 6 | 2 | 1 | 12 | 7 | |
| 1993 | 鹿島 | - | J | 16 | 9 | 3 | 1 | 4 | 2 | 23 | 12 |
| 1994 | 鹿島 | - | J | 7 | 5 | 0 | 0 | - | 7 | 5 | |
| 通算 | ブラジル | 全国1部 | 530 | 327 | |||||||
| イタリア | セリエA | 40 | 22 | ||||||||
| 日本 | J | 23 | 14 | 13 | 7 | 6 | 3 | 42 | 24 | ||
| 日本 | JSL2部 | 22 | 21 | ||||||||
| 総通算 | 384 | ||||||||||
[編集] 主な成績
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 予選リーグ敗退(通算1勝2敗)
- 2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
- 2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 予選リーグ敗退(通算1勝1敗1分)
- 2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
- 2005年 2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(通算11勝1敗 アジア予選B組1位通過)
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ本大会予選リーグ敗退(通算2敗1分)
- 通算成績 33勝12分15敗
[編集] 監督として
日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は特に攻撃面を積極的に選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。ジーコやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くが、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うことしか出来ない独特の短所があると指摘しており、それが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた[4]。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手が福西しかいなかった」と批判したが、一方で総評として「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ」と述べている。[5]
ただし、住友金属・鹿島時代はセンチメートル単位のズレすら許さないほどの厳密なサッカーを指導していた(この時代、惨敗したチームを「一番年寄りの自分が一番走っているじゃないか! 何故もっと走らないんだ!」とロッカールームで怒鳴り散らす映像が残っている)。ジーコの通訳であった鈴木國弘によると「こちらの方が指導者としての本質であるのだろう」としている。しかしアマチュアからプロへの過渡期であった住友金属・鹿島時代と違い、代表監督時代には、「プロ」であり「代表である」選手を尊重し、彼ら自身の発想を生かしたサッカーを紡ぎだすことを望んでいたのだという。
日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では二位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。 また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。
- 守備戦術
- DFはオフサイドトラップを多用せず、一人余るというやり方を徹底した。特にアジア予選等の結果重視の試合の際には、ハイラインによるプレスでボールを奪うより、ローラインによるバランス重視で守ることが多かった。
- ボールポゼッションによりある程度ゲームの主導権を握ることを志向する
- 高いボールポゼッションを保ち、数多くのチャンスを作ること、そうすれば負ける確率は低くなる、という考えを持つ。
- ただし、「遅攻」に重きを置いているということではなく、むしろ「サッカーで一番美しいのはダイレクトプレー(ゴールに最短距離で進むプレー)」であり、「シンプルにゴールに向かえるのならばそれが一番理想的である」と語っている。しかし、サッカーではいつでもそれができるとは限らず、そのような場合でも速攻を意図すると「とにかく急いで焦るために、パスやシュートの正確性が失われる。それによって一つの大きなチャンスが台無しになってしまう」と語る。
- よって「(相手の守備陣を整えてしまい)相手の守備が堅い場合は、キープをする。ボールを速く回しながら」「まっすぐに行ければいいけれど、相手がブロックして行けない。詰まっている。その場合は一遍に突き進んでいてはダメですよね。理想的なのはバスケットの形。優れたチームになると24秒ルールをめいっぱい使う。その間は、確実に相手を動かしながら自分たちでスペースを作っていく。そして最後の一本のパスを正確に出す」ことが重要である、と語っている(「サッカーマガジン1000号」のジーコ×岡田対談より)。これはポゼッション・フットボール的思考の典型といえる(参考トータルフットボール)。
- 選手との相互信頼を重視する
- このチームの1つのキーワードが「信頼」であった。2004年AFCアジアカップ(以下この節で「アジアカップ」と略)優勝後の「ジーコの正しさを証明したかった」という中村俊輔の言葉、あるいは「ジーコに恩返しをしたかった」という玉田圭司の言葉が、ジーコ政権下の日本代表のベースにある信頼関係をあらわしていた。また、代表というチーム特有の練習期間の少なさを考慮に入れ、戦術的な共通理解を深めるために(就任前のカンファレンスによるジーコ講演より)、ある程度コンディションの低下が見られても、戦術の軸となる選手は一貫して使い続けた。一方で欧州組で結果を残していた松井大輔をはじめアテネオリンピックに参加した年代の選手への評価は低く、結局彼らの中でドイツW杯のメンバーに入れたのは駒野友一と茂庭照幸のみである。ただし、招集した人数は意外と多く試合出場選手の総数は57人である。[2](トルシエは総数で64人[3])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にA代表デビューしている。
[編集] 日本とジーコ
- 初来日
- 1990年に住友金属に入団する前からトヨタカップで来日(1981年フラメンゴ)、MVP受賞など日本とは縁があった。現在は日本が第二の故郷とコメントするほどの親日であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つジーコが母国で日本をリスペクトするようになり、近年ブラジルで日本の印象は変わったと言われている。
- 日本語
- 夕刊紙やスポーツ記事などに「日本に何年もいるのに日本語を喋ろうとしない」「日本語を全く習得していない」と書かれることがある[6]。
- しかし実際は、本人はサッカー教室などで簡単な日本語の指示や受け答えをしている他、日本での自宅周辺の商店街、秋葉原の電化製品店、鹿嶋のショッピングモールなどで、日本語を使って買い物を行う姿が市民にも目撃されている。
- また、2006年開催のFIFAワールドカップの最終予選、対北朝鮮戦(無観客試合)において、日本語で「(相手DFの)ライン見て!ライン!」と指示したり、試合終了後、インタビュー直前に日本語でチームスタッフと談笑する模様が放送されている(その時、テレビ局スタッフから声をかけられ、「え?何?」と答えてもいる)。本人は、正式な場では通訳がいるのだから通訳を通して話した方が、誤解や曲解を生まなくて済む、と考えている。
- 日本サッカー協会・強化委員長の田嶋幸三によると「ジーコはほとんど日本語がわかるが、誤解を生むことを避けるため通訳を通している。政治の世界と同じ」、ブラジルのビジネス誌「イスト・エ」のインタビューでは本人曰く「聞くのは出来るが早口だと無理、読み書きも無理」とのことだ。
- ちなみに、中田英寿やミシェル・プラティニとはイタリア語で会話をしていた。
- 恩
- 日本代表監督の大役を引き受けた理由について「もちろん金もある。しかしそれ以上に私は日本へ恩返しがしたかった」と、「恩返し」を強調するコメントをたびたび報道陣に伝えている。この恩に関して、日本サッカー発展のためと入団した鹿島アントラーズ時代に(当時格安の給金で世田谷区から電車とバスで通勤していた)、地域住民からの密な親睦があったなどの諸説逸話がある。
- また監督就任中は「日本サッカー協会に雇われてる身」と常に日本サッカー協会と志を共にするスタンスを取っており、監督として本来強化のために重要であるスケジューリングについても、ほぼ協会の意向に従っていた。但し、アジアカップ終了直後に強豪であるアルゼンチンとの親善試合を組むという方針をとった協会に異議を唱えたり(アルゼンチン戦後の会見より)、ワールドカップでは試合時間が広告代理店や在京キー局の意向で決められてしまう(ヨーロッパの昼間は日本の夜であるため高視聴率が得られやすい)ことを批判するなど、協会の強化方針に疑問を呈していた。
- 愛車
- 1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した車を長期に渡り愛車にしている。ちなみに愛車は1981年型トヨタセリカで、1986年に製造中止され年月が経つ上、さらに当時ブラジルは外貨流出を防ぐために外国車(完成車)の輸入を禁止していたこともあって、現在南米における稼働車としては超がつく希少車。副賞の自動車が外交問題になりはしないかと大会関係者は心配したが、ジーコは「フィゲイレド大統領に電話するから」と言ってあっさり輸入許可を得て、この車を持ち帰った。
- 日本代表監督時は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもある。2006年からはフーガに変わった。
[編集] その他
- キャプテン翼のテレビゲームで「アルツール・アンチネス・コインブラ」という本名とそっくりな名前の選手が登場。登場するキャラクター中、最高の能力を誇る。
- 1999年、書きおろしの『My Life in Soccer』が、高校2年生の英語教科書に8ページにわたって登場。
- 通訳によると来日当初は周囲とのレベルの違い(当然他の選手はアマチュアであり、ジーコとは大きな落差があった)に、練習後車の中で「俺は何をやっているんだ…」と葛藤したかと思うと、翌日になると「さあ、頑張るぞ!」と張り切るという様子を繰り返していたという。
- サッカーファン以外には消費者金融「レイク」のコマーシャルに長年出演していたことで知られる。
- タバコ嫌いで知られ、日本代表の監督時代に、隠れて喫煙したスタッフを発見すると、「私は何事もわかっているんだぞ!」と激しく説教をしたという。以来、そのスタッフは、喫煙後の口臭剤が欠かせなくなったという。
- 1998年のブラジル映画「陽だまりのイレブン」(原題 Uma Aventura de Zico ズィッコの冒険)にジーコ本人役と、厳格なジーコと陽気なジーコに分裂した「ジーコピー」の3役で出演。なお、夫人と息子もカメオ出演している。
- 幼少期よりの負けず嫌いな性格である。関係者によるとジャンケンでもその勝ち負けに異常にこだわり、子供相手でも勝つまで何度でも繰り返すという[要出典]
[編集] 脚注
- ^ 〜ニョは小さい、可愛らしいの意、日本語の「〜ちゃん」に相当。
- ^ 1991年、「ジーコを指導者として使うチームを紹介してくれ」と知り合いの代理人から打診を受けたテレビプロデューサーが木之本興三JSL事務局長を訪れ、この話を最初、古河電工へ持ちかけるも返事は「NO」。川淵三郎が「住金にジーコを選手として雇えないならプロチームにさせないと言え」と命じ、住金もこの話に乗り気でジーコと契約を結ぶ事になる。
- ^ [1]
- ^ 「昔はゲームの中に時間とスペースがあったが今はそれが全くない。30m位のスペースの中に20人が互いにプレッシャーを掛け合っている。相手が強ければ強いほどプレッシャーが厳しく巧になり、ミスが起こりやすくなる。確かにワンタッチで相手の裏をとれれば効果的に突破できる。しかしカットされカウンターをかけられる確率はさらに高い。今のサッカーはミスの数が少ない程勝つ確率が高いんだ。どんな美しいサッカーをしても負けてしまっては歴史は作れない。何年後かに記録を見た時に残るのは“0-1で負け”の一行でしかない。そうならない為に最も確実な“止めて蹴る”が必要になるんだ。判断の早さと正確性が身についていれば、ダイレクト・プレーと比較しても時間的なロスはほとんどない!中盤はシンプルに確実に・・・相手が一番嫌がるエリア(つまり敵ペナの付近)に達した時に、躊躇せずに持てる技術の全てを発揮しろ」と述べている。(鈴木通訳のブログより引用。なお、文中の「ダイレクトプレー」は実際は「ワンタッチプレー」の意である)
- ^ フェネルバフチェの監督時代にも、PSV戦での選手たちの走行距離が一人途中退場者が出たにもかかわらず、108kmだったというデータについてコメントを求められて「相手にいかにプレッシャーをかけたかを示していると思う。適切に走って相手スペースを消していけばこちらのものだ。それがこの試合でわれわれのしたことだ。PSVは特にホームで強いので厳しいゲームになると思っていた。しかし考えて走り、プレスをかけ、キッチリと相手をマークし、チーム一丸で攻めれば相手の脅威を減殺できる。相手の強力な選手たちに本来の実力をださせなかったわけで、この数字はその結果を示すものだ。」と回答している様に、判断力と技術が近代サッカーには不可欠と考える一方、それらを支える走力・フィジカルバランス等の肉体強化の重要性を、選手時代から一貫して主張している。
- ^ 日経新聞コラム 2006年4月14日
[編集] 関連項目
- リオデジャネイロ市
- ジーコサッカー(ジーコが監修したゲームソフト)
- エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ (ジーコの実兄)
[編集] 外部リンク
|
|
|
|
|
|
|
|
| PFC CSKAモスクワ - 現所属メンバー |
|---|
|
2 センベラス | 4 イグナシェヴィッチ | 5 ラモン | 6 A・ベレズツキ | 7 D・カルヴァーリョ | 8 リジョフ | 9 V・ラヴ | 10 ジャゴエフ | 11 ママエフ | 12 マーズ | 14 ジェズス | 15 オディア | 17 クラシッチ | 21 カロウダ | 22 アルドニン | 24 V・べレズツキ | 25 ラヒミッチ | 33 ポマザン | 35 アキンフェエフ | 36 ウラソフ | 42 シュチェンニコフ | 50 グリゴリエフ | 88 ジャネル | 89 ネチド 監督: ジーコ |
|
|||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||

